昭和13年8月1日の午後から2日午前にかけて、集中豪雨が四日市を襲った。三滝・海蔵両河川は氾濫し、2日午前9時半頃、ついに堀木町北方の三滝川堤防約100メートルが決壊した。
決壊現場
水勢は決壊口を広げ、奔流は鵜の森公園一帯に押し寄せ、新田、江田、諏訪、北浜田、沖ノ島、新町、南納屋へと浸水区域は拡大し、市中心部は大半が浸水、市街地は水の中に孤立した。市民は2階や屋根裏へ避難し、市の救助班による炊き出しなどで、堤防が復旧するまでの数日間を過ごした。
昭和53年の地図をベースにしました三滝川と海蔵川を繋ぐ堀は、その後、対策用に造られました。
四日市警察署管内被害調査(3日午前9時現在)によると、死者2人、行方不明者2人、負傷者20人、流失家屋7戸、倒壊家屋4戸、床上浸水家屋2539戸、床下浸水1803戸、決壊カ所72カ所など戦前では最大規模のものであった。“目で見る郷土史 四日市のあゆみ”より
伊藤醤油
当時、江田町にお住まいだった原さんは“旧四日市を語る”に、三滝川決壊の様子を書いてみえます。
昭和13年8月2日、前日から降り続いた激しい雨は濁流となって勢いを増し、遂にこの日三滝川の堤防は堀木で決壊した。午前11時頃、濁流は堤防に近い伊藤製油部の工場を直撃し、大小さまざまな樽は押し流され、我が家にも次々と流れ着いた。そのいくつかは塀にぶつかり、表の木戸を倒し、玄関に通じる飛び石を経て、塀と家のわずか2メートル足らずの空き地に流れ込んだ。翌日、母は家の周りに浮かぶ樽を集め、引き取りに来るのを待っていた。
電柱に伊藤醤油のヤマコの広告が見える
この日、決壊の危険があるというので、姉は女学校から早く帰宅した。それを聞いて母は、すぐに姉と二人で家財道具を2階へ運びあげる作業にかかった。やがて土間に水が入ってきた。水は刻々と高さを増し、床下から床上へと生き物のように這い上がってきた。それは無気味なものであった。畳をあげた床板が浮かびだし、時に足を踏み外しながらも、少しでも高いところに上げるのに懸命であった。夕方、兄はたらいに乗せられて帰宅、父は夜遅くなって船で帰り、塀を足場に二階の窓から入った。暗い2階の部屋で道具に囲まれて一息入れたのは何時頃だったのか記憶に定かではない。ただ、かき餅を焼いて食べたのが印象に残っている。水はすぐにひかなかった。母と姉の泥水との戦いは、この日から長く続くことになった。
翌、昭和14年には“ノモンハン事件”が起きており、昭和16年には太平洋戦争へ突入していきます。大きな災害は、公にすることがはばかられるような、そんな時代でした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます