塩浜の第二海軍燃料廠と泊山は、海軍道路によってつながっていた。
昭和20年4月5日午前9時43分に空撮された第二海軍燃料廠。陸軍参謀本部陸地測量所が、何らかの目的で撮ったもの。この後、空襲で壊滅的な被害を受ける。(教育委員会所蔵)
昭和20年6月22日・26日と7月9日は、B29による空襲で、破壊された海軍燃料廠。中央やや右側に人が立っているが、建物の巨大さが分かる。
昭和20年11月30日、第二海軍燃料廠は消滅。昭和30年8月に昭和石油に払い下げられた。そして、四日市コンビナート形成の基となる。塩浜駅側から石原産業方向に撮られたものか?中央左右に塩浜街道が通る。(昭和20年代)
昭和31年頃、燃料廠跡の撤去作業の様子。
写真集「四日市の100年」・「四日市の今昔」より
もう30年以上も前に、財団法人日本地図センターで入手しました。
時計が写し込まれており、確かに9時43分でした。
しかし、撮影年月日は私の持っている写真からは不明です。
ただ、隅の方にNr7651 045 f=200.73と記されていますが、
この写真の直前に撮ったと思われるもう一つの写真には、Nr7651 043 f=200.73と記されています。
よって045は昭和20年4月5日の略記ではないと思うのですが、、、。
であれば 目的が知りたいところです
もっと広範囲に空撮されていたら(市街とか) これまた 貴重でございますナァ
(ぼやけた戦前の写真はございますが…)
昌栄町の家は入居した昭和30年当時、築後30年と言われていましたので写っている筈ですが、解像度が悪くルーペで観ても確認できません。(笑)
しかし、懐かしの浜田小学校はよくわかります。
空襲直後の浜田小学校の校庭が
碁盤の目に仕切られているようです
瓦礫を集めたところと思っていたのですが
畑 ではないでしょうか?
瓦礫は 中央通りに埋められたと聞いています
昨日はお休みでしたので
本郷深井戸と泊の燃料廠倉庫を見てきました
報告します