ご存じ!安藤広重の東海道五十三次 三重川の図 右の板橋が 旧東海道に架かる三滝橋にしては小さすぎると話題になった。もっと浜の方ではないか?と・・・
水谷百碩氏の描かれた「四日市浜の景」松林に隠れているが十里の渡しの建物が見える。となると右に架かる橋は 後に稲葉三右衛門さんが名付ける「開栄橋」になりますか?
十里の渡し場の風景である 着岸に必要な燈台が立つ
※ 申し訳ありません!この絵は十里の渡しではないと思います 調べて追記いたします
これは 江戸末期に描かれた「東海道分権延絵図」渡し場と後の開栄橋の図 その下に架かる小さな橋が広重の橋ではないか?と想像する
江戸後期の耕地図 これで水谷百碩氏の浜の景と分権延絵図から 広重の描いた橋が 後の新栄橋にあたると思われます
この橋こそが 広重の描いた三重川であると 今更思うのですが 皆様のご意見を伺います
現在です
追記:分権延絵図では道を右に曲がると板橋になっているが 江戸末期の耕地図を見ると 道の先真っすぐの処にに橋が架かっている
おそらく耕地図の方が正しいのではないだろうか 大阪の浮世絵師 歌川貞広も広重と同じ風景を描いているが まっすぐのように見える 広重が構図上曲がっているように描いたのだろうか?
やはり 強い浜風に笠を飛ばしているが 広重に比べると随分華やかでございます
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