元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政府が樹立されました。鎌倉幕府の北条氏打倒に参加した者は、反北条の一点では一致しつつも、政権構想での意見の対立は激しかった。これに後醍醐天皇の個性が加わって、政策や方針も一貫性を欠き「二条河原の落書」にあるような混乱状態が現出したのです。
榎原雅治著“室町幕府と地方の社会”より 図書館の本
“此比(このごろ)都にはやる物、夜討(ようち)、強盗、謀綸旨(にせりんじ)”
夜討と強盗は治安の悪化を示していますが、謀綸旨(にせりんじ)とはいったい何のことでしょう?
“綸旨”とは、天皇の意思を伝える文章様式のことです。一般に天皇の言葉は何人もの公家や官人の手を経て伝えられる重みのあるものですが、“綸旨”は、蔵人(くろうど)によって天皇の言葉を直接伝えることができました。後醍醐天皇は、内乱状態の中で成立した軍事政権の中で、恩賞認定のような即効性が必要な事項を素早く発するためには、シンプルに使用できる“綸旨(りんじ)”を扱うことが多かったのです。ところが、簡単であれば偽造もしやすい。その分、信頼性が低かったのです。
“本領(ほんりょう)はなるる訴訟人、文書(もんじょ)入れたる細葛(ほそつづら)”これは訴訟の多発を云っていますが、当時、多くの訴訟人が京都へ殺到しました。なぜでしょう?
隠岐に島流しに会っていた後醍醐天皇が、元弘3年6月、京都へ凱旋した時の“綸旨”は、元弘の乱で獲得した所領は、元の持ち主に戻すよう発しています。ところが翌月には、戦に負けた北条方のもの以外は、支配している土地の権利を認めるというように180度変わりました。恩賞を期待する武士の要求が強かったからでしょう。こうしたややこしい方針によって、所領紛争が多発し、多くの訴訟人が京都へ押しかけたのでした。
組織のトップに立つものが、その決断にぐらつきがあっては、世の中が収まる筈がありません。確固たる信念で筋を通していかない限り、混迷の時代は続くことになるでしょう。このあと、南北朝から、室町、戦国時代へと向かいます。
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