花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

わが町 諏訪 その7

2024年05月20日 | レモン色の町

大人のBGM…今夜は昔なつかしいムードミュージックといえばベルト・ケンプフェルト!を楽しみましょか (youtube.com)

床屋の木戸くんちへもテレビを観に行った。店の奥に3畳ほどの部屋があって、高いところのテレビジョンは、店からもその部屋からもどちらからも観るようになっていた。小さな部屋で寝転んでの鑑賞は格別である。ここで“月光仮面”を観た。昭和33年のことである。全くの低予算で10分枠の放送だったが、視聴率が上がるにつれ、翌年は日曜日の午後7時からのゴールデンタイムの放送となった。その画像は今でも見ることができるが、お粗末なものだった。しかし、我々団塊の世代を含め当時の子供たちには大好評で映画化もされた。

宣弘社によるテレビ放送は、昭和33年2月24日からで、桑田次郎による漫画は“少年クラブ”に昭和33年5月号から連載が開始された。

当時のエピソードを読むと面白い。

月光仮面 - Wikipedia

あと、諏訪中央商店街(現:グリーンモール)の“せいちゃん”の処でもテレビジョンを観た。友達と4~5人で、「こわい こわい」と大騒ぎだった。そういえば学級委員の“せいちゃん”は“超こわがり”だったようだ。みんなで四日市劇場へ出かけた時も、仁木悦子原作の映画『猫は知っている』を観ていて、「こわいのでもう帰ろう」と言い出したのは“せいちゃん”だった。

堀木君の誕生日に“およばれ”した。その時観たテレビジョンは、相当初期の物だったような記憶がある。何とか写っているだけがやっとこさだった。それでも珍しがられた時代だった。当時、誕生日のお呼ばれは、“ええとこの家”だけの行事だった。お祝いを持たずに行ったのも、貧しい家の子の特権だったのか。

清水くんちも誕生日に呼ばれたことがある。清水君の家は、商人宿をしていたようだった。がらんとした部屋の上がり框に座り、荒地のような庭を観ながら座っていると、おかあさんが、自家製のちらし寿司を皿に盛ってやってきた。二人は僕たちの前に正座すると食べるのを最後まで眺めていた。清水君は食べなかった。お母さんも勿論、食べなかった。後でたんまり食べたのか?同じ寿司を食べたのか?もっと良いものを食べたのか?とにかく、その時は、居こごちの悪さを感じながら帰ってきた。子供の頃、誕生日の“およばれ”を受けたのは、その2件だけだった。どの家庭でも、子供可愛さに背伸びをしていた時代だったのだろう。おそらくそうだったのだろうと思う。

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2 コメント

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知らなくても良いことだ (たいじゅ)
2024-05-20 19:31:25
とは自分でも分かっていることだし、当時の清水君や堀木君がどこの子供だったのかというのも当時を一緒に生きた人しか分からない思い出だから別に構いません。でも、こういう些細な思い出話からもこの町の(特に商業の)歴史が紐解ける場合もあるのかもしれない…と感じる話でした。参考になりました、有難うございます。
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Unknown (タケオです)
2024-05-20 19:43:53
たいじゅさん お恥ずかしい限りです
年寄りのつまらない思い出話でございます その時代の その雰囲気を 少しでも感じていただけば 共有していただけるかな? と、そんな思い上がりでございます 陳謝 と 感謝です
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