花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

わが町 諏訪 その8

2024年05月21日 | レモン色の町

わたしが浜田小学校の小学生だった昭和30年代は、まだまだ貧しい家庭が多かった。というよりも、平均して貧しかった。学校を休んだ同級生に給食のコッペパンを届けた。雨の日、宮下君の家を訪れた。二階家の横の黒い板塀には、長いコンクリートのつっかえがしてあって、家の倒壊を防いでいた。入口の戸を開けると、部屋のいたるところに茶碗が並べられていて、ぽちゃんぽちゃんと雨粒が降っていた。当店近所の青木君の処は、板張りの倉庫のような建物に生活していて、その隅に畳が6枚ほど並べられ布団が敷いてあった。青木君の顔が青く見えた。

昭和30年頃の諏訪前 この先の右側が当店

我が家はどうだったかというと、決して裕福な暮らしではなかった。トマトを薄切りにしてソースをかけおかずにした。それが嫌いだった。大橋君の家に遊びに行く。そこでおやつにトマトが出た。薄く切ってあるところまでは我が家のトマトと同じだが、その上に信じられない量の砂糖が乗っていた。それでうれしかったことが忘れられない。そもそも 商売その他の家事に忙しいお袋は、食事を作るのがおおざっぱだった。ナスに切り身を入れ、焼いて醤油をかけただけとか、エンドウ豆を鍋一杯煮たりとか、豆腐は1丁なり鰹節と醤油をかけただけがメインだったり、きゅうりの漬物だけをおかずにしたこともあった。祭りにつくったちらし寿司が5日間ほど出たこともあった。まわりのご飯はパリパリだったので文句を言った。申し訳なかった。あとは近所の食堂からから取り寄せる“てんやもん”で済ませた。

“社宅”と云う居住地は比較的裕福であるという印象をもっていた。転勤族イコールエリートだった。商家はよその子供が出入りしようと無視であるが、社宅ではお母さんが居て、ちゃんとおやつを出してくれる。そこでは“おもちゃ”が豊富で、遊んだおもちゃが欲しくてたまらなかった。

昭和30年代は何もない時代で、何でも欲しい時代だった。それに応えるように まちなかは いろんな珍しい食や誘惑にあふれていた。

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(3) 懐かしのオールディーズ(20選)男性歌手 - YouTube

わたくしの大好きなコニーフランシス 哀愁がありますよね

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