花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

昭和の食と商店街 川市

2017年09月17日 | レモン色の町

イメージです

第14回 川市さんの巻

小学6年生の頃は、リッチな友人のO君とよく遊んだ。ある日、O君の家でしこたま遊んだあと、おやつをごちそうになる。なんと、薄―くスライスしたトマトに白砂糖が山と盛ってあるではないか。「これなら何とか食べられる」と思った。自分はトマトが大嫌いだった。夏休みになるとトマトにソースをかけておかずとして食べる。「トマトは絶対おかずではない!」というのがトマト嫌いな私の持論だった。

真ん中あたりに川市さんがあると思う

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現在の“諏訪栄町珈琲”の処に“川市さん”があった。お肉屋さんだが店の中でコロッケを揚げている(今でも北町のお店で揚げたてを販売されている)。野菜コロッケ5円、肉入り10円だ。リッチなO君は肉入りコロッケをおやつに買おうと誘う。「コロッケと云うものは、おかずにするものだ!」というのが私の持論だったが、誘惑に負けてお付き合いした。なるほど、ジャガイモの間から時々肉のかけらが顔を出す。歩きながら食べるのはお行儀が悪いので、諏訪公園で座って食べた。

イメージです 実際はもっと盛が少なかった

当時、お誕生会が流行の兆しを見せていた。S君は、O君の向こうを張って「今度、お誕生会をするから家に来い!」とお誘いをいただいた。もう一人友達を誘い三人で出かける。S君の家は商人宿だった。ガランとした家に長い縁があったのを覚えている。前の空き地でキャッチボールをした後、その縁に並んで腰をかけた。S君のお母さんが、やおらお皿を運んでくる。覗くと、ちらし寿司だった。三つのお皿は三人の前に並べられる。そして、向かいにS君とお母さんが正座して、私達が食べるのを黙ってみていた。来てよかったのかどうか、気まずい雰囲気のまま、お辞儀をして帰った。

今思うとSくんの家では、友達を軽く扱っておいてお父さんが帰ってから、一家でごちそうを食べたのかもしれない。


"ビルマの竪琴”上映しました

2017年09月16日 | 諏訪商店街振興組合のこと

昭和31年度版“ビルマの竪琴”を昨夜上映いたしました。64名の方々に参加いただき、北勢地域若者サポートステーションの皆様のお手伝いで、久方ぶりに椅子を追加させていただきました。ありがとうございました。

古い時代の映画でしたがクリーンな画面で観ることができました。技術の賜物です。あらためて鑑賞し、市川崑監督が、ビルマの自然や仏教寺院をカラーで撮りたかったと思えるシーンがたくさんありました。

機材の現地持ち込みが叶わなかった為にモノクロになったそうです。人間世界で残酷な殺し合いが繰り広げられていても、美しい自然や景観はそのまま存在しています。ひと月ほど前NHKで“インパール作戦”の特集がありました。人肉を食べるのは当たり前、悲惨な行軍の記録でした。残酷な場面の連打で反戦を訴えるのではなく、市川監督は美しい自然や景観、“埴生の宿”“仰げば尊し”の合唱、竪琴の音色で戦争に抗議しているのです。これからも、嫌悪感を催すような作品よりも、観て感動し、人生にプラスになるような、そんな作品を皆様と共有していきたいと考えています。


昭和の食と商店街 四日市幼稚園

2017年09月15日 | レモン色の町

第13回 四日市幼稚園の巻

過去、稚拙のブログ“温故知新”にも書いたが、諏訪公園内にあるスワパズルパーキングの場所に“四日市幼稚園”が建っていた。母園である(ボエ~ン)。空襲で焼け残った演舞場(①より③の部分)に、保育室④と管理室⑤、そして、昭和27年、2階建ての保育室⑥が建て増しされた。

写真が、正門横に建つ保育室、この2階(図の一番左が2階部分)で卒園式が行われた。すぐ西が春告園(赤線)。道の西にカトリック教会があり、教会の築山から南を望むと港楽園(赤線)の竜宮城が見えた。飲み屋に囲まれているような繁華な場所に幼稚園があったのだ。ここの砂場はひどかった。砂の中から犬のフンが出てきたりした。O-157どころではない。現在であれば問題になるところだ。

よく読んでいただいた本

幼稚園に通う1年間(昭和29年10月に大協石油のタンク大爆発事故が起きた)、おふくろは弁当を作った。店をしながらの弁当作りは負担だったと思う。ほとんどが前日のおかずを温め直して弁当箱に詰めた。だから、お昼はあまり楽しみではなかった。卵焼きにスターSハムが最高のおかずだった。登園すると先生はみんなの弁当を保温器に入れ温める。様々な匂いが入り混じり独特な臭気を放っていた。今思うと、お弁当を温めてもらえるというのは、当時、珍しいことではなかっただろうか。

右に出店が見えます

公園西側の春告園

幼稚園から帰ると、再び公園へ。公園と諏訪神社が街の子供の遊び場だった。南側に出店(でみせ)が二軒出ていて、各々おばあさんが駄菓子を売っていた(イイおばあさんとワルイおばあさんと呼んでいた)。

これって今でも売っている「クッピーわらび餠」?マックさんののフェイスブックで見かけましたが??

10円握って出かける。5円で“わらび餠”を注文すると、指先のない軍手でビニール袋を破り黄な粉をかけてくれた。残りでくじを5本引く。紙の束から5枚引き抜き、横にあるバケツの水につける。“スカ”の字が白く浮き出る。丸い錠剤型のラムネが1個。1等2等になると、立体に絵が浮き出た大きなラムネが貰えるのだが、当たったためしがない。おばあさんが密かに笑う(・ったかに見えた)。

子供が多かった。あちこちで子供が群れて遊んでいた。


昭和の食と商店街 ところてん

2017年09月12日 | レモン色の町

第12回 ところてんの巻

まちの子は、小学生から塾に通った。我が家から西へ、嘗て赤線だった港楽園を突き抜けたところに“習い屋”があった。小学6年のとき、親の勧めで近所のSちゃんと通った。倉庫を利用した建物で、台所と畳敷きの部屋が造ってあった。生徒は8人くらい。眼鏡が耳に擦れて痛かったのか、ツルにガーゼを巻いた若い先生が教えていた。ある日、先生が結婚するというので期待に沸き立ったが、時々台所に来ていたお姉さんがその人だったのでがっかりした。(今思えば当然だったのだが、他の新鮮味のある人に来てほしかったと思っていた)。

この突き当りに塾があった

途中でお菓子(唐辛子の入った細長いあられ)を買い求め、持ち込んで皆で食べたが、ある日先生から「おチンは、やめにしよう」と云われた。さて“おチン”の意味が分からない。その時は嘲笑の渦だったが、次の日からお菓子の持ち込みはピタリと止まった。熱い夏の夜には、たたき落とした蚊を蚊取り線香の上に順に並べた。あまり学ばず、よく遊んだ。女の子相手にプロレスをしたり、南に広がる空き地で鬼ごっこをした(この空き地の向こうに、近鉄百貨店建設のクレーンが望めた)。

この年(正確には年度が変わっていた為、中学1年となっていたが)、駅前の四日市シネマで“ベンハー”が上映され学校から観にでかけた。ライ病が恐ろしかったのと、真剣にキリスト教へ入信しようと思ったのが感想だった。塾では気に入ったタイトル文字を描いてはみんなに配っていた。

塾が終わると、女の子の家を見たさに後をつける。ところが簡単に発見されてしまった。金魚のフン状態となり連行される。そして「ところてんを食べよう」と誘われて、現在のブラウンビルの角に建つ食堂へ入った。どうやら女子たちは常連らしい。出された“ところてん”を思い切りすすり込み、むせて笑われた。甘い寒天を想像していたが、酸っぱいだけで“こんなものをおやつ代わりにするのか”というのが印象だった。

フランスパンと云い、チーズと云い、餃子と云い、始めてのものが次々と現れたのが、昭和30年代だった。

昭和35年には、タカラが“ダッコちゃん”を発売(180円)、爆発的にヒットした。カラー放送の開始の年でもある。ロッテの“クールミントガム”、不二家の“パラソルチョコレート”(♪パッとパラソルチョコレート)、渡辺の“粉末ジュースの素”(♪ワタナベのジュースの素です もう一杯)が懐かしい。


昭和の食と商店街 カレーライス

2017年09月11日 | レモン色の町

四日市市の今昔 樹林舎刊の表紙から

昭和32年頃のマップ

第11回 カレーライスの巻

小学6年生のとき、友達の両親にカレーライスをごちそうになった。市民ホールでダンスの発表会があり、オマセな自分は女子の踊る姿にすっかり興奮してしまった。連れていかれた食堂は、日本堂薬局と中村履物店の間あたりだったと思う。昭和35年の写真では建設前で、日活映画の看板が立っている。開店間もない食堂(確か2階だった)で雉肉のカレーを食べた。脂肪分はなくてさっぱりした口当たりだった。当時の食堂は雉肉も扱っていたのだ。この建物は後に喫茶店となり、3階に同伴喫茶があった、と思う。(この土地は、誠文社さんからキャロンさんになったとお聞きしました。通りは商店街の一等地。もっと入り組んでいたのかもしれません)

ソースポット

少し高級そうなレストランだと、カレーが“ソースポット”で出てきた。皿に盛られたカレーしか知らなかった自分にとってこれは大事件で、家でもこれを使おうと提案したが、一笑に付された。

当時オリエンタルカレーの全盛で、宣伝カーがコマーシャルソングを流しながら風船やスプーンなどを配っていた。曲はすっかりインプットされている。♪なつかし~い なつかし~い あのリズム エキゾチックな あの調べ オリエンタルの 謎を秘め 香るカレーよ 夢の味♪ カレーは我が家でもよくつくられた。鍋に豚肉を入れ炒め、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎに醤油を加えて薄味に煮る。そこへ粉末のカレー粉を入れる。自分には固形が馴染み深い。お袋が急いで作るので、口に入れると黄色いカレー粉がそのまま出てきたりした。鍋いっぱいに作られたカレーは、何度も温められ、野菜は形を変え、焦げ臭さを伴いながら粘度を増していった。

昭和44年になると、レトルトのマースカレーが発売される。カレーは家で作るよりレトルトが一番とそのとき思った。そう、レトルトはボンカレーが最初だったのではなだろうか。


昭和の食と商店街 フライドポテト

2017年09月10日 | レモン色の町

蒸かしイモと蒸かし器

第10回 フライドポテトの巻

“さつまいも”は、団塊の世代にとって思い出が深い。食の足しに、おやつに珍重された。高岡から送られてくる金属仏具は、木箱にワラ詰めで来る。木箱は風呂の焚き付けに、ワラは家の横でたき火にされた。燠(おき)ができた頃、さつまいもを潜り込ませる。タイミングがある、急いではいけない。家庭内では蒸かし器を使った。おやつとして頻繁に出されたので、塩のかかった蒸かし芋はあまり好きではなかった。時にはバターを塗り、ちょっと豪華にして食べた。

どこで売られていたのか記憶にないが、輪切りのさつまいもを鉄板に並べて焼いていたのを見て「こんな焼き方もあったんか」と珍しく思ったことがある。

四日市市の今昔 樹林舎刊より

諏訪神社南通り(現在の三番街)にポテトの店があった。狭くて暗い店内でおばさんが2センチくらいに切った細長いさつまいもを揚げ、蜜を絡めて売っていた。黒ゴマがかかっていたかは記憶にない。商店街の写真は昭和35年となっているから、おそらく左手前から3軒目のシャッターのあたりになると思う。外はカリッと固く、中はほっこりと柔らかい。病みつきになり10円持って頻繁に出かけた。しかし、同じものばかり食していると、やがて飽きが来る。揚げ過ぎの焦げ臭いポテトを買わされたのが最後で、その日以来きっぱりやめた。

芋かりんとう

お菓子の“芋かりんとう”はおやつの定番だった。“その6”で紹介したコトブキヤへ10円持っていくと、叔父さんがガラスの蓋を開けてザザッとすくい、紙の袋へ入れ秤にかけてくれる。10円で何グラムと書いてあるラベルを見ながら、数本余計に入れる。幸せを感じる時だった。


昭和の食と商店街 太陽堂

2017年09月09日 | レモン色の町

第9回 太陽堂の巻

昭和30年頃、諏訪前通り商店街に“太陽堂”がオープンする。それまでは、斜め前でお祖父さんが店を構えていた。その前でお父さんが新規開店したのだ。“グリル太陽”と書かれたモダンでシャレた店舗。それを包むように花輪が飾られた。

“本日開店”を記念して従業員の皆さんと記念撮影をする。NHKの朝の連ドラ“ひよっこ”に出てくる“すずふり亭”を彷彿とさせる。8人の従業員に囲まれ満面の笑顔だ。当時は住み込みで働く人が多く、従業員は、ほとんどが2階で寝起きをしていた。

前の看板には、折詰、仕出し、小宴会、貸席とある。店舗右にショーケースがありサンプルが並ぶ。カレーライス・ハヤシライス・オムライス・チキンライス・ビーフステーキ・クリームコロッケ・ハンバーグライス・エビフライ、夏はうなぎも焼いたそうだ。左のケースでは“ケーキ”が販売されていた。店舗へ入ると右にカウンターが並び、奥が厨房。左側がテーブル席になっていて、正面に当時まだ珍しいテレビが置かれていた。テレビ観たさにお客が押し寄せる。注文が入るとスクーターで配達もした。

 昭和30年初めの諏訪前

この写真は“四日市のまちかど”四日市市立博物館2016 からお借りした。諏訪前を三番街角から南に撮った絵である。右角の“ミナミ喫茶店”そこから“ツル家”“横田洋服店”(その向こうに太陽堂旧店舗の看板が望めるが、その跡を傘喜さんが入る)と並び、左に“太陽堂”“みかどボタン(タバコも扱っていた)”“木村自転車店”と並ぶ。太陽堂のシャレたファサードはどうなったのかと尋ねると、雨漏りがひどく取り壊されたらしい。

アーケードは間もなく造られる。通りの西側は、ほとんどが諏訪神社からの借地だった。この先を右に折れると諏訪駅に至る。戦後賑わった諏訪新道と駅との間に位置し、大勢の人が通った。食べるものすべてがごちそうで珍しく、家族そろって諏訪へ出かけ食事をする、そんなハレの日が商店街にあった。


昭和の食と商店街 魚増

2017年09月08日 | レモン色の町

第8回 魚増さんの巻

鯨肉は、近所の魚増さんの店頭に並んでいた。戦後、クジラの肉は日本人のたんぱく源として大切なものだった。

※マップを見ていて、ツル家さんと近藤写真店さんの間に、横田洋服店さんが記入漏れになっているのを発見しました。皆様もお気づきの処があればお知らせください。

クジラの肉

小学校の講堂で映画を観たが、捕鯨船の船主にある銛で突かれたクジラは船上で即、解体される。肉はもちろん食用に、骨は歯ブラシに、また、カラクリ山車のバネにと、一切捨てるものがないということだった。鯨肉は癖のある臭いがして、お袋は焼いた肉にショウガを乗せて醤油をかけた。固くて噛み切れず飲み込んだ記憶がある。“鯨の缶詰”としても馴染みがあるが、もっぱら弁当のおかずで、缶に張り付いている角型の缶切りで開いて食べた。臭みが無くなるまで煮込んであり柔らかく、肉を食ってるな!という感触があった。

現在のお弁当のおかず 当時は肉が少なかった

“お弁当のおかず”と云う缶詰もお世話になった。現在、刺身にしたものを高級料亭で食べることができるが、柔らかく昔のような強い臭いはしなくなった。ネギ、フキ、納豆等。歳をとると匂いの強いものが好物になる。

当時に一番近いイメージです

給食に“クジラの竜田揚げ”があったが、給食の話は後日にしたい。

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“魚増さん”は鶏卵や鯨が専門でなく魚屋さんだ。店頭に並んだ魚を奥で調理してくれる。魚の頭は横の桶に落とされ、ザーッザーッといつも水が流れていた。店内は叔父さん兄弟二人と、若い衆が二人ほど居て、いつも忙しそうに立ち働いていた。当家で飼っていた猫の為に、魚のアラを頂きに行った。「魚の頭ちょうだい!」と云うと、叔父さんは、桶の中からアラを取り出し新聞紙に包んでくれた。ある日、間違えて「猫の頭ちょうだい!」と云い、笑われた。持って帰ると、お袋は汚れた鍋に塩ひとつまみを入れて火にかける。何とも異様な匂いが当店内に充満した。


昭和と食の商店街 新味覚

2017年09月06日 | レモン色の町

第7回 新味覚の巻

床屋の定番は、裏のチェリーさんだったが、一時浮気をしたことがあった。床屋勤めの若い衆が、夜になって我が家へ遊びに来た。ガムをクチャクチャ噛みながら世間話をする。やがて風呂敷包みから道具を取り出し順番に散髪してくれるのだ。どうやらお袋からおこずかいをもらっていたフシがある。闇床屋であった。

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その若い衆がある晩珍しいものを持ってきた。家族でそれを食した夜の風景が思い浮かぶ。兄が階段の処、姉が食卓の向かい側、おふくろがその横にいた。「なんや!石鹸みたいや!」「くさい!」「結構、癖になりそうや」。それは初めて食べた“チーズ”の味だった。

これまたイメージ

70メートル側に建つ青苑

“餃子”を初めて食べた日のことも覚えている。姉に連れられて“青苑”へ出かけた。これもぐんにゃりした微妙な臭い食べ物だった。焼き餃子はなんといっても“新味覚”で、学生の頃よく友達と出かけた。店から西に行ったところの“のれん街”に二軒あって、路地の中の狭い店は、おばさんが丸い鉄板に丸くならべて焼いていた。もう一軒の店は、通路を入って右に冷蔵ケースがあり、牛乳やビールが入っている。それを好き勝手に取り出し、左のカウンターで餃子を食べた。今も変わらぬ味で営業中だ。東京で“餃子ライス”なるものを発見した。それまで単品で食べるものと思い込んでいたが、ご飯のおかずになることを知った。餃子の単品食いは“新味覚”が生んだ四日市文化かも知れない。