花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

No.54椙山氏の『思い出写真をめぐって』⑥

2020年05月18日 | レモン色の町

大正10年11月、四日市鉄道は電化された。三重鉄道(三重軌道)も、四日市〜諏訪間を廃線にして、ここを伊勢電鉄(現・近畿日本鉄道)が買収し電化、昭和4年1月30日に四日市〜桑名間が開通することになる(両鉄道の始発は諏訪駅と諏訪前へ移る)。

合同駅は昭和3年に取り壊されたが、この駅舎に並んで北側に車庫があった。大正10年9月25日、出来上がって1年ほどしかたたないこの車庫に台風が襲い、庫内の東京電車鉄道から買い受けたヨトⅠ号の上に倒壊したことがあった。その後、車庫は昭和18年頃までバスの修理工場のような形で存在していた。

下図は、大正14年7月現在の時刻表だ。

四日市鉄道

三重鉄道

四日市駅は合同駅だが、諏訪駅(四日市駅〜0.6哩)は東海道の踏切のすぐ西方にあり、三重鉄道の諏訪前(四日市駅〜0.5哩)は、東海道の踏切の東側にあって位置がずれていた。

それにしても朝7時20分には湯の山行の電車と内部行きのコッペルの列車が同時にスタートし、四日市〜諏訪間まで街なかを競争していた。それに、朝6時25分と10時27分には二列車が同時に並走して来てゴールインしている。そのほか1分違いの発着の列車も一緒に並んで走ったかもしれない(見たかった!椙山先生、ロマンでございますぅ)。

補記:四日市駅から始発の両列車は、朝日を背に それとなく競うように並んで走る。南側の浜田方面は一面の菜畑、黄色一色である。通勤客の中から『抜いた、抜かれた』の小さな声が上がる。

伊勢電鉄本社(現・本町プラザ 昭和3年完成)の屋上から東の海側(省線四日市駅付近)を眺めたこの写真は昭和5年頃の撮影。すでに前述の軽便鉄道の総合駅舎はなく、伊勢電の101か111型らしい桑名行が善光寺山門前の急カーブの護輪軌篠(脱線防止のためのガードレール)をきしませて西(諏訪駅)へ向かっている(写真①)。

昭和5年頃撮影

中央の建物は、四日市駅西駅の駅舎(写真②)。前には郡部行の郊外バスが3台(写真③)、その向こうにタクシーが1台背を向けている(写真④)。バスの下方に見える長屋(写真⑤)は、合同駅解体後も残された軽便鉄道の車庫。西駅の手前には伊勢鉄道時代タンクロコに使った給水塔が見える(写真⑥)。この給水塔はコンクリート製で戦災後も残っていた。西駅右寄りに関西線のホームにわたる陸橋(写真⑦)があり、さらに東駅へ続く旧ホームへと続くのがわかる。

西駅の右、ホーム上屋の下によく見ると名古屋行きの客車が止まっている(写真⑧)。客車の向こう側の煙突(写真⑨)は関西鉄道四日市工場の跡。西駅と東駅の中間の遥か彼方の海に汽船が浮かぶ(写真⑩)。

まだ、本板硝子の3本煙突も石原産業の大煙突もなく、彼方に松原(写真⑪)が突出(その先端が後に石原産業となる)。石油コンビナートとか大気汚染やらで一躍悪名をとどろかせる以前の、昭和5年頃ののどかな風景であった。

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No.53椙山氏の『思い出写真をめぐって』⑤

2020年05月17日 | レモン色の町

全国でも珍しい軽便鉄道の合同駅。1階の右半分が四日市鉄道(四日市〜湯の山温泉)、左半分が三重鉄道(四日市〜室山・八王子と内部行)の乗車場で2階は四日市鉄道と三重鉄道の本社に分かれていた。どちらもこの駅から次の諏訪駅まで並行しており、恰も複線の軽便鉄道のようであった。

場所はどこか?「湯の山温泉行のりば」の看板が立つ

右(西)がわに合同駅入り口が見える この建物の裏側、西に回ってみよう。

Web「北勢軽便王国物語」より 右「三重軌道」、左「四日市鉄道」三重軌道は阿瀬知川のほうへも延びている。木材を積み込んだ。(大正5年11月)

善光寺の向こうに合同駅が見える(本町 まちかど博物館提供)。

大正11年のマップより

四日市鉄道の方は、大正2年から大正10年11月まで、アーサーコッペル牽く2軸ボギープレーン屋根の開放デッキ客車の蒸気運転、それ以後昭和2年四日市〜諏訪間廃止までは、その客車(1号形)をオープンデッキのまま屋根中央に1本ポールを付けた改造電車と、珍しくも東京電車鉄道のヨトⅠ型という4輪単車を改軌したもので電車運転していた。私の兄(明治43年生)はこのヨトⅠ型に四日市〜諏訪間乗って単車独特の前後上下にフワフワお辞儀しながら走る軟らかな乗り心地を味わった経験を持っている。

大正期の四日市鉄道

ヨトⅠ号改造型

三重鉄道側は、大正4年12月、やはりこの駅からアーサーコッペル牽くモニタールーフのボギーオープンデッキ客車で蒸気運転を始め、昭和2年5月片ボギー式ガソリンカー(軌道車)が出現するや、蒸気と軌道車の混合運転を始めた。

昭和7年 西日野にて

 従って、大正10年11月以降は四日市鉄道の電車(ヨトⅠ号)と、三重鉄道のコッペルや軌道車(片ボギー式ガソリンカー)が、四日市〜諏訪間で併走していたことになる。

大正15年(本町 まちかど博物館提供)一時、四日市鉄道は「すは」、三重軌道は「すはまへ」の別の駅だった。

 

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No.52椙山氏の『思い出写真をめぐって』④

2020年05月16日 | レモン色の町

大正11年の地図

関西鉄道四日市整備工場の西方、関西線のレールの更に西側、阿瀬知川のたもとに関西鉄道本社の洋館があった。明治40年同鉄道が国有化されるに及んで、後にこの建物が四日市鉄道本社となった。目と鼻の先に阿瀬知川という停留所のホームがありすみれが一杯咲いていた。

空襲直後の四日市駅周辺

写真⑧は、大正5年四日市鉄道(四日市~湯の山)が開通したときの祝賀列車が今、阿瀬知川の鉄橋上に止まってデモンストレーションした写真。

写真⑧

橋の南側に阿部材木屋という家があって運河からここまで上ってきた材木を木製のクレーンで釣り上げてはこの軽便車に積んで沿線各地に運搬していた。このレールと阿瀬知川駅は大正11年になると津と四日市を結ぶ伊勢鉄道がここに敷かれることとなり消滅するが、阿瀬知川駅のホームの跡の盛土は大正期の間も残っていたといわれる。

関西鉄道時施設の阿瀬知川橋梁

阿瀬知川の北側から 橋梁をはさんで南側に転車台跡が見える。車庫跡らしい建物の右(訂正:左側でした 現在は運送屋さんのお店と住まいになっているようです)にある二階建ては、転車台が残っていた当時そのままであった。

鉄道ビクトリアル(H.20)より

遠くに朝日金属が建つ

※ 左奥(東南方向)に 港中学校があった。

 

 

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No.51椙山氏の『思い出写真をめぐって』③

2020年05月15日 | レモン色の町

関西鉄道四日市整備工場の遠景。四日市駅東側()の貨物ホームに沿って石畳をゆくと 運河の向こうには明治23年に創業の関鉄四日市工場が赤レンガの欧風姿で煙を吐いているのが見えた。

鍛造、木工、工作部門等で、当時この地方では最も近代的な機械工場として異彩を放っていたものである。この写真の左端あたりに運河を渡る関西橋という名の鉄橋がかかっていたのも関西鉄道にあやかったものと思われる。この工場は大正末期に多数の従業員と共にそっくり名古屋に移り鉄道省の名古屋工場となった。現在この跡は国鉄四日市駅コンテナー基地及び貨物のヤードになっている。

現在も残る関西堀の跡。遠くに見えるのは住友電装、関西鉄道の四日市工場があったところだ。

写真⑤(昭和51年撮影) 左側煉瓦積のホームが旧下りホーム。このホーム左側に戦災で焼失した前回掲載の東口に建つ旧駅舎があった。写真の0ポスト標は、大正9年開通の四日市港への臨港線の起点を示し、これが駅中心となっている。

写真5⃣

この先左側に遷車場があったと思われる。JR敷地で入れなかった。

右側ホームが旧下りホーム(昭和51年撮影)現在(昭和54年)は下りホームとなっており、DC特急「くろしお」天王寺行のキハ81が停車中であるが、これも過去のものとなった。左右ホームの間は2線となっているが、明治期には3線が敷設されていたのが次の図で明らかである。

 

写真の陸橋はその脚柱に『明治44年鉄道神戸』の銘板があり、この年に架設されたのであろう。それ以前は少し向こうに架設されていたのが平面図で認められる。

写真⑥・⑦は、平面図にある貨物ホームの遷車台である(左右に動かす)。現在(昭和54年)は電動式に改造されているが使用されていないようである。設置当初は人力で動かしていたのではなかろうか。

写真⑥

写真⑦ 昭和51年撮影

 

 

 

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No.50椙山氏の「思い出写真をめぐって」②

2020年05月13日 | レモン色の町

明治44年

引き続き、椙山満氏の「思い出写真をめぐって」から紹介します。

写真③

今日の駅舎跡風景

そこから南へ進むと 関西堀の跡のカーブが残る

前回掲載の四日市駅舎の東側(写真の左)。欧米風のハイカラなポーチに柱が何本も立ち並ぶ。貨物駅入り口の木戸を背に北向きに眺めた写真。この駅舎は創業当時から昭和20年6月の戦災で焼失するまで関西鉄道そのままの姿で存在していた。

駅舎の南から駅前を覗くと 今とあまり変わらないような風景が・・・

写真③は四日市駅の油庫。扉両側に関西鉄道の社紋のついた木製明窓があり、屋根の鬼瓦にも社紋が、写真はその東面。

 

 

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No.49椙山氏の「思い出写真をめぐって」①

2020年05月12日 | レモン色の町

伊勢生まれの下総人さんから『鉄道資料』が届いた。京都が本部の鉄道史資料保存会が発行したもので、1979年7月刊とある。かなり専門性の高い本で、各地の列車の写真や図面、それに時刻表等が掲載されている。ここに椙山 満先生の投稿があったので紹介させていただく。

 最近(昭和54年)私の周辺でここに紹介する写真が発掘された。タイムトンネルをさかのぼって説明を加えたい。

駅舎は北向きだった

 明治40年ころの四日市駅前風景。大正末期に西駅ができてからはのちにこれを東駅と呼ぶようになった。玄関前に並ぶ人力車はこの時代のタクシーであった。大八車など荷車が出入りする駅舎左側は貨物駅で、木戸があって 右側ずっと貨物ホーム続く。石畳の左は 運河でそれが四日市港まで続いていた。右側のお堂のような建物は便所で、その手前には創業当時からの油庫があった。明治23年の年の瀬も迫った25日、ここに英国製機関車の黄色い汽笛が鳴り渡って 関西鉄道は草津まで創業を始めた。上の写真は国有化前後のものといわれる(明治40年ころ)。母親の背から汽車の煙を眺めていたこの子たちも、私たちと同じようにレイルファンになったであろうか?

明治44年

 

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市井からの眺め48弾丸列車⑧

2020年05月11日 | レモン色の町

<軌道を中心に>

政府は、明治5年9月12日、英国のエドモンド・モレル技師に頼んで新橋〜横浜間に陸蒸気を走らせた。この時の線路の幅は、1,067mm、国際基準軌の1,435mm(広軌)と比べて狭く、狭軌と呼ばれている。ちなみに国際的に広軌と呼ばれているのは1,524mmあった。(参考まで、あすなろ鉄道は特殊狭軌といわれて、760mmである)

明治40年「南満州鉄道株式会社」が設立され、陸軍から業務を引き継いだ時の軌間は1,524mm、国際的基準の広軌であった。それを日露戦争後に日本軍が国内に合わせて1,067mmに変えてしまっていた。それを満鉄は、朝鮮間のスピードアップの為、当時言われていた広軌1,435mmに変える工事を行った。1年間かけ大連〜長春間の工事を終えたが、車両はアメリカからの輸入だった。一方で満鉄は、車両製造に力を入れる。大正3年、紗河口工場で待望の第1号が完成している。

満州鉄道の株券

一方、明治40年、関西鉄道四日市工場から逓信省へ移った島安次郎は、広軌改築計画を主張したが、大正7年原敬内閣の折に否決され辞職した。辞職後、東京帝国大学講師となる。息子で後に新幹線(軌間1,435mm)開発に携わる島秀雄は在学中に父の講義を受けている。その後、南満州鉄道株式会社社長代理となる。大正14年、「あじあ号」の設計に関与することとなり、昭和12年「鉄道幹線調査会」が発足すると特別委員長に選任された。 この委員会で「弾丸列車」の俗称で有名になる東京~満州間の新幹線構想が発表される。内容は、増設路線は複線電化、長距離高速度列車の集中運転(貨車列車など走らせない)、そして、軌間は広軌の1,435mmであった。

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市井からの眺め47弾丸列車⑦

2020年05月10日 | レモン色の町

大正11年の夏、島 英雄は父親の安次郎から「一度遊びに来い」との連絡を受けた。秀雄は満州に向かうことにした。『亜細亜新幹線』前間秀則 講談社文庫

「そのころ、高校生でも満州へ行くのはそれほど珍しいことでもなかった。大学へ行ってからは何回も満州へ行った」と秀雄はさりげなく語る。

 大正8年、島 安二郎は広軌改築の採用が一転して取りやめとなったため、抗議して鉄道員を辞職した。この後、請われて南満州鉄道へ入ったのだ。

 秀雄が列車で東京から門司まで行き、そこから一晩船に乗れば、次の日は、朝鮮半島の南側付け根を奥深く入った渤海の入り口にある大連に着くのである。

大連

帝政ロシアの時代に、東洋のパリを目指して建設されただけあって、大連は美しい石造りの建物が並ぶ風光明媚な地であった。

奉天

街を見物した後、列車で奉天まで行きそこで下車して1,2日見物して遊んだ。露天堀の炭鉱として有名な撫順まで足を延ばして、日本では目にしたことのない、壮大な採掘風景の迫力に感心した。

撫順炭鉱の露天掘り

ついでに近くの鉄道研究所を見せてもらい、更に清朝時代の大きな墓や宮殿も見物した。

 またも満鉄に乗っていくと長春(のちの新京)があり、方角を東に変えて(訂正:地図を見ると南へ下ることになります)朝鮮半島を横切っていくと、水田のような池に船を浮かべ、金を採取している光景が広い範囲にわたって認められた。日本では見られない大陸ならではの光景だった。

大正期における朝鮮半島の金鉱床の分布

 昭和7年3月に満州国が誕生し、鉄道経営は満鉄に委託された。日本の鉄道省からは約4000名の職員が加わって、満鉄の運営にあたった。今後増加が予想される輸送量に対応するため、広い大陸を高速で突っ走る超特急列車の導入が望まれた。昭和9年、こうして『あじあ号』は誕生することとなる。

時を経て昭和39年、島 英雄は東海道新幹線プロジェクトに大きくかかわることになる。

※ あじあ号のプラモデル54,280円也  チョト 高額!

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市井からの眺め46弾丸列車⑥

2020年05月09日 | レモン色の町

島 安次郎氏の四日市での偉業を中心に書かせていただきます。

明治27年、帝国大学の機械工学科を卒業した島 安次郎は、私鉄の雄・関西鉄道(四日市)に入社し、すぐさま技師長のような役職に就いた。『亜細亜新幹線』 前間孝則 講談社文庫より

たちまち実力を発揮した安次郎は、次々と新しいアイデアを出して、鉄道会で注目を浴びることとなった。例えば、高速時に不安定になりがちな機関車の動輪のバランスをとりやすくするクロス・バランシング方式を採用した。二軸貨車の四つのバネの硬さをそろえて脱線を防いだり、客車内の照明がまだ石油ランプでしかなかったころ、ピンチガス灯(車載ガス灯)を採用した。また、車体の外側に赤、青、白の色帯を塗り、客車の等級を見分けやすくするなどの斬新なアイデアは高く評価された。

明治39年当時における私鉄の主要幹線17社の鉄道は、4834キロにも達し、官営の3200キロを凌駕していた。そうした中、政府は戦時に不可欠な輸送力の増強を推し進めることとし、3月31日「鉄道国有法」を公布して主要幹線を国有化、これは全国どこへでも自由に通車できるようにという考えに基づいていた。島は、国有化に先立ち官界に入ろうとする関西鉄道社長 田健次郎にスカウトされ鉄道工作課長に就任することになる。

発足間もない鉄道院は、私鉄の寄り集まりだったため車両の種類が多く、まず設計規格を統一した。そして、民間会社で車両を修繕・製造できるように育成することとした。

当時、車両間を連結器でつなぐ作業は、作業員の1割が死傷するといった危険をはらんでいた為、自動連結器に交換することとなった。ところが、日本国内の5万台を超える全車両の作業を、輸送を止めずにいかにスムーズに交換するかということが大問題となっていた。島は、4年半かけ周到な準備をし、貨物が閑散で晴れの確率が高い大正14年7月17日と決め、ほとんどの職員を動員して1日で交換する神業を成し遂げた。

昭和12年の盧溝橋事件をきっかけに、東京から満州を高速で結ぶ『弾丸列車』構想が出るのは昭和14年の事である。

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市井からの眺め45弾丸列車⑤

2020年05月08日 | レモン色の町

明治3年、島 安次郎は和歌山に生まれた。

明治21年3月1日四日市浜田に資本金300万円で関西(かんせい)鉄道㈱は設立された(民営でのスタートである)。明治23年1月、関西鉄道整備工場を浜田に設置(下の明治44年の地図を見ると、当時は四日市駅西側も濱田だったのか?)。

三重軌道・四日市鉄道(赤で予定になっている)の開通は大正時代に入ってから

明治23年12月 関西鉄道四日市駅創設。そして四日市‐柘植‐草津間が開通した。(伊賀の柘植から四日市間が最初だった)

明治27年、島 安二郎 関西鉄道(四日市工場)に入社し、高性能機関車「早風」を投入するなど機関車の改良、等級別車輌の導入、ピンチ式ガス燈の導入、夜間車内証明の導入など旅客サービス改善に尽力した。

  • 明治27年7月、関西鉄道 四日市~桑名間開通 長良川・揖斐川・木曽川に鉄橋架設(難工事だった)
  • 明治28年10月 鉄橋が完成し、四日市~名古屋間開通
  • 明治31年12月 名古屋~網島(大阪鉄道合併)全通
  • 明治32年5月  名古屋~湊町(大阪)全通

明治34年5月、島 安次郎、逓信省技師として官営鉄道へ移り蒸気機関車の国産化に取り組む。明治40年10月、関西鉄道は㈱国有となる(国営となるにあたり、優秀な技術者だった島は、大阪の本社に移ります)

明治42年、島 安次郎は、国有鉄道の広軌改築計画に取り組むが実現せず(この時大陸へ延びる弾丸列車構想があった)。昭和21年、逝去(享年77歳)。この遺志を継ぎ、長男、島 英雄は、父安次郎の志を継ぎ、戦後新幹線を開通させた。

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