花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

垂坂山 古戦場 ①

2021年06月18日 | レモン色の町

富田浜から北西方向に垂坂山がある。(訂正:富田浜海水浴場の観光マップに描かれているように、霞ケ浦から見て垂坂山はほぼ真西に位置しています)“雀頭垂坂山春景”水谷百碩画 四日市市立博物館刊「知られざる四日市の面影」より

人々が春の陽気に誘われて野遊山をしている風景です。はるか先には伊勢湾や知多半島が見え、簾掛けの茶店に集まる人や、手持ち弁当を広げている人、楽しそうに踊っている人等がいます。垂坂山が四日市の人々の憩いの場となっているのが、よくわかります。

幼少の頃、遠足で垂坂山へ行った。弁当と、そしておやつはいくらまでと決められていて、前の日の買いものが楽しかった。当日、阿倉川駅で降りて、連なって西へ向かう。途中、山手中学校横を通る。なぜかお互いで罵り合いが交わされる。挨拶である(以上、この辺り記憶があいまいです)。突き当りがバスの回遊場になっていて、そこから坂道となる。

数年前、近くへ配達に出かけたことがあり、暗い上り坂があって、昔の道であることを聞いた。今は山向こうの大谷台団地へ抜ける広い新道ができて人通りはなくなり、痴漢が出ると聞いた。

出かけてみると、坂道の風景はそのままだった。日傘を差した夫人が登っていくのをみたが、駐車場所を探す間にその姿はなくなっていた。ミステリーである。

暗い坂道を急ぎ足でのぼる。昨日の雨が木漏れ日の間から風に乗って降り注ぐ。坂道は500メートル程あるか。途中で息を切らして立ち止まる。山頂?に着いたが当時を思い出すと意外に狭い。以前は見晴らしがよく、坂道の両側で遊べた。防空壕があって崩れるから危険だと先生に注意された。防空壕を探検したわんぱく坊主は、中で血の塊を見つけたと鼻息を荒くしていた。

木々の間から御在所岳が見える  つづく

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富田浜海岸と四日市学 ②

2021年06月16日 | レモン色の町

四日市学講座“なぜ都市計画は四日市公害に力(訂正:無力)だったか”の後半です。

元熊本県立大学教授 坪原紳二氏は「環境にやさしいまちづくりと民主主義」で、オランダのフローニンゲン市を例に挙げ、現在の環境にやさしい都市づくりが、民主主義に基づいて作られたものか?を述べています。

1970年代、政権を担った若者層を中心とした労働党は、反対の意見を押し切り僅差で、街に入る車をストップさせました(交通循環計画)。続いて、公園内を通る車道を迂回させ、これも激論の末、一方通行にすることで条例を通すことに成功しています。実施後の結果は、反対意見はあまり聞かれず、快適な環境を満喫する市民の姿が多く見られたことでした。反対を押し切ったことは民主主義に反しているようです。

日本だったらちゃんとシュミレーションをやって社会実験をやって、それで結局実施しない。というふうになりがちです。それに対しフローニンゲン市の『交通循環計画』の導入方法などは、ほとんど学生の実習の乗りです。市職員が教会から時折出てきて、計画した一方通行が実施可能かを自転車で確かめに行くのを、主婦がからかっている、という記事がありました。

四日市は昭和25年から35年頃にかけそうそうたる外部の研究者、計画家が、都市開発、都市改造のための計画を提案してきました。昭和30年には『四日市市総合都市計画』、昭和35年に『四日市総合開発計画』、昭和41年『都市改造マスタープラン』、昭和43年『公害研究委員会研究報告書』とこのように様々な計画が提案されてきたにもかかわらず「都市改造」すなわち住宅地と工業地帯の分離は、結局ほとんど実現しませんでした。

昭和39年9月15日 諏訪百貨店屋上ビアガーデンにて 辻 俊文氏提供

四日市では、これほど多くの提案が、これほど優秀な計画家たちによって提起されているにも関わらず、それらが市議会の場で全くと言ってよいほど議論されなかった、という事実です。つまり四日市の「都市改造」は外部の計画家の話題にはなりましたが、四日市の政治の議題には全く上がらなかったわけです。

過去、九鬼市長も『都市改造マスタープラン』から距離を置いたことに対して、このように述べています『一ぺんも民意を聞くこともなく、ああいう、中央でああいうようなマスタープランを委託して作るということについては、そのあり方に反省しとる』・・・と

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦時下に向かう海水浴場

2021年06月15日 | レモン色の町

大正から昭和初期は大正ロマンともいうべきホノボノとした時代で。恐慌期といえども行事を楽しみにして、祭礼・映画・演芸・音楽会は云うに及ばず、夏の海水浴などは最も手軽に安価で楽しみながら体力もつけられるので人気があった。

須賀浦海水浴場

四日市の海水浴場は北から須賀浦・富田浜・霞ケ浦・午起の各海岸に整備され、貸しボートや水上自転車もあって大盛況であった。霞ケ浦は有料で遊園地になっていた。隣の富田浜周辺は別荘地になっており、県外の資産家が大挙して遊びに来ていた。市内では稲場町の会員掖済会前にも海水浴場があった。

稲葉町の海員掖済会

大正12年から整備開場された午起海岸は遠浅で途中に深みがあって、子供には要注意の海水浴場ながら人気を博していた。特に昭和6年以降、国鉄関西線に夏季だけの臨時の午起駅が開設されて海水浴客が増加した。

昭和12年の日中戦争後、年を追って戦争体制が強化され、夏の海水浴については、国民の体力作りが重視されるようになり、それまでの保養・娯楽やスポーツという精神は没却されてしまった。その為身体の鍛錬に重きを置き、戦闘のための訓練になっていった。

富田浜の飯田病院

名物やき蛤の看板が立つ

富田・富洲原の海岸は遠浅の白砂青松の景勝地の海水浴場として知られていたが、昭和になると、霞ケ浦、富田浜の北方の松ヶ浦(富田一色)・須賀浦海岸にも新しい海水浴場を開設して、県内外の一般人はもとより、児童・生徒の水泳訓練や海浜学校の受け入れを図った。昭和12年の松ヶ浦・須賀浦海水浴場調査報告書によってもこのころすでに相当な施設が整備され、盛況であったことがわかる。

校医の検診 午起海岸 昭和11年

このように富洲原地区の発展に合わせて、海水浴場の管理運営の中核として、四日市市富洲原保勝会を作っている。富洲原保勝会では昭和14年と15年の2回にわたって富洲原地区に簡易保険無料健康相談所の開設を請願、設置されている。また、須賀浦海水浴場にラジオ体操を行う際のラジオ受信機貸与申請書も出し、市民の健康増進のために活動している。県内の学校のみならず名古屋や関西方面の学校が必須科目の水泳訓練として、遠泳や海浜(林間)学校をとりいれていた。 四日市史より

午起海岸 昭和11年  写真:目で見る四日市の100年より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富田浜海岸と四日市学

2021年06月14日 | レモン色の町

四日市大学が四日市学研究会の報告書として出版された“なぜ都市計画は四日市公害に無力だったか”2011年発行 に富田浜のことが書いてあった。

昭和30年、四日市市から都市計画に関する調査依頼を受けた早稲田大学教授石川栄耀教授は「四日市総合都市計画の構想」で講演をしている。「富田海岸を埋めることは反対です。絶対に都市計画家として反対であります。」「およそ都市というのは働くところであるとともに住むところ、人間が住むという場所は自然と人生が交錯した美しい都市を必要とします。四日市の水際の美しさは、今日富田浜しかございません。」と指摘しています。※ 注意いただきたいのは、この発言が昭和30年であったことです。

昭和30年霞ケ浦海水浴場

戦後、国のエネルギー政策を石炭から石油に転換するにあたって、旧海軍燃料廠施設を活用できる四日市を重化学工業の基地にする方針が決められた。四日市は、昭和37年に決定された全国総合開発計画の拠点開発方式といわれる地域開発のモデルとなる工業都市計画の調査研究対象になっていたのだ。この都市計画は、海岸線を重化学工業によって独占的に利用することを受け入れる役割を果たした。

昭和30年霞ケ浦海水浴場

石川教授のこの発言に対して市の「四日市総合都市計画の構想」では「四日市の工業発展は南部およびその後背地に計画して、四日市北部は工業化を極力避け、富田、富洲原海岸地帯はレクリエーション地区として保存すべき。」との方向性は示してありましたが、その後、反映した痕跡は見られませんでした。

戦後復興の勢いは、環境問題を無視して進められたのです。結果、四日市公害問題が発生しました。

昭和6年午起海水浴場

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市港ポートビル探訪

2021年06月13日 | レモン色の町

富田浜海岸の東にある霞埠頭には、平成11年に完成した“ポートビル”がそびえている。往年の富田浜海岸を一望するために立ち寄った。

四日市港開港100周年を記念してできた。四日市港管理組合や港関係の会社事務所になっている

埋立地の霞ケ浦埠頭へ入るには、霞大橋を渡らねばなりません。ここでは例年花火大会が開かれています(コロナ禍で2年続きの中止ですが)。

左が霞大橋 大型トラックが行きかう

北(右)へ眺めを写す。この辺りが富田浜駅

左が富田浜駅で、右の丸内がビーチレストラン 国道23号線は木森に隠れてみえません

中央に鎮座しております四日市のジオラマは力作です。余計なことを言うと 少し遊びが欲しい!・・・ゴジラが上陸しているとか、こにゅうどうくんを探せ!とか・・・年寄りの戯言でした 

丸が旧四日市港です 手前が石原産業 第2埋立地ですか?

ところで、巖谷小波と島安次郎が繋がりました。琵琶湖文化館の「歴代天皇と近江」展の“あきつブログ”で紹介されていました。(下総人さんからのコメントで知る)

巌谷小波氏

杉浦重剛(すぎうら しげたけ)は、旧膳所藩(現大津市)出身の教育者で、昭和天皇らに帝王学の一環として倫理をご進講(説明)された方です。皇室と所縁の深い滋賀県出身者がいらっしゃったことに、先ず純粋に驚いてしまいますよね。また、杉浦重剛の門下生には、作家であり児童文学者として有名な巌谷小波(いわや さざなみ)がいます。小波は、文部省唱歌『ふじの山』や『一寸法師』の作詞者としても知られる一方、甲賀市立水口小学校の校歌も手掛けています。その小波の師匠に当たる方が杉浦重剛なのですよ。
 本展に出品されている関係資料は、杉浦重剛と親交が深かった鉄道技術者の島安次郎の関係者から寄贈されたものです。大正の時代を感じさせる大礼服やモーニングなどは、展示会場でも目を引いたのではないでしょうか。

下総人さんからのご教授でした。ちなみに私、“小波”を“こなみ”と読んで、芸者さんと間違えておりました。とんでもないおっさんでした。失礼スマスタ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富田浜の今 ②

2021年06月12日 | レモン色の町

遠浅の海水浴場だった富田浜町は別荘地として発展してきた。上皇后美智子様(日清製粉グループ本社)正田家の別荘や名古屋の財界人が使用する別荘地にもなっていた。有料の海水浴場もあり、夏休み期間になると、富田浜駅のホームは名古屋駅や四日市駅からの海水浴客で混雑した。ウィキペディアより

昭和の初め、富田浜海水浴場が賑やかだった当時、食堂やふろや演芸場が並んでいた通り沿いに、其角句碑と小波の句碑は立っていました。

どうしてできたのか?と思える 珍妙な形の石である。

其角句碑

この句碑は元禄時代に俳人宝井其角が当時桑名領に属していた富田庄茶屋町(現在富田3丁目)を通過の際、旅籠尾張屋にて焼蛤を食し、その風味を称えて詠んだ句  蛤の焼かれて鳴くや 郭公ほととぎす=カッコウ)  其角

を当時の主人がその筆跡を模して石に刻み自己の庭池の泉水石にしたものである。この句碑は何時しか羽津村の森玄銓(現 羽津病院)の手に移ったが、昭和5年に富田保勝会の有志が羽津病院から譲り受けてこの地に移設されたものである。  昭和63年11月3日

又、富田浜会館の敷地内に、巖谷小波の句碑がある。

涼しさや 松こしに見る 伊勢の海    小波

この句は昭和5年7月22日、明治期の児童文学界の第一人者 巖谷小波が富田の造り酒屋「酒吉」の三代目当主 伊藤吉兵衛を訪ねたおり 富田浜に遊び松こしに見える浜辺の美しさに感動して詠んだものです。それを富田の保勝会が自然石に刻んで碑としこの地に建立しました。 平成4年8月吉日

富田浜会館??って 普通の自治会会所でした。しかし、保勝会って、当時は元気があったんですねェ 中を見たいものです

海水浴シーズン中は富田浜洲組合員による簡易休憩場・食堂・土産物販売に営業も年々活発となった。地元の旅館業者や土産物業者が大正11年に富田保勝会を結成した。種々のPR活動が展開されて、富田浜人工滝の設置・賃貸ヨットの創設・賃貸ボートの創設・海水飛び込み台などが設置された。夜間は種々の娯楽施設の誘致をし、浜辺での野外映画を上映して宿泊客がそれぞれ砂浜に座り楽しんでいた。

昔は海岸通りだった

大型トラックが走る国道23号線沿いに建つ“ビーチレストラン(ビジネスホテル福寿館)”。営業されているのか?。二階は建物に風を入れるため開けてある。家の方が管理されているようだ。

名刺国道から望めるビーチレストラン福寿館は、富田浜海水浴場の名残があります。恐るおそる声をかけましたが お留守でした。

戦後になり昭和24年後は四日市コンビナートが誘致された石油化学工業の石油企業と化学企業の進出で廃油の垂れ流しによる伊勢湾後の水質汚染や伊勢湾台風の襲来や国道23号の名四国道の建設で遊泳禁止となり海が汚れて海水浴ができなくなり、昭和36年に富田浜海水浴場は閉鎖となった。ウィキペディアより

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富田浜の今 ①

2021年06月11日 | レモン色の町

富田浜へ出かけた。

JR富田浜駅は、無人の静かな駅だった。

プラットホームから富田方向を見る。

駅前の狭い通りに当時土産物店が並んでいた。

この道をまっすぐ進んで、通りが終わるころ、左に現在でも“三藤”というビジネス旅館があった。“三藤旅館”跡に違いない。左に路地を折れて北へ向かう。

富田浜海水浴場にアクセスしていた富田浜駅は閑静とした住宅街の中にある。明治41年臨時停車場として開設され、常設駅になったのは、昭和3年からである。近隣の三重郡富洲原町会議員で富田一色区長の生川平三郎が観光地の開発事業を行い、富田浜のレジャー化として、富田浜周辺の観光地化と富田浜町を発展させる事業として旅館街の整備と富田浜町の市街地を整備して、富田浜地区の富田浜海水浴場も開設及び整備した(霞浦土地株式會社のことか?)。

路地を抜けると“富田浜病院”の駐車場に出る。松の木が並び当時の雰囲気が残る。

大正7年に出来た富田浜病院

富田浜駅の北側の位置の富田浜病院も、富田浜海水浴場をしのばせる。戦前の昭和7年に、結核療養所として開設された。戦前は結核治療の特効薬はなく、清浄な空気と安静が有効とされて、富田浜の地が結核治療の保養所として選ばれていた。肺の病気の結核で療養中であった山口虚子(山口誓子の間違い?)が、三重県四日市市出身の柳生夜来の推薦で富田浜海水浴場沿いの富田浜の別荘地に戦時中やってきた。(ウィキペディアより) つづく

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富田駅長推薦の蛤料理

2021年06月09日 | レモン色の町

昭和8年11月15日 富田驛の驛長さんが蛤のパンフレットを作った。おそらく海水浴場入り口のお土産屋でも配布されており、お土産用に蛤が販売されていたと想像される。霞洋館や三藤旅館の料理も蛤尽くしであったのだろう。作られたのは昭和8年。大正時代の好況から、昭和7年には5.15事件が起き、8年は日本が国際連盟を脱退した、なんとなく不穏な空気が迫ってくるような年でした。※ しかし富田浜は大賑わいでございました。

蛤・時雨蛤のご注文は富田驛長へ! お取次ぎ致します

三重縣三重郡富州原町須賀浦 富田驛須賀浦蛤共同販賣組合

昭和8年11月23日印刷・昭和8年11月25日発行 定価金十銭

印刷人 三重縣四日市市沖之島町 中川政吉

富田の天然蛤は比重の軽い朝明の清流で清められた海水で育成せられただけあってその品質においてその風味に於いて確かに「天下随一」と誇る逸品であるに拘わらず従来は宣伝が足らず取引方法も悪かった関係で兎角売値が叩かれて採取者も販売者もその労賃に報われない現状にあるのであります。この窮状打開のため今回富田駅長水野氏斡旋の下に『富田駅須賀浦蛤協同組合』なるものを成立せしめ『誠実なる取引』を旗印して販路拡張を図ることとなりました。

 一体、蛤は栄養素の最も富んだ食品でありまして殊にビタミンEを多量に含有し所謂『若返り』に最も効果があるものでありますが従来はお正月の吸い物や嫁取りの祝物等の外にはあまり日常用いられない地方もありまして誠に遺憾であります。依ってこの際本書を編纂し広く江湖家庭に頒布し以て蛤料理の普及を測らんと存ずる次第であります。

 願わくば是非御勝手に??られ天下の珍味、蛤賞味の参考に供せられんことを。   昭和8年11月15日    編 者 識

次のページには、医学博士である山北又十郎氏が、蛤の栄養価について解説し、

 昔、東海道中の旅人が皆が皆までこの都の名産焼き蛤に舌鼓をうって旅を続けたものであるが蛤は疲労を回復するにもってこい食物であることは今日の科学上から見てもまことに宣べたるかなと頷かれるのである。

 ?之、蛤はそれが有する云うに云われぬ風味が賞味され吾々の食欲を邁進せしめるほかに、栄養学上からも大に推奨するに足る食品であるのである。

続いて蛤のレシピが掲載されています。

蛤の白みそ汁・蛤の吸い物・蛤と分葱のぬた・蛤のくわい衣揚げ・蛤飯・蛤丼・蛤スキ・蛤と昆布の佃煮・蛤の水炊き・蛤豆腐・蛤と京菜の煮物・蛤のワサビ酢・蛤のスープ・蛤のチャウダー・蛤のオムレツ・蛤のコロッケ・蛤のパン粉揚げ・蛤の炒め煮・蛤の揚げ物と日本料理、西洋料理、中国料理と多彩です。

料理品目等、画素が荒いので、読めない箇所は?にしました。識別できた方はお知らせください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富田浜海水浴場

2021年06月08日 | レモン色の町

明治40年7月に関西鉄道が臨時停車した富田浦(後に富田浜と改名)駅。昭和8年頃には、霞ケ浦土地㈱が、リゾート地として開発をいたしておりました。関西線が走ります。名物はハマグリです。

昭和8年

昭和8年のガイドマップ。(図の下)垂坂の北側ではマツタケが獲れたんですね。

入り口を入って、土産物屋を抜けると、右側にそびえる大滝。

中央に聖武天皇の旧跡?と右には千人風呂?が望めます。これは?監視塔のようです。お金がかかっていて、立派なものです。

聖武天皇旧跡?

北側に建っていたという噴水塔はどのあたりにあったのでしょう?

噴水塔

ガイドマップの左が旅館街だったようです。“霞洋館”の横に並んで“三藤旅館”の名前が載っていました。

三藤旅館の玄関です。

女性が二人こちらを向いて座っています。おかみさんとおばあさんでしょうか?

座敷は現代と変わりはないようです。団体さんの数に応じて、襖で仕切って二部屋に分けました。

近年でも、富田浜の名四国道沿いには、リゾート地の残影が感じられました。今はどうなっているのかな?出かけてみましょうか。

追記:霞洋館・三藤旅館の配信元がわかりました。“三重県四日市市富田地区公式ホームページ・懐かしの写真集”とありました。どなたが発信されたんでしょうか?

 

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市の海水浴場

2021年06月07日 | レモン色の町

海水浴がレジャーとして庶民に普及したのは20世紀も後半になってのことだった。それまでは、塩湯浴み(しおゆあみ)などと呼ばれ、健康や療養のため海水に浸かる程度だった。

橋の向こうが昌栄新田 手前の砂浜が海水浴場になった?

四日市の海水浴場の歴史は、明治17年5月の「伊勢新聞」に「海水温浴場高砂町に設立」の記事が見られるが、これは医療施設だったらしい。富洲原から午起海岸にかけて海水浴場として整備され始めた記事が明治40年6月1日付「伊勢新聞」にある。「四日市海水デー」“四日市の海浜昌栄新田において海水浴を開始せしより云々”とあるので、明治37年にはすでに海水浴が行われていた。

特に人気のあったのが富田浜海岸だった。明治40年7月から関西鉄道が富田浦駅(現富田浜駅)を臨時駅として開設、午前と午後の計4本が臨時停車した。駅から浜までの50メートルの両側には土産物屋が並び、浜には掛茶屋もあって大賑わいだった。名古屋からの唯一の海水浴場だったので、別荘も多く、旅館も洋館建てが多くみられた。

有名だった!富田浜に建つ霞洋館とは?

Web霞洋館より

※ 緊急連絡! webで見つけた貴重な写真“懐かしの写真集”これってどなたでしょう?  失礼して紹介させていただきます。

写真 (tomida.org)

四日市市内では明治41年に出来た海員掖済会(えきさいかい)前の稲場町の砂浜が賑わい、

稲葉町の海水浴場風景

大正11年からは午起海岸が整備され、翌12年には霞ケ浦海水浴場 遊楽園が開設されている。また大正時代以降になると、市内はもとより名古屋・愛知・岐阜・奈良・大阪・京都方面の海浜学校が開設されるようになった。

追記:海員掖済会とは・・・前島密氏ほか明治政府の要人や海運界首脳約50名が発起人となり、当会を設立したのは、明治13年(1880年)8月のことでしたが、実質的な事業の開始は、翌14年6月、東京府南品川にある心海寺の一部を借り受けて「海員寄宿所」を開設したことに始まります。

当時の船員は、厳しく劣悪な労働環境の下、江戸幕府以来の船方の悪習をそのまま引きずっていたため、これを早急に是正し、生活習慣を改めさせなければ、近代的な海運の発展が望めないと考えたからでした。

その後、宿泊の提供に加えて、乗船の斡旋、船員の教育訓練、遭難船遺族への弔意・慰安などの事業を行なう一方、船員に対する医療の提供など、幅広く福利厚生に努めてきたところです。

これらの事業は、第二次大戦後、国の直轄事業や他の公益法人の業務として引き継がれ、掖済会には主として医療事業が残ることとなりました。

 これを契機として、掖済会は、地域住民の皆様方のための医療・福祉に専念することとなりました。ウィキべディアより

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする