花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

懐かしのサザエさんキーワード辞典②

2022年04月16日 | レモン色の町

CMベスト10 昭和30年代 〜テレビ探偵団 - YouTube

昭和38年

「ナンデアル・アイデアル」(丸定商店/洋傘)

「ブタブタコブタ」(エースコック/即席ワンタンメン)

「キンカンぬって またぬって」(金冠堂)

昭和39年

「インド人もビックリ」(ヱスビー食品/カレー)

「ライオネスコーヒーキャンディ」(篠崎製菓<現・ライオン菓子>)

「飲んでますか」(武田/アリナミン)

昭和40年

「ファイトでいこう」(大正製薬/リポビタンD)

「ハウスバーモントカレーだよ」(ハウス食品/カレー)

「私にも写せます」(富士フィルム/フジカ・シングル8)

昭和41年

「桃屋花らっきょう」クレオパトラ編(桃屋)

「どこまでもいこう」(ブリジストン)

「水虫出たぞ イッヒッヒ」(明治ポリック)

「チョッコレート チョッコレート チョコレートは明治」

昭和42年

「光る 光る 東芝」東芝日曜劇場(東芝)

「おかあさ~ん」(ハナマルキ/味噌)

「コークとよぼう」(コカ・コーラ)

「大きいことはいいことだ」(森永製菓/エールチョコレート)

昭和30年代のヒット TV番組 懐かしすぎっ! (showa-love.jp)

昭和30年代のヒット TV番組Ⅱ 懐かしすぎっ! (showa-love.jp)


懐かしのサザエさんキーワード辞典①

2022年04月15日 | レモン色の町

戦後昭和のサザエさん時代に流行したTVコマーシャル・ソング/フレーズの数々。企業の新製品販売戦略としてのいわばコピー文化の変遷が垣間見えてきます。家庭の床の間に鎮座し始めたテレビに、誰もがかじりついた時代でした。

図書館でお借りした本より・・・

昭和28年 ※ テレビで最初のコマーシャル

 「セイコー舎の時計が正午をお知らせします」(精工舎/時報)

昭和29年

 「ワ・ワ・ワが3っ」(ミツワ石鹸/石鹸)

昭和30年

 「ミルキーはママの味」(不二家)

 「1粒で2度おいしい」(江崎グリコ/アーモンドグリコ)

昭和31年

 「明る~い ナショナ~ル」(松下電器産業 現・パナソニック)

 「カッパッパ、ルンパッパ、キーザクラ―」黄桜酒造/黄桜

昭和32年

 「クシャミ3回 ルル3錠」(三共)

 「ジンジン、ジンタン、ジンタカタッタッタ―」(仁丹)

昭和33年

 「ミュンヘン サッポロ ミルウォーキー」(サッポロビール)

 「何はなくとも江戸むらさき」(桃屋)

 「アンクルトリス」(寿屋 現・サントリー)

昭和34年

 「ヤン坊マー坊天気予報」(ヤンマーディーゼル 現・ヤンマー)

 「姓はオロナイン、名は軟膏」(大塚製薬)

昭和35年

 「カステラ1番 電話は2番」(文明堂)

 「渡辺の ジュースの素です もう1杯」(渡辺製菓)

昭和36年

 「伊東に行くならハトヤ」(ホテルサンハトヤ)

 「トリスを飲んで ハワイへ行こう!」(サントリー/トリス)

 「ドライブウェイに春がくりゃ イェイ イェイ」(レナウン)

昭和37年

 「スカッとさわやかコカ・コーラ」(日本コカ・コーラ)

 「かあちゃん いっぱいやっかぁ」(山本本家/清酒『神聖』)

 「おれがこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」(前田製菓)


四日市の中世城館⑳ 釆女城址 其の七

2022年04月13日 | レモン色の町

地域的な紛争に巻き込まれるのが、常態化していたのが南北朝時代でした。東京都日野市の金剛寺、そこに祭られている不動明王の体内から文章が発見されました。“室町幕府と地方の社会”榎原雅治 著より

一の郭へ戻り そこから南の八の郭へ上る

文章は、南北朝の戦いに参加した無名の武士の肉声を伝える手紙でした。

武士の名前は山之内経之(やまのうちつねゆき)といい、日野市付近に本拠を持っていました。暦応二年(1339)、常陸で活動を活発化させていた北畠親房率いる南朝方と対戦するために、京より高師冬(こうのもろふゆ)が関東に派遣されてくると、経之はその軍に召集されました。

八の郭から本丸へ戻らず 谷を横断して 五の郭へ向った 落ち葉が足をすくう

戦地に出向いても気がかりなのは家族のこと、自宅を守る年若い息子のことでした。戦場の辛苦を伝えつつも「それは覚悟の内、留守宅のことが心配で仕方がない。何事も母と相談するように、百姓たちのこともよくよく考えるように」と書き送っています。

初めに通って来た道を横断して 五の郭へ上る

戦場で事欠くありさまだったらしく、馬や鞍を百姓に持ってこさせるように、所領内の家を売って戦場での衣装を調達するように、あるいは百姓たちの臨時の税を必ず納めさせるように、などと求めています。

また、戦場に同道させた従者たちの中には逃げ出すものも多かったようで、脱落者の書上げを送って、この者たちを捕まえて戦場に送り届けるようにという指示も出しています。

深い空堀を行く 同行のKさん お付き合い ありがとうございました

戦場に駆り出された個人の存在を忘れがちですが、戦士たち一人ひとりは

、それぞれに家庭や日常の暮らしを抱えていたのです。


四日市の中世城館⑲釆女城址 其の六

2022年04月12日 | レモン色の町

一の郭の井戸の中に!スミマセン合成です

鎌倉後期以来、地方の武士たちの間では、所領という限られたパイをめぐる自力救済的な争いが続けられていた。“室町幕府と地方の社会”榎原雅治 著 岩波新書より

(同行していただいたKさん)一の郭から北へ 二の郭からさらに・・・櫓跡をまたいで三の郭へ

地方の武士たちが戦場に向かったのは何のためだろうか。南北朝の時代に、後醍醐や尊氏のめざす国家構想に共鳴したからか?無論そうではない。戦(いくさ)で軍功立て、恩賞としての所領が欲しいからである。山林荒野を切り開いて所領を拡大するという時代は、すでに過去のものとなっていた。

三の郭から西に 四の郭がある

新たに所領を得るためには戦で手柄を立てて恩賞を与えられるほかなく、運悪く参加した側が負ければ、「敵方所領」として所領は取り上げられるのである。傍観も許されなかった。勝者に協力しなかった者もまた「敵方」とみなされるのである。自身、家族、従者たちが生き延びるためには戦に参加せざるを得なかったのである。

この先の九の郭は望めない 柵になっていた

生き延びるためにはとにかく勝ち馬に乗らなければならなかった。

空堀を渡り 再び一の郭へ戻った・・・ よく整備されている。


四日市の中世城館⑱釆女城址 其の五

2022年04月11日 | レモン色の町

一の郭(本丸跡)の中央には、落城の折、千奈姫が身を沈めた深井戸がありました。

郭の中でも一番広いところです。保存会の皆さんが整備されているご苦労が伝わります。

一の郭から北へ、さらに 二の郭から三の郭へ渡るところ、最も高い場所が、櫓跡と推定されています。

二の郭から三、四の郭へ・・・

<追記>

昨日の“男の囲炉裏端の会”さんの記載から思いついたのが『論語』でした。

 

憤(いきどおり)を發(はつ)して食を忘れ、

樂(たのし)みて以って憂(うれ)いを忘れ、

老(おい)の將(まさ)に至らんとするを知らずと云爾(しかいう)。

 

年齢を重ねるにつれて、好奇心が薄れていけばいくほど、老後の生活や暮らしに対する不安が膨らんでくるものだ。それでは愉快な人生が送れない。知的好奇心のままに、心が沸き立つような刺激を求め、それに夢中で取り組む。そんな少年のような心を持ち続けたい。

たとえば「いままでの作品で一番良かったのは?」と聞かれて「次の作品だよ」と答えたのはチャップリンでした。


〝10年の思いをエッセーに”

2022年04月10日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

中日三重サービスセンターさん発行の「四日市ホームニュース」に掲載されました。

早速“映画館巡り”でお世話になっている“男の囲炉裏端の会”の志田さんから届きました。ありがとうございました

2022年3月26日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) 

「ありがとう」感謝の言葉で シニアライフ より

伊藤博幸さんが投稿してみえます。

“すべてがあなたにちょうどよい”

今のあなたに今の夫がちょうどよい

今のあなたに今の妻がちょうどよい

今のあなたに今の子供がちょうどよい

今のあなたに今の親がちょうどよい

今のあなたに今の兄妹がちょうどよい

今のあなたに今の友人がちょうどよい

今のあなたに今の仕事がちょうどよい

死ぬ日もあなたにちょうどよい

すべてがあなたにちょうどよい

 実は真理は簡単だった。“ちょうどよい”と素直に分かるのに五十年かかっただけです。すべては起こるべくして起きていたのです。あらゆることが天の摂理のように自然に発生しているのです。

 読ませていただいた時、気持ちがすっきり致しました。感謝

あなたの周りにいる人たちは、今のあなたにふさわしい。 | 子育てコンパス (tdma2050.com)


四日市の中世城館⑰釆女城址 其の四

2022年04月09日 | レモン色の町

現在位置から谷に沿って敵が攻めてくるのを想定

釆女城を納めた後藤氏は、藤原氏の流れをくむ河内の武士で、代々源氏に仕え源頼義(前九年の役の武将、鎌倉に鶴岡八幡宮を建立)配下七将の一人であった。

谷を手摺りに沿って上る

 後藤実基の時、源義朝の家老格として その子基清と共に平治の乱(1159)、屋島の合戦(1185)に活躍し、平治物語・源平盛衰記・吾妻鑑に登場している。子孫は鎌倉幕府に仕え 六波羅評定衆や検非違使に任じられた。

五の郭の下、虎口(こぐち)と思われる所に達する 五の郭から矢を受けながら・・・

 文応元年(1260)後藤基秀の時 先陣に加わり功あり、伊勢の国三重郡釆女郷の地頭職に任ぜられ、一族郎党を引き連れて釆女の地に入り宇野部山(釆女山)に城を築いて住んだ。

本丸(一の郭)へは五の郭に沿ってエル字型に回り込むようにして入る

 室町時代から戦国時代にかけては、北勢四十八家といわれた三重郡・朝明郡・員弁郡・桑名郡の北方諸侍の中にあって、良く家筋を護り釆女七郷を治めた。

五の郭に沿って空堀をまたぎ本丸(一の郭)へと入る

 後藤藤勝の時、「永禄十一年(1568)織田信長の軍勢により滅ぼされ城遂に廃す」(伊勢名勝誌)

一の郭

 その際、千奈姫が落城の時、井戸へ身を投げて亡くなったと伝えられている。釆女城跡(釆女城跡保存会)より


四日市の中世城館⑯釆女城址 其の三

2022年04月08日 | レモン色の町

釆女城址へ出かけた。さて、波木町から入るか、内部から入るか迷ったが、内部側(東)から入って内部川沿いに進み、帰りは波木町(西側)へ抜けた。内部川沿いに行く道は狭いので、南自動車学校の方から進んだ。

城址入口の東に、矢矧橋の案内板が立つ。その内容は悲しい。

此処には、のどかな日常の風景と、戦争の悲劇が書かれていました。

“矢矧橋(やはぎばし)と釆女城ゆかりの地名”

 鎌倉時代から戦国時代、小高い山の上に釆女城があった。釆女城は文応元年(1260)築城、永禄11年(1568)織田信長勢によって滅ぼされた。(築城、落城年は異説有)

 内部川にかかるこの「矢矧橋」は、当時、このあたり一面が竹藪で、釆女城の家臣が竹で矢を作っていたことからその名がついたと言われている。

 城跡の西側には、「ごくろ橋」と称する橋がかかっている。釆女城の番所がこの辺りにあり、番所に詰める武士が交代時に「ご苦労」と言ったことに由来するとか、橋のたもとで女子衆(おなごしゅう)が洗濯などをしていて、通る人に「ご苦労さん」と声をかけていたことに因んだ名であると言われている。

 また貝家町には「なこの坂」という坂がある。釆女城が織田信長勢に攻められ、敗残の武士や農民たちが泣きながら逃げたことが、その名の由来とされている。

内部川と足見川が交わる橋の処に、狭い空き地があったので、そこへ車を停めた。

道路沿いから一気に階段となる

階段を上がったところが平地になっていた。そこにパンフレットと杖が用意されていた。この後、杖をお借りして登らなかったことに、後悔することとなる。

 


四日市の中世城館⑮釆女城址 其の二

2022年04月06日 | レモン色の町

釆女城址

yahoo地図より

地目・山林 立地・丘陵 規模・200×250m 時代・文治 城主・後藤氏

概要 文治年中(1180年代)伊勢平氏の後藤兵衛基清ここに拠る。以来 十五代の孫 釆女正の時、信長の侵略にあい、永禄11年(1568)滅ぼされる。」南方に内部川を望む標高70mの複雑な丘陵を利用して営まれた南北250mに及ぶ。土塁で囲まれた平坦地の郭の数は8カ所ばかり。その間をへだてる堀切は6カ所ある。中央の本丸とおぼしき最大の郭には深い井戸が完全に残って、そばに「成満寺開基 釆女公殿五百年遠忌 法要執行記念」の標柱が立っている。伊坂城と立地条件はよく似て、細長い尾根上の城である。(仲見◇三重大学歴史研究会)著  『三重の中世城館』より

明日はお天気もよさそうなので 出かけてみます

2022年3月14日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)


サザエさん 昭和の風景より

2022年04月04日 | レモン色の町

週刊朝日刊

窓口で切符を買えるところが 減っています 改札口で もたつく年寄り

のみ?戦後しばらくのことでしょう 家内は猫のノミ取りが上手でした

親戚でのお泊りの “かや”は楽しかった

高校の時 我が家にも ようやくカラーテレビがやってきました

夕刻の諏訪神社に 紙芝居やさんが来ていました 黄金バット!続けてみていないと 意味不明でした

ゴムひも、鉛筆、亀の子だわし、家へも来たかなあ・・・映画“お早よう”では、殿山泰司さんが押し売りを演じています おばあちゃんに追い返される役です

<追加>

沢山の方に集まっていただきました 感謝!