花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

ぶらり四日市 その十 昌永(訂正:栄)新田

2023年01月17日 | レモン色の町

文間(訂正:分間)延絵図より 辻から東へ 思案橋を渡って十里の渡しまでの道のり

水谷百碩氏の描いた“四日市浜の景”明治初年とあります。

十里の渡し付近が描かれており、稲葉三右衛門翁の四日市港 築港工事以前ののどかな風景です。

旧四日市港の南の端から西方向を振り返って見る。運河は南へ曲がり、末広橋梁から臨港橋をくぐって伸びる。千歳運河でアリマス。

旧港から先は、運河沿いに遊歩道が整備されています。この先に昌永新田(訂正:昌栄新田)の浜地が続いていました。

水谷百碩氏の”昌永新田(訂正:昌栄新田)潮干狩”(四日市市立博物館 刊 知られざる四日市の面影 より)現在の尾上町から末広町にかけての地域。左に高砂町から旧四日市港の防波堤が伸びている。阿瀬知川か運ばれた土砂がたまったあたりになるのでしょう。

明治40年の失われる直前の昌永新田(昌栄新田)の写真です。南から旧四日市港方向に撮られたもの、わずかに砂浜の名残りがあります。

 


ぶらり四日市 その九 消えゆく思案橋

2023年01月15日 | レモン色の町

『ふるさと絵図』平成9年に四日市市立博物館が発行した絵地図であります。ここに湊浚渫工事の図がありました。

札ノ辻から東へ伊勢湾に向かうと、十里の渡しへ出ました。ところが蛇行して流れ出る阿瀬知川から運ばれてくる土砂が堆積して、港へ船が入れなくなってきました。そこで、浚渫工事(土砂さらえ)の必要が出てきたのです。

思案橋はまだ上部にあります

天保4年~10年(1833~39)の湊口付け替え工事の図です。ここにこう記してありました。“これによって今まで湊口のあった阿瀬知川は閉め切られ、新たな湊口がつくられた。この湊口は後の高砂町南側である。”図のくびれた部分であります。この時“思案橋”も橋ではなくなっていったと考えられます。

明治5年(1872)頃、稲葉三右衛門が四日市湊を修築工事する際の図です思案橋は何とか残されています(左下)

他の地図と比較の為、逆にします。納屋町の東の地先に燈明代が描かれています。燈明台の横に書かれた白い付箋は、掘割を造る場所を示していて、その両側に後の稲葉町と高砂町ができるのです。


ぶらり四日市 その八 潮呼橋

2023年01月14日 | レモン色の町

“通りがかりさんからコメントをいただき、潮呼橋 跡へ出かけてみた。

Sさんからお預かりした、四日市商業会議所発行の明治28年2月7日発行の鳥観図。丸印が潮呼橋の位置

朝まで降り続いていた雨が上がり、午後になると薄日が差すようになった。思案橋跡モニュメントから、路地を北へ200メートルほど進むと、納屋ポンプ場南隣に細長い小さな公園があった。

この先思案橋

背丈ほどの石柱に“潮呼橋と彫ってあった。感激でアリマス

後ろを見ると穴が二う(訂正:二つ)あいていた。橋の一部分なのだろう。あまり大きな橋ではなかったようだ。

北側隣りには大きな納屋ポンプ場が建つ。

公園に立つ石柱は、23号線を走るトラック群の喧騒の裏にひっそりと佇んでいた。通りがかりさん、ありがとうございました 

「潮呼橋」しおこばし??・・何と読むのか? 明治28年には思案橋がなかったことになる。

<付録> GGシニアさんが、辻さんの残された昭和30年代の諏訪の町をカラーにしていただきました。

(202) 「四日市市の半世紀前に、タイムスリップ」 - YouTube


緊急報告 思案橋と潮呼橋

2023年01月13日 | レモン色の町

通りがかりさんと下総人さんから訂正をいただきました。思案橋と潮呼橋は、隣どうしに架かっていた異なる橋でした。ここに改めてお詫び申し上げます。どこでちごたんかなぁ?

明治40年の地図  図の下にある 開栄橋 は 相生橋 の間違いです 私でなくとも間違いはあるのですねェ


ぶらり四日市 その七 辻 ①

2023年01月13日 | レモン色の町

正月2日、お天気も良く 風もない暖かな日だったので、札ノ辻から湊へ自転車で出かけた。

旧東海道を北へ上って進むと、昔 四日市宿の中心だった“札ノ辻”にたどり着く。往時の賑わいは その面影もない。

辻から南方角を見る

辻の北西位置に建つ福尾医院跡の“東海道四日市宿資料館”。

土日の開館だったか?今日はお休み

東へ路地を入ると本陣跡の中部西小学校が建つ

校門入り口に 本陣跡である説明板が立っている

四日市宿 陣屋(四日市代官所)

四日市町は江戸時代、享保9年(1724)~享和元年(1801)大和郡山藩領時代を除き、天領(幕府領)であった。便宜上、享保9年以前を第1次天領時代、享和元年以降を第2次天領時代という。

慶長8年(1603)幕臣 水谷九左衛門光勝が竪町の東側に代官所を築き、幕府領支配の拠点とした。代官所は江戸時代を通じ、この地を移動することはなかった。

 第1次天領時代は、九左衛門を初代として24代の代官が任命されている。大和郡山藩領時代にも、やはり付近の藩領を支配するため ここに代官が派遣された。第2次天領時代になると、信楽代官多羅尾氏の支配を受けて、出張陣屋が置かれた。多羅尾氏は1500国石の旗本で、代々設樂代官を勤めたが、四日市陣屋へは手付・手代を派遣して支配にあたらせた。手代・手付の数は、天保10年(1839)には設樂詰22人、江戸詰9人、四日市詰2人であった。

 陣屋の建物自身には時期によって変更があったようであるが、詳細は不明である。写真の絵図には部屋数が42となっている。なお、陣屋の建物は明治維新後、渡会県支所、安濃津県支庁 さらに三重県庁となったが、明治9年(1876)の伊勢暴動の際にすべて焼失した。


ぶらり四日市 その六 阿瀬知川と思案橋

2023年01月11日 | レモン色の町

思案橋(潮呼橋)は、阿瀬知川に架かっていた?現在の地形から見ると、違うように見える。下は昭和53年(1978)の阿瀬知川。

確かに、近鉄駅西から浜田を通りJRの線路をくぐって末広橋から伊勢湾に出ている。下は明治40年(1907)の地図。

ここでも、阿瀬知川の流れは末広橋から旧四日市港へ出ている。国鉄の線路の東(下)に“潮呼橋(思案橋)”の文字がある(思案橋と潮呼橋は200メートルほど離れたところにある別の橋でス)。当時はまだ橋の形を残していた。次は明治28年(1895)の図。上のマップとはあまり変わっていない。

次は文化3年(1806)。明治から1世紀ほど前になるが、この時に完成した”東海道分間延絵図”では・・・

潮呼橋でなくこれは思案橋です

阿瀬知川が“潮呼橋(後の思案橋)”の下をくぐっているのが分かります。次は寛文年間(1661~1673)の地図。

訂正:この位置にあるのは潮呼橋でなく思案橋です

浜田村の地域が入ってないが、札ノ辻から潮呼橋を渡って、まっすぐ東へ進むと十里の渡しへ出るのが分かる。

正徳3年(1508)の地図。浜田村から潮呼橋(思案橋が正しいです)をくぐって伊勢湾に出ていたことが分かります。

大きくうねって伊勢湾へ流れ出ていた阿瀬知川は、江戸末期から明治の初期のどこかで、まっすぐ東へ流れるように川筋が変えられたようです。

阿瀬知川は浜田村の田畑を潤し、四日市の町の汚水を集めて伊勢湾に出ていた、重要な血管のようなものでした。

<訂正> 潮呼橋と思案橋をごちゃごちゃに致しておりました。ここに改めてお詫びを申し上げます。

 


ぶらり四日市 その五 家康と四日市③

2023年01月10日 | レモン色の町

中世期、伊勢湾を航行する船に、その土地の守護は税金を取っていました。これを“本警固”と云います。対して伊勢神宮への貢物を運ぶ船には“新警固”と云われる税が課せられていました。これは伊勢の外宮が守護に対して、神宮の船に課税するのは免除してくれという記録が残されていたからです。下の図は文明年間(1469~1489)に伊勢湾にあった“警固”の所在地です。

此処に初めて“四日市庭浦(ばうら)”という地名が登場します。これは四日市庭に市場が開かれ、それが湊とセットになっている、という意味です。室町時代の四日市庭(ば)はどんなだったかというと、人が定住するのではなく、定期的に各地から商人が集まってきて市が開かれるようなところでした。普段はというと乞食のたまり場で野良犬がうろつくような寂れた場所だったようです。やがて、16世紀の後半になってくると伊勢湾を多くの船が行き来するようになり、船帳に「市場船」という文字が出てきます。これは市場が共有する船ということで市場を中心に定住者が出てきたことを表しています。

やがて天下は織田信長により統一され、伊勢平野も織田家に組み込まれていきます。織田から豊臣の世になると、家康は事実上の左遷である関東に所領を移されます。この時、関東と近江=これは御台所領と言われていて京都や大阪で使う費用を賄うための所領が与えられ、さらに石部、関、四日市、白塚、中泉、清見寺、島田というところも与えられます。

白塚と四日市間には岡崎がありますが、これら七カ所を見ていただけばわかるように、東海道の道筋にあたる町場となります。当時生産力も低かった関東という地と京都を結ぶ道には、各所に所領が必要だった。後世の記録に、関東へ行く条件としてこれらの地域をもらえるよう願い出たという記録が残っていますが、家康は抜け目なく安全に京都、関東間を行き来できるルートを作っていたのです。では、何も四日市でなくてもと思いますが、当時、桑名は豊臣の大切な所領でした。また白子は、大勢の人が宿泊できるようなところではなかった、だから結果として四日市が選ばれたと考えられます。四日市は家康にとって非常に重要な地だったのです。

“志〇れ葵を 生かした 〇づが 今も下行く 思案橋 ”   よめやーーーーん!

三河への“渡海伝承”が今も残るのは、家康が恩を感じて天領にしたからではなく、逆に、四日市の繁栄が家康のおかげだった。だから“思案橋”の話が伝えられているのではないでしょうか。

<付記> 今回掲載の“家康と四日市”は、平成12年11月7日に開催された「第15回市史懇談会」の際に講和された、四日市市史編集専門部会、近世部会委員の播磨良紀先生の講義抄録(四日市市史研究第14集より)を参考にさせていただきました。陳謝!


ぶらり四日市 その四 家康と四日市②

2023年01月09日 | レモン色の町

播磨良紀教授は“歴史講演 四日市と徳川家康”で語る。

徳川実記(たかそう…)

「徳川家康が本能寺の変(1852年6月)の折、四日市の湊から三河へ渡海したという伝承があります。ところが四日市ばかりでなく伊勢湾地域でたくさんの渡海伝承があるのです。それは後世に書かれた文献資料が多いので、証拠づけるものがほとんどありません。江戸幕府の歴史書である「徳川実記」には“白子”からとあり、四日市の庄屋さんが書かれた「井島文庫」には“四日市”から渡海したとあります。江戸前期の「石川忠房留書」には“四日市”と記されている。しかしこれらには物的証拠がないわけですね。私は、どこから渡海したということよりも、なぜこのような伝承が出てくるのか?家康と四日市との間にどのような関係があったのかを探る方が大切と考えます。

思案橋跡

織田信長から豊臣秀吉にかけて、天下統一がなされました。この時期(織豊期と書いてみえます)に、各地に大きな城が造られ、城を中心に人が集められて町が形成されていきます。今の日本の行政的な区画、各都市の基本が作られたのがこの時代なのです。そして、家康は秀吉から四日市を所領としてもらい受けることになる。関東に領国を与えられた家康が、なぜ四日市を所領としたのでしょうか?渡海の折の“思案橋での恩を忘れなかった”と、そんな単純な意味からではなさそうです。

享保年間(1716~1736年)の四日市 目で見る 四日市の百年 より この頃になると土橋は勧進橋と呼ばれ、享和以降の第二天領時代には思案橋となった。橋を渡った州の方にも人家が建ち並び、道の整備もかなり進んでいた。

それは、中世後期の伊勢湾は関東との取引で非常に発展していった、この地域一帯は西と東を結ぶ重要な地だったのです。つづく


こんなときに“閑話休題” ? どうする 桶狭間!

2023年01月08日 | レモン色の町

少し古いお話になりますが、四日市エリアプラットホーム事業を立ち上げるにあたり、石田さんの提案で、東岡崎市(訂正:岡崎市)を訪れました。2021年12月の事です。名鉄 東岡崎の駅を降りてペデストリアンデッキに立った時、勇壮な“家康”の像に遭遇しました。岡崎は徳川家康誕生の地です。

右上にご注目

銅像の下には『厭離穢土 欣求浄土』の文字が刻まれておりました。

「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」とは、煩悩に穢(けが)れたこの世を厭(いと)い離れ、極楽浄土を欣(よろこ)んで心から願い求めることです。平安中期の高僧 源信(恵心僧都:えしんそうず)が著した『往生要集』の中の言葉です。

永禄3年(1560)、松平元康(もとやす)=のちの徳川家康 が桶狭間の戦いで今川義元 討死の後、菩提寺である大樹寺へと逃げ隠れ、前途を悲観し先祖の墓前で自害を試みましたが、その際に十三代住職の登誉(とうよ)上人が「厭離穢土 欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われています。

家康公は以後戦国の世を穢土とし、平和な世を浄土として「厭離穢土 欣求浄土」を旗印に幾多の難関辛苦(なんかんしんく)を乗り越え戦国時代を平定、世界的にも類をみない265年もの長きにわたる天下泰平の世の礎を築きました。

家康公像は、徳川家康と改姓した25歳当時の姿です。顔の表情は京都知 恩院や豊田市 燐松寺にある木像を、鎧兜は山形県 鶴岡市の酒井家に保管されているものを参考に制作されました。

2027年を目指して四日市近鉄駅前にも円形のペデストリアンデッキが計画されています。その中心にわたくしメの銅像をと頼まれたのですが、丁寧にお断り申しておきました。冗談!デス

<特別付録>お正月ですので伊勢神宮へお参りください。商店連合会の専務 SさんがGGシニアで動画をアップしてみえます。

(188) 「令和5年元旦/伊勢神宮初詣」 - YouTube

 

 

 


ぶらり四日市 その三 家康と四日市

2023年01月07日 | レモン色の町

天正十年六月、つまり1582年6月2日早朝、京都本能寺に滞在していた織田信長を(訂正:の)家臣であった明智光秀が謀反を起こし襲撃します。

包囲された信長は寺に火を放ち、自害して果てる。駆け付けた嫡男 信忠も抗戦するがやはり自害した。一方、信長の首をとった明智光秀も6月13日、備中 高松城の戦から引き返して来た羽柴秀吉軍と京都 山崎(長岡京あたり)で衝突(山崎の戦い)、敗れて命を落とした。こうして豊臣秀吉の天下統一が進んだ。

思案橋

一方(この人 “一方”が好きやなぁ)、この時京都に滞在していた徳川家康は危険を感じ、岡崎へ引き上げることとなる。伊賀の衆に守られたりしながら徒歩で鈴鹿山脈を横断するが、四日市宿へ出た思案橋で、海路を選ぶか陸路を選ぶか迷った。“どうする 家康!”

正徳3年の四日市地図

“四日市と徳川家康”と題して四日市大学教授の播磨良紀氏が、平成12年11月7日「第15回 市史懇談会」で講演してみえ、これが四日市市史研究の14号に掲載されていました。

昭和53年

播磨氏「・・・四日市と家康との関係は、あまり知られてないところです。歴史に詳しい方などは、本能寺の変の時、四日市から三河へ渡ったという渡海伝承を思い浮かべられるかも知れませんが、それ以上に四日市との関係には密接なものがありました。」つづく

<余談>当店のトイレはずいぶん古い。半世紀は経つか?いま改めて見直し、驚いた。