花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

ぶらり四日市 その六 阿瀬知川と思案橋

2023年01月11日 | レモン色の町

思案橋(潮呼橋)は、阿瀬知川に架かっていた?現在の地形から見ると、違うように見える。下は昭和53年(1978)の阿瀬知川。

確かに、近鉄駅西から浜田を通りJRの線路をくぐって末広橋から伊勢湾に出ている。下は明治40年(1907)の地図。

ここでも、阿瀬知川の流れは末広橋から旧四日市港へ出ている。国鉄の線路の東(下)に“潮呼橋(思案橋)”の文字がある(思案橋と潮呼橋は200メートルほど離れたところにある別の橋でス)。当時はまだ橋の形を残していた。次は明治28年(1895)の図。上のマップとはあまり変わっていない。

次は文化3年(1806)。明治から1世紀ほど前になるが、この時に完成した”東海道分間延絵図”では・・・

潮呼橋でなくこれは思案橋です

阿瀬知川が“潮呼橋(後の思案橋)”の下をくぐっているのが分かります。次は寛文年間(1661~1673)の地図。

訂正:この位置にあるのは潮呼橋でなく思案橋です

浜田村の地域が入ってないが、札ノ辻から潮呼橋を渡って、まっすぐ東へ進むと十里の渡しへ出るのが分かる。

正徳3年(1508)の地図。浜田村から潮呼橋(思案橋が正しいです)をくぐって伊勢湾に出ていたことが分かります。

大きくうねって伊勢湾へ流れ出ていた阿瀬知川は、江戸末期から明治の初期のどこかで、まっすぐ東へ流れるように川筋が変えられたようです。

阿瀬知川は浜田村の田畑を潤し、四日市の町の汚水を集めて伊勢湾に出ていた、重要な血管のようなものでした。

<訂正> 潮呼橋と思案橋をごちゃごちゃに致しておりました。ここに改めてお詫びを申し上げます。