花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

ぶらり四日市 その三十四 あすなろう鉄道②

2023年05月15日 | レモン色の町

大正5年に“三重軌道”は“三重鉄道”に改称。大正11年6月には支線として日永~内部間が開通しました。天白川や鹿生川(訂正:鹿化川でござます)の上り坂をあえぎ あえぎ上る汽車に 乗客は列車から降りて車両を押したそうです。

鹿生川(訂正:鹿化川でございました)の橋梁 ついでにも一つ訂正:たいじゅ様ご指摘の通りケーズデンキの看板がみえるので 天白川 なるほど

天白川の橋梁 訂正:これは鹿化川 たいじゅ様推察の通り 確かにゆっくりとした左カーブ

しかし、昭和2年5月になると フォード社製4気筒ガソリンエンジンを搭載した軌道自動車が導入され走り出しています。

八王子線との分岐となる日永駅

大正5年3月 国鉄四日市駅の南側に 四日市鉄道と三重鉄道の合同駅が完成します。建物の北側が四日市鉄道 南半分が三重鉄道という珍しい駅舎で 2階はそれぞれの本社事務所になっていました。

右手前に合同駅

西から合同駅構内を移す 右に三重鉄道 左が四日市鉄道

この二本の線路は 四日市駅を出発して “すわ”と“すわまえ”の各駅まで並行して走り 諏訪の町からは湯の山方面と 内部八王子方面に分かれて伸びていたのです。

今日は良いお天気になりました この内部線は “すわまえ”を出発して “南浜田”加藤翆松堂の建つ“赤堀” 西日野方面への分岐となる“日永”そして“南日永” 西方に泊山公園を控える“泊” 伊勢参宮道への分岐点“追分” “小古曽”を経て 終点“内部”に達します

三重鉄道沿線案内より

追分から 終点内部へと向かいます


ぶらり四日市 その三十三 あすなろう鉄道①

2023年05月14日 | レモン色の町

“あすなろう鉄道”で四日市から内部まで出かけてみました。この記録は GGシニアさんでYouTubeにしていただきますのでお楽しみに(某氏に観てもらったら ツマラ―ン の一言でゴザイマシタ トホホ)

四日市駅

明治37年から38年にかけて、日露戦争が終わって日本中が戦勝気分の好景気に恵まれ、各地に軽便鉄道が敷かれました。

大正11年8月マップ

沿線案内(大正期)

明治42年 菰野町の有志で四日市鉄道は設立されます。そして 大正2年 四日市~菰野間が開通し ベルリンからオレンシュタイン・コッペル社の小型蒸気機関車が輸入されました。牛車で菰野町役場まで運ばれ 組み立てられたと椙山満さんは“四日市 市史”に書いてみえます。

明治43年には 伊勢製糸などの工場があって豊かな経済力があった日野、八王子方面の四郷村と四日市を結ぶ、三重軌道が創立され、明治45年 室山~日永間。大正元年には 八王子~日永間が開通して 四日市鉄道と同じ蒸気機関車のコッペル車が 走りました。

昭和7年 西日野駅

そして、大正2年には 日永~南浜田間(現在 南浜田という駅はありませんが 列車に乗っていると それらしき敷地がありましたおそらくこの場所だったのでしょう)

大正4年には南浜田~四日市の諏訪駅間が開通しています。


四日市商業高校“逃走中”ならぬ“広報中”

2023年05月12日 | 四日市商店連合会です

“逃走中”ならぬ“広報中”がテーマで、四日市商業高校の生徒さんがスマホ片手に商店街を走った。市の委託を受けた四日市商店連合会の事業である。ここ数年、高校生との事業は続けられているが、ある日“シャンソン”さんが、東京でのメディア関係の仕事を生かして、出身地四日市の為にお役に立ちたいと事務所に申し出た。そこで高校生徒の取り組みに関わってほしいとお願いしたわけだ。2回の商業高校での講義を終え、11日午後、15名の商業高校の生徒さんが街に集合した。そして説明の後、15分の時間制限で3人一組になり商店街へと散った。“四日市商店街広報大使”に命じられたミッションは「ヨッカイチ」「ワールド」「チル」「エモい」「行ったことのあるお店」の五つ。(年寄にはワカラン!)そして、生徒さんたちは走り出した。

ちょっとびっくりした。今までは、「生徒さんのやる気を引き出すにはどうしたらいいの?」が課題だった。しかし、生徒さんたちは、生き生きと楽しそうに走り回っている。これだった。広報大使のスターになってもらう。“ごっこ”を楽しむ。商店街活性化という“結果”を期待するのではなく、楽しんで元気を街に振り撒いていただけばいいのだ。“結果”を出すのは個店や街の努力である。生徒さんは火付け役であればいいのだ。そんな“目からうろこ”の日でした。

“広報中”ならぬ“候補中”の年寄り集団でも作ろうかナ。


ぶらり四日市 その三十二 納屋運河緑地

2023年05月10日 | レモン色の町

相生橋から南 嘗ての納屋運河は埋立てられ、緑地公園になっている。公園は南へ伸びていて末広橋と昌永橋のかかるところまで続いている。

納屋運河の由来

天然の良港であった旧四日市港は、明治初期に稲葉三右衛門翁の手により修築された近代港湾への基礎が築かれた。その後港勢の進展にともない、旧港だけでは船舶の入港に応じきれないため、新港の開さく計画に基づき、再度工事が起工され、昭和11年念願の新港が完成した。

この輝かしい歴史の中から納屋運河が誕生し、運河は昌栄町から北納屋町に通じ、作業船や小型漁船の停泊地として、また釣り人の姿なども見られ岸辺の人々の憩いの場でもあった。然し昭和27年頃より臨海工業地帯の急激な発展により転換期を迎え、運河の使命も終焉を余儀なくされた。

市では地区住民の要望に応じ、國の“石油貯蔵施設立地対策等交付金”を受け昭和55年度から二ヵ年で整備し、納屋防災緑地として新しい使命が与えられた。

   昭和57年3月吉日建立  四日市市

せっかく造っていただいたの広い公園 もう少し利用価値が見いだせないものでしょうか。


ぶらり四日市 その三十一 四大事業

2023年05月07日 | レモン色の町

四日市は、明治30年8月市制実施をしました。そして、稲葉三右衛門翁の遺志を引き継ぎ、明治39年に市は港の四大事業に取り掛かったのです。(椙山 満著“四日市市史より)

その四大事業とは、

1.阿瀬知川の開さく(川口の築港化で、のちに末広川と呼ばれる運河になる)

2.入江の浚渫(港―蓬莱橋―開栄橋―思案橋に至る運河の浚渫のことで、のちに浜町運河と呼ばれるもの)

3.海面の浚渫埋立(高砂町から南方の海浜を埋め立て、南納屋町との間に納屋運河を造成し、1.の末広川と結ぶ。

4.訪新道の近代化(諏訪神社-沖ノ島―四日市駅(国鉄)間道路の近代化と、更に高砂町まで延長して新しい港新道をつくる。

明治43年四日市港起工式

この四つの大工事は、幾多の難局(シーメンス事件や第1次世界大戦)を乗り越え、大正期になってようやく完成されました。

四大工事の内2.によって埋め立てられた尾上町と東海電線のあった西末広町とを結ぶため明治42年1月尾上橋が架けられ、四日市駅と港をつなぐ重要な橋となりました。そして、そのすぐ南の阿瀬知川川口に水門が設けられ、大正3年9月、尾上町から南の1号埋立地へ資材を運ぶ昌栄橋が架設されたのでした。

明治44年

大正11年

当時、南起海岸とも呼ばれていた砂浜地は、新しい港の母体となる地域で末広町と命名され、東に出来た第二埋立地である人口島を千歳町と名付けられたのです。


ぶらり四日市 その三十 西末広町の謎

2023年05月06日 | レモン色の町

今日は一日、暇だったので、末広橋がいつできたのかを考えておりました。まず、明治40年の水谷宜夫氏から借り受けた“四日市史”の地図ですが、明治39年に“四日市四大事業計画”として、阿瀬知川の開さくと入江浚渫、海面埋立て浚渫、諏訪神社前道路改修(諏訪新道)が挙げられています。稲葉三右衛門翁の志を引き継いだ事業でした。

順次年表を引っ張り出してみます。

明治40年  諏訪新道完成(沿線田地の埋め立て大正元年頃まで)

明治41年  阿瀬知川 改修工事完成

明治42年  尾上橋 完成

大正4年   昌栄橋 架設

大正6年12月 第1号埋立地完成 末広町命名

開拓村であった出屋敷が埋め立てられて末広町の名前がつけられます。末広橋は出屋敷と通じる橋だったんですねえ。

大正12年  昌栄町・西末広町誕生

大正14年  三栄組末広町で貨物輸送始める

       第2号埋立地完成 千歳町命名

       四日市東駅前~相生橋~昌栄橋 道路完成

大正15年  千歳橋完成

       北納屋町西運河 埋立竣工

昭和5年   公会堂・商工会議所千歳町に完成

昭和11年  国産振興大博覧会 千歳町で開催(3.25~5.30)

高砂町→尾上町→尾上橋・末広橋→昌栄橋→末広町→昌栄町(出屋敷)→西末広町(あくまでも命名です)

末広橋の北詰めに稲葉三右衛門さんの銅像がたてられたのはいつでしたっけ?当時の港の最先端だったはずです。

末広町に比べて、西末広町の命名は少しあとになります。むしろ北末広町とした方がよかったのでは?


ぶらり四日市 その二十九 諏訪新道②

2023年05月05日 | レモン色の町

空襲後の諏訪新道

四日市中心市街地が空襲で焼け野原になったのち、一等市街地は"諏訪新道”へと移った。銀行、呉服店等が続々と建ちだしたのだ。岡田屋呉服店も出店し、南の呉服町商店街と並んで四日市一番の商業地となった。

またまた登場!昭和28年発刊の名古屋タイムスさんが、当時の様子を書いてみえる。当時の元気がこの文からうかがわれる。

西

東(右上の中部中学校は誤り 正しくは 中部東小学校(現在は中央小学校)

四日市は夏場の景気がいいそうだ。富田方面への海水浴客がドット旧市内にも入って金を落としていくからだ。機敏な四日市商人はソロバンをはじいて用意おさおさ怠りないところだろうが、さてその四日市ってどんな街なんだ、と聞かれても返答に困る。中心は諏訪新道から諏訪神社前の諏訪連鎖街と呼ばれる一角だが、なにも特色がない。ただどこでもある大都市の盛り場をちょっとチャチにしただけのものである。お定まりのガラスと蛍光灯のいやにピカピカした感じは東京でも大阪でも名古屋でも四日市でも全く同じでどこかで買ってきた既製品の街という感じだ。明治以来の日本人の犯してきた誤りだが、特に戦後出来た町はこの傾向が強い。四日市も昔は中町通りというのが多少はにおいをもっていたが、全部焼けてしまった。この諏訪新道と諏訪連鎖街はまったくの焼け野が原にたてた町だという。つまりまだ子供の町である。この子供はどこをみてもどこかで見た様なという感じがする。

映画 電光石火の男より マップ中の右端 東海銀行前にかかる“うまいや”のアーチ

アプレ建築、揺さぶって ガーガー廣告放送塔 はためく幟がまた古風

〇 近鉄四日市駅(国鉄四日市駅?)と諏訪駅を結ぶ道が諏訪新道と呼ばれる商店街。諏訪駅付近は連鎖街と称し、ノミヤ、喫茶店があつまった町。その西には特飲街(港楽園と春告園)の赤線が二つ。西へ行くに従って閉店は遅くなり男が多くなる。こんなに整然と二つに仕切られた盛り場はちょっと珍しいが、客を分散させる点からいうとちょっとまずい。

〇 諏訪新道にはアーチがやたらに多い。先年の四日市博(昭和27年の講和記念博覧会)でおぼえたのだろうか、もちろんアーチは広告をかねている。看板も多い、大売り出しでもないのに、その旗をパタパタさせてある。店は新しく清潔だが、このドロくさいデコレーションがその清潔さを汚すと共に庶民的な盛り場の雰囲気をかもし出している。街灯放送の塔(広告塔)もいたるところにあって、物憂い夏の午後の空気をかき回している。南側にはズラリ百軒以上にもなろうと思われるセンイ品の露天商。おおむねアッパッパや子供服などの格安品。近在の農家のおかみさんからの需要が多いとか。店を出しているのは一宮、津島あたりの人が大半で、これあるがために人寄せにもなる点から、地元商店街では痛しかゆしの存在。道路に出す日よけは立派である。鉄骨ガラス張りのは南側、木製ヨシズ張は北側、故に客の割合は南七、北三と対照的。またそれ故に北と南は発展会を別にし、お互いの仲は宜しくないということになるそうだ。

 

望みは高し“水郷ベニス”このドブ川がいつの日か

〇 銀行は七つ、商店街のところどころに新しい建物で威容を誇っているが、商店街を分断する点で困ったものだといっていた。郵便局は昔の兵舎のお古みたいなうらぶれた姿を道路に出っ張ってさらし、完全に商店街を二つに区切って建っている。市役所に通じる大通り(現:三滝通り)はまだ整備されていない。道の真ん中に約一間のドブ川が流れている。将来は三滝川の水を引きベニスのような水の都にするのだそうだ。このドブ川の上に映画の看板がいっぱいある。地所代が殆どいらないからだそうだ。何でも年に六百円だとか、セチがらい世の中だね。

〇 諏訪新道は飲食店が少ない。客寄せの上からはミスだが、うまいやというのはヘノヘノモヘノの看板で宣伝に成功している。浅井というびっこのサンドイッチマンは浪花節狂。報酬なしで毎日エヘラエヘラとサンドイッチマンをやっている。同じ大衆食堂舞子屋のサンドイッチマンも問題で日本一の美人と張り紙をして歩き二人とも町の人気者になっている。鈴木屋、岡田屋に洋品店の大店羽田も古い店。キャノンは一階カメラ、二階はちょいと気のきいた喫茶店、三重交通のバスのりばの裏には松坂競輪の場外車券売り場がある。ヨシズの下にピケ帽などかむった大勢の若い男がごろごろしている。松坂からはレースのたびに放送する。「イチバン」の「イ」にアクセントをおいた伊勢言葉である。


ぶらり四日市 その二十八 諏訪新道①

2023年05月03日 | レモン色の町

“四日市史”四日市市南町 伊藤善太郎 著・明治40年5月13日発行 (本町・水谷宜夫 所有)の“運輸交通”の項目に、

本町 水谷宜夫氏所有

諏訪前道路・・・諏訪前より停車場(国鉄四日市駅)に通ずるものにして、戦後(日清・日露戦争)各種の事業勃興すると共に、戸口劇に増加し、遂にこの新道路改修の止むを得ざるに至り。今や改修功成るや成らざるに、既に新築家屋、両側に櫛比し、繁栄なる新一市街を形成するに至れり。その将来の発達、蓋し括目して観るべきものあらん。

明治40年

とありました。浜往還、南浜往還に続く諏訪町の新道の誕生です。明治末期には、関西鉄道の四日市駅が本町に出来るに従い、四日市鉄道と三重軌道の線路に並行して、諏方神社から港へ伸びる道路が賑わいを見せ始めていました。これが諏訪新道から沖ノ島、本町に続く道路です。

明治44年の地図では 三重軌道と四日市鉄道の路線が計画されています


遊女の江戸 2.

2023年05月02日 | レモン色の町

江戸の町、浜町河岸の箱崎近辺に“船まんじゅう”と呼ばれる売女たちがおりました。船に乗って一回りする間に事を済ませるという、吉原の遊女から比較すると、最下層の遊女でありました。年の瀬の31日、ある店の手代が集金を済ませ河岸の処を通りかかりますと、誰かが声をかける。「お兄さん、ちょっと遊んでいきなさいよ」「集金を済ませて帰るところだ。そんな暇はないよ」一旦は断りましたが悪い虫が起こる「少しならいいだろう。まだ陽も高いことだし。おや、ずいぶん若くて かわいい顔をしてるじゃねえか」

さて何を済ませて、船からあがって店の前まで来てフトコロを確かめ驚いた。あったはずの金がない。目の前は真っ暗になる。あわてて掛け取りに行った家まで戻って確かめたが、「あんた、確かにお金をもって出たよ」の連れない返事。「どうしようどうしよう、この身を投げて死んじまうか」町中を徘徊し、食べることも出来ずに瘦せ細り 亡霊のような姿になった。

あけて正月の4日目、男はふと船まんじゅうで一時を過ごしたことを思い出した。あわてて河岸へ辿り着くと、船の中からあの時の女が声を潜めて呼びかける。「お客さんは大晦日に来なすった人だね。忘れ物をしなかったかい」「忘れ物だ 忘れ物だ」「しっ どういう忘れ物だい」財布と帳面であったことを聞くと、その女はにっこり笑って財布を差し出した。「そんなことだろうと思って毎日ここで待ってたんだよ。親方に知れたらわたしゃ お金を取り上げられて殺されちまうよ。船まんじゅうの親方なんて、そんなもんなのさ。このお金のためにあんたは死ぬかもしれないし、わたしゃ、殺されるかもしれない。だからあんたに返すため、必死で隠しておいたのさ」

男の口から言葉にならない声がほとばしった。肉の落ちた頬を涙が伝って落ちた。懐から有り金全部を掻き出して、女の手にたたきつけるように置いた。

「おや、お礼をくれるのかい。それじゃあ ほんの少し頂いとくよ。お金は早く持って帰ると良いよ」男は親方と女の名前を聞いて飛ぶように主人の処へ帰った。

ことが一段落し、店の主人は 改めて奉公人と遊女の正直なことに感心し、二人を夫婦にさせることとした。めでたし めでたし (耳袋より)