ヒュースタ日誌

相談機関「ヒューマン・スタジオ」の活動情報、ホームページ情報(新規書き込み・更新)を掲載しています。

コラム再録(8)『不登校・ひきこもりの“終わり”へ 〔上〕心は不死鳥』

2012年12月05日 16時50分37秒 | メルマガ再録
 今号から3回にわたり、不登校とひきこもりが“終わる”瞬間を描きながら、その意味や「終わらせ方はあるのか」というあたりについて、私の意見を述べてみます。

 これまでお話ししてきたように、私はかつて、不登校もひきこもりもやっています。ということは、両方を終わらせてきているわけです。そこでまずは、これまでのコラムからその部分を抜粋しながら、私の“終わり方”をおさらいしてみましょう。


                 ●


※不登校の“終わり方”
(高校入学半年後から不登校になり、すでに3回留年していた高校4年目)

 この年、回復への意欲が出てきて、何とか立ち直ろうともがいて、進級まであと一歩のところまで出席日数を積み重ねたものの、結局崩れて、今度こそ退学だろうという切迫した事態に直面したとき、学校価値に囚われていた人生観が“クルッ”と転回して、人として本当に大切なものに気づいたとき、私はもがくのをやめた。(7号)

 「学校とは関係なく、このままでは自分がだめになる」という危機感に心が揺さぶられた次の瞬間「この学校を卒業するなんてことは、人生の目標としては小さすぎる」という、今にしてみればごくあたりまえの考えがひらめき、続いて「退学しても、精神的に成長しながら元気で生きていこう!」と、希望に満ちた気持ちで決心がついたのでした。

 すると、目の前がパーッと開けたような明るさと、からだの中からこんこんと湧き出るエネルギーが感じられたのです。心が澄み切っていて、何とも言えない、神秘的な境地でした。(5号)


※ひきこもりの“終わり方”
(大学卒業1年後からひきこもりになり、その数年後)

 ひきこもりに終止符を打つべく就職を模索したのに、すでに手遅れだったという思いが、自分が存在価値のない人間だという絶望感に、私を突き落としました。
 それはまさに「万策尽き果てた」という感覚でした。(22号)

 「死」が身近に感じられるほどだった。(64号)

 そんなある日、私の頭に、こんな考えが浮かぶようになりました。
 「自分はもうどうなっても構わない。ホームレスになろうと、人知れず死のうと、みんなが自分のことを忘れようと、何とも思わない。野性動物は、誰に知られて死ぬわけでもなければ、死んでからも誰かに覚えられてはいない。自分も野性動物のように、自然のままに生き自然のままに死ねればそれでいい。」
 何日間かそんなことを考えているうち、絶望の苦しみがだんだん軽くなっていくのが感じられるようになりました。(22号)


                 ●


 このように、私の場合、不登校のときもひきこもりのときも、その終わり方は「どん底まで落ちてから」「生きる希望を失うくらいの境地にいたってから」「突然人生観が変わって楽になった」といった共通点があります。

 ここまでお読みいただいて「これは<底つき>だな」と思った方もいらっしゃると思います。たとえば、アルコール依存症の人が、家族に逃げられ、自己破産し、肝臓を病み、といった、絶望的な状態に落ち込むことを<底つき>と言います。これは、依存症が終わるきっかけになるプロセスですが、私の不登校とひきこもりが終わるプロセスも、確かにそれと似ています。

 そのあたりについては以前64号でお話ししましたので、そちらをご参照いただくとして、ここでは「そこまで落ちてから、あっと言う間に人生観が変わって楽になり、元気になる、ということが本当にあるのか」について話します。

 神話に出てくる「フェニックス」という鳥の名前をご存じかと思います。500年に一度、自ら香木を積み重ねて火をつけ、炎のなかに飛び込んで灰になる。そして、灰のなかから幼鳥としてよみがえる、というやつですね。

 つまり、死んでも死んでも生まれ変わる「不死鳥」なわけです。
 人の心も、同じだと思うのです。「心が死ぬ」「心が生まれ変わる」というのはわかりにくい表現かもしれません。でも、ほんとうにそうとしか表現できないのです。

 「もうだめだ」「もう生きていけない」という“絶望の炎”に心が焼き尽くされたとき、その灰が再び新しい心になってよみがえるのです。
 たとえば私の場合は、不登校とひきこもりの最後に「今の人生が破綻した」という絶望感に打ちひしがれたわけですが、この出来事は、象徴的に「それまでの自分が死んだ」と表現できるものです(こう表現して初めて「君の不登校が終わった理由が理解できた」とおっしゃった方がいます)。

 そして、生まれ変わった新しい自分は、大空に飛び立つ鳥のように、若々しいエネルギーに満ちあふれ、イキイキと生きるようになるわけです。


2005.02.16 [No.95]


このシリーズのあと2回を読む(次の〔中〕が出ます)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録(8)掲載のお知らせ

2012年12月05日 14時33分17秒 | メルマガ再録
 10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。

 先週は秋季休業中のためお休みさせていただいたうえ、きょうは約3時間遅くなりまして申し訳ありません。

 さて、2週ぶり8回目の転載コラムは「不登校・ひきこもりの“終わり”へ」という3回シリーズの1回目『心は不死鳥』です。

 不登校やひきこもりの青少年のなかには、支援を拒み続けていたり、自分で何とかしようともがいていたりした末に「もうダメだ・・・」と絶望のどん底に落ちてから、生まれ変わったように動き出した人が少数ながらいます。

 ここでは、不登校のときもひきこもりのときもそういうプロセスを経てきた筆者が、自分の体験について過去の記述を引用しながら「その瞬間に何が起こったのか」を描き出したうえで「そういうプロセスがどんな意味を持っているのか」を語っています。

 筆者は“底つき”というキーワードを用いて説明しているのですが、読者の方や筆者の体験談を聴いた方のなかには、この筆者の不登校とひきこもりの終結のプロセスが印象に残った方が少なくないようで、15日の記念懇談会でお話しくださる勝山実氏など筆者の周囲の方の間では「不登校・ひきこもりで“底つき” と言えば丸山」というイメージが持たれているようです。

 なお、このコラムは前述のとおり3回シリーズですので、続けてあとの2回もお読みいただくことにより、筆者が「“底つき”で終わるプロセスが一番だと考えているわけではない」ということをご理解いただければ幸いです。

 それではお待たせしました。このあと転載します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする