2010年度が始まりました。不登校状態からの進級進学や留年などで新しく出発した人、ひきこもり状態からアルバイトや仕事を始めた人、そのような目に見える進展がなかった人、・・・などそれぞれの春を迎えておられることでしょう。
本人またはご家族からご相談を受けていて、本人が進級進学を果たしたケースのなかには、年明け前(今年なら去年、去年ならおととし)に「今の状態では難しい目標を設定している」と感じ、それがうまくいかなかったときの対応を想定して待機していたが、結局その必要がなかった、という場合があります。
これは、前号でお話しした「無理しているから必ず挫折するとはかぎらない」という例に当てはまるケースだと言えます。
もちろん、これで全面解決だと断定できるかどうかは誰にもわかりません。171号で使ったたとえで言えば「ホームランを打ったが試合はまだ続いている」といったところでしょうか。いずれにしろ、大きな一歩を踏み出した本人の決意と努力に拍手を送り、前途に幸あらんことを祈っています。
ところで当メルマガは、今年度ひとつの節目を通過します。それは、次々号でコラムが150本目になることです(号数より少ないのは「情報版」というコラムのない号と、交互に配信していた時期があるため)。
これだけの数の文章で、私はいろいろなことを書いてきましたが、そのすべてを貫いている論旨は「不登校児やひきこもり青年への対応は、本人の願いや思いを前提に判断され実行されるべきである」ということに集約できます。
逆に言えば、対応は周囲の願い――多くは「学校/社会への復帰」――を前提に判断され実行されるべきではない、ということです。
そのため私は「本人はこんなことを思い、あんなことを願っていますから、それに沿ってこういう対応をしてください」と提案することになります。
こう申し上げると、新しい読者の方には「“学校/社会に復帰しなくてもいい”と無責任に煽るメルマガなのか?」と誤解されそうですが、そうではありません。
と申しますのも、不登校児やひきこもり青年は「学校になんか行くもんか」「社会に出ずにすむならそうしたい」どころか、往々にして「学校/社会に復帰したい」と願っているものです。
つまり、周囲が願わずともほかならぬ本人自身が「学校/社会に復帰したい」と願い、そしてそれを実現しようとするわけです。このことは「本人が無理な目標を設定している」と私が感じても、それをクリアする人がいる、という冒頭のお話からもおわかりいただけるでしょう。
「それだったら話は早い。本人と周囲の願いが一致しているのだから、学校/社会への復帰めざして一緒にがんばればいい」ということで話が終わりそうですが、事はそう簡単ではありません。
私が前提にすべきと考えている「本人の願いや思い」は、そこから先の話なのです。
「本人が復帰を望んでいるから復帰させてあげているのだ」
――不登校児の学校復帰やひきこもり青年の社会復帰を推進している教師や専門家や団体の方の、そんな発言や文章をよく見聞きします。
確かに、前述のとおり本人の多くは「学校/社会に復帰したい」と本気で言います。その言葉に嘘偽りはこれっぽっちもありません。
しかし、それなら彼らはなぜ担任の先生やクラスメートやメンタルフレンドの訪問を嫌がるのでしょうか。なぜ居場所など支援の場に行けないのでしょうか。なぜ就労支援を利用しようとしないのでしょうか。
そして何よりも、なぜ学校/社会に復帰しても楽になれない人が少なからずいるのでしょうか。
このように考えていくと「学校/社会に復帰したい」という、彼らの「願い」の奥には、彼らの多くも自分で気づいていない「でも・・・」という「続き」があるとしか思えないのです。
先ほど私は「本人の願いや思い」と「周囲の願い」というふうに、本人には「願い」のほかに「思い」があることを示唆しました。
「でも」から始まる「続き」が、この「思い」に当たる部分です。
それは「でも復帰できない」という“現状を訴えるもの”だけではなく「でもまず自分を創り直したい」「でも周囲に合わせるのではなく自分に合った生き方がしたい」「でも導かれるのではなく自分の足で歩きたい」などといった、複雑な心境や深い欲求も含まれています。
ですから、それらをも包含した奥行きと深さのある「願いと思い」をすべて認めて受け止めることによって、彼らは初めて楽になって元気を取り戻し、自分の主体的な意思で学校/社会とどう向き合っていくかを決めて実行することができるようになるのではないでしょうか。
それとも「思い」を認めずに「願い」だけで頭がいっぱいのまま、脇目も振らずまっしぐらに突き進んで復帰を果たしたほうが、その先の人生に深い納得と肯定感が得られるのでしょうか。
私は「願い」と「思い」のどちらを否定しても、本人は楽にならないように思います。したがって “願いと思いの葛藤ロード”を歩み続けて自分の生き方を見出したときに「自分の生き方に何が必要か」を自問した結果「学校だ」と判断すれば学校に復帰すればいいし「仕事だ」と判断すれば仕事に就けばいい、それでこそその先の人生に深い納得と肯定感が得られる、と考えるのです。
2010.4.14 [No.176]
文中に挙がっていた171号を読む
本人またはご家族からご相談を受けていて、本人が進級進学を果たしたケースのなかには、年明け前(今年なら去年、去年ならおととし)に「今の状態では難しい目標を設定している」と感じ、それがうまくいかなかったときの対応を想定して待機していたが、結局その必要がなかった、という場合があります。
これは、前号でお話しした「無理しているから必ず挫折するとはかぎらない」という例に当てはまるケースだと言えます。
もちろん、これで全面解決だと断定できるかどうかは誰にもわかりません。171号で使ったたとえで言えば「ホームランを打ったが試合はまだ続いている」といったところでしょうか。いずれにしろ、大きな一歩を踏み出した本人の決意と努力に拍手を送り、前途に幸あらんことを祈っています。
ところで当メルマガは、今年度ひとつの節目を通過します。それは、次々号でコラムが150本目になることです(号数より少ないのは「情報版」というコラムのない号と、交互に配信していた時期があるため)。
これだけの数の文章で、私はいろいろなことを書いてきましたが、そのすべてを貫いている論旨は「不登校児やひきこもり青年への対応は、本人の願いや思いを前提に判断され実行されるべきである」ということに集約できます。
逆に言えば、対応は周囲の願い――多くは「学校/社会への復帰」――を前提に判断され実行されるべきではない、ということです。
そのため私は「本人はこんなことを思い、あんなことを願っていますから、それに沿ってこういう対応をしてください」と提案することになります。
こう申し上げると、新しい読者の方には「“学校/社会に復帰しなくてもいい”と無責任に煽るメルマガなのか?」と誤解されそうですが、そうではありません。
と申しますのも、不登校児やひきこもり青年は「学校になんか行くもんか」「社会に出ずにすむならそうしたい」どころか、往々にして「学校/社会に復帰したい」と願っているものです。
つまり、周囲が願わずともほかならぬ本人自身が「学校/社会に復帰したい」と願い、そしてそれを実現しようとするわけです。このことは「本人が無理な目標を設定している」と私が感じても、それをクリアする人がいる、という冒頭のお話からもおわかりいただけるでしょう。
「それだったら話は早い。本人と周囲の願いが一致しているのだから、学校/社会への復帰めざして一緒にがんばればいい」ということで話が終わりそうですが、事はそう簡単ではありません。
私が前提にすべきと考えている「本人の願いや思い」は、そこから先の話なのです。
「本人が復帰を望んでいるから復帰させてあげているのだ」
――不登校児の学校復帰やひきこもり青年の社会復帰を推進している教師や専門家や団体の方の、そんな発言や文章をよく見聞きします。
確かに、前述のとおり本人の多くは「学校/社会に復帰したい」と本気で言います。その言葉に嘘偽りはこれっぽっちもありません。
しかし、それなら彼らはなぜ担任の先生やクラスメートやメンタルフレンドの訪問を嫌がるのでしょうか。なぜ居場所など支援の場に行けないのでしょうか。なぜ就労支援を利用しようとしないのでしょうか。
そして何よりも、なぜ学校/社会に復帰しても楽になれない人が少なからずいるのでしょうか。
このように考えていくと「学校/社会に復帰したい」という、彼らの「願い」の奥には、彼らの多くも自分で気づいていない「でも・・・」という「続き」があるとしか思えないのです。
先ほど私は「本人の願いや思い」と「周囲の願い」というふうに、本人には「願い」のほかに「思い」があることを示唆しました。
「でも」から始まる「続き」が、この「思い」に当たる部分です。
それは「でも復帰できない」という“現状を訴えるもの”だけではなく「でもまず自分を創り直したい」「でも周囲に合わせるのではなく自分に合った生き方がしたい」「でも導かれるのではなく自分の足で歩きたい」などといった、複雑な心境や深い欲求も含まれています。
ですから、それらをも包含した奥行きと深さのある「願いと思い」をすべて認めて受け止めることによって、彼らは初めて楽になって元気を取り戻し、自分の主体的な意思で学校/社会とどう向き合っていくかを決めて実行することができるようになるのではないでしょうか。
それとも「思い」を認めずに「願い」だけで頭がいっぱいのまま、脇目も振らずまっしぐらに突き進んで復帰を果たしたほうが、その先の人生に深い納得と肯定感が得られるのでしょうか。
私は「願い」と「思い」のどちらを否定しても、本人は楽にならないように思います。したがって “願いと思いの葛藤ロード”を歩み続けて自分の生き方を見出したときに「自分の生き方に何が必要か」を自問した結果「学校だ」と判断すれば学校に復帰すればいいし「仕事だ」と判断すれば仕事に就けばいい、それでこそその先の人生に深い納得と肯定感が得られる、と考えるのです。
2010.4.14 [No.176]
文中に挙がっていた171号を読む