ヒュースタ日誌

相談機関「ヒューマン・スタジオ」の活動情報、ホームページ情報(新規書き込み・更新)を掲載しています。

コラム再録(9)『「私(たち)がいなくなったらどうなるのでしょう」』

2012年12月19日 14時04分59秒 | メルマガ再録
 年齢の高いひきこもり青年の親御さんは高齢ですから、お子さんの行く末をこのように心配されていることでしょう。事実この言葉は、親の会などでよく聞かれます。

 前号まで、親御さんのさまざまな言葉に意見を返していた私も、これを言われると返す言葉が見つかりません。もちろん、これから意見を申し上げますが「何を言っても気休めにしか聞こえないだろう」という忸怩(じくじ)たる思いがあります。

 それは、この言葉が正論だからです。親である以上そういうふうに心配して当然ですし「大丈夫。必ず社会に出られるようになる」などと、将来を予言するような励ましを言っても、リアリティを感じていただくことができないことは、私にもよくわかっています。

 現代社会は、それほどまでにブランクのある若者に冷たい社会ですから。

 そう認識しながらも、あえて私がコメントするとすれば、次のようになります。

 親御さんの、自分(たち)がいなくなったあとのお子さんの行く末へのご心配の内容は、大まかに言って次の三点ではないでしょうか。

 1. 親無しで社会参加できるようになるのか。
 2. 社会参加できるようになるまで、誰が経済的な面倒を見るのか。
 3. 社会参加できるようになったとして、就職口があるのか。

 しかし、よく考えると、これらはすべて社会の側の課題であることに気づきます。一点目は支援システムの充実、二点目は社会保障制度の運用、三点目は企業社会の柔軟性、という課題に行き着くのです。

 言い換えれば、ひきこもり青年に対するこれらの課題への取り組みが進めば進むほど、誰にとっても生きやすい社会になっていきます。その意味でも、ひきこもり青年だからということではなく、誰でも生きやすい社会を実現する一環として、ひきこもり青年に社会が対応することの重要性を、現代人は認識する必要があると私は考えています。

 「そうは言っても・・・」ということですよね。

 社会が進歩するまで何年かかるのか。それまでの間、わが子はどうなるのか。
 あるいは、社会保障のお世話になるような、みじめな人生を送ることになってしまうのか。
            
 親というのは「自分が生きている間に、わが子に一人前になってほしい」「わが子がまともに生きていけることを見届けるまでは死ねない」などとお考えになるものだと思います。

 この思いを私なりに翻訳させていただくなら「親が生きている間に結果を出してほしい」ということになるのではないでしょうか。

 「結果を出す」というのは無味乾燥な表現ですが、学校を卒業する、就職する、あるいはそこまで行かなくても、せめて他人の中に入っていけるようになる、外出できるようになる、・・・など“精一杯譲歩しながらの切なる願い”を指しています。

 ただ、そのことは、お子さん自身もよくわかっていると思います。

 前号でもお話したように、本人は常に「何かしなければ」と焦っていますし、その気持ちの背景には「親が健在なうちに」という要素も含まれていることが多いはずです。

 しかし、本人が計画的に「あと何年で結果を出す」と決められるものではありませんし、支援者が強制すれば実現するものでもありません。
 本人がいつ「結果を出す」かは、誰にも予想できない、極論すれば、“神のみぞ知る”というレベルの事柄です。

 ただし「親が生きている間に結果を出す」ことにこだわらなければ、現在の親御さんの対応によって、わが子の行く末に良い影響を与えることは可能です。

 それはどういう対応なのか。いささかロマンチックに過ぎるというそしりを覚悟の上で、私の考えを申し上げます。

 家庭のなかで、小さなことでもいいから喜びや楽しさを見つけて本人と笑い合う、そんな楽しい生活を、最後の最後までやり抜くことです。

 楽しい生活は「生きる喜び」という栄養になります。それはお子さんの心身にも蓄積され、将来ひとりになったとき、生きるエネルギーとして使われ始めるのです。

 私はこのことを、次のような“法則”として端的にまとめています。

 親亡きあと、本人が幸せに向かってしっかり生きていけるかどうかは、親子で生活していたときの本人の笑顔の数に比例する。

 現在のお子さんとの生活で、お子さんが笑顔をたくさん見せるほど、将来ひとりになったとき、前向きに生きる力がより多く蓄えられていくのです。


2006.08.02 [No.126]


このシリーズおよびこの文章に対する感想を紹介した次号を読む
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録(9)掲載のお知らせ

2012年12月19日 13時35分07秒 | メルマガ再録
 10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくもので、いよいよ残り2回となりました。


 第8回のきょうは、6年前の6月から6回シリーズでお送りした「親の気持ち・親の疑問」シリーズの第5回『私(たち)がいなくなったらどうなるのでしょう』を転載します。

 おとなのひきこもりは、その行く末を見通すことがなかなかできず、いつ終わるとも知れない困難な道のりです。それだけに、相談や親の会などの場で必ず出てくるのがこの言葉。
 それに対して筆者は、最初に「それまでの4回で取り上げた言葉には意見を返していた私も、これを言われると何を言っても気休めにしか聞こえないだろうという忸怩(じくじ)たる思いがあります」などという“おことわり”から語り始めます。

 まず「親御さんの、自分(たち)がいなくなったあとのお子さんの行く末へのご心配の内容」を挙げ、それらはすべて社会が取り組むべきことであることを明らかにします。

 次いで「そうは言っても」という親御さんの気持ちを考えたうえで、それに対する自分なりの答え(法則)を提示します。

 この「法則」は、読んだ親御さんや講座などで筆者から聴いた親御さんのなかから「感動した」というご感想が複数寄せられるなど、反響の大きかったくだりでしたが、
文中「いささかロマンチックに過ぎるというそしりを覚悟の上で」と筆者もことわって書いているように、ある意味では“問題作”とも呼べる1本でありましょう。

 ぜひご一読のうえ、コメント欄にご意見ご感想をご記入ください。

 このシリーズは、面接相談や親の会などの場で、わが子の不登校やひきこもりに直面した親御さんと話していて、印象的な言葉に考えさせられたり、親御さんの多くがおっしゃる言葉があることに気づいたりしてきた筆者が、そのような言葉のいくつかを取り上げ、それらに対する意見をお伝えするもので、10月24日本欄『子育てが間違っていました』に続く2度目の転載になります。


 では、このあと掲載します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする