どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

スティーブ・ジョブス死去

2011-10-06 13:55:02 | インポート
私の父は膵臓がんから肝臓がんになり、死んだ。
なので、ジョブスの病歴と重なって見える。
逆に膵臓がんだと解ってから、奇跡だなと感じていた。このがんは出来た場所によっても変わるみたいだが、手術後の5年生存率が極めて低いのだ。実は父の入院中に叔父の膵臓がんも見つかったのだが、老齢だった事と膵臓の端に出来ていたため簡単な手術で、3年は生きた。父の場合は膵臓の管近くにがんが出来ていたため、全摘で内蔵もかなり取り除いたものだった。その弱って回復していない二年後に肝臓がんが発見された。そこからはあっという間であった。
それに対してジョブスの回復ぶりは驚異的だった。この10年間の間に医療が進歩したのだ、と思いつつ医療費がどの程度だったのか。富豪だからで来た事なのだろうか?しかしそれは今時点での話しで、きっと10年後には膵臓がんでもジョブスのように活躍出来るようになってるのだろう。
その死に軽くショックはあるが、驚きは無かった。
スティーブ・ジョブスは天才だったのだろうか。これは常々考えてしまう。確かに天才だった。あのどうしようもないパソコンにデザインを導入した。グラフィック・ユーザー・インターフェースとマウスをゼロックスからパクって廉価なモデルに作り上げた。自身の作ったマッキントッシュをiMacに作り上げた。自身の作ったニュートンを、iPodとiPhonとiPadに作り上げた。そのの洗練させ方が独創的だったとも言える。
私はiPadが発表になった時、ニュートンが洗練されて帰ってきた!と本当に驚いたものだった。
実は最大の発明は、iTuneなのではないのかと思う。タダで配信するのではなく課金する事で業界への分配をし、ユーザーには廉価で配信し、海賊版の後ろめたさから解放する。インターフェースを徹底的に使いやすくして、ユーザーの囲い込みを計った。何が必要なのか、何が大切なのかを見極めていたと思う。
ジョブズの天才は、多分コンピューターを白物家電にした事だろう。その要素は創業時からあったが、追い出されてからその才能が花開いたのだろう。AppleⅡも直後に発売された表計算ソフトがあったからこそのヒットだし、マッキントッシュもアドビのプォトショップやイラストレーター、音楽ソフトがなければ出来の悪いコンピューターだった。
もしも長生き出来たらどうなるだろうか。高齢者福祉むけのイノベーションを起こしていたかもしれない。
なおアップルの最大の発明品は、ヴォズニアックのフロッピーディスク(今は関係ないとみんな考えているけど、セクターで分割するという所が重要で、ハードディスクにも応用されている)とデジタルカメラだと思う。特にデジタルカメラはコダックを追いつめるほどの発明品だ。


盛岡私的観光案内 旧国道4号線2

2011-10-06 02:31:03 | まち歩き
さて、今度は旧旧国道4号線を探りましょう。ついでに仙北町の通りを少し。


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まずはマツダのなんかの施設。倉庫として使っている模様。日産も古くからのディーラーがあったりして、この界隈が豊かだった事を伺わせます。


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看板がなんか写真を撮らせてしまいます。ロードサイドだと仏具屋も変わります。


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昆布の専門店です。北海道の釧路・昆布森の昆布を扱っています。料理屋に卸していたようです。久しぶりにちょっと買って行きましたが、品揃えが悪くなっていました。こういった店が町の歴史なのですが、どうなるのでしょうか。おばちゃんは相変わらず元気でしたが、足が悪くなっていました。


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さて明治橋を渡って、旧国道が昭和20年頃にどうなっていたのか悩みます。一番考えられるのは下の橋通りに入って、中の橋に近い通りに入る道です。旧名で言えば呉服町に向かう通りなのです。ただ今でも二車線ギリギリな部分があるので、どうなのかと思いました。そこで一本上の清水町の通りかな?と思い進みます。木津屋と言う古い店が角に来るので、ここかなと。この写真を左折します。


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清水町の通りはには昔すごいパン屋があった。ただその超本格的なパンは盛岡ではイマイチだった。カルトなファンが私も含めていたが、東京から来て10年営業して東京に帰ってしまった。やっぱり仏具屋の通りでは無理だったのかもしれない。下町の風情はいいのだが。


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清水町の通りから右折する。よくわからないのだが、ここから左側は道路が妙に細くなる。なので清水町の通りが4号かとも思うのだが、もう一本上にある通りも同じ幅なのでどちらが4号とは分からない。こうして通ると、やっぱり一番最初の予想だったのかもしれないと思う。この写真に十一屋という酒屋があるのだが、東京都青ケ島村で同じ屋号の十一屋(といちや)があったので何かつながりがあるのかとおもったりしたりして。



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この辺りから古い重厚な建物が目立つ。


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ここも道路拡張の計画があるのでしょうか。中途半端な建物の壊し方。


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通りが中の橋に近づくと、銀行が増える。左側の建物は元銀行。少し先に中央郵便局があった。奥にはチラっと盛岡信用金庫本店の建物がある。みずほ銀行も見える。



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中の橋たもとの旧岩手銀行本店。つまりこの辺りは旧盛岡のウォール街の様だったらしい。中津川から北は政治や学校、南は経済街だった、その名残のようです。



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中津川と中の橋、テレビ岩手本社ビル。テレビ岩手本社の地所には、風情のいい料亭があったそうです。


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城跡を左手に桜山の通りです。夕方の風情もいいものです。



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大通りは昔二車線の道路でした。なので旧4号といわれてもそうかもしれないと思えるのですが、今では考えられません。商店街再開発計画でパーキングがついたり、アーケードの天井が高くなったりしました。でも昔は一方通行の二車線が、再開発で1車線になり、チョイ止めても金を取るのかよ!といった具合で何か地盤沈下を自ら招いているような気がします。
左側が盛岡の野村証券のビル。映画館通りとの交差点で、人通りの多い所です。


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さて旧旧国道から、旧国道にぶつかります。おもえば昔この写真を撮っている位置の左側に、第一証券があったと思います。銀行が河南で、証券会社が大通りという構図もあるようです。
改めて旧国道4号線を歩いてみましたが、まあ恐ろしい道路です。ペーパードライバーの私にはムリ!な道です。とはいっても今のバイパス&南側の4号線もギリギリの輸送量なのではないのでしょうか。