どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

復興大臣・発言

2011-10-19 03:17:57 | インポート
なにか怨霊でもついているのだろうか。平野復興大臣の発言が、時事に出ていた。


http://www.jiji.co.jp/jc/eqa?g=eqa&k=2011101800749


東日本大震災で多くの犠牲者を出した津波被害に関し、「私の高校の同級生みたいに、逃げなかったばかなやつがいる」と述べた。津波の犠牲になった近しい人物を念頭に置いた発言とみられるが、犠牲者やその遺族への配慮を欠いた表現として批判を受ける可能性もある。



この時点で批判しているのだが、今後どうマスコミは盛り上がるのだろうか。
ただね。悲しみの表現っていろいろある。この文脈では「同級生で逃げなかった」という所に大きな意味があると思う。悲しくてしょうがないのだ。それがこの表現になっていると思う。
早速民主党本部から叱られているようだが、それはそれでもっともだ。個人の哀悼の念と大臣の立場は違うからだ。でも話しているうちに、ポロっと出てしまったのだろう。その悲しみが。
これが許されないようだったら、政治家は何を話せばいいのだろうか。フツーの人が、民主党の枝野さんもそうだが、自民党の石破さんのような人たちを好きになれるだろうか。(私は好きだ。)
この件で資質が問題として取り上げられる事を怖れている。この結果復興大臣がまた変わるのはもう嫌だからだ。病気になったから松本さんは問題が大きかったが、それはそれで本人の実績はマトモだった。鉢路元経済産業大臣も復興に関しては真摯な人だった。
そして平野復興大臣は岩手県だ。正直な所「ばかなやつ」は実感として解る。どうにかして生きていて欲しかった、これは当たり前の事ではないのか。やりきれなくてやりきれなくて、思い出したときに出てしまったのではないのか。
こんな言葉ばかりの揚げ足取りで、何かが変わっても現場は何も変わらない。
鉢路さんの件に関しても、マスコミが「死の街」と同じニュアンスの言葉を使っていなかったかどうか。かなり使っているんじゃないんですか。
正直な所、正しいというのがよくわからなくなっている。その中で正しいというのはどうゆうことなのか、どう客観視出来るのか、どう歴史的に位置づけられるのか、そして今正しいこととはなにか、それすらもよくわからなくなっている。
こういった状況のときに意見を集約して判断するために政治家がいる訳だが、ここしばらく機能不全になっている。
ほとんどが、言葉が原因だ。そしてその政治家の資質の問題も大きかった。だが今回に関して言えば、それでいいのかと思う。政策関与や実行進捗状況への批判であるべきだ。
この後に起きる事が予想出来る事が更に嫌だ。こうなると個人の資質の問題ではない。
私は震災以降頭がおかしくなっているので、横河選手の言葉が身にしみている。正しい言葉すら攻撃されているのだ。
だから逆に、今本当に考えなければいけないのは今間違っているかどうかだ。正しさの追求ではない。正しく間違う事もある。間違いが正しくなる事もある。正しさは今や相対的になっている。だから逆に間違いを考えるべきだ。
横河武蔵と新川選手の早期復活を望むのだが、これが本当に間違った例だと思う。
正しさや正義は魅力だ。だがこれだけでは辿り着きたい未来にならないだろう。