一の蔵邸が続きます。
安倍館でもこの近所に住んでいました。そのため近所をよく散策していたのですが、当時はこのあたり相当迷路でして、よくこの庭に出てしまったものです。
いまでも凄まじい荒れ方ですが、当時はこんなもんじゃなかった。もっとひどかった。
盛岡市がお金を出して一気に伐採したりして手を入れましたが、庭の復元にはほど遠く、開墾作業でした。現在では管理人が必至に手を入れてがんばっていますが、復元には至っていません。航空写真の左上に当時の庭が見えますがそれを見ただけでも今の状態のひどさが解ります。
実はこの庭、灯籠がとても少ないのが特徴です。この規模の庭園ではありえない事です。多分ですが、ここにあった茶室を学校に寄贈した時、石や灯籠もあわせて寄贈したのではないのかと考えています。
池が広大で3つの島があったようです。建設当時は水があったようです。裏側に小川があってそこから引き入れていたようです。ただ昭和23年の航空写真を見ても、水の量が少ないようです。なのでかなり前から水を張るのを止めていたようです。水漏れが多かったのでしょう。水利権の維持も大変だったでしょう。
多分ですが、この庭は60年以上手が入っていなかったのではないのかと思います。そのうち庭石や灯籠が散逸したのではないのかと思うのですが、どうでしょうか。回遊式庭園なのに、飛び石がほとんどないのは不思議な事です。家がこうして数寄屋なのに庭とのギャップが大きすぎます。もしかすると庭を完成させられなかった何かがあるのでしょうか。
扁額がとてもいいです。
しかし公開されてから20年経ちましたが、私が住んでいた時の感想では本当にもったいない建物でした。18歳から見てもすごい建物だったのですが、とにかく荒れ放題でした。お化け屋敷となっていました。それをよくここまで持ってきたと、管理人の努力に脱帽です。
茶室が移転したので井戸のみがその名残を残しています。茶室の位置は特定されていませんが、もしかするとここから30メートルほど奥だったようです。
3の島と2の島が見えます。昔は安倍館の遺跡と何か関係があるんじゃないかと思ったくらい、深い池です。
台所裏の井戸。物置も近くにあります。そういえば友人が昔あの物置に住んでいたと言っていた。とすれば使用人の家だったのかも。とにかく残っています。
風呂場を外側から見ます。屋根が気が利いた感じです。
門前です。今は広い駐車場があります。昔はここからにして鬼気迫るものがありました。今ではなかなかのスポットです。なお邸内では抹茶が飲めます。
さて安倍館の遺跡に向かいます。昔はこんな家が多かったのですが、新築の家が増えています。なにしろここはスーパーがちょっと遠いだけで、とても便利なとこです。あの湿気さえ無ければ最高の場所です。
安倍館の遺跡です。中世の城郭です。堀がかなりよく残っています。で面白いのはその城郭跡が住宅地な事。かなり昔からそのようです。
バス停と白石パンの建物。もしかすると工場だったかもしれません。
城趾本丸に向かいます。
安倍館八幡神社があります。
東側は北上川で、崖になっています。20メートルはありそうです。そして堀がとても深い。
神社の脇には公園があります。使われている気配がない。
立派な解説があります。
本丸の右となりに行きます。
堀の北上川向き。
道路の方です。
ここが3.11で崖崩れしたあたり。忠魂碑と安倍館神社があります。この城跡ですが、連郭式という横並びの作りです。こんなんでどうするんだと思われるでしょうが、中世の千人単位での戦闘だったらこんなものでしょう。
古い家から新築まで混在しています。
城跡の北端です。家の土台が気になります。
その北端で、なんで庭石がここにあるんだと不思議に思う。
中世の堀がはっきり残っているのは珍しいようです。
先ほどの一の蔵邸を作った阿部氏の墓所のようです。
安倍館の北端はこんな感じの坂になっています。
さて前九年に向かいます。とはいっても前九年のうち安倍館の遺跡に関わる部分です。この道から考えても、城趾のすぐ前も崖に近い所だったようです。
この辺りは農家が多かったようです。お屋敷もあります。
謎の駐車場。コレクションでしょうか。
ずっと下がってゆきますと小川があります。
もう少し行くと、もう一本あります。あの城趾ですが、ポコっと高い所にあって、正面に沢があったようです。緩い谷があったと思います。敵を発見しやすく、侵入が難しい場所なのが解ります。実は城趾としてはかなり広くて、ここから500メートル先の天昌寺までがおよその城趾です。
上ってゆくと、前九年の通りに出ます。実は安倍館と結ぶ道が一本しか無いのです。ここが住むには安倍館の欠点です。まあ旧4号が前なので問題は無いのですが。
農家ですね。
ここにも残ってます。
コルビジェ風のアパート。ウエットに見えるのは土地柄のせい。なんか流行っていたみたいで、何件かこんな感じのアパートを見かけます。
自然に帰ってゆく車。なんなんでしょうか。実は史跡なのですがここは。
その脇に、塚があります。敵見ガ森というのだそうです。前九年の役のころにはあったようですが、安倍館の遺跡とも関係しているのは確かでしょう。なぜか地名は狐が森だったと思います。
天文台のある新聞屋さんと、奥にはお菓子屋さんの工場。実は宮沢賢治で有名な、盛岡の光源社は初めはこの辺りにあったそうです。
脇に入ります。また農家発見。
コンクリートブロックむき出しの家。かっこいいです。
やはりとても便利な場所なので新築の家が多いです。でも空き地もあります。ネコジャラシがきれいです。
またしてもミニ公園発見。いったいどうなってるんでしょうか。そういえば仙北町で幅2間奥行き5間程度の売り地があったなー。通りに面していたけど不可解な物件だった。ああいった土地がこういった公園になるのでしょうか。
さてぐるっと回って戻ってきました。次は前九年と天昌寺と大館町か。エリアが広すぎるな~。でもこの広いエリアでないと、安倍館城趾と前九年の役の廚川の柵が説明出来ない。
自分でも思うが、この企画長過ぎると考えているのにどうしよう。今回だって長すぎると思って、ちょっと説明のための写真を落っことしているし。まあおいおい考えてゆきます。
安倍館でもこの近所に住んでいました。そのため近所をよく散策していたのですが、当時はこのあたり相当迷路でして、よくこの庭に出てしまったものです。
いまでも凄まじい荒れ方ですが、当時はこんなもんじゃなかった。もっとひどかった。
盛岡市がお金を出して一気に伐採したりして手を入れましたが、庭の復元にはほど遠く、開墾作業でした。現在では管理人が必至に手を入れてがんばっていますが、復元には至っていません。航空写真の左上に当時の庭が見えますがそれを見ただけでも今の状態のひどさが解ります。
実はこの庭、灯籠がとても少ないのが特徴です。この規模の庭園ではありえない事です。多分ですが、ここにあった茶室を学校に寄贈した時、石や灯籠もあわせて寄贈したのではないのかと考えています。
池が広大で3つの島があったようです。建設当時は水があったようです。裏側に小川があってそこから引き入れていたようです。ただ昭和23年の航空写真を見ても、水の量が少ないようです。なのでかなり前から水を張るのを止めていたようです。水漏れが多かったのでしょう。水利権の維持も大変だったでしょう。
多分ですが、この庭は60年以上手が入っていなかったのではないのかと思います。そのうち庭石や灯籠が散逸したのではないのかと思うのですが、どうでしょうか。回遊式庭園なのに、飛び石がほとんどないのは不思議な事です。家がこうして数寄屋なのに庭とのギャップが大きすぎます。もしかすると庭を完成させられなかった何かがあるのでしょうか。
扁額がとてもいいです。
しかし公開されてから20年経ちましたが、私が住んでいた時の感想では本当にもったいない建物でした。18歳から見てもすごい建物だったのですが、とにかく荒れ放題でした。お化け屋敷となっていました。それをよくここまで持ってきたと、管理人の努力に脱帽です。
茶室が移転したので井戸のみがその名残を残しています。茶室の位置は特定されていませんが、もしかするとここから30メートルほど奥だったようです。
3の島と2の島が見えます。昔は安倍館の遺跡と何か関係があるんじゃないかと思ったくらい、深い池です。
台所裏の井戸。物置も近くにあります。そういえば友人が昔あの物置に住んでいたと言っていた。とすれば使用人の家だったのかも。とにかく残っています。
風呂場を外側から見ます。屋根が気が利いた感じです。
門前です。今は広い駐車場があります。昔はここからにして鬼気迫るものがありました。今ではなかなかのスポットです。なお邸内では抹茶が飲めます。
さて安倍館の遺跡に向かいます。昔はこんな家が多かったのですが、新築の家が増えています。なにしろここはスーパーがちょっと遠いだけで、とても便利なとこです。あの湿気さえ無ければ最高の場所です。
安倍館の遺跡です。中世の城郭です。堀がかなりよく残っています。で面白いのはその城郭跡が住宅地な事。かなり昔からそのようです。
バス停と白石パンの建物。もしかすると工場だったかもしれません。
城趾本丸に向かいます。
安倍館八幡神社があります。
東側は北上川で、崖になっています。20メートルはありそうです。そして堀がとても深い。
神社の脇には公園があります。使われている気配がない。
立派な解説があります。
本丸の右となりに行きます。
堀の北上川向き。
道路の方です。
ここが3.11で崖崩れしたあたり。忠魂碑と安倍館神社があります。この城跡ですが、連郭式という横並びの作りです。こんなんでどうするんだと思われるでしょうが、中世の千人単位での戦闘だったらこんなものでしょう。
古い家から新築まで混在しています。
城跡の北端です。家の土台が気になります。
その北端で、なんで庭石がここにあるんだと不思議に思う。
中世の堀がはっきり残っているのは珍しいようです。
先ほどの一の蔵邸を作った阿部氏の墓所のようです。
安倍館の北端はこんな感じの坂になっています。
さて前九年に向かいます。とはいっても前九年のうち安倍館の遺跡に関わる部分です。この道から考えても、城趾のすぐ前も崖に近い所だったようです。
この辺りは農家が多かったようです。お屋敷もあります。
謎の駐車場。コレクションでしょうか。
ずっと下がってゆきますと小川があります。
もう少し行くと、もう一本あります。あの城趾ですが、ポコっと高い所にあって、正面に沢があったようです。緩い谷があったと思います。敵を発見しやすく、侵入が難しい場所なのが解ります。実は城趾としてはかなり広くて、ここから500メートル先の天昌寺までがおよその城趾です。
上ってゆくと、前九年の通りに出ます。実は安倍館と結ぶ道が一本しか無いのです。ここが住むには安倍館の欠点です。まあ旧4号が前なので問題は無いのですが。
農家ですね。
ここにも残ってます。
コルビジェ風のアパート。ウエットに見えるのは土地柄のせい。なんか流行っていたみたいで、何件かこんな感じのアパートを見かけます。
自然に帰ってゆく車。なんなんでしょうか。実は史跡なのですがここは。
その脇に、塚があります。敵見ガ森というのだそうです。前九年の役のころにはあったようですが、安倍館の遺跡とも関係しているのは確かでしょう。なぜか地名は狐が森だったと思います。
天文台のある新聞屋さんと、奥にはお菓子屋さんの工場。実は宮沢賢治で有名な、盛岡の光源社は初めはこの辺りにあったそうです。
脇に入ります。また農家発見。
コンクリートブロックむき出しの家。かっこいいです。
やはりとても便利な場所なので新築の家が多いです。でも空き地もあります。ネコジャラシがきれいです。
またしてもミニ公園発見。いったいどうなってるんでしょうか。そういえば仙北町で幅2間奥行き5間程度の売り地があったなー。通りに面していたけど不可解な物件だった。ああいった土地がこういった公園になるのでしょうか。
さてぐるっと回って戻ってきました。次は前九年と天昌寺と大館町か。エリアが広すぎるな~。でもこの広いエリアでないと、安倍館城趾と前九年の役の廚川の柵が説明出来ない。
自分でも思うが、この企画長過ぎると考えているのにどうしよう。今回だって長すぎると思って、ちょっと説明のための写真を落っことしているし。まあおいおい考えてゆきます。