どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

盛岡市的観光案内・下の橋通り5

2012-09-09 22:38:31 | まち歩き
Dsc_5784


さて鉈屋町に戻って、大慈寺町に行きます。実はすぐ隣です。まずは観光ポスターにもなった通りです。



Dsc_5786


大慈寺町にも青龍水という清水があります。昔は湧き水だったようですが、それは枯れて井戸からのくみ上げで流れています。実は前に話した魚屋のウラがこの青龍水です。さかなやにとって作業用の水は必要です。ただその経費が馬鹿になりません。商売と立地条件の例であります。ただ枯れてから、何か一時期途絶えていたような気がします。
大慈寺清水も青龍水も組合で維持管理しています。実はこちらの方がすごい事かもしれません。


Dsc_5788


さて大慈寺に行きます。ここは禅の黄檗宗の寺です。中国風の山門が特徴です。



Dsc_5789


原敬の墓がここにあります。なんというか昭和史の著名人が並ぶ地方都市と言うのはそうそうないと思います。
原敬の遺言で、東京で葬儀を行わず盛岡の大慈寺で行えと言うのがあります。それでここの墓があるのですが、郷土愛と言うより凄まじい反骨と個人を感じます。誰かに利用されるのを嫌ったのでは?そして墓碑も個人名を選びます。敷地はさすがに大きいのですが、質素な墓です。
今の時代の方が個人が確立されていますが、あの時代の個人と言うのを考えれば、なにかフニャフニャしたものを感じます。でもそれは当時の方が、個人を確立させるための努力が凄まじくあった結果なのかなと思います。



Dsc_5790


さて近くに十六羅漢があります。ここには宗龍寺のあとのようです。十六羅漢と五智如来がおかれています。飢饉の死者を慰める為に作られました。とにかく大きな石仏群です。完成したのが1849年で比較的新しいものです。
なお私の理解の範囲ですが、羅漢はカソリックでは修行して真理に近づいた聖者でしょうか。如来は天使になるのでしょうか。

Dsc_5792


石仏の良さと言うのはあります。細かい加工が難しい故の造形が、その時そのときで様々な表情を作ります。
いい公園なのですが、今回は何か殺伐としていました。草刈りが甘いとか思っていたのですが、子供がいません。何かなと思ったら、東屋にいた老人のグループから羅漢近くに立ちションをはじめたのです。
公衆トイレ完備ですが、この公園。急変だったのだろうと思っていたのですが、彼らは酒を飲んで盛り上がっていたのです。子供がいない訳だ。
でも何が起きたのだろうか。高齢化社会なのは間違いないのだが。


Dsc_5793


この辺りもスカスカになってきました。


Dsc_5794


せっかくなので馬検場に向かいます。途中にある熱帯魚屋さんです。盛岡水族館と言う名前がすごいです。


Dsc_5796


馬検場周辺は建築会館とか畜産会館とかの大きなビルが目立ちます。この界隈では目立つ一角です。これは多分馬検場の敷地がまとまって使いやすかったから、なのでしょうか。



Dsc_5797


当時の敷地面積や、一日あたりの売買される頭数は解りませんがかなりのものだったのではないのでしょうか
ちゃぐちゃぐうまっこの時にも書きましたが、南部藩では馬の等級付けを厳密に管理していたそうなのですが、藩は参勤交代の時に幕府から特例で100頭の馬の持ち込みを許していたそうです。毎年最高の馬を出すための管理だったようです。



Dsc_5798


馬検場の近くには用水があります。これは八幡神社の掘りの名残でしょう。古地図にもあります。


Dsc_5799


松尾町なのですが、この辺りも駐車場が目立って来ています。



Dsc_5800


さてお寺の脇には必ず小道があるものです。


Dsc_5801


するとやっぱり長屋があります。


Dsc_5803


南大通りに出てきました。日本の車の生産台数から行けば、駐車場が増えるのも止む無しなのでしょうか。



Dsc_5804


お寺の山門とラブホテルが一緒に見えます。セックスは小さな死とも言いますから、隣り合っているのは必然なのかもしれません。



Dsc_5805


ぐるっと回ってまちの変化が大きくて戸惑うのが、この河南地区です。昔は古い家も活用した方がいいと思っていましたが、最近では建築基準法の問題もあって活用できない場合が多すぎる。なので逆にこうして空き地が増えた方がまちの可能性が増えてゆくのかなとも思います。
ただそうしてのんびり構えると、いつまでたっても土地がまとまらない訳です。そうして寂れっぱなしの町が出来るのも問題です。
変化をどううけ止めるのか。難しい所です。ただ今の所いい材料は全くないのは確かです。


盛岡市的観光案内・下の橋通り4

2012-09-09 18:52:30 | まち歩き
Dsc_5778


この家なのですが20年前から見ていますが、花の飾り方がうまいです。微妙に花を切り替えていたりします。こういった所が下町の楽しさです。


Dsc_5780


実はこの企画ですが、清水巡りとしたかったのですが環境の激変でこの通りにある、盛岡で最も有名なわき水をなんと見落としてしまったのです。
大慈寺清水です。
盛岡市にはいくつかの湧き水があったのですが、ほとんど消えてしまって今残っているのが大慈寺清水です。とはいっても大慈寺清水についてどうなのかと言えば、よくわからない。
以前紹介した御田屋清水なのだが、これは枯れてしまって、残すために水道水を流していた。しかし隣に大きな建物が出来て、そこから水源が見つかったのだが保健所の検査でNGが出てしまった。そこから先曖昧になったままなのだがどうなのだろうか。
大慈寺清水だが、大慈寺の境内にあった湧き水を引いて来たもの。そうゆうことである。




Dsc_5779


この暑さで、至る所で井戸が涸れているのだがここでは十分に水がある。湧き水かどうかはともかくとして、やはり名水である。



Dsc_5781


鉈屋町はメインストーリよりウラが面白い。



Dsc_5782


倉が建ち並びます。先の麹屋の裏ですね。かなりきれいになりました。



Dsc_5783


さて惣門通りに戻りました。


盛岡市的観光案内・下の橋通り3

2012-09-09 18:21:53 | まち歩き
Dsc_5766


通りに戻ってきました。左の大きな商店は魚屋、右は酒屋でもありますが麹屋です。魚屋はあとで出てきます。麹屋もあとで出てきます。


Dsc_5767


町家で売り出し中なので、イロイロと飾っています。ただ町家と言ってもいろいろあります。軒が低いの高いの、です。高い方がお金がかかっていると言う事です。


Dsc_5768


鉈屋町と言う名前の通りに、農鍛冶屋があります。



Dsc_5769


倒産した酒蔵の岩手川の敷地です。半分は消防団の建物が建っています。問題は後ろの酒蔵群でしょうか。これはどうなるのでしょうか。
奥は昔の市民病院のあったところでスーパーになっています。
実際鉈屋町は今現在かなり変わって来ています。昔の風景を思い出す鍵は今でもいくらでもあるのですが、実は混乱しています。



Dsc_5770_2



八幡のお祭りの出しが準備されています。ただちょっと今この状態?と言う疑問があります。




Dsc_5771


神子田町に入るといきなり町並みが変わります。実はこの場所ですが北上川と梁川の合流点に近い場所です。なのでどうしても氾濫しやすい場所だったので、土手が出来るまで発展していない場所だったのです。
鉈屋町が江戸時代からの流れを次いでいるとすれば、神子田町はそれがないのです。


Dsc_5772


下の橋の通りは、ここで北上川の土手の上にある道路と合流します。本来は遠野街道なのでしょう。しかしこの辺りの景色の変わりっぷりに驚きます。



P9259981


これも03あたりでしょうか。このインパクトのある看板の酒屋が無くなりました。
実はこの通りも道路拡張計画があったのですが、最近凍結されたようです。



Dsc_5773


ここからバイパスに入って、自動車整備工場の脇から神子田の朝市に向かいます。とはいえ自動車整備工場、事故車も一杯あります。ちょっと気になった一台です。



Dsc_5774


神子田の朝市です。昼にいっても誰もいないのは当たり前です。実は狙っています。
市の写真ですが、何も買わずに写真を撮って帰る人間と言うのは、いるだけで迷惑で、存在してはいけないものです。それでは買い物を少しして写真を撮ると言うのも彼らは嫌います。まあこれは当たり前です。
実はこの市ですが、闇市の名残です。駅前に出来て桜山に出来て、これらをまとめて市が移転したのが神子田の朝市です。


Dsc_5776


この朝市なのですが、私は否定的です。もう戦後は過ぎたのだから、市の土地を使っての事業は終わらせるべきだと思います。一応産直なのですが、もう60年経って業者となっています。他産地の産品も平気で並びます。市価の3割安いと言いますが、デパートと比べて3割であって決して安くはありません。
漬け物の大量購入シーズンになれば確かに安くなりますが、近所の八百屋と比べてどうなのかと言うのが現在です。
ただ、もの凄くノスタルジックです。戦後の闇市に近い何かを感じれると思います。ラーメン屋もコーヒーショップもあります。楽しめます。これは間違いが無い。


Dsc_5777


さて鉈屋町に戻りましょう。


盛岡市的観光案内・下の橋通り2

2012-09-09 16:52:35 | まち歩き
Dsc_5757


下の橋通りと言う名称は無いのだが、ちょっとエリアが長いのでこうなっている。下の橋町のあたりだ。ここでは2車線の道路を1車線にして両脇に自転車道を作る社会実験が行われている。
この辺りの商店の閉めているのが目立つ。道路拡張計画でもあるのだろうか。


Dsc_5756


「武士道」の新渡戸稲造の生家が下の橋のそばにあったらしい。公園になっている。長年住んで初めて立ち寄った。
実は新渡戸はクエーカー教徒だった。なのでその倫理観の厳しさがあると思う。「武士道」にはクエーカーとして武士道を読み替えたものとも言える。人を殺す倫理、クエーカーにはかなりの難題だと思う。教義違反だ。ただこの作業を通じて西洋倫理と同じくらいの東洋の倫理があると言う事を示したかったのではないのかと思う。成功して世界的に売れている。
ただこの本をムスリムが読む場合、やっぱり注意してもらいたいものだ。
なおこの辺りは武家街があった。


Dsc_5759


さて清水町まで来ると、4車線の計画のあとが見える。まあ40年以上は止まっているのでしょう。ただこの感じからは最近動き始めているのではないのでしょうか。


Dsc_5760


さて本来はこのまま惣門通りに向かうのが素直な道筋ですが、木津屋の方から入ります。盛岡の豪商でまだ健在の商店です。文房具やオフィス家具・味噌とか扱っています。


Dsc_5761


この鉈屋町3丁目ですが、かつてはかなりにぎわっていたのではないかと思われます。この辺りだけなのですが、町家の作りが大きいのです。軒が高く、2階が完全に分離している作りが多いのです。逆に豪商なのに天井と2階の間がとっても狭い、木津屋さんの作りに意図的なものを感じます。


Dsc_5762


こういった古い看板が好きな人にはたまらない一角なのですが、最近どんどん減って来ています。今回ネタにあの看板どうなったかと探したのですがかなり無くなっていました。


Dsc_5763


これは円光寺です。米内光政の墓があります。岩手県の政治家は大別すると二通りいます。米内光政タイプと後藤新平タイプです。前者は無口で派手嫌い、根回し得意です。後者は理論と手法が明快ですが、自分の派閥を作るのが、実は苦手です。
両者の共通した特徴は、演説が苦手です。時間をかけるのは得意です。
米内光政は、今の時代をどう考えているのでしょうか。


Dsc_5764


惣門通りに入って、その看板をイロイロ探したのですが見つかりません。この辺りも新築ラッシュが起きています。
街は本当に動いています。





Dsc_5765


さてこの辺りは、町家ブームです。町家で観光客を呼ぼうと言うことで、町家を使ったカフェとかが出来はじめています。また改装する際には町屋風になったりしています。
さてなんて言う事の無い古い酒屋です。


Dsc_5765_2


画像をいじってみますと、カウンターが現れてきました。これは酒が量り売りだった時代の名残です。酒を売っている場でのむという名残です。通称「もっきり」ですね。
本来は飲食店になるのですが、酒とつまみを店で買って勝手に座って飲み食いする、と言う前提があるので保健所的には目の敵にされているものです。これが大きな市で残っていると言うのが、盛岡的です。
これも観光に使えないのかと模索されていますが、まず無理でしょう。入って酒買って、椅子に座った瞬間ものすごい緊張が空間に走るんですよ。常連さんと。これは多分男一人だからだと思います。逆に女の子交えて10人ほどで押し掛けるとウエルカムになるのが不思議な所です。女の子は大事かと思います。
とはいってもはまる人ははまります。チャレンジする価値はあると思います。






サファリで落っこちる件

2012-09-09 03:12:35 | インポート
20120909_12705


なぜかここに飛ぶのだ。実はネットの画面を2枚開いている状況で起きやすいように思える。これもグーグルマップだ。ウイキでも起きた。
なんだろう。そもそも書き込み画面にいるのに、つまり認証済みなのに、これが出てくる。それがおかしい。
これは今まで無かった事だ。認証がウザイことはあった。だが一旦認証されればこういったページデーターが消えると言う事は全くなかった。あったのは、間違って自分で切ってしまったというものだ。
まじめに考えると、マックだからとかサファリだからではないと思う。
このページ、OCNからのリクエストが無いと出てこないと思うよ。もちろんウイルスバスターの悪戯も考えられるけど。

あとトップページで、ひげ剃りのブラウンのコマーシャルなのだが、ムービーが終わらないとページが切り替わらないのがウザイ。これはアライグマ組んで解決。でもいやだ。