
さて鉈屋町に戻って、大慈寺町に行きます。実はすぐ隣です。まずは観光ポスターにもなった通りです。

大慈寺町にも青龍水という清水があります。昔は湧き水だったようですが、それは枯れて井戸からのくみ上げで流れています。実は前に話した魚屋のウラがこの青龍水です。さかなやにとって作業用の水は必要です。ただその経費が馬鹿になりません。商売と立地条件の例であります。ただ枯れてから、何か一時期途絶えていたような気がします。
大慈寺清水も青龍水も組合で維持管理しています。実はこちらの方がすごい事かもしれません。

さて大慈寺に行きます。ここは禅の黄檗宗の寺です。中国風の山門が特徴です。

原敬の墓がここにあります。なんというか昭和史の著名人が並ぶ地方都市と言うのはそうそうないと思います。
原敬の遺言で、東京で葬儀を行わず盛岡の大慈寺で行えと言うのがあります。それでここの墓があるのですが、郷土愛と言うより凄まじい反骨と個人を感じます。誰かに利用されるのを嫌ったのでは?そして墓碑も個人名を選びます。敷地はさすがに大きいのですが、質素な墓です。
今の時代の方が個人が確立されていますが、あの時代の個人と言うのを考えれば、なにかフニャフニャしたものを感じます。でもそれは当時の方が、個人を確立させるための努力が凄まじくあった結果なのかなと思います。

さて近くに十六羅漢があります。ここには宗龍寺のあとのようです。十六羅漢と五智如来がおかれています。飢饉の死者を慰める為に作られました。とにかく大きな石仏群です。完成したのが1849年で比較的新しいものです。
なお私の理解の範囲ですが、羅漢はカソリックでは修行して真理に近づいた聖者でしょうか。如来は天使になるのでしょうか。

石仏の良さと言うのはあります。細かい加工が難しい故の造形が、その時そのときで様々な表情を作ります。
いい公園なのですが、今回は何か殺伐としていました。草刈りが甘いとか思っていたのですが、子供がいません。何かなと思ったら、東屋にいた老人のグループから羅漢近くに立ちションをはじめたのです。
公衆トイレ完備ですが、この公園。急変だったのだろうと思っていたのですが、彼らは酒を飲んで盛り上がっていたのです。子供がいない訳だ。
でも何が起きたのだろうか。高齢化社会なのは間違いないのだが。

この辺りもスカスカになってきました。

せっかくなので馬検場に向かいます。途中にある熱帯魚屋さんです。盛岡水族館と言う名前がすごいです。

馬検場周辺は建築会館とか畜産会館とかの大きなビルが目立ちます。この界隈では目立つ一角です。これは多分馬検場の敷地がまとまって使いやすかったから、なのでしょうか。

当時の敷地面積や、一日あたりの売買される頭数は解りませんがかなりのものだったのではないのでしょうか
ちゃぐちゃぐうまっこの時にも書きましたが、南部藩では馬の等級付けを厳密に管理していたそうなのですが、藩は参勤交代の時に幕府から特例で100頭の馬の持ち込みを許していたそうです。毎年最高の馬を出すための管理だったようです。

馬検場の近くには用水があります。これは八幡神社の掘りの名残でしょう。古地図にもあります。

松尾町なのですが、この辺りも駐車場が目立って来ています。

さてお寺の脇には必ず小道があるものです。

するとやっぱり長屋があります。

南大通りに出てきました。日本の車の生産台数から行けば、駐車場が増えるのも止む無しなのでしょうか。

お寺の山門とラブホテルが一緒に見えます。セックスは小さな死とも言いますから、隣り合っているのは必然なのかもしれません。

ぐるっと回ってまちの変化が大きくて戸惑うのが、この河南地区です。昔は古い家も活用した方がいいと思っていましたが、最近では建築基準法の問題もあって活用できない場合が多すぎる。なので逆にこうして空き地が増えた方がまちの可能性が増えてゆくのかなとも思います。
ただそうしてのんびり構えると、いつまでたっても土地がまとまらない訳です。そうして寂れっぱなしの町が出来るのも問題です。
変化をどううけ止めるのか。難しい所です。ただ今の所いい材料は全くないのは確かです。