どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

いまこそ民主党をほめたたえよう

2012-09-22 12:40:59 | インポート
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現在の民主党政権だが、どうしようもないと言う評判ばかりだ。しかしそれは本当なのだろうか?この近年の重大問題のうち、そのほとんどが自民党の責任だ。原発が最たるものだ。総理大臣までやった中曽根がはじめた案件で、それをグズグズに育てて来たのは自民党だった。八ン場ダムの件もそうだ。40年これを引きずったのは自民党だろう!尖閣諸島問題では、自民党が政権交替の際に、密約を教えなかったという説がある。いや政権引き継ぎを一切していないフシがある。
もちろんこれは自民党は言い訳をしていないが、察する事は出来る。つまり国会でこんだけ話し合って来たのだからそういったウラぐらいは解っているだろう。解っているから野党だったんだろう。
だがこれは全く違う。もしも今でも社会党があればそうかもしれない。しかし自民党の言う、烏合の衆の民主党が政権を取った限りは、どこかでサポートしてゆかないと行けない場合がある。それをほとんど無視した訳だ。
もしも民主党政権の失敗を考えていたとすれば、現在の状況を引き起こしたのは自民党と言う事になる。

さて民主党がどうしてこうなったのかと言うのはさておき、マニュフェストに書かれた事はほとんど絵空事だと私は感じていたので、それはそれでいい。ただ一つだけ民主党をほめたたえなければ行けない事がある。
「あたらしい公共」、と言う概念だ。これを実現しようとしたが出来なかったと言う話しだ。
「あたらしい公共」という概念は、実は政府の関与をきめ細かくしながら事務的な作業を簡素化し、スピードのある行政に変えると言うものだ。ここで更に重要なのは「公共」なのだ。公共と言えば、日本では施設とか公園になるのだがその維持運営管理をどうするのかが、今後の問題になっている。これをNPOに委託するなど制度は広がっているが、もう少し市民の自発的な力で出来ないのか。その自発的な努力を出すシステムが作れる、というのが「あたらしい公共」だ。
ただ日本では難しいのは初めっから解っている。なぜかと言えば公共の概念が都市社会の概念だからだ。例えば農村の共有地は、共有地を保持する組合があって成立する。誰にでも開かれている訳ではない。河川の漁業権もそうだ。権利を売る事で成立している。彼らにとっては公共だが、都市市民的な公共ではない。
そして都市市民の公共なのだが、これは行政が管理するものであって、市民が守るのはマナーと言う風に捉えられている。しかし行政が管理していてもそれが市民にとって利用しやすいかどうか。不満がある例が多いと思う。

こういった事は自民党政権末期でもかなり進んで来た。だがシステムとして理解されていないし、解られてもいない。なぜかと言えば二つある。まず日本の公共は誰のものか不明だった。本来市民のものだ。だが管理者である行政が力を持ちすぎているのではないのか。次がこの全く逆なのだが、公共を維持する個人が弱くなりすぎたのだ。
階層化社会の問題だ。これがポジティブに動くならいい。しかしネガティブに動いた場合、治安の問題など起きる可能性がある。現時点でもネット右翼の問題など、中国の反日運動とどこが違うのという動きもある。
政府としては、今までの政府主導の公共から、「あたらしい公共」という概念で変えたいと考えていた。この基本は情報公開による市民への意識改革だ。民主党になってからかなり公開されているものが増えている。これは間違いが無い。あとで言うが、残念ながら失敗している。
民主党の言う「あたらしい公共」の眼目だった、「こども手当」こそが「あたらしい公共」の意味を実現していた。このこども手当の意味が分かっている人はかなり少ない。扶養者控除を無くするのが目的だ。
税制をシンプルにする。しかも理論上単純化する。これは歴史的に見ても当たり前の話しだ。誰もが解りやすい税であれば誰でも払う。そしてその税がどう使われたか納得できればいいのだ。しかし控除と言うのは、公正ではない。子供がいるから控除されるのか?という考えはある。
税制上からは、ありとあらゆる例外規定が無いのが望ましい。例外規定には利権が発生しやすく、汚職等を生み出しかねない(日本ではほとんどないと思うが、まあ他国ではどうなのか)。その意味で控除の形式は複雑になりやすい。
払った税金から還付する方が、控除より事務的に簡単だ。経費も安くなる。
しかし「こども手当」に対しての反応が余りにもおかしかった。税金から控除されるより、少し大きなお金が入るだけだった。実はプラマイゼロだ。控除全廃だ。
それをバラマキといい募ったマスコミがいた。確かに小沢一郎が上乗せした分はバラマキだ。だが根本的な所が誰もが解っていない。自由のどこが悪い。控除の時には使い方に制限があったが、この場合無い。
それが不評を買ったのだが、こども手当はバラマキなのに経済活性化に繋がらないと言ったバカがいた。ケインズ的な経済活性化のための議論とは全く異質なのにそういった事を言うのは、すりかえだ。パチンコですってしまう母親がいる、これはもっとおかしい。控除だったのが現金給付になるだけだ。パチンコですってしまう母親をどうするのかが問題であって、控除されていた金が控除されなくなり、現金で給付されるだけだ。プラマイゼロなのだ。
個人で判断する、もしくは家族で判断するのが「あたらしい公共」の眼目なのだ。

とはいっても、「公共」とはなにかという概念が無いと「あたらしい公共」の概念も実際よく解らない。例えば「公共」といってパっと思いつくのは公園だろう。ところが公園は最近まで子供の遊び場と考えられていた。なので私がまち歩きで言う所の、プチ公園などが出現する。幼児向けとか小学生向けなどの区分がある。しかし最近では高齢者向けの公園があったりする。これは逆に子供のボール遊び禁止の場所だ。
公共のための公園なのに、特定目的の公園であると言う不具合があったりする。
これは公共の施設として、公園はどうあるべきなのかと言う概念が無い事を示している。
この公園の概念なのだが、これは近代的概念だ。まず都市にしか存在しない。その都市には広場があった。それで十分な時代が長く続いていた。しかし、市民革命が起きた頃から領主の庭を公園として使うと言う考え方が生まれた。公共財なのだ。人間らしい生活を送るために、かといって自分だけでは維持できないから、皆で使おうと言う考えがある。そのために税金を納めると言うのはよくわかる。そしてそれが一部民営化されていたとしても、例えばトイレとかだが、必要なものだから誰も不思議に思わない。これがヨーロッパの公園だろう。


公共と言う概念が日本にあるとすれば、隣近所だ。獲得した権利ではない。市民一帯と言う概念もかなり難しい。更に国全体での公共のあり方とかとなれば、解っている人は相当少ないだろう。

「あたらしい公共」の概念なのだが、実は以外とイギリスのサッチャー政権以降のイギリスの改革が最も有名だ。例えばサッチャー首相が、ブリティッシュ・テレコムを民営化した際、国民総株主化を目指して意図的に販売価格を下げて発売した。誰でも買える価格にしたのだ。小学生が貯金で買えるレベルで。ここからはじまっている。
これは当時日本では、金融大国イギリスならではの教育と言っていた。だが本質はイギリスの豊かさを実感させると同時に、国民にチャンスがあると言った政策だった。国政と国民を近づける意図があった。
ここからはじまる政策が「あたらしい公共」の基礎になっている。
なお小沢一郎がこだわっているポイントも間違いなく、このイギリスの取り組みだのだ。イギリスの階層社会で成功している例なら、日本で応用できると考えていたのだろう。


公共事業の仕分けと言うのも、実は当たり前になっている事だ。そしてそれを公開すると言うのも当たり前の話しになっている。
ただしこれだけは言っておこう。政権与党が変わったのに対応できない行政官僚が理解できない。政治の流れを読めない立場でもないし、準備できるだけの時間もあったはずだ。これが出来ないほど、彼らは無能だったのだろか。
結論から言えば、日本の行政は関係各位の調整で手一杯であった。決して無能ではない。
日本の統治と言うのはどんな感じかと言えば、多分フラクタル図形のような構造なのだろう。大きく見ても同じ形で、小さく見ても同じ形がある、あの複雑な図形だ。立体的にすれば山があったりするのだろうが、突出した山が無い。
左翼と右翼が、なぜか同じ事を言っていたりする社会だ。
調整して維持する社会だ。これを最も顕現しているのが官僚だ。

イギリスのサッチャー政権以降、民意をどうとるのかという模索があったようだ。民意を汲む場合では、サイレントマジョリティの声をどうするのかという問題がある。そこで彼らはマーケティングの手法を使いはじめた。とはいってもイギリスはどういった国家になるべきかの意志があっての民意調査であって、単純なマーケティングではない。民意を先取りする意味がある。
例えば道路がそうだ。ある所に橋と道路を造った場合、他の地域で渋滞が起きたりする可能性が無いかどうか、コンピューターでシュミレーションする。その結果に基づき住民と考える。どれだけ経済効果があるのか、住民がどの程度楽になるのか、そしてこの道路のせいで他の地域に渋滞が起きないか、景観をどの程度かえるのか。それらとコストを照らし合わせる。
実はこれは今までの日本のやり方とは違う。もの凄いダイナミックなシュミレーションをするのだ。とても細かい。それを公表した上で話し合うのだ。
八ン場ダムなんかは、全部計算するとコスト的にマイナスになってしまう。それでも建設するのは、40年の時間への謝罪でしかない。


何度まとめてもまとめきれないのが「あたらしい公共」だ。市民参加型の社会で、そのための情報公開があって、行政にアクセスするシステムがあって、それを実現させるためにシステムがシンプルである、これが骨子だ。システムがシンプルだと行政コストも削減できる。安全と安心を守るための規制は残すが、今までよりは行政の役割が少なくなる。
例えば消費税だ。この消費税に逆ざやになる低所得者階級に還付金を出す。これによって逆ざやを回避できる。逆に食料品に低率減税をした場合、システムが煩雑になる。例えばハンバーガーを店舗で食べると通常の消費税、テイクアウトだと食料品で低率減税になる。こんな面倒な事は良くない。だがこの低率減税を支持する声の方がなぜか多い。
若年層を中心にした低所得者層に対して、最もインパクトのある還付金制度なのだが、誰もが反対する。なんと低額の年金受給者にとってもいい話しなのだが、この層がなぜか最も嫌がっている。
なおこの還付制度だが、生活保護家庭にとっても意味がある。今より実質5%は収入が増えるのだ。とはいっても収入が増えるからということで、多分5%削減の方向になるのだろうが。
どちらにしても、消費税にはインボイス(消費税を外税にして必ず伝票にすること)が必要だ。そして還付制度には個人所得の把握が必要だ。しかしそれは面倒だと言う人が多すぎる。そして所得を把握されるのが嫌だと言う。これは本当だろうか。憲法で納税の義務が言われているのだが、その根拠を曖昧にしたいと言うのはどうゆう事だろう。


なぜこうなるのか。既得権益層があるからだ。例えば低率減税は現在新聞がこの特権を持っている。こども手当も、実際に定着すると、変更がとても難しい。控除方式だとこっそりと控除率を下げる事も可能だ。行政としては自由度の高いシステムの方がいいのだ。つまり官僚が嫌ったのだ。国民の自由度より、省庁の利益が優先されたのだ。

おまけに鳩山元首相が、「あたらしい公共」ってよくわからないと言う声に対して、「友愛」という言葉を振ったもんだから余計に解りにくくなった。
そう民主党の理念は正しい。しかし国民が公共と言う意味を良く知らなかった。そして既得権益にいいようにやられた。そしてだが、残念な事に「あたらしい公共」の意味を民主党議員がよくわかっていたかどうか、これが怪しい。
しかし「あたらしい公共」を実現するためには、こども手当だけではなくシステム全部に手を入れる作業が必要だ。現在の日本の複雑な行政システムを考えれば、もの凄く遠大な計画だった。とうてい1期2期では成し遂げられないものだ。そこまで考えがおよんでいたのかどうか、かなり怪しい。


ただ今後も社会保障制度の見直しはせざるを得ない。「あたらしい公共」の理念はどの政党が政権を取ろうが、考えなければいけないだろう。

PS
こうやってダラダラと書いていたら、他で同じ内容が書かれてしまった。


ビリーブの破壊力

2012-09-22 02:25:55 | インポート
毎年小学校の教育実習の取材をしているのだが、お別れ会で必ず出てくる歌が、ビリーブだ。NHK番組「いきもの地球紀行」のエンディングテーマ曲だった。
ドキュメンタリー番組のエンディング曲から、ここまで愛されている曲も珍しい。サウンドトラックが出たのが1998年だから、14年に渡って盛んに歌われているかなりポピュラーな曲だ。他にもビリーブと言う曲は一杯あるが、多分ビリーブといえば、大体の人はこの曲を思い浮かべるのではないのだろうか。
お別れ会でビリーブを子供たちに歌われると、大体の教育実習生は泣いてしまう。泣かなかったとしても心が動かされてしまう。低学年の子供は泣きながら歌うので、相当な破壊力がある。
担任の先生も涙ぐんでしまうし、取材した私も泣きそうになる。取材を終わってもしばらくは虚脱状態になる事が多い。
分かれの席だから当たり前と言えばそうなのだが、実は今の教育実習では、実習生と子供が住所を交換するとか、ましてやケータイの番号やメールアドレスの交換は、とても固く禁じられている。街角であっても無視とまでは行かないが、話しかけては行けない。実習終了後に学校行事がある時に、学校に来てもいいが子供との接触は最小限にするよう指導されている。
なぜそうなるのかと言えば、実習後に不祥事が起きたりしやすいからだ。小学生だったら大丈夫かと言えば、実際不祥事が起きた事もある。ありていに言えば、大学生に信用が無いのだ。そして情に流されて子供とダラダラとした関係を続けられても教育上困ると言う事がある。

その状況でのビリーブがいかに凄まじい破壊力を持っているのか、想像してみて欲しい。
子供たちは別れたくない。だからまた会えるよねと約束をもちたいのだが、実習生は約束しては行けないのだ。曖昧に言葉を流してしまう。子供たちは偶然出会う事を期待するが、実習生も期待しているが、つれなくしなければ行けない。
生木の引き裂かれとでもいうべきか、生き別れと言うべきか、そういったお別れ会である。
そこでビリーブが出てくる。子供たちが‘信じている’と歌う。未来を信じていると歌う。

希望。パンドラによって封印されてしまった理由が解る。

やっぱりグラグラしています。毎年ビリーブには、やられています。