いじめ問題は、社会の問題だと思う。特に子供が欲しいものとかの金額が変わってしまった。親の価値観の問題もそうだ。価値観が多様化している。経済力の差もある。その中で成功した事例とかあれば試してみたいものだが、そうそう出来るものではない。プロゴルファーの石川遼選手の育てられ方なんか全く参考にならない。もっと参考にならないのは室伏広治だ。完璧なスポーツエリートだ。逆に野球の長嶋茂雄とか王貞治は小学校時代スポーツエリート教育は受けていない。最近では幼少期の遊びや身体の使い方の学習で、将来のスポーツ能力は高まると言われているのだが、これもどうかと思う。それでは古代の人物の超絶さとか江戸時代の人間の驚くべき能力は説明つくが、現代の地方からもっと有力選手が出てもおかしくない。
大体マケドニアのアレキサンダー大王は、幼少の頃から叱られた事が無い、いやもっとだ。ほめられた事しか無い人物だが、偉業を成し遂げた人物に育った。
子供の育て方には、全く答えがない。しかし子育ての技術はいろいろと知られていて、選択する事が可能だ。しかし誰が選択するのかは、実は誰も知らない。子供が主体的に選択したものかもしれないし、社会・家族間で誘導できたものかもしれないし、親が選択したのに子供が拒否したりその逆もあったりする。
まあそうして育てた子供を学校に入れたとたん、子供同士の人間関係が生まれて残酷なまでの力量差による競争がはじまるのだ。だからいじめは本質的には無くならない。
しかしだ、小学校でもいじめはあるがなぜか中学校ではエスカレートするのだ。この問題はなぜなのだろうか。中学生だから、大人に近いものが欲しくて援助交際や非行に走る、最近の極端な金銭を要求するいじめは金と言う点では同じだ。
それだったら小学校高学年から頻発していてもおかしくない。
システム上に何らかの問題があると考えれば、もしかするとここなのかと思う点がある。
小学校と中学校のシステム上の差だ。実はギャップが大きい。小学校までは子供と扱われていたのが、中学校になると大人として扱われ始める。中間が無いのだ。
逆に幼稚園では、小学校に上がるための教育が行われる。小学校から中学校ではこれがないのだ。
そしてここが一番大きいと思うのだが、小学校では学級は担任と副担任とで管理しているが、中学校では担任と学年で管理するようになる。小学校では担任が全教科を授業する。音楽とかは専任の先生がいればそこに任せるが大半は担任だ。中学校では科目別に先生がいて、担任はその科目別授業以外ではホームルームしか見れない。
しかし小学校では担任の先生が管理する事から、特定個人の影響をうけて子供の教育に好ましくない場合があるということで、副担任がいる。二人の先生が見る事できめ細かい観察が出来るようになっている。更に学級経営の単位がはっきりしているので、責任の所在がわかりやすくなっている。学校管理が縦のラインにできている。ただ学年が6つあるので煩雑になりやすい。
ここで中学校なのだが、ある意味理想だ。担任個人の能力ではなく、学年でサポートできるシステムだ。また担任個人の影響を最小限に出来る可能性もある。横のつながりで子供を育成しようと言うシステムと思う。
実はここで、なぜシステム的に混乱があるのかと言えば戦前教育の名称による混同があるのではないのかと思う。尋常小学校と高等小学校と旧制中学から、現在の小学校と中学校の区分がゴッチャになっているからこうなっているのではないのかと思う。なので中学校からいきなりカリキュラムが厳しくなる。そういった所も無いだろうか。
さらに大学進学を目指す子とそこまではのぞまない子がいる。しかし義務教育なので、ある一定以上の理解をさせなければ行けない。その上大学進学組に飽きさせないように授業に工夫が必要だ。現実に中学校の先生方の教材研究の努力は凄まじい。その上その地区ごとの特性もある。それにあわせて授業内容に緩急つけたりして工夫を凝らしている。
実はここに問題があるのだが、もっと悲惨な状況がある。部活だ。
この部活なのだが、先生の趣味の範囲ならいい。しかしだ、学校のある目標になっている。学校同士のメンツもあるが、学生生活を充実させるために、そして学校を結束させるために必要だとされている。しかしこれは本当だろうか。
このために中学校の先生は時間を取られまくっている。もちろん音楽の先生が合唱の指導をしたり、体育の先生がその専門のスポーツの指導をするのは正しい。これは教材研究の一環にもなる。しかし社会の先生で弱小野球部の顧問になったとしよう。
彼は吹奏楽部でずっと来た人間だ。野球はあの応援で皆から注目されたが、あの暑さでヘロヘロだった。ルールはなんとか理解しているが、あの状況でゲームは全く見ていない。その彼は一旦一番低いレベルの指導者免許を取った方がいいとなる。一応競技に対する理解が必要だ。かなり真面目な人だ。そのため土日に講習会を受けて筋肉痛になる。そして県と市の協会に赴いて会議なんかに出席する。そこではチンプンカンプンの話ししか出ていないが、顔をつながないと練習試合の日程が組めなくなる、そうOBに脅されて来ているのだが、名門中学の部長らに、いないものと扱われてしまう。
そうしてなんとかイヤミを言われながら日程などは組めたが、夏以外の土日は完全に潰れてしまう。いや、夏こそ合宿だなんだと保護者との折衝が忙しくなる。試合に立ち会ったのだが、調子の悪く足を引きずりがちな子がいたので声をかけたら、「だいじょうぶッス」と言われた。完全に「ドシロート。引っ込んでろ。なにも知らね~くせに」と空気が痛いです。
次の日に学校を休んでいるのに気がつくと、伝言が入ってます。「ウチの子に無理をさせてそれでも教師ですか!」
今日の授業で使うプリントは用意していますが、あさってと来週の方針が決まっていません。こ同じ社会の先生に相談したら、がんばれ!で終わってしまいました。とりあえず今日は残業です。
これは想像だが、現実はこんなものだ。いやもっと過酷だ。今ある教師の型にはまらないと、世間の理想の型にはまらないと出世も無くなる。世間は無邪気すぎるのだ。あの戦前の、自分の時間を削ってエリート教育をした先生の、あれを信じている。あれは本当にエリート教育だったのに、誰もが受けられると信じている。この誤解は大きい。
彼らは猛烈に忙しい。残業代もでないのに猛烈だ。そしてどこかに手を抜かないとやって行けない。一番手を抜きやすいのが横の連形だ。忙しすぎる故に、教科の専門家として閉じこもりがちになる。仕事の押し付け合いになったりする。そうなってくると校長や教頭への情報も上がりにくくなる。
大体の所、真面目な人ほど忙しすぎると自分で全部を抱え込んでしまうものだ。逆説的に抱え込まないようにするためには、自分の目の前のある事だけでしか判断しないのがいい。
実はいじめの構造の中で、防止に有効なのは多方面からの視線が必要なのは誰もが解っている。しかし中学校ではこれがかなり難しくなっている。これらを一部解決する方法はある。
部活動を、学校から切り離す事だ。スポーツ少年団もその意義があった。
しかし中学校ではこれが全く進んでいない。インフラの問題もある。例えばサッカーJリーグのスクールにしても選抜制だ。誰もが参加できるものではない。しかし子供たちには可能性がある。どこかでブレークスルーする可能性はある。そのためのインフラはほとんどないのだ。
そして確実なインフラに接続しようとすれば、それは有料だ。今のオリンピック水泳選手のもとの所属を見れば解る。これは例だが、現実に武道系では常識だ。
中学校の部活は無料なのだ。これは教育指導だから無料となっている。実際遠征費から資材費までかかっているが、道場の運営費まではかかっていない。これを本当に解っている人は少ない。
さて中学校の部活動と、教育は切り離すべきだ。そうして中学校は本来の教育目標に戻るべきだ。そうしないと現在の構造は終わらないだろう。いじめが起きていると言うことが観察できないほどに疲弊している。
この状況を最も理解しているのが、私学に子供を送る親御さんだ。公立の疲弊がよくわかっているから子供に受験を勧める。そして教育委員会が実は最もよく解っている。
時間が欲しい。教育と言う失敗の許されない世界で、彼らがのぞんでいるのはそれだけだ。しかし実際には時間はどんどん削られている。誰が学校の闇サイトを監視するの?
ゆとり教育の最大の眼目は、教員のゆとりだったのだが、実はそれではマズイと解っている教員たちに負荷をかけていた。社会的要請とのギャップに彼らはいる。
教員はもっと暇であるべきだ。でないと気がつかない事が多い。子供社会と言う別な社会があるのが学校だ。
子供社会を大人社会に接続させるためのコンテンツがイマイチないように思える。「よのなか科」という社会の複雑さを実践で伝えると言う動きもある。しかしこれはかなり現在の教員に負担をかけるだろう。それでも意義があると思う。そういったものは歓迎できる。
ただ部活動は民営化できないものなのか?
実はそういった流れはある。例えば武道だ。ただ柔道は確実にオミソを付けている。民営で死亡事故が起きている。正直な所自分に子供がいたら絶対柔道だけはさせない。死亡事故件数がハンパでないからだ。
情操教育とエリートスポーツを混同しているからそういったことが起きる。
もう一度言おう。旧制中学と勘違いしていないか?今の中学校はエリート養成システムではない。
教員免許を持っているからうまく差配できるかといえばそうではない。無い方が学校のしがらみが無くて健全かと言えば、そうでもない。スポーツに関しては全くの不確実なのだ。
教育を確実にし、いじめを初期から検出し防止する体制は今の中学校だったらどこでも出来る。問題は課外活動だ。この時間が無くなればもう少しマシな状況になる。ただ今の中学校の体制を受け入れるインフラも無いし、心理学を学んだ指導者も少ない(Jリーグの凄さがここだ。充実している)。この状況で安心して指導を任せられるシステムが無い。
中学校教員の最悪な日常は続く。彼らのプロ意識と子供の笑顔が消えた時に、それが自分に起きたらどうしようと思う、時間がない。
彼らにこそゆとりを。解決策はそこにしかない。
そういって彼らに負荷をかけているのも、迷惑な話しだろう。