最近たまに会う人の中で、日蓮宗の上人がいる。かなりストレートな人で、「法華経は仏典最古の教典と言う人がいますが、どうですか?」と質問した所「そんな訳が無い」とあっさり言い切りました。この時点で、この上人はかなり信用出来ると考えています。
そして彼は、実は相当悩んでいるのです。檀家のコミュニティを維持するだけでなくもっとよりよい方向へ持ってゆけないのか?という事です。まあこれもまたあっさりとストレートに悩んでいるのが好感が持てます。
その彼がです、体罰問題で「修行中はこんなもんじゃない」と言います。彼の宗派の場合、修行と言うのは「ただひたすらお経を唱え続ける、ただし100日間」だそうで、楽そうに思えますがどうも全然楽じゃないようです。ご飯は「今は栄養を考えて作っているようだが、当時は7分粥のみ」だそうで、「健康診断書を提出させるのだが、そこをごまかす人がいて、問題になる。大体糖尿病とか心臓病」のだそうだ。
彼は修行をしていない。なぜならその方面の大学に進んだからだ。だが「全寮制で、1年虫、2年動物、3年人、4年神様」の体育会そのもので、「なんでもあり」な生活だったらしい。100日間の集中した修行ではなく、4年間に渡って休む時間があると言うだけの、修行だったようだ。
そう、忘れていたのだが日蓮宗はすべてにおいて過激だったのだ。相手を論破するためには、学を徹底的に学ばなければいけないし、「南無妙法蓮華教」と唱えればいいのは在家だけであって、坊主は題目ではなく本文を徹底的に唱えなければいけないのだろう。
過激だから弾圧されたし、徹底したからこそ生き残ったと言うフシはある。
注)日蓮宗なのだが、あまりにも多くの分派が存在し彼の言う事が全体に対して当てはまるかどうかは解らない。彼の考えを省略して書いている。文責はM野にある。
「修行と言う美名の元で行われるのですか」と聞くと、曖昧に答えた。
体罰問題では、いろいろな考えが出ている。ただ彼の話しから、一つだけ別な考えを発見した。
日本人の中に、人生修行だと言う考えは無いのか?ありとあらゆる理不尽を受けながら、清く正しく成長を続けるのが正しい、そういった考えは無いとは思えない。長い人生の中では山あり谷ありだが、柔らかい青年期に修行として理不尽な目にあう事で、厳しい現実社会に立ち向かう根性を手に入れられるのではないのか。そしてそれを糧として、人生の中で悟りを得られる。それは晩年であり、好々爺として過ごす人生で大成される。
と。
スポーツでのトレーニングでの一環で、追い込むために体罰がある。ここに「修行」という言葉を入れるとなぜかすんなり当てはまってくる。そして例えば柔道だが、園田監督を組織が守ろうとしたのは、まだ大成していない存在だから、それを惜しんだだけで、修行中の子供たちに行った事は当然の事と考えているのか。
いや柔道は「道」である限り、「修行」であり「荒行」の連続だとすれば、スマートに出来そうなスポーツであるのにも関わらず、理不尽が必要になっているのだろう。
そうなのだ。教育の一環に「人格形成」がある。円満で、忍耐に富んだ、そして豊かな心を持った人間を育てなければいけない。だから尖った部分が早くに削られ丸くなるようにするための、「体罰」や「理不尽」が必要なのだ。ゆとり教育は尖った部分を増長させるだけで、意味が無いのだ。
だから「修行」が必要なのだ。
いま日本の教育に、「修行」と「近代教育」がないまぜになっている。そう考えると、大体の社会矛盾は解りやすくなるかもしれない。
修行だったら頭使う必要もない。体罰も肯定出来るし理不尽もあり得る。中途での死者もあるだろう。荒行だから仕方が無い。
ということでトレーニング理論が何か無視されているのが何か解った。日本のスポーツは「修行」だったのだ。
PS.
ただトレーニング理論で、対乳酸値トレーニングとかある意味理不尽なメニューが必要だとされています。なぜかと言えば、頭と身体を一致させるためのメニューです。身体には能力があるが、頭のリミッターがそれを押しとどめているからです。このメニューはある意味「修行」になります。ただ意味が無い事をやるのとは違う、と言う事です。
体罰のような修行法は、止めるべきだ。そういえばわりと簡単な話しのように思えます。
2/3追加
釈迦は苦行から何も生まれない事に気がつき、瞑想により悟りを開いた。これを周囲の人は、サボってんじゃねェ~と思ったとか。今で言えば、新しいトレーニング法を開発し人類未踏に達したのだが、あまりにも斬新なメニューで誰もが理解出来なかったと言う所か。
釈迦のように優れた人だからで来たからだ、となってやっぱり凡人には修行が必要なのだとされたのだろうか。