さて光源の話しでとっちらかったが、まずカメラがある。テーマも決めた。被写体も大体決めた。屋外ものなので太陽光とストロボの併用が出来る。さて撮影です。
天候不順とかもあったし、スケジュールミスもあったり、いろいろあります。それでも満足出来る撮影をして帰ります。実際テーマと少し違うがこれが面白そうとか、天気が思ったほどではないけどこんなニュアンスを作れたとか、実際現場では、ちょっと違う事だらけです。それをこなしながらいろいろな手法を使ってテーマに近づくように撮影してゆくはずです。そうしないとせっかく来たのにもったいないですよね。
もちろん見切りをつける事も大切です。ただこの判断はなかなか難しいです。せっかく来たのだからとかあります。ただこうしないと前に進めませんよね。例えば盛岡の桜が見頃だからと遠方から石割桜を見に来ると、品種の都合で葉桜になっています。そうしたらもう石割桜には見切りをつけなければいけません。その上で天気が悪かったらどうしましょうか。市内観光するか近くの温泉に行くのか、イロイロ楽しめます。その中から被写体を捜しながらのロードムービー仕立てに変更するのは可能ですね。
当初に立てたテーマからイメージまで一切合切捨ててしまうのが大切です。今出来る事を考える、これが大切です。
もちろんテーマによっては、葉桜の石割桜でもかまわないのですが。
さてこうして持ち帰った写真ですが、今はデジタルです。その場で見て確認が出来ます。だめだったら捨てる事が出来ます。それはそれでいいのですが、一つだけ問題があります。モニターが小さいのです。ピントの確認等では拡大してみればいいのですが、全体が見えません。
目的と目標が明快な新聞記者とかはそれでもいいのですが、作品を撮るとかだとちょっと厄介です。小さくともだめなものはだめなのですが、ある程度残す必要があります。
方法論としては、Wi-Fi搭載のSDカードとi-Padなどのタブレットと連動させて、撮影データーをタブレット上で確認しながらという事も考えられますが、明るすぎる場所だったりすると判断出来ません。
また現場では撮影に集中するべきであって、確認作業は最低限にするべきだと、考えています。
撮ると言う作業と、見ると言う作業は全く違うものなのです。
撮影と言うのはチャレンジです。被写体に対してテーマがあってもなくとも、あらゆる可能性を追求してゆく場です。ありとあらゆるアイディアから種々選択をしながら撮影し詰めて行きます。一つ一つのアイディアを詰めてゆく時に、デジカメのあの小さなモニターは有効です。ただ最終結果が最善だったとしても、あまり消してはいけません。
さて見ると言う事なのですが、大変な作業です。カメラマンとして重要なのはピントと露出です。これはデジカメのモニターで確認出来ます。ただ大きなモニターでもう一度見なければいけません。なぜなのでしょうか。
自分と向き合うためです。
テーマから被写体から、撮影アイディアから一杯詰まった記憶がよみがえってきます。ただそれは自分の結果であって被写体とか状況の責任ではないはずです。
その中からいい写真をピックアップしてゆくのです。
自分を客観視する必要があります。それが何枚も何枚も見なければいけないのです。実は以外と苦痛です。アナログの時には、以外と「写真」って物だったのですが、モニターが大きくなり、それでいて写真を見るのはモニターで一点ずつです。一瞬見た写真を記憶して次の写真と比較すると言う作業が続きます。
ブラウザーソフト使えばいいだろう?確かにそうです。ただあのサムネイルが荒すぎる事が問題です。あの大雑把感が何とも言えません。そこでサムネイルからダブルクリックでプォトショを立ち上げて大きくして見るとかそういった作業が続きます。
そういった苦行のような作業は意味が無い、と普通は考えます。合理的ではありません。ただ合理的な事が目標の場合確かにそうなのですが、失敗した写真をマジマジと見るということが実は大切です。
なぜ失敗したのか、機材が悪いのか私の腰が悪いのか、イロイロあります。ただ失敗した中に中途半端な写真があったりします。その中で、撮った時にはなんにも考えていなかったが、なぜか別な切り口を作った写真とかそういった物を捜す作業もあります。
なんで引っかかるのか、こういった写真を見つけるのもこの作業の中にあります。
さてこのブログでさんざん引用している言葉ですが、「人は見たい物しか見ない」と言う言葉で、本稿はしばらくお休みします。
いや1月15日まででいったん休憩するつもりだったのが、ネタが多すぎてちょっとさぼっていました。
天候不順とかもあったし、スケジュールミスもあったり、いろいろあります。それでも満足出来る撮影をして帰ります。実際テーマと少し違うがこれが面白そうとか、天気が思ったほどではないけどこんなニュアンスを作れたとか、実際現場では、ちょっと違う事だらけです。それをこなしながらいろいろな手法を使ってテーマに近づくように撮影してゆくはずです。そうしないとせっかく来たのにもったいないですよね。
もちろん見切りをつける事も大切です。ただこの判断はなかなか難しいです。せっかく来たのだからとかあります。ただこうしないと前に進めませんよね。例えば盛岡の桜が見頃だからと遠方から石割桜を見に来ると、品種の都合で葉桜になっています。そうしたらもう石割桜には見切りをつけなければいけません。その上で天気が悪かったらどうしましょうか。市内観光するか近くの温泉に行くのか、イロイロ楽しめます。その中から被写体を捜しながらのロードムービー仕立てに変更するのは可能ですね。
当初に立てたテーマからイメージまで一切合切捨ててしまうのが大切です。今出来る事を考える、これが大切です。
もちろんテーマによっては、葉桜の石割桜でもかまわないのですが。
さてこうして持ち帰った写真ですが、今はデジタルです。その場で見て確認が出来ます。だめだったら捨てる事が出来ます。それはそれでいいのですが、一つだけ問題があります。モニターが小さいのです。ピントの確認等では拡大してみればいいのですが、全体が見えません。
目的と目標が明快な新聞記者とかはそれでもいいのですが、作品を撮るとかだとちょっと厄介です。小さくともだめなものはだめなのですが、ある程度残す必要があります。
方法論としては、Wi-Fi搭載のSDカードとi-Padなどのタブレットと連動させて、撮影データーをタブレット上で確認しながらという事も考えられますが、明るすぎる場所だったりすると判断出来ません。
また現場では撮影に集中するべきであって、確認作業は最低限にするべきだと、考えています。
撮ると言う作業と、見ると言う作業は全く違うものなのです。
撮影と言うのはチャレンジです。被写体に対してテーマがあってもなくとも、あらゆる可能性を追求してゆく場です。ありとあらゆるアイディアから種々選択をしながら撮影し詰めて行きます。一つ一つのアイディアを詰めてゆく時に、デジカメのあの小さなモニターは有効です。ただ最終結果が最善だったとしても、あまり消してはいけません。
さて見ると言う事なのですが、大変な作業です。カメラマンとして重要なのはピントと露出です。これはデジカメのモニターで確認出来ます。ただ大きなモニターでもう一度見なければいけません。なぜなのでしょうか。
自分と向き合うためです。
テーマから被写体から、撮影アイディアから一杯詰まった記憶がよみがえってきます。ただそれは自分の結果であって被写体とか状況の責任ではないはずです。
その中からいい写真をピックアップしてゆくのです。
自分を客観視する必要があります。それが何枚も何枚も見なければいけないのです。実は以外と苦痛です。アナログの時には、以外と「写真」って物だったのですが、モニターが大きくなり、それでいて写真を見るのはモニターで一点ずつです。一瞬見た写真を記憶して次の写真と比較すると言う作業が続きます。
ブラウザーソフト使えばいいだろう?確かにそうです。ただあのサムネイルが荒すぎる事が問題です。あの大雑把感が何とも言えません。そこでサムネイルからダブルクリックでプォトショを立ち上げて大きくして見るとかそういった作業が続きます。
そういった苦行のような作業は意味が無い、と普通は考えます。合理的ではありません。ただ合理的な事が目標の場合確かにそうなのですが、失敗した写真をマジマジと見るということが実は大切です。
なぜ失敗したのか、機材が悪いのか私の腰が悪いのか、イロイロあります。ただ失敗した中に中途半端な写真があったりします。その中で、撮った時にはなんにも考えていなかったが、なぜか別な切り口を作った写真とかそういった物を捜す作業もあります。
なんで引っかかるのか、こういった写真を見つけるのもこの作業の中にあります。
さてこのブログでさんざん引用している言葉ですが、「人は見たい物しか見ない」と言う言葉で、本稿はしばらくお休みします。
いや1月15日まででいったん休憩するつもりだったのが、ネタが多すぎてちょっとさぼっていました。