どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

久しぶりに何もない

2016-06-04 21:27:37 | 日記

 

最近寒かった。そういえばコーヒーの木を外に出しっぱなしだった。最低が5.5度だから霜の心配はないが、見に行くと無事だった。今日の最高気温は25.3度と過ごしやすい1日だった。ところが予想最低気温は16度と一転して高くなる。さて体調調整をどうするんかいな。

 

 

アベノミクスは失敗したのかと言われている。どうなんだろうか。ただこれだけは言えるのだが、未知な手法でもなく新規な手法でもなく、手慣れた手法を合わせ技でやっただけだということだ。ただ規模が今までと違うというだけだ。

手法そのものは80年代から言われていた。ヘリコプターマネーという言葉も、実際このころのフリードマンの思考実験で提案されたものだ。名前が過激なので誤解されることが大きいが、現実的には税金の還付制度を使うということになる。ヘリコプターから紙幣をばらまくわけではない。

需要と供給のバランスが崩れてデフレになった場合、つまり需要が下がっている状態で、需要を喚起するには直接的に税金の還付制度を使って一時金を出すのがいいという考えだ。税法をいじる必要もなく特定業者を潤すこともない。これに対して公共投資で行う場合は、特定業者の収入になる。そこからの波及効果が大きい場合は逆に効率がいい。例えば道路建設だ。高速道路の建設は流通の促進を図り地域経済を活発化させる。これは確かだ。だが現在では車が普及して、高速道路網のストロー効果が大きく出てしまい、周辺の経済、特に商業を低下させることになる。ただ国家や地域の資産は増えることになる。

まあケインズ派とマネタリストでそんな議論があったわけで、でも実は成熟した社会だと有効に投資できる資本も限られてくる。そこで今現在マイナス金利でもどうしようもなくなったEUで議論が盛んになっているのだ。

話はずれた。なぜヘリコプターマネーというのかといえば、需要と供給のバランスが崩れた状況という実需の話ではないからだ。世界を駆け巡る貨幣の増大での議論なのだ。これほど市民感覚から外れた議論はない。今ある世界の貨幣量と市場は国家を超えている。

バブル崩壊の時に、日本はぬるい手しか打てなかった。アジア経済危機の時には世界中の貨幣の一部がスっと引いただけで大騒動になった。全世界の国家資産を超える数字の貨幣が流通しているのだ。そのごく一部が動いただけで、起きることの影響は大きすぎる。日本のバブルとアジア経済危機から学んだアメリカはリーマンショックの時に大々的に貨幣流通量をあげた。これは日本の対応のまずさから学んだことだ。

通貨の流通量に対して、国家はどこまで対抗できるのか。アベノミクスだろうがなんだろうが、えらい戦いを強いられている。この辺は同情している。

 

 

ママチャリの前輪のタイヤがイカれてきた。なので2ヶ月前にタイヤをお願いしていたのだが、今日取り替えに行く。するとだ、後輪がパンクした。後輪は全くの坊主になっていた。そこにコードが削られパンクしたようだ。馴染みの自転車屋に行き、修理をお願いする。まあこの時点で前ブレーキパッド交換だなと思っていたら、リヤブレーキワイヤーの破断まで発覚してしまった。

なんかリアの効きが悪いと思っていたのだが、徐々に切れて行ったらしくそれで発覚が遅くなったようだ。なお断面から完璧に金属疲労。

修理代は安くしてもらった。

 

 

消費税で、軽減税率を安倍首相が言ったことは、やっぱり遺憾だ。なぜ還付制度にしないのだろうか。そんなに貧乏人を増やしたいのだろうか。

 

 

今日は久しぶりによいちに行く。特にめぼしいものはなかったが、喫茶渡辺の所に、常連で馴染みの巨漢が、店員でいた。スペックは身長183センチ体重130キロ、体脂肪率30%(本人申告値による)以下だ。まあ相撲取り体型だね。渡辺さんが細く見えるほど巨大だ。

よいちの終わりころに寄ってみる。すると今日一番衝撃的だったのは「怖い」と言われたことのようだ。しかも二組に言われたようだ。で、私と渡辺さんがテントの中で話をしているのを見て、「こりゃありえない絵だは」と悟っておりました。

まあ彼は全然凶暴ではないし、むしろ穏やかな顔をしているし、「ちゃんこ鍋大五郎」の親父よりは細いのだが、まああの存在感はすごいな。

いい接客だと思ったのだが。

 

 

響でコーヒーを飲んで酒を飲んだ。デビット・ジンマンのベートーベンの第9の4楽章をかけてもらった。オーディオがいいといい感じで聞こえますな、この演奏。時代的な奏法なので少し音が薄く、楽器ごとの音が鮮明に出ている。合唱の編成も小さく当時の時代に近い編成のようだ。だからこそクッキリした音があるのだが、小さいスピーカーだとクッキリしすぎる。なかなかのジレンマだ。

さてしばらく泳いでいない。もうそろそろと思っているのだが、盛岡市の総合プールのスケジュールは想像以上になった。もちろん一般開放の日は多いが、7月の一般開放は25メーター6コースのサブコースのみになっている。ただここは仮設屋内になっただけで、温水が入るのかどうかはわからない。

それでは私の愛してやまない屋外プールは、都南のプールになる。だがシカーシ、営業日数が長くなると聞いていたのだが、多分一週間長くなっただけだ。7/16~8/21の営業だ。

国体って、少子化時代では本質的にどうなんだろうな。高齢化には全く意味がない。

 


週末でございます

2016-06-04 01:18:55 | 日記

 

今日も寒い。とはいえ昨日ほどではない。18度まで気温は上がった。とはいえ最低気温は5.5度。かなりこたえる寒さだった。ストーブは出しっぱなしだったので、タイマーを使って朝を乗り切った。今年はちょっときつかったが、盛岡はいつも大体そう。ストーブをしまうのは6月末まで待って方がいい。こういったことは、毎年ではないが、あることなのだ。

今朝は、カマンベール入りのベビーチーズを練り込んだ生地に、ボローニャソーセージのみじん切りとパセリを混ぜたパンを食べる。仕事の合間に作っていたものだ。なんかコストがおかしいパンになってしまった。大雑把に1000円だから、もう2度と作らない。

 

 

オニゲシが咲いていた。

仕事も2週目終了ということでかなり順調だ。だがそこに暗い影があるかどうかを慎重に考えなければいけない。何か落とし穴がないか、担当とも電話で話し合う。

北海道で、山中で行方不明になっていた男の子が6日ぶりに発見された。喜ばしいことだ。ただ私がこのニュースを知ったのは、CNNだったということだ。国内ニュースより早かった。まあ国内ニュースは見ないからしょうがない。

海外から奇異な事件だと思われたらしい。それはそうだ。だがこの光景は日常どこでも見ることができる。おもちゃ売り場で泣き叫ぶ子を置き去りにする親とか、スーパーで子供を置き去りにする親とかだ。だがほとんどは親が隠れて見ている。それは子供も知っているし、親もわかってやっている。ただこれを山の中でやったらどうなるのかという事例として面白い。

私の例は勘違いだが、山の中で置き去りにされたと思うと、傷つく前にどうやって生き延びれるかと考えてしまうのだ。とりあえずここにいても仕方がない。特に車で立ち去られたとなれば、ただ事ではないのは確かだ。だが知恵はない。だからよくわからない行動をとる。それが結果、林道を歩いて自衛隊の施設の中に入って時を過ごしたということになる。きっと近くで水を探したり、食べられそうなものを探したりはしただろう。生き延びるために。

ン~、そういえば家族登山で経験があるわ、このパターン。やっぱり車だとダメだな。置き去りにされても、なんか信用はあった。頑張って先を歩けば待ってくれると信じられたな。今から思えば小学生低学年がなんで南八甲田山の最深部まで行ったのかね。プランに難はあったな。クソ親父め。

とりあえず、世界ではこれは児童遺棄になるということだ。ただ日本はよほどでない限り安全なので、事故は少ないというだけだ。そしてこのパターンのしつけ方法は確かに有効かもしれないが、関係性を試すというリスクはある。この意味がわかればいいのだが、わからんだろう。関係性に変化が起きるというリスクだ。場合によっては親不信になるというのはいうまでもない。別な方法を常に考えるべきだろう。親子の情愛は不変であるというのは、大人の幻想だ。子供はそう思っていない。彼らは変化の中に生きている。

とりあえず車で置き去りは、最悪なのは間違いない。

 

 

 

県病前のヤマザキが閉店してから、どうなるのだろうと思っていた。薬局かなと思っていたのだが取り壊している。なんになるんだろう。

敷地面積と周りの建物から行けばマンションはないな。まさか7のつくコンビニ?とりあえず立地は、二つの小学校と中学校と普通高校が一つ、定時制高校があって県立中央病院の真ん前。大学もそばにあり、盛岡市中心部の端っこでマンションもいっぱいある。そういった立地で何ができるか楽しみだ。

 

 

明日できることは今日やるなという格言がある。この3日それを守っているが、どうなるのか。