岩手大学近辺にいたあの野良猫たちもすっかり数を減らした。これも岩手大学の「いのちのサークル ねこの手」さんの活動の賜物だ。特に天信系の猫たちはかなり悲惨な状況にあった。それがここまでになったというのは素晴らしいことだ。
もう空から子猫が降ってくることもないし、ドブネズミ大の小動物の腸を引きずり出すカラスも見ることはない。
本当に本当に悲惨だったのだ。どんなに猫が可愛くても、あのスラムのような状況では健全に育つわけもない。そんな中で育った子たちが、里子に出されたり、管理されることで少しずつ数を減らしながら、残っている。
最近ブログで猫の写真がないのは、数が少なくなったというのが理由だ。だがあの頃は怒りに満ちていた。本当に悲惨だったからだ。
先の猫は去勢したという印が耳にある。この子にはない。ただこんな尻尾のねじくれた子は見たことがない。
去勢した子を追い回しているところを見れば、オスなのだろうか。確認しなかった。多少毛艶はいいが、野良猫であろう。
さっき言い忘れたが、ねこの手さんが管理しているからねこが減るわけではない。そもそも野良猫は3年程度しか生きられないのだ。そこまで厳しいのだ。野良猫として管理するというのは、ある意味矛盾している。だが、人に懐かない野良猫がいるわけで、それはどうしても里親にも出せない。管理しても懐かない子が残ってしまう。そういったねこと人間の間の問題は、絶対に解決できない。
自然というのは何か、それと人と自然、人が作った自然、人の考える自然というのがある。野良猫に関したは人の考える自然体と言うべきものだろう。それは人間に依存したものであって、人の文化の範囲だ。だが増えすぎて困るというのは、都市内の話だからだ。実はカラスもこのカテゴリーになる。
飛ぶ鳥はいいなとか、自由だとかいうのは、それこそ人の考える自然だ。原生林の写真は荒れた山だと思うのも、それが自然だとはわかっていないから起きる。
人は人が作った世界しか見ていない。だが変化を見落とす。
この花は多分和名でたかさごそうだと思うが、これがかなりの勢いで増えている。多分だというのは外来種だと思うからだ。そしてセイヨウタンポポが減っている。理由は何か。多分草刈りを定期的にするようになったからだ。この植物はタンポポににているが花茎が長い。で、一番の特徴は葉っぱが立たないことだ。葉っぱが立つセイヨウタンポポは草刈りのたびに弱るわけだが、地面近く葉っぱを広げるこいつは関係ないわけだ。ただもともと繁殖力は弱いのだろう。たまたま繁殖しているように見える。
人と自然ということでは、人がまだ弱いというのは間違いがない。だが随分と人の動きで植生は変わるものだというのは、考えておいたほうがいい。