どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

天信系の野良猫を久しぶりに

2016-06-15 22:51:32 | 日記

 

岩手大学近辺にいたあの野良猫たちもすっかり数を減らした。これも岩手大学の「いのちのサークル ねこの手」さんの活動の賜物だ。特に天信系の猫たちはかなり悲惨な状況にあった。それがここまでになったというのは素晴らしいことだ。

もう空から子猫が降ってくることもないし、ドブネズミ大の小動物の腸を引きずり出すカラスも見ることはない。

本当に本当に悲惨だったのだ。どんなに猫が可愛くても、あのスラムのような状況では健全に育つわけもない。そんな中で育った子たちが、里子に出されたり、管理されることで少しずつ数を減らしながら、残っている。

最近ブログで猫の写真がないのは、数が少なくなったというのが理由だ。だがあの頃は怒りに満ちていた。本当に悲惨だったからだ。

 

 

先の猫は去勢したという印が耳にある。この子にはない。ただこんな尻尾のねじくれた子は見たことがない。

去勢した子を追い回しているところを見れば、オスなのだろうか。確認しなかった。多少毛艶はいいが、野良猫であろう。

さっき言い忘れたが、ねこの手さんが管理しているからねこが減るわけではない。そもそも野良猫は3年程度しか生きられないのだ。そこまで厳しいのだ。野良猫として管理するというのは、ある意味矛盾している。だが、人に懐かない野良猫がいるわけで、それはどうしても里親にも出せない。管理しても懐かない子が残ってしまう。そういったねこと人間の間の問題は、絶対に解決できない。

 

 

自然というのは何か、それと人と自然、人が作った自然、人の考える自然というのがある。野良猫に関したは人の考える自然体と言うべきものだろう。それは人間に依存したものであって、人の文化の範囲だ。だが増えすぎて困るというのは、都市内の話だからだ。実はカラスもこのカテゴリーになる。

飛ぶ鳥はいいなとか、自由だとかいうのは、それこそ人の考える自然だ。原生林の写真は荒れた山だと思うのも、それが自然だとはわかっていないから起きる。

人は人が作った世界しか見ていない。だが変化を見落とす。

この花は多分和名でたかさごそうだと思うが、これがかなりの勢いで増えている。多分だというのは外来種だと思うからだ。そしてセイヨウタンポポが減っている。理由は何か。多分草刈りを定期的にするようになったからだ。この植物はタンポポににているが花茎が長い。で、一番の特徴は葉っぱが立たないことだ。葉っぱが立つセイヨウタンポポは草刈りのたびに弱るわけだが、地面近く葉っぱを広げるこいつは関係ないわけだ。ただもともと繁殖力は弱いのだろう。たまたま繁殖しているように見える。

人と自然ということでは、人がまだ弱いというのは間違いがない。だが随分と人の動きで植生は変わるものだというのは、考えておいたほうがいい。


昨日はブログ休みでした

2016-06-15 01:28:14 | 日記

 

昨日の0時から12時まで、OCNブログサービスのサーバーメンテナンスという、やんごとなき理由で当ブログはお休みしていました。すごいですね、閲覧数とPVの落ちっぷりは。PVに関しては検索サービスのボットが真夜中に走り回るせいです。PVの四分の三は、このボットなので落ち込みはすごいですね。閲覧数はそれに比べれば落ち込みは半分程度でしょうか。12時間止まっただけでこうなったとは。投稿が一切できないという説明だったのだが、閲覧も出来なかったのかな。

イマイチこのシステムがわかっていないところがあります。どうもクラウド型なんじゃないのかと思っているのですが、まあこちらのパソコンで作成しているのではなく、こちらが端末として動いているだけというものなのかなと思っています。で、写真投稿フォームのほうで、投稿しようとしたらいきなり文字化けしまして焦りました。もう何年見ていないんだろう、文字化け。多分「写真を投稿しますか?」という文章だと思うのだけど、そのダイヤログのみが文字化け。次のダイヤログも文字化け。まあいいやと思って投げてしまったのですが、無事写真は送られたようです。でもみなさんのところではぶっ壊れていたらどうしましょうね。

昨日の朝食の岩泉ヨーグルト。袋物が有名になりましたが、これは古くからある加糖のカップもの。これも結構美味しいですよ。なおこのパッケージデザインですがS山君のお父様のイラストです。手塚治虫と赤塚不二夫と少女漫画を足して3で割ったようなイラストです。最近のゆるキャラブームのおかげで、逆に新鮮に見えるのは気のせいでしょうか。

なお写真がブレているように見えますが、よくある印刷の壮大な版ズレです。水色と紺色の2版で印刷されていますが、それがずれているだけです。イラスト2色は必要ですが、文字版を直せば問題は消滅します。

 

 

紫陽花に色が付いてきました。

 

 

最近リーダーシップというのはどういった状況で起きるのかというのを考えています。しかもある意味ありえない状況でのリーダーシップです。リーダーシップというのは、上司が持たなければいけないものです。つまり上下関係があることが前提です。それがない状況、つまり理屈では対等な関係でのリーダーシップです。組織では一応採用年数の上下関係はありますが、時給や仕事内容は同一です。

いろいろ考えているのですが、どうも人間関係だけではなさそうです。もうなんて言おうか、気合みたいなものでしょうか。言葉ではなく、どうもこういったある意味極限では、そういったものが最も重要なようです。黙っていても気合、そんなもののようです。

空気を作るとしか言いようがありません。

 

 

阪神大震災の時にイスラムのコミュニティに触れて、少し信仰というのはどうなのかと考えた時期があります。正確にはまだ考えています。イスラムも勉強しました。キリスト教も聖書を読み直したりしましたが、わかったのは宗教とはコミュニティでありコミュニティの問題は宗教の問題であるということでした。

私が生きる限り、コミュニティに所属することが必要で、コミュニティには宗教がある。そういう必然性があるという結論に達したわけです。で、イスラムですが、酒とタバコが禁止なので除外です。とてもいいとは思うのですが。キリスト教もいいんですがここに大問題があったわけです。創造者が創造物を勝手に扱う権利があったとしても、それではなぜ神はLGBTも生み出してしまったのかということです。そしてそれを否定しているということです。愛をもって救済したはずなのに、信仰していても救済されないという矛盾は如何ともし難く。様々な問題はある。神は試練を人に与えるが、なぜ解決できないほどの試練を与えるのか。

ただ一神教の合理性とコミュニティーには未だかつて未練がある。だがどうもこの項を書いている時点で資格がないと思っている。

とはいえゆるい日本の仏教と神道が混在した世界は、合理性をもたらす基盤がない。相対的すぎる。でもその中に信仰の苛烈さを求めてゆく人たちもいっぱい居る。

 

 

リーダーシップというものが対等の条件であり得るのかという問いも、ここにある。曖昧な人間関係で形成されるアジア型のリーダーシップと、一神教的なリーダーシップも、最終的には解決法のない個に帰ってしまう。

いきなり壮大な結論になってしまったが、書けないことが多いのでそういわざるを得ないのだが、徳?というものだろうか。気合といった方が早いような気もする。

だがそういった人はなかなかいない。そして私はその器ではない。

 

 

白花のアカツメクサがあった。

花の世界では、滅多にいないものは常に弱いものだ。