どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

今日は真面目に仕事をした

2016-10-05 01:46:55 | 日記

 

いつも真面目なのだが、仕事をした。

最近怒っていることとかいっぱいあるのだが、キーボードを前にすると忘れてしまうことが増えた。

 

 

どうもだ、震災以来怒ってきたがどうもどうしようもなく世界が変わってきてしまったとしか思えなくなったのだろう。例えば築地移転・豊洲問題だが、犯人を炙り出して何になるのか。問題は大きすぎるが、その根深い問題は生贄を求める我々にないのかと思ってしまうのだ。

ニューズウイークのコラムニストの遠藤誉氏のインタビューが載っている。

中華人民共和国が誕生する過程がそうだったため、60年代に起きた文化大革命のときも、標的を作ってみんなで罵倒して殴ってということをやった。それをやらないと、お前は革命の心が強くないと言われてやられてしまうからだ。中国の人民はそういう精神文化の中で育ってきて、それが心の中に染みついている。だから反日暴動が起きたときにも、反日を叫ばないとお前は売国奴だと言われてしまうので、誰かが叫びはじめたら自分も叫ぶ。中国が誕生する過程で培われてきたこの精神性、精神的な土壌のことを、私は「大地のトラウマ」と呼んでいる。」

震災以降日本でも何かが壊れて分裂した。そこには経済成長が前提の、未来があるから過去は見ないという考え、それが失われたと考えている。いやあれは希望だったといえるのかもしれないが、「シン ゴジラ」のように最後にまとまるということすらなく、まとまるということが映画のフィクションのように、リアルは違うと。

災害直後のパラダイスはもはや失われて、そこから動き出すムーブメントも詐欺事件などで消失してしまった。善意の個人はいくらでもいるのだが、だが何か割り切れない何かを内包して、それが過去を刺激しているように感じる。

遠藤誉氏のこの話は、確かに中国建国史の中での単純な話になっている。単純だからこそ恐ろしい結果を生んだのだ。だが複雑さを許容してきたEUや日本、そして能天気なアメリカまでも、そして懲りないロシアまでも、いや全世界が恐ろしく単純化していっている。

単純化した「世界のトラウマ」は解決できるのだろうか。

 

 

もしかすると人類は根源的な何かに怯えているのかもしれない。その何かは断片的な現象でしかわからないが、性別とかそんなもんでなく、死に関わる何かに怯えているのではないのか。いやもっと、人類存続の何かに怯えている。一様に閉じこもるのは経済だけではない。

そこには全世界を横断するニュースの影響もある。ただそれはかなり断片的だ。

もしかすると地球が母であることを止めた、そう感じているからかもしれない。