昔の今戸焼や今戸焼の土人形を広く観ていただいて、地場産業として盛んだった頃の今戸焼の製品についてこういうものがあった、とあくまで氷山の一角ですが知ることを共有してもらえたらと思ってのカテゴリーなのですが、春以来日々の話などに偏っていてこうしてご紹介するもの久しぶりです。
画像は瓦質のおかめの火入れです。
以前このカテゴリーで土人形式の素焼きに胡粉地塗り、顔料で彩色したおかめの火入れ2点をご紹介していますが、今回のものは瓦質なので真っ黒いだけです。
こういう仕上げは今戸焼といっても土人形などを作った人々とは別の瓦屋さんとか黒物屋さんといった職分の人たちの手で作られたものなのだと思います。
しかし画像を観ていただくと、型としては以前ご紹介した土人形式の火入れ①ともとは共通するモデリングなのではないかと思うのです。画像のものは地面に接する辺りがいくらか寸詰りになっていてその分顔と胴との割合が半々くらいに見えますが、型としてはもとはもっと裾の部分が長い元型から型どりする際に裾を詰めたのではないかと考えれるような気がするのですがどうでしょうか?画像では真底を撮っていないのですが、この火入れの底の処理は土人形式の火入れとは異なっています。土人形式のものだと多くは底はあげ底に作られていますが、画像のものは下から3枚目のたたら(土板)をただ平に当てただけです。画像正面の底に接する部分から上に底に当てた「たたらの厚み」が見えます。使い勝手とか機能性で考えるならば、底があげ底になっていたほうが、火入れの中に入っている火種からの熱の伝わりが少なくてよいのではないかと思うのですが、これは真っ平らです。
今戸町内または川上の隣町である橋場あたりで瓦が焼かれていたというのは明治も早い時期で明治終わりには瓦を焼く家はいなかったとか。しかし瓦を焼く家はもっと川上の荒川区の小台とか宮城、北区の豊島あたりにもっとあとまで残っていたと聞きますし、川向こうの墨田区、さらに東の葛飾区足立区あたりには昭和はじめくらいまではいたのではないでしょうか?
また黒物屋さんといって火消し壷とか手あぶり、火鉢、土風炉などを作る家は昭和のはじめの記録までは今戸町内にいたようですし、元今戸にいて代々東に移った人々もあったそうです。明治のはじめに今戸に橋本3兄弟という黒磨きの名人と呼ばれた兄弟の職人さんがいたという話はよく目にしたり聞いたりしました。
ちょっとよくわからないのですが、瓦焼きの場合、「松の枝を焼成の途中で炉に投げ込んで密封しておくと煤けて瓦になる」という話を読んだり聞いたりしたことがある一方、「黒磨き」や「雲華」仕上げにする場合、「素焼きの生地を磨いてから黒鉛の粉を溶いて塗り再び焼いてから磨く」のだと読んだり聞いたりしてもいるのですが、画像のような場合は松の枝なのでしょうか?それとも黒鉛なんでしょうか?わかる方にお教えいただきたいです。20年くらい前に今戸で燃料品屋さんをしていた明治生まれのおじいさんがいらっしゃって、昔のことをたくさん聞かせてくれたのを思いだします。その中で松の枝は船で茨城県の岩井辺りから運ばれてきて窯元に収められていたというのです。船は大きな帆をもった船だったとか。