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〇△議事録ではなく発言者名記載を~請願署名開始

2019-12-20 17:44:04 | 福岡市政

今月16日、(代表を務める)福岡市の市民団体「福岡市議会改革市民検証委員会」は、福岡市議会へ「議会の公開性向上を求める請願」を提出した。1つは(先月、毎日新聞が福岡市の匿名議事録について大きく報じていたが)常任委員会の議事録は〇△(匿名)ではなく、きちんと発言者名を記載すること。もう一つは、すべての常任委員会や特別委員会でインターネット中継を行うことである。この請願には、共産党全6名、緑と市民ネットワークの会全2名、福岡市民クラブ2名、無所属1名(計11名)の議員の方々が賛同、紹介議員になっていただいた。

こうした中、12月議会最終日(18日)、今期の議会改革調査特別委員会が設置された。委員会で配布された資料(下参照)を見ると、まず議会基本条例について議論された後、議会改革について議論される予定となっている。議事録の発言者名記載やインターネット中継はここで議論される。これまでの流れをみると、前向きな意見がある一方で名前を載せるのなら発言時間を制限すべきだという会派や議員もいて、先行きは不透明な状況になっている。そこで、市民検証委員会は12月議会中に請願を提出して、署名を開始した。多くの市民の声が集まれば状況は変わるはずだから。(いうわけで、ここで請願署名のお願いをさせていただきます)


《ご賛同いただける皆様へ》

請願内容にご賛同いただける方がおられましたら、福岡市議会改革市民検証委員会のホームページに請願書(pdf)が掲載されていますので、そちらを印刷・署名の上、集約先住所までお送り下さいます様、よろしくお願いいたします。

福岡市議会改革市民検証委員会ホームページ(請願書)

福岡市議会改革市民検証委員会ブログ



 16日に提出した請願

委員会議事録が匿名なのは政令市では福岡市だけ 誰が賛成、反対したかわからない状況  

 

 

 

今期の議会改革調査特別委員会で議論される内容

 

 

《関連記事》

議会改革で調査特別委 福岡市議会が設置 /福岡(毎日新聞 2019.12.20)


 


小国町・はげの湯から涌蓋山へ

2019-12-16 22:16:00 | 山・火山

今月7日、山田堰へ立ち寄った後、小国町へ。(節目の誕生日に中村哲氏が亡くなり、お祝いどころではなかったが予約をしていたので)はげの湯温泉で一泊、翌日(8日)、涌蓋山へ登った。はげの湯近くの登山口からだと一時間半程で登れるショート(直登)コースである。紅葉も終わり、花のシーズンでもないので、登山者は少ないだろうと思っていたら、山頂は予想以上に賑わっていた。

涌蓋山は大分県玖珠郡九重町と熊本県阿蘇郡小国町の県境にあり、九重連山の西に位置する独立峰である。山容はなだらな円錐形をしており、その姿から大分県側では玖珠富士、熊本県側では小国富士と呼ばれている。民話によれば、涌蓋山の北にある万年山(標高1140m)が背比べで負け、腹を立ててこの山を跳ね飛ばしたところ、涌いたようにこの場所に山ができたので、涌蓋山と呼ばれるようになったとか。山頂からは360度の絶景が満喫できると言われているとおり、東に九重連山、南に阿蘇山を一望することができた。

前日(7日)は、玖珠町から霧氷に覆われた真っ白な九重連山が見えていたが、残念ながらこの日は朝から気温が上昇したため、すっかり溶けてしまっていた。涌蓋山ははじめてだったが、これから厳冬期、雪に覆われたくじゅうを眺めるのもよいかもしれない。

(掲載が遅くなりました)

 

 撮影日:2019.12.8

涌蓋山山頂から見た九重連山 左に小さくポッコリ飛び出しているのが大船山、右に最高峰中岳 それにしても雪がない、、

 

 

 

 

阿蘇方面 目の前に阿蘇小国ウインドファーム 遠くに阿蘇中岳 

 

 

 

 

 

はげの湯温泉郷 噴気の中を通って登山口へ 

 

 

 

 

 

ここからスタート(牛の放牧道)

 

 

 

 

これから牧草地帯へ(今の時期、ススキに覆われて登山道がわかりにくいので要注意、尾根筋を歩いて)

 

 

 

 

プチ霜柱

 

 

 

 

牧草地帯を上り詰めたところ(眺望が良い)

 

 

 

 

ふたたび標識(山道かと思ったら)

 

 

 

 

林道へ出た

 

 

 

 

ここから直登(といっても大船山東尾根ほどではない)※写真は下山時に撮ったもの 登山時は車が何台か止まっていた(上の駐車場)

 

 

 

 

クマザサとクヌギの群生(風を避けるため低く横に伸びているのかな?)

 

 

 

 

クマザサも白く

 

 

 

 

徐々に高度を上げていくと安山岩の露頭が見えた 女岳かな

 

 

 

 

大パノラマ はげの湯・岳の湯温泉郷が小さく見える

 

 

 

 

山頂付近、うっすら霧氷

 

 

 

 

馬酔木にも

 

 

 

 

阿蘇山、噴火中

 

 

 

 

この冬、初エビの尻尾

 

 

 

 

涌蓋山山頂(国土地理院地図は標高1499.6m)





どうしてここに?

 

 

 

 

二等三角点(国土地理院の資料をみると1974年以降観測されている)建設省が懐かしい、、

 

 

 

 

ガス上昇中、、

 

 

 

 

八丁原地熱発電所の噴気   遠くに見えるのは祖母、傾山かな

 

 

 

 

下山、ふりかえって涌蓋山をみる  

 

 

 

 

こちらは前日(7日)の九重連山(玖珠町より撮影)

期待していたけれど、、また来年

 

 

 


中村哲氏を偲んで、山田堰へ(12月25日更新)

2019-12-09 22:39:19 | 中村哲医師

昨日(8日)、中村哲氏が無言の帰国。今朝10時すぎ、福岡へ戻ってこられた。福岡空港には九州各地で暮らす多くのアフガニスタンの人達が出迎え、中村氏の死を悼んでいた。今夜は大牟田市のご自宅でご家族と最後のひとときを過ごされる。(なお、告別式は11日午後1時から福岡市中央区のユウベル積善社福岡斎場で執り行われ、お別れ会は来年1月25日に予定されている)

先週末、小国へ向かう途中、朝倉市の「山田堰」へ立ち寄った。中村さんを偲ぶにはここが一番だと思ったからである。「山田堰」は県道386号線と588号線の交差地点にあり、筑後川中流に位置する。今からおよそ230年前、水田に水を引くためにつくられた灌漑設備である。水門部分は、恵蘇八幡宮御陵山から連なる岩盤をくり貫いてつくられており、切貫水門と呼ばれる。また、ここは筑後川が左に緩やかにカーブしているところで、それに斜交するように石畳が築かれている。そのため水はカーブの外側(右岸)に設置されている水門へと流れ込む。流れ込んだ水は、堀川用水を通って田畑へ送られる。平水時は「船通」や「土砂吐」部分を水が流れ、増水時には石畳全体を水が越えるため、堰は守られる仕組みになっている。これほど自然の地形を上手く利用した施設はないということで、5年前、世界灌漑施設遺産に登録されている。山田堰は何度も洪水に遭いながら、先人たちの努力によってほぼ原形をとどめている。(下写真参照)

実際に見てみると、その素晴らしさがわかる。中村氏はこの工法を利用し、大干ばつで苦しむアフガニスタン人のために7年の歳月をかけ、クナール河水系から取水、マルワリード灌漑用水路(25.5km)を完成させた。その後も水路は改良されながら各地に建設され、今では65万人のアフガニスタン人の命の水源となっている。また、用水路沿いには約75万本もの植樹が行われ、ガンベリ沙漠は緑の森へと変わった。これほどの偉業を一人で、しかも紛争地で成し遂げた中村哲氏。偉大としか言いようがない。

しばらくここにいると、何人かの方が訪れた。「ここが山田堰ですか」と尋ねられたりもした。聞き返してみると、”思い”は同じだった。帰り際、道路の向こう側にある恵蘇八幡宮へ。中村さんが亡くなったことを報告し、ご冥福をお祈りした。

 

 

撮影日:2019.12.7

山田堰と筑後川

 

 

 

 

 水門入口と石畳 

 

 

 

 

土砂吐

 

 

 

 

堰図 

 

 

 

 

山田堰土地改良区事務所と水神社本殿 この下に用水路が通っている 

 

 

 

 

案内板の横に見事な大楠

 

(古賀百工石碑を撮るのを失念)

 

 

下から見る こんもりとした森が恵蘇八幡宮御陵山(中央に見えるのが古賀百工の石碑)

 

 

 

 

恵蘇八幡宮  ご冥福を祈って 

 

 

 

《参考資料》

朝倉市山田堰

山田堰土地改良区「山田堰・堀川用水路」の歴史

 

《関連記事》

山田堰に光「中村哲先生のおかげ」 アフガン潤した先人の知恵に着目(西日本新聞 2019.12.06) 

【動画あり】先人の知恵、遠い異国でも 朝倉市・山田堰(西日本新聞 2019.12.25)※ドローン撮影、地形がよくわかります

 

 


中村哲医師を悼んで

2019-12-06 08:50:50 | 中村哲医師

12月4日、ペシャワール会の中村哲医師が武装集団に銃撃されて亡くなった。一番亡くなってはいけない人が、一番亡くなってはいけない場所で、一番亡くなってはいけない亡くなり方で、亡くなった。4日午後3時すぎ、衝撃的なニュースがツイッターに飛び込んできた。一瞬、心臓が止まりそうになった。ただ銃撃されたものの命に別状はないとのことだったので安堵していた。ところが、間もなく”死亡”のニュースが入ってきた。驚くと同時に涙が出そうになった。

中村氏の講演を初めて聞いたのは、今から18年前、3.11同時多発テロのあった2001年11月のことだった。ペシャワール会のこともその時に知った。九大六本松校舎の教室で語られたのは、武力では何も解決しないということだった。アメリカは、同時多発テロはアルカイダによるものとし、アフガニスタンへの武力攻撃をはじめていた。女性や子供まで皆殺しにされる様を「爆弾は人を区別できない」と怒りを込めて話されていた。講演後、中村氏と直接話がしたくて、あとを追いかけ近づいたところ、背中からオーラのようなものすごい力を感じて、声を出すことができなかった。あの時の中村氏の背中が今も目に焼き付いている。

2013年9月、福岡市アジア文化賞を受賞された。この時は「アフガニスタンに生命(いのち)の水を~国際医療協力の30年」と題し、特別講演が開催された。アフガニスタンでは1970年代から干ばつが悪化の一途を辿っていた。2000年には大干ばつに見舞われ、深刻な水不足により多くの人が亡くなっていた。そこで、中村氏は「100の診療所より1本の用水路を」と訴え、井戸を掘る活動をはじめられた。これまで飲料用1600本と灌漑用13本の井戸を掘って、2003年からは用水路建設もはじめられた。今回、銃撃に遭われた東部ナンガルハル州にある「マルワリード用水路」は2010年3月に開通、灌漑面積は実に3000haに及ぶ。ご存じのように、工事は福岡県朝倉市の「山田堰」がモデルとなっている。近代的ではなく伝統的な工法を用いることで、現地の人たちが建設、維持管理できるように考えてのことだった。この講演では、温暖化による気候変動にふれ、このまま便利な暮らしを続けていれば、いずれ日本でもアフガニスタンで起こっているような洪水や砂漠化が起きるだろうと憂いておられた。(アフガニスタンではここ数年、気候変動による影響が著しい)

2016年1月、九州国立博物館開館10周年記念行事として開催された講演を聞いたのが最後になってしまった。この講演では、緑の大地計画は2020年まで続く、今後は現地のスタッフを育てていかなくてはならないと話されていた。そして、結びの言葉は、「人間と人間が仲良くしないといけない」だった。武力では何も解決しないと言い続け、人を信じることを支えに危険な地域で30年以上にわたり活動を続けてこられた中村氏。その生きざまは日本だけでなく世界の人々の心を動かした。失ったものの大きさは計り知れない。悲しみは尽きないが、今はただ、中村氏が残された言葉を心に刻み、ここに哀悼の意をささげたい。

 

 

今年4月頃、中村哲氏の背後にはガンベリ砂漠から変わった緑の耕地が広がる(写真は5日付西日本新聞より) 

 

 

こちらは12月5日付西日本新聞4面

 

 

 

福岡アジア文化賞で九大アフガニスタン留学生の方から花束が贈られた時の写真(2016.9.14撮影)

 

 

受賞したことより賞金で重機が買える、と笑っておられた中村さん。いつもふらっと日本に帰って来ては、またふらっとアフガニスタンへ行かれていた。治安は大丈夫なのだろうかと不安に思うこともあったが、いつしかそう思うこともなくなっていた。この人だけは大丈夫なのだと。それなのに、、私が生まれた日に亡くなるなんて、、もう死ぬまでこの日を忘れることはなくなった。

  

 

《参考記事》

NHK「中村哲医師」のニュース一覧 ※随時更新中

西日本新聞【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】※最新の報告は亡くなる2日前もの

 

《参考資料》

ペシャワール会