yamanba's blog

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山田堰、豪雨で被害 復旧工事はじまる

2022-03-30 15:50:30 | 中村哲医師

筑後桜めぐりの帰路、筑後川をわたり朝倉インターへ向かっていたところ、遠くに大型クレーンが見えた。もしかして、山田堰あたりか。気になって、急遽、現地へ向かった。(運転手は相方なので誘導しているだけ)

中村哲医師・記念碑前の駐車場の桜も満開だった。そこから歩いて山田堰へ行くと、石畳の上に土嚢が並べてあった。水が堰き止められ、そこに作業用の道路ができていた。道路脇には土留め用のテトラポットが投げ込まれていた。護岸工事なのか、それとも山田堰自体の工事なのか、工事表示板が見当たらなかったのでわからなかった。

翌日、国交省九州整備局・筑後川河川事務所に問い合わせてみると、管轄は朝倉市ということだった。そこで、指定された朝倉市農地林道災害対策室に電話をしてみたところ、山田堰自体の工事だと言われた。聞くと、5年前の九州北部豪雨で山田堰も被害を受けていたという。工事は今年になって着手され、年内一杯かかるとのことだった。もう少し詳しく内容を知りたかったので、市のホームページに掲載されていないか尋ねたところ、そこまではしていないと言われた。何か怪しげに思われたのか、朝倉市民かと聞かれたので福岡市民だと答えた。中村哲医師のご縁で度々山田堰に来ている旨を伝えたが、これ以上、話を聞くのは無理だと感じ、電話を切った。

2019年12月4日、中村哲医師が亡くなった直後に山田堰を訪れた。その時、護岸が崩れているのは確認していたが、堰が被害を受けていたのは気付かなかった。(堰の造作は素人が見ただけではわからないだろうが)報道もされていないようで、知る由もなかった。ともかく、梅雨時期、被害に遭わずに無事工事が終わってくれればと思う。

 

 

撮影日:2022.3.27

山田堰に土嚢が並ぶ

 

 こちらは2019年12月7日撮影 

 

 

石畳の上に道が

 

 

 

 

山田堰土地改良区事務所 大楠のそばに新しい看板が

 

 

 

 

中村哲医師の偉業を称えて

 

 

 

 

中村哲医師記念碑(きっと見ておられるにちがいない)  

 

 

 


中村哲医師 記念碑完成

2021-03-02 19:02:00 | 中村哲医師

先月27日、山田堰のほとりに、中村哲氏の功績をたたえる記念碑が完成したとのことで、大山からの帰路、立ち寄った。杷木ICで降りて、筑後川沿いの386号線を福岡方面へ向かうと、間もなく山田堰(大楠が目印)が見えてくる。記念碑は、その展望広場につくられていた。この日、西日本新聞に記事が掲載されたこともあって、訪れる人の姿が見られた。ご年配の方からお若い方まで様々。

逸る気持ちを抑えて記念碑に向かうと、そこにはにこやかに微笑む中村氏の姿があった。一礼して手を合わせ、ようやく戻って来られたと思った瞬間、目頭が熱くなった。背後には筑後川が流れ、山田堰が水を受けていた。中村氏はこの風景を眺めながら、アフガニスタンの人々に思いを馳せ、その生涯をささげられた。

記念碑には、山田堰の改修に生涯をかけた朝倉市の偉人・古賀百工を偲んで、中村氏が詠まれた句「濁流に 沃野夢見る 河童かな」が刻まれていた。その横には、アフガニスタンの記念塔を模してつくられた石塔が立っていた。そこには座右の銘「照一隅」が刻まれていた。中村氏を偲ぶために多くの人がここを訪れ、朝倉の地から世界へ、その功績は未来永劫、語り継がれていくことだろう。

 

 

撮影日:2021.2.28 山田堰展望広場にて

中村哲医師記念碑  石碑と石塔(御影石) 

 

 

 石塔は「ドクターサーブ ナカムラ記念塔」を模してつくられた(写真:ペシャワール会HPより)

 

 

 

石碑 山田堰(カーブ)と筑後川の水の流れ(波)をイメージしているよう

 

 

 

 

 

微笑んで、、(黒御影石にレーザー彫刻がされていた)

 

 

 

 

 

石塔に「照一隅」(一隅を照らす)  

 

 

 石塔細部(水抜きが施してあった)

 

 

 

100の診療所より1本の用水路

 

 

 

 

 

水の流れる音が聞こえる

 

 

 

 

 

山田堰が見える

 

 

※山田堰については、こちらに掲載しています。よろしければご覧下さい。(中村哲氏が亡くなった直後に訪れた時のものです)

 

 

《関連記事》

「山田堰」見渡す地に中村哲医師の碑(西日本新聞 2021.2.28)

 

《参考資料》

朝倉市山田堰 

堀川の恩人「古賀百工」

 


良心を束ねて河となす〜医師・中村哲73年の軌跡〜

2021-02-18 16:48:18 | 中村哲医師

遅ればせながら、昨夜(17日)、NHKBS1で再々放送された「良心を束ねて河となす~医師・中村哲73年の軌跡~」を見た。これは、昨年12月4日、中村哲氏の命日に九州限定で放送された「理屈やなかろうもん~医師・中村哲73年の軌跡~」の拡大版だった。というより、「理屈やなかろうもん」がダイジェスト版だった。「理屈やなかろうもん」では(カットされていたせいか)よくわからなかったことも、今回の放送で合点がいった。「良心を束ねて河となす」は、前編と後編に分かれ、前編は中村氏の幼少期から医者としてアフガニスタンへ赴任されるまでを、後編は飢餓に苦しむ人たちのために用水路建設に奔走された中村氏を紹介していた。

後編のエピソード。2009年、6年の歳月をかけてマルワリード用水路が完成した。その数か月後、クナール河で大洪水が発生、用水路や堰は壊滅的な被害を受けていた。その時の映像を初めて見たが、現地の人はすぐに動きはじめ、中村氏は朝倉市にある山田堰を訪れていた。そこで、3日間、中村氏は堰を見続けていたと山田堰土地改良区前理事長の徳永哲也さんは話している。筑後川は暴れ川で過去幾度も洪水に遭遇している。にもかかわらず、数百年経った今も堰は昔のままである。なぜか。中村氏は山田堰(斜め堰)が直線でないことに気付く。山田堰を模範としてつくられたカマ堰だったが、緻密なところが違っていたのだ。そして、1年半後、カマ堰は見事に復活した。

その後もアフガニスタンでは洪水と干ばつが続いている。今は現地の人たちの手で改修工事が行われ、徐々に灌漑事業は進められている。中村氏の遺志は受け継がれている。今頃、きっと天国から笑って見ておられるに違いない。(あの笑顔が忘れらなれない)

 

写真:NHK「良心を束ねて河となす~医師・中村哲73年の軌跡」より

タイトルどおりの内容だった  

 

 

 

 

模範とされた山田堰(福岡県朝倉市) 洪水時、中央に水が流れるよう堰は微妙にカーブしている 

 

 

堰と取水口の位置関係を示す場面ではあえて直線で描かれていた

 

 

 

 

中央に水が集まるよう改修されたカマⅡ堰

 

 

 

 

2019年4月、アフガニスタンを訪問された徳永さんに堰を見せて自慢気に話されていたと これが最後となった、、

(余談)徳永さんには昨年のお別れ会の帰り際、偶然出会いました。

 

 

 

”誰も行かないから自分が行く” そうして砂漠は緑の森へと変わった

 

 

 

《追記:2021.2.19》

昨年、さだまさしさんが中村哲氏に捧げた歌『ひと粒の麦~MOMENT』をアップし忘れていましたので、今回放送の画像とともにアップしました。よろしければこちらからご覧ください。

 

 

《参考資料》

ペシャワール会ホームページ・灌漑事業

 

 


中村哲医師 一周忌の日に(12月6日更新)

2020-12-05 18:07:17 | 中村哲医師

あの衝撃的な出来事から1年。昨日12月4日、中村哲医師が亡くなって1年の日、こちらはまたひとつ年をとった。昨年はお祝いどころではなかったが、昨夜は、NHK福岡の特別番組「理屈やなかろうもん~医師・中村哲73年の軌跡~」を見て、中村さんを偲びながら、ささやかに祝った。

ところで、中村さんは登山が趣味だった。小学1年から20代後半まで古賀市(当時・古賀町)に住んでいた中村さんは、少年時代、宮若市と古賀市の間に位置する、西山(標高644m)を見て、「あの山に登りたい」と話していたという。それで地域の人が西山に連れて行ったのが、中村さんと登山との出会いだったという。西山ではチョウ採集に熱中していたとも。

九大医学部を卒業後、医師になってからも登山は続けていた。1978年、7000m峰のティリチ・ミール登山隊に帯同医師として参加したのも、登山ができるという理由だった。その時の経験が契機となり、1984年、パキスタン・ペシャワールへ赴任。20年以上にわたってハンセン病患者の医療活動や山岳医療に従事。その後、アフガニスタンへ活動の場を移したあと、「100の診療所より1本の用水路を」と、灌漑事業に邁進していく。そして、現地で事業の後継者を育成していた中で凶弾に倒れてしまった。

追悼番組もいろいろ放送されているが、昨夜のNHK福岡の特別番組は、「福岡県で生まれた中村さんが、なぜアフガニスタンに傾注していったのか。親交のあった人々の証言から、その軌跡をたどる」とあるように、「なぜアフガニスタンだったのか」という視点で描かれていた。人を差別することなく、困っている人を助けたい。ただその思いのみ。そこには自然を愛する一人の少年の姿があった。

昨年は居ても立っても居られず、中村さんを偲んで山田堰へ行ったが、来年は西山へ登ってみようと思う。中村さんの原点なる山へ。

 

 

写真:「理屈やなかろうもん~医師・中村哲73年の軌跡」より

一番右が中村さん 1000メートルは超えているようだけど、、どこの山かな? 

 

今日(6日)の再放送でもう一度、この場面を見てみると、、

 後ろの標識に「船」の文字が、、くじゅう大船山(1786m)だった!

そういえば、1月25日のお別れ会で長男の健さんが、くじゅうに連れていってもらっていたと話されていた。また登りに行こうとも。

 

 

 

1978年、ティリチ・ミール登山隊の帯同医師としてパキスタンへ

 

 

 

 

ヒンドゥークシュ山脈の最高峰、ティリチ・ミール

 

 

 

「理屈やなかろうもん~医師・中村哲73年の軌跡~」の再放送は12月6日午後1時05分より(九州沖縄地方のみ)お見逃しの方はぜひ。

※「良心を束ねて河となす~医師・中村哲73年の軌跡~」12月28日 (月)21:00~21:50(前編)22:00~22:49(後編)(ペシャワール会のホームページより。NHKにはまだ掲載されていませんが、もしかすると今回の拡大版かもしれません)

 

 


中村哲氏へささげる歌『ひと粒の麦~Moment』(2021年2月19日更新)

2020-06-13 22:30:30 | 中村哲医師

さだまさしさんが、中村哲氏にささげた歌が披露されました。間奏とエンディングにべートーヴェンピアノソナタ第8番第2楽章「悲愴」がアレンジされています。ここに、さださんの中村先生への思いが詰まっているのだと感じました。のちに、さださんは歌の神様からお告げがあったと仰っていました。クラッシック好きの中村先生ですから、きっと天国で聞いておられることでしょう。

以下は、「ひと粒の麦~Moment」の歌詞です。You tubeには著作権の関係でアップすることができませんので、ツイッターに投稿した動画でお聞き下さい。タイトルをクリックするとツイッターサイトに移動します。(録音状態はよくありません、あしからずご了承下さい)

 

 

『ひと粒の麦~Moment』 (MUSIC FAIR 6月13日放送より)

ひと粒の麦を大地に蒔いたよ ジャララバードの空は蒼く澄んで

踏まれ踏まれ続けていつかその麦は 沙漠を緑に染めるだろう

戦に疲れ果てた貧しい人達には 診療所よりも一筋の水路がほしい

水があればきっと人は生きられるだろう 爭いを止める手立てに

Moment 薬で貧しさは治せない 

Moment 武器で平和を買うことはできない

Moment けれど決して諦めてはならない

ひと粒の麦の 棺を担う人に 伝えてよ悲しんではいけないと

この星の長い時の流れの中で 百年など一瞬のこと

ペシャワールの山の向こうの見果てぬ夢以外に 伝えたいことは他にはあまり無い

珈琲カップに夕日が沈む頃に ふと思い出してくれたらいい

Moment いつか必ず来るその時まで

Moment 私に出来ることを為せばよい

Moment 私に出来るだけのことを

Moment 薬で貧しさは治せない

Moment 武器で平和を買うことはできない

Moment 夢はきっと引き継がれるだろう

Moment 私に出来ることを為せばよい

Moment 私に出来るだけのことを

 

 

 

写真は、2021年2月17日、NHKBS1で再々放送された「良心を束ねて河となす~医師・中村哲73年の軌跡~」より

たわわにゆれる麦

 

 

 

 

麦畑のむこうに用水路が見える

 

 

 

 

子どもたちに笑顔が戻って、、 (文:ペシャワール会報より)

 

 

 

《参考資料》

ペシャワール会