先住民族関連ニュース

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ならまち暮らし:継子いじめの物語=寮美千子 /奈良

2015-09-17 | アイヌ民族関連
毎日新聞 2015年09月16日 地方版
 人はなぜか、古来より「いじめ」の物語に心惹(ひ)かれてきた。ことに、心清らかで可憐(かれん)な乙女が、嫉妬深い継母(ままはは)にいじめ倒される物語は人気だ。いま制作中の2冊の本も、期せずしていじめの物語だった。
 一つは、アイヌの民話集。札幌にあるアイヌ文化財団の依頼によりアイヌ文化啓蒙のために図書館用に制作しているもので、『フキノトウになった女の子』『カムイを射止めた男の子』に引き続き、3冊目になる。
 今回の収録作品の一つが「わたしのおばが草小舟にわたしを乗せて流す」で、ガラスの靴こそ出てこないが、シンデレラ物語にそっくりだ。シンデレラはカマドのそばで眠っていて「灰かぶり」と呼ばれたが、アイヌ民話の主人公も囲炉裏(いろり)の下座に置かれ、いつも泥まみれだ。他にも類似点がいくつもあり、シンデレラ物語が伝播した可能性もある。
 奈良時代の奈良の都を舞台にした「中将姫」の物語も、典型的な継子(ままこ)いじめ物語に分類される。結末が幸せな結婚ではなくて、阿弥陀如来(あみだにょらい)と二十五菩薩(ぼさつ)のお迎えにより、生きながら西方浄土へ召されたとする点が、典型的なシンデレラ物語とはひと味違うが、ある種のハッピーエンドである点は同じだ。
 「継子いじめ」の物語の源流はどこにあるのか。いまのところ文字として記された最古ものは、明治の博物学者・南方熊楠が発見した、9世紀の中国の「葉限(イエシェン)」だという。その後の研究により、同様の物語が、ヨーロッパや中国から南洋にいたるまで、世界中に散らばっていることがわかった。そのどれが「元の話」なのか、結論はまだ出ていない。
 「草の舟」も「中将姫」も、大陸から伝播した継子いじめ物語の変形なのだとしたら、「草の舟」のアイヌの娘と中将姫は、姉妹ということになる。それがいま、わたしのなかで出合っている。なんだか、不思議だ。
 大和朝廷は、北の先住民「蝦夷(えみし)」を征服した。その蝦夷が、後にアイヌ民族になっていったという説もある。アイヌ民族は迫害され、その困難はいまも続いている。わたしたちの多くは、いわば「いじわるな継母」の立場なのだ。
 迫害してきた者も、されてきた者も、純粋で健気(けなげ)な乙女に同情するやさしい心を持っている。根底では、人は同じ心根を持っているのだ。だからこそ「継子いじめ」の物語は、これほどまでに人の心をつかみ、世界中へと伝播していったのではないか。疑心暗鬼で互いに武装するのではなく、「やさしさ」の部分で世界の人々とつながれたら、と思う。(作家、詩人)=次回は9月30日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20150916ddlk29070568000c.html

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登別で19日知里幸恵フォーラム「アイヌ神謡集を読む」

2015-09-17 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2015年9月16日(水)朝刊】
 NPO法人知里森舎(横山むつみ理事長)が主催する登別出身のアイヌ女性・知里幸恵(1903~22年)の功績を伝えるフォーラムが19日午後1時から、登別市中央町のホテル平安で開かれる。今年は幸恵の生涯を紹介する銀のしずく記念館(登別本町)の開館5周年の冠を付けた。広く幸恵の業績を紹介するため著書「アイヌ神謡集」の内容にスポットを当てる。横山理事長は「アイヌ文化を身近に感じてもらえれば」と来場を呼び掛けている。
 幸恵はアイヌの口承文学を民族として初めて著し「アイヌ神謡集」として上梓したことで世界的に知られている。19歳の若さで亡くなった。神謡集は英語、フランス語、ロシア語などに翻訳されている。
 フォーラムは幸恵の功績を後世に伝え、アイヌ文化に理解を深めてもらう目的で2000年(平成12年)から毎年開いている。室蘭民報社などが後援する。今回のテーマは「アイヌ神謡集を読む」。
 講演では、東京外国語大学大学院非常勤講師でアイヌ文学を専門とする志賀雪湖さんを招き、神謡集が世界的に評価される理由などをひも解く。
 このほか、平取アイヌ文化保存会が民族芸能の歌舞を披露し、来場者と交流する。
 横山理事長は「神謡集の中身を学び、いろいろな地方の歌や踊りで交流してもらいたい」と期待を寄せている。
 参加無料。希望者は直接会場へ行くとよい。問い合わせは知里森舎(電話0143・83局5666番)へ。
(粟田純樹)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2015/09/16/20150916m_05.html


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関西のうどんつゆは、なぜ透明?その裏には壮大な「昆布の」歴史が!

2015-09-17 | アイヌ民族関連
Business Journal (風刺記事) (プレスリリース)-2015.09.16
文=熊谷充晃/歴史探究家
 関西の人が関東の温かいうどんやそばを初めて見たとき、つゆが真っ黒なことに驚くという。関西人であれば、実際にその経験をしたことがある人もいるだろう。また、ほかの地域に住む人も、この話を一度は耳にしたことがあるかもしれない。
 関西と関東のつゆの色の違いは、使うしょうゆの種類が違うからであり、さらにいえばだしが違うからである。関東はかつお節を主体にだしを取るのに対し、関西は昆布をメインにすることが多く、それが色の違いにも影響しているわけだ。
 その昆布だが、現在、主要な産地として知られるのは北海道だ。天然ものに限れば9割を超えるシェアを誇っている。「日高昆布」や「利尻昆布」など、北海道産の昆布は、全国のスーパーなどで売られる定番商品となっている。
 余談だが「昆布」という言葉は、そのまま単語として掲載する英語圏の辞書もあるほどで、化学者の池田菊苗が昆布から抽出して発見した第5の味覚「うま味」ともども、海外に通用する日本発の名詞である。
 日本では昔から、寒流のある地域が昆布の産地であったが、江戸時代に入ると、近畿地方も主要な消費地として台頭してくる。その結果、「関西は昆布だし」という、現在に見られる食文化が定着するのだ。それに深く関係していたのが、江戸時代を通じて物産輸送の花形でもあった「北前船(きたまえぶね)」だ。
 これは、蝦夷(現在の北海道)と「天下の台所」である大坂(おおざか:現在の大阪)を、日本海経由で結ぶ輸送システムだ。青森県や山形県の酒田市、新潟県、連続テレビ小説『まれ』(NHK)の舞台として注目を集める石川県の輪島市、福井県の敦賀市や島根県の浜田市などの物資集積地を巡り、山口県の下関市から瀬戸内海に入り、兵庫県の神戸市から大坂へ……。
 なぜ、この航路が選択されたかというと、日本海沿岸は古来、舟運が盛んだったからだ。「日本海の荒波」というイメージが強い現代人にはピンと来ないかもしれないが、日本海沿岸は、昔から比較的安全に航行できるルートとして認識されていた。
 内燃機関や原子力まで使える現代と違い、当時の船は海流や風力、人力に頼るしかなかった。日本海では、その海流が船の往来に適していたのだ。すでに中世では、アイヌとの交易を盛んに行う蝦夷や陸奥国の有力者が、上方(京都や大坂をはじめとする畿内)を相手に商売をしていた。
 アイヌがもたらす物産は、どれも上方や江戸では目にすることができない珍奇なものばかりだったという。そして、そのなかに昆布もあった。当時は養殖技術がないため、漁獲高は現在よりはるかに少なく、そのため希少価値も高かった。後には、幕府の肝いりで生産高アップのための施策が採られ、昆布はそれなりに安価でおいしい食材という立場を手にする。
大坂で熟成が進んだ昆布
 昆布は腐敗防止のために、今と同じように乾燥させて運搬されたが、大坂は蝦夷に比べて高温多湿だ。これが、昆布にとってはラッキーだった。熟成が進み、おいしさがアップしたおかげで、畿内はおろか、江戸にも昆布のおいしさが広まっていく。
 そして、昆布の旅路の終着駅・大坂では、大量に届いた、うま味を増した昆布でだしを取るという食文化が発達していくわけだ。
 北海道の松前漬けをはじめ、とろろ昆布や昆布締め、昆布の佃煮といった郷土料理は、日本海沿岸に集中している。これも、北前船のおかげで、昆布という食材に触れやすかった地域が、独自に昆布のおいしい食べ方を育んできた結果だ。
 ちなみに、北前船が制度化する以前の中世は、現在の青森県に存在した「十三湊」が一大集積地として機能していた。江戸時代になると、その役目は敦賀に移ったが、これは目端が利く近江商人が、蝦夷開発による大儲けをしていたためである。敦賀は琵琶湖を挟んで京都と大坂の対岸にあり、畿内と日本海を結ぶ最短ルートでもあったからだ。
(文=熊谷充晃/歴史探究家)
http://biz-journal.jp/2015/09/post_11576.html

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台湾先住民ゆかりの「国宝」が“結婚” 盛大な儀式に多くの参加者

2015-09-17 | 先住民族関連
中央社フォーカス台湾- 2015/09/16 17:11
(台北 16日 中央社)今年3月に文化部によって国宝に指定された台湾原住民(先住民)パイワン族の「佳平旧社金禄勒頭目家四面祖霊柱」と呼ばれる人型が彫られた木柱が国立台湾大学人類学博物館(台北市)に“嫁入り”し、12日には盛大な結婚の儀式が執り行われた。
台湾大によると、木柱はもともと屏東県泰武郷の集落にあり、日本統治時代だった約80年前に台北帝国大学(現・台湾大)に持ち込まれたという。家屋を支える柱として使われたとみられる。柱の四面に人型が彫られているのは珍しい。指はそれぞれ6本あり、地元では女性の先祖ではと伝えられている。
会場には80人を超えるパイワン族の人々が詰めかけ、伝統のブランコや料理などが用意された。台湾大では結婚を通じて大学と集落の結び付きを深められたらとしている。
(陳葦庭/編集:齊藤啓介)
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201509160011.aspx


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岩と岩の間を風が吹き抜ける谷は アボリジニが聖地として崇めた場所

2015-09-17 | 先住民族関連
インフォシーク-2015/09/16 12:00
Magnificent View #715
カタ・ジュタ(オーストラリア)
(C) Robert Harding Images / Masterfile / amanaimages
 オーストラリア中央部のレッドセンターに位置するカタ・ジュタ。最高地点は546メートルのオルガ山で、赤味を帯びた36の岩山が連なる一帯は、ウルル=カタ・ジュタ国立公園として世界遺産にも登録されている。
「カタ・ジュタ」とは先住民族アボリジニの言葉で「多くの頭」と言う意味。その名の通り、形の異なる岩々は、遠くから眺めるとまるで生物の頭のようにも見える。
 2万年以上も前からここで暮らしてきたアボリジニにとって、カタ・ジュタは聖地。数々の神話も残り、そのひとつによれば、この山の頂上にはワナンビと呼ばれる虹色の蛇が頂上に住んでいて、乾期になると下山するという。
 カタ・ジュタの中でも知られているのが、「風の谷」と呼ばれる場所だ。ここには往復約4キロのトレイルもあり、入り組んだ岩と岩の間を吹き抜ける風の音を聞きながら散策することができる。
文=芹澤和美
http://woman.infoseek.co.jp/news/trend/creabunshun_8679

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古代文化財:「返して!」 エジプトの座像、英博物館が競売 買い戻し寄付募集

2015-09-17 | 先住民族関連
毎日新聞 2015年09月16日 東京朝刊
 英国の博物館で展示されていた古代エジプト書記座像の競売を巡り、英国とエジプトで騒動が起きている。落札価格は1576万ポンド(現在のレートで約29億3000万円)で、「古代エジプト文化財の最高額記録」を更新。文化財の流出を懸念するエジプト当局は、座像を取り戻すため国民に買い戻し資金の寄付を募る方針だが、先行きは明るくない。【カイロ秋山信一】
 「博物館が自ら古代エジプトの文化財を売るなど前代未聞だ。人類とエジプトの文化遺産に対する倫理的な犯罪だ」。8月下旬、エジプトのダマティ考古相(当時)は座像を競売にかけた英中部ノーサンプトンの博物館を厳しく非難。座像を買い戻すため、国民から寄付を募る考えを示した。
 考古省によると、競売にかけられたのは約4500年前に作られた古代エジプト王国の高級書記セヘムカの座像(石灰岩製、高さ約75センチ)。ギザの3大ピラミッドと同時期に作られたとみられる。発掘の場所や経緯は不明だが、座像は1849年ごろ、ノーサンプトン侯爵がエジプトから持ち出し、1866年に侯爵家から博物館に寄贈された。
 ノーサンプトンの公立博物館は2014年7月、改装費用などに充てるため、競売大手クリスティーズの競売に出品。400万〜600万ポンドの予想価格を大幅に上回る額で落札された。落札者は不明だが、中東の衛星テレビ局アルアラビーヤによると、カタールの首長一族だとの未確認情報がある。
 落札直後から英国の文化財保護団体などが抗議運動を始め、博物館などを管轄する公共団体・イングランド芸術評議会は「収蔵品の取り扱いの基準を逸脱した」として、ノーサンプトンの博物館を5年間の財政支援停止などの処分にした。書記座像の購入者は海外への搬送を希望したが、英政府は輸出を一時的に禁止した。
 だが、英政府は今年8月28日までに「座像を買い戻すための真剣な申し出」がなければ、禁輸措置を解除すると表明。エジプト考古省は禁輸措置の延長を求めて、買い戻しの意思を表した。禁輸措置は来年3月まで延長される可能性もあるが、英政府はいまだ対応を明らかにしていない。
 禁輸措置が延長されても買い戻しが実現するメドは立っていない。「政府にできるのは寄付を呼びかけることだけ」。海外にあるエジプトの文化財を取り戻す運動を担当する考古省のアリ・アフマド氏はそう漏らす。11年の革命以降、エジプトは観光業が打撃を受け、博物館や遺跡の入場料収入に頼っていた考古省の予算も切迫。職員の給料未払いも起きている。考古相の寄付の呼びかけにも反応は薄いという。
 ◇現在も続く密輸や盗掘
 英国で法的措置をとるのも難しいという。座像の持ち出しの経緯は不明で、合法的に購入された可能性も否定できない。800年ごろのエジプトの統治者が「芸術品の無許可輸出を禁じた」との説を根拠に、「不法な持ち出しだ」と主張する司法関係者もいるが、アフマド氏は「不当な持ち出しだという証拠がなく、訴訟になれば負けるのは必至だ」と説明する。
 エジプトでは1983年に文化財保護法が制定され、文化財の売買を禁止し、無許可の国外持ち出しに罰則規定ができた。しかし、それ以前は文化財の売買が横行。現在に至るまで文化財の密売や盗掘は続いている。アフマド氏は書記座像について「公に展示されるのであれば、エジプト政府としても異議を申し立てるつもりはない。だが、私的なコレクションとして闇に埋もれることは容認できない」と話している。
 ◇返還巡る紛争、世界各地で絶えず 統一的な解決策なく
 世界的に有名な文化財の扱いを巡っては、今も関係国間の係争が絶えない。国際条約による問題解決も図られているが、基本的には当事国同士の協議に委ねられているのが現実だ。
 大英帝国時代に収集された貴重な文化財が並ぶため、「強奪博物館」とも言われる大英博物館。最も人気がある展示物の一つ、「エルギン・マーブル」と呼ばれる古代ギリシャの大理石彫刻群は、ギリシャ政府からの返還要求にさらされている。
 彫刻群は、19世紀初頭に英国大使エルギンがオスマントルコ支配下のギリシャのパルテノン神殿からはがして英国に持ち込んだ。「違法に持ち出された」と非難するギリシャに対し、大英博物館は「正式な許可を得ていた」と反論。「文明史を理解するためには、彫刻群を世界中の文化財と関連付けて展示する必要がある」などとの持論を展開している。
 英国はこのほか、旧植民地インドからも「世界で最も有名なダイヤ」と言われる「コヒヌール」(105・6カラット)の返還を要求されている。ダイヤは、英国が19世紀半ばにインド北部パンジャブ地方を併合した際、同地を治める王国から英女王に献上されたとされる。現在は女王の王冠に飾り付けられている。
 フランスも同様の問題を抱える。仏文化省は昨年4月、仏西部ナント美術館に収蔵されているルーベンスの絵画「ユダ・マカバイの勝利」について、ベルギーのワロン地域政府からの返還要請を拒否した。絵画は仏革命軍が1794年、現在のベルギー南西部の大聖堂から奪ったもので、ワロン地域議会が2011年に返還実現に向けあらゆる対策を講じると議決をしていた。
 仏政府は、革命軍による戦利品の返還問題は1815年のウィーン会議で解決済みとの立場。パリ大審裁判所弁護士会所属で、美術品の権利関係を専門とするコリーヌ・エルスコビッチ弁護士(49)は「当事国間の取り決め(ウィーン会議の結果)を、後になって一方的に覆すことはできない」と指摘。「今であれば違法性が問題になっても、200年前の基準では違ったとの考え方だ」と解説する。
 文化財の不法な輸出入や所有権の譲渡を禁じた、1972年発効のユネスコ条約に基づく返還例もある。仏政府は09年、ルーブル美術館所蔵の古代エジプト壁画を返還した。エジプトから不法に持ち出された壁画が、市場関係者を通じて美術館に渡ったのがユネスコ条約発効以後だと判明したからだ。
 相手国に返還する法的根拠がなくても、大統領などの政治判断で、貸し出しなどの形で返還が実現することや、議会が返還のための特別法を制定するケースもある。
 パリのケ・ブランリ美術館に収蔵されていたニュージーランド先住民マオリ族の首のミイラ20点は、19世紀に西欧の冒険家が入手したものだが、仏議会は10年、特別法を制定したうえで返還した。エルスコビッチ弁護士は「返還は法的問題であると同時に、政治判断の問題でもある」と語る。
 英国でも返還例はある。英博物館協会によると、北部スコットランド・グラスゴーの博物館は98年、米先住民の遺品を先住民代表らとの7年間にわたる話し合いの末に返還。同協会は「博物館レベルで個別に協議して柔軟に対応する必要がある」としている。【ロンドン矢野純一、パリ宮川裕章】
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 ◇返還要求のある主な文化財
 ■ロゼッタストーン
 ナポレオンがエジプトに遠征した1799年に発掘され、象形文字解読のきっかけとなった。大英博物館所蔵。碑文は紀元前196年の宗教会議の布告を書き写したもの。
 ■ネフェルティティ王妃の胸像
 1912年にドイツ人考古学者がエジプト中部で発掘。ベルリンの新博物館所蔵。ネフェルティティは紀元前14世紀半ばのアメンホテプ4世の王妃で、古代エジプトでクレオパトラと並ぶ美女とされる。
 ■ミロのビーナス
 パリのルーブル美術館にある古代ギリシャ彫刻の傑作。1820年にエーゲ海のミロス島で発見された。紀元前130年ごろ制作。ギリシャ政府がフランスに返還を求めている。
 ◇返還された文化財
 ■朝鮮王室儀軌
 李氏朝鮮時代の祭礼、主要行事の内容を絵画や文章で記録した書物の総称。日韓併合時代に日本に渡ったものを宮内庁が所蔵。2010年8月に当時の菅直人首相が併合100年に関する談話で引き渡しを表明。11年に実現した。
 ■銅造如来立像
 長崎県対馬市の海神神社で2012年に盗まれ、韓国に持ち込まれた国指定重要文化財。今年7月に日本側へ返還された。
http://mainichi.jp/shimen/news/20150916ddm007030067000c.html


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