朝日新聞 2020年3月28日 10時00分
祖母・貝澤雪子さん、関根摩耶さん、母・関根真紀さん(左から)=平取町二風谷の雪子さんの工房
「イランカラ●(小文字のプ)テ(こんにちは)」「イヤイライケレ(ありがとう)」
自ら配信するユーチューブの動画「しとちゃんねる」で、流暢(りゅうちょう)なアイヌ語を披露するのは、慶応大学2年の関根摩耶さん(20)。平取町二風谷(にぶたに)出身で母がアイヌ民族。今は神奈川県に住む。
動画は3~5分。クラスメートの男子大学生を相手に、アイヌ語で自己紹介したり、伝統楽器ムックリを奏でてみたり。気軽な雰囲気の映像だ。
「へ~そうなんだ、くらいな感じで見てもらう。その方が気楽で私も楽しいんです」と摩耶さんは言う。
2019年4月から始めた動画は50本を超える。海外の人が感想を書き込んでくれるのがうれしい。
摩耶さんが育った二風谷地区はアイヌ民族の血を引く人の割合が7~8割と高く、中心部にはアイヌ民芸品店などが立ち並ぶ。母真紀さん(52)はアイヌ工芸家、その母である祖母貝澤雪子さん(79)は、樹皮で織ったアイヌの織物「アットゥ●(小文字のシ)」織りの第一人者だ。「当たり前過ぎてアイヌであることを意識しない環境」だった。
葛藤があった時期もある。小学校低学年のときにアイヌ語弁論大会で最優秀賞を取り、周囲の期待が重く感じた。小学校の後半から高校2年生くらいまではアイヌ語やアイヌ関連のイベントからは距離を置いた。
札幌の私立高校に進学して転機が訪れた。同学年が13クラスあるマンモス校で、外国にルーツを持つ生徒がいるなど、多様な仲間に囲まれた。「アイヌかそうじゃないかは関係ない。関根摩耶として存在すればいいんだ」と気がついた。
高3のとき、アイヌ語とかかわり直そうと決めた。平取町内を走る路線バスで流すアイヌ語の車内アナウンスを引き受け、大学に入ってからは民放ラジオのアイヌ語講座の講師も務めた。
大学では文化人類学のゼミに所属し、アイヌ文化を研究テーマにしている。博物館の中ではなく、普通に生活しているアイヌを身近に感じてもらい、アイヌ文化に接するハードルを低くしたい。そんな思いから始めたのがユーチューブの動画だった。祖母雪子さんに登場してもらい、アイヌ料理の作り方を紹介したこともある。
「典型的なおばあちゃん子」と言う摩耶さんは、雪子さんから様々なアイヌの文化を教わった。
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雪子さんが小さいころ、周囲にはまだアイヌ語をしゃべる人たちがいた。口の周りに入れ墨を入れた女性がいたのも覚えている。6人きょうだいで、幼いころは貧しかった。電気はなく、水は遠くまでてんびん棒を担いでくみに行った。水くみがたくさん必要なお風呂は嫌いだった。冬は水を少なめに入れて雪を溶かせばいいから、少し楽だった。
小さい頃の家は、父がかやでこしらえた。小学校に入る頃から草取りなど働きに出た。学校に行けたのは作業がない雨の日と冬の間だけだった。「ここからここまで」と棒が立てられた場所の草を懸命にむしった。
7歳年下の弟の子守も雪子さんの仕事。アイヌの儀式に出かけた母が、こっそり懐にしのばせて持って帰る「シト」(団子)を分けてくれるのが楽しみだった。
学校には半分くらいしか通えなかった。勉強は好きだったが、「学校は嫌い」と先生に言うよう親から言われ、中学へは行かなかった。
19歳でアイヌ工芸家貝澤守幸さんと結婚。1962(昭和37)年、守幸さん、しゅうとめとともに二風谷で民芸品店を始めた。
守幸さんは42歳で他界。雪子さんは36歳で、真紀さんら子ども4人を抱えて残された。必死で働いた。作品は徐々に評価され、2019年には伝統的な手法を守りつつ実験的手法も採り入れているとして、文化庁長官表彰を受けた。
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真紀さんは、そんな雪子さんの姿を間近で見てきた。「いろんなことを背中で教えてくれた。母のようになりたい、いつもそう思っています」
真紀さんも、自身の出自に悩んだ時期があった。
二風谷で生まれ育ち、小学校の同級生はアイヌ民族の子どもが多かった。実家の店で、父と母、父のもとで働く職人たちに可愛がられて育った。アイヌであることが当たり前だった環境が変わったのが、中学に入ったときだった。
町なかの中学校では、アイヌの子どもは少数派だった。二風谷出身というと「アイヌだろう」と同級生に言われた。和人との違いを初めて感じ、進んで「アイヌ」ということはあまり口に出さなくなった。好きになった男の子に自分がアイヌと打ち明けたら、どう思われるだろう――。そんなことも考えた。雪子さんに「なんで私アイヌなの?」と訴えたこともあった。
考えが変わったのは、父の存在だった。アイヌであることにいつも胸を張っていた。道庁に行くときにはアイヌ文様が入ったはんてんを羽織り、アイヌ刺繡(ししゅう)を施したアットゥ●(小文字のシ)の帽子をかぶって出かけた。ふだんもアイヌ文様を採り入れた服を着て仕事をしていた。周りにはいつも笑い声が絶えなかった。
尊敬する父の思いを受け継ぎ、アイヌであることに誇りを持って生きて行こう。そう決めた。高校には進学せず、アイヌ工芸の道に入った。
アイヌ文様をデザインしたネクタイやカード入れ、自動販売機――。今は雪子さんが織ったアットゥ●(小文字のシ)に刺繡を施している。伝統に現代風のアレンジを加えた作風が真紀さんの真骨頂だ。
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若者らしい感覚でアイヌ語やアイヌ文化を発信する摩耶さんの姿は、雪子さんにも真紀さんにも頼もしく映る。
摩耶さんは小さいころ、真紀さんや父健司さん(48)と一緒に、二風谷出身でアイヌ民族初の国会議員、故・萱野茂さんが開いていたアイヌ語教室に通っていた。萱野さんは亡くなる少し前、摩耶さんにアイヌ語で名前を付けてくれた。
ポンノト。
「小さい凪(なぎ)」という意味だという。摩耶さんの周りがいつも穏やかでありますように。萱野さんのそんな願いが込められている。「茂さんは摩耶の将来が楽しみだとも言ってくれた。せっかく始めたことをやり遂げる強さを持ってほしいと私も思っています」と真紀さんは娘を思いやる。
若手アイヌとして、様々なイベントやメディアに登場する機会が増えてきた摩耶さん。祖母が経験した苦労や母の思い、アイヌ民族の苦難の歴史も胸に刻んでいる。
「知らないまま楽しい文化だけ発信することは無責任だと思うし、できるだけ知った上で言動を考えるよう意識しています。その上で、アイヌとして幸せだということを伝えていきたい」(芳垣文子)
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〈アイヌ民族の人口と意識〉 2017年に実施された北海道の「アイヌ生活実態調査」によると、アイヌの人口は道内63市町村に1万3118人(5571世帯)だった。自治体が「アイヌの血を受け継いでいると思われる人、また、婚姻・養子縁組等により同一の生計を営んでいる人」として把握している数字。アイヌ関係団体や専門家からは「少なすぎる」との批判がある。
一方、北海道大学教育学研究院の小内透教授(アイヌ・先住民研究センター兼務)らが10年にまとめた調査によると、アイヌの血筋であるという5178人のうち、民族意識について「まったく意識していない」が最も多く48・0%だった。次いで「時々意識する」26・8%、「意識することが多い」11・4%、「常に意識している」は13・8%だった。年代別にみると、年齢が低くなるほど、意識している人は少なかった。
https://digital.asahi.com/articles/ASN3W6TFYN3SIIPE02P.html?pn=4