AERA dot 2021/03/30 18:00
撮影:竹内敏信(AERA dot.)
4月1日、東京・目白に竹内敏信記念館がオープンする。ギャラリーと資料室が併設され、開館に合わせて写真展「天地聲聞 春夏編」も開催する。記念館の運営を行う竹内敏信記念財団の竹内昭子理事長に聞いた。
「ふつう、記念館というと、亡くなった方の業績をたたえるためにつくりますが、竹内(敏信)が生きているうちに20万点以上あるフィルムや資料などをきちん継承するかたちをつくりたいと、ずっと思ってきたんです」
長年、竹内敏信さんは風景写真を通じて日本の自然の魅力を多くの人々に伝えてきたが、2007年に脳内出血で倒れ、いまも闘病中だ。
車いすの生活にはなったが、写真に対する情熱は失わず、時折、近県まで撮影に出かける。言葉をうまく話すこともできないが、今回のインタビューにはぜひ同席したいと申し出があり、すぐ隣で耳を傾けた。
写真事務所を記念館として改装し、運営の財団設立を思い立った
昭子理事長によると、記念館をつくる構想は20年以上前からあり、北海道帯広市や愛知県東栄町に設立の動きは持ち上がったものの、うまくいかなかったという。
その後、プリントした作品はすべて岡崎市美術館に、カメラコレクションは名古屋学芸大学にそれぞれ収蔵された。
問題は残されたポジフィルムの保存だった。これは竹内さんだけでなく、多くの写真家が直面している問題で、適切な管理が行われないために劣化が進み、破棄されるケースもあるという。
私自身、ある著名な写真家の遺族からフィルムを貸し出された際、あまりにみすぼらしい保存状態に愕然としたことがある。
劣化を防ぐため、フィルムをスキャンしてデジタルデータ化して保存する方法もあるが、「竹内はデータ化にはすごく反対していました。どんどん変わっていく記録メディアに対応していかなければならないし、瞬時に消えてしまう可能性を懸念していました」。
それまで昭子さんは外部にフィルムの受け入れ先を探してきたが、「全面的に発想転換」したのは昨年秋のこと。写真事務所として使ってきた建物を記念館に改装し、それを運営するための財団を設立すること思い立った。昨年末に大手術をしたことが背中を押したという。
「もしものことがあったら竹内を残して、このフィルムはどうするんだろうと。でも、財団が維持していけば、無事だろうと思いました。それで、急いでやらなきゃ、という感じになったんです」
「実は私が関わっている財団がいくつかありまして、その一つが日本伝統文化振興財団。例えば、人々の記憶から消えかかっているアイヌや沖縄の音楽、なくなってしまった会社の古いレコードなどをアーカイブ化している。そういう話を聞かされてきたものですから、『ああ、いま私がしたいのはそれだ』と思ったんです」
「いまの私があるのは先生のおかげなんですよ」と、言ってくださる方が多かった
インタビューを行った1階はちょうど資料室に改装中で、膨大なフィルムの保管棚が並ぶほか、長年収集した写真雑誌や写真集が置かれる。3階には「TAギャラリー」が設けられる。
「竹内だけでなく、広く風景写真を撮っている方たちと一緒に日本の美しい自然を残していこうということなんです」と、記念館を軸とした活動の理念を語る。
財団が掲げるのは「写真文化の向上と発展」「写真表現作品の存続保持」「写真文化後継者の発掘育成と顕彰」「教育支援」など。今後の活動資金は賛助会員の会費によってまかなわれ、事業内容は「理事会で決定される。ですから、これからは私の発想ではなくなるわけです」。
私が特に興味を持ったのは、教育支援の一環として行われる撮影会と講評会(詳細はホームページ参照)。
「竹内はこれまでアマチュアの方の指導をたくさんしてきました。こんなに忙しいのだからやらなくてもいいんじゃない、と思うほどでした。それなのに引き受けて。しかも、終わってからみんなで飲みに行く。どこへ行ってもいちばん最後までつき合って、それで体を壊してしまった」
私も竹内さんが倒れる直前までその姿を間近に見てきたので、胸が痛い。
「竹内はその人が夢中になるというか、人生の軸にできるものを写真のなかに見出せるように教えるのがとても上手なんですよ。ほかの人にはない、いいものをそれぞれに見つけてあげる。すごいなあ、と思っていました。『いまの私があるのは先生のおかげなんですよ』と、言ってくださる方も多かった。そういうことを反映していきたい」
「もっと自然のなかに入り込むことで、こんなに撮れるんだ」
開館と合わせてTAギャラリーで開催される「天地聲聞 春夏編」展について、古市智之副館長はこう語る。
「竹内はもともと『花祭』『汚染海域』とか、ドキュメンタリーを撮影していたんです。この『天地聲聞』の発表(キヤノンカレンダー、84年)によって、風景写真を写していることを世間に知らしめた」
古市さんが初めて「天地聲聞」を目にしたのは高校時代だった。
「この作品を月刊『カメラマン』のグラビアで見たとき、衝撃を受けたんです。『ああ、これも風景写真なんだ』と。そのとき、竹内敏信という作家を知った。いつかこの人に教わりたいな、と思いました。それで専門学校に入学して、先生に教わって、そのまま事務所に入ったんです。くすぐったいでしょ、このへんが(笑)」。
古市さんの手が竹内さんの肩に触れる。竹内さんも笑っている。(何も言わないけれど、ちゃんと話は伝わっているんだなあ)。そう思うと、こちらもうれしくなる。古市さんは話を続ける。
「それまではアンセル・アダムズの作品とか、大判カメラで精密に撮ったものが風景写真だと思っていたんです。それが、35ミリ判で風景を撮ったらこんなにすごいんだ、と。サロン調の風景写真じゃなくて、もっと自然のなかに入り込むことで、こんなに撮れるんだ、と。それを明らかにした作品だと思っています」
私もあらためて「天地聲聞」を目にすると、竹内さんの風景写真の原点を見る思いがした。同名の写真集(出版芸術社)のあとがきにはこう書かれている。
<古代の人々は、この自然に何を見、何を感じとったのであろう。荒ぶる神々か、豊穣をもたらすやさしい神か……。そんな思いを抱きながらシャッターを切る>
さらに、竹内さんはこうも言っている。
<僕のはどこでもいいんです、特定の風景じゃなくて。どこでもそういうキラッと光る瞬間があり、それを引き出すには35ミリが的確ということです>(同)
どんなきっかけで風景と出合おうと、それを作品にしてしまう貪欲さ
誤解を恐れずに言えば、竹内さんは撮影地にまったく頓着しない人だった。琴線に触れる風景であれば、それが「裏の庭でも」よかった。
そんな場所で撮る人はまずいない。私が昔、竹内さんの桜撮影に同行した際、満開の花を前にシャッターを切っていても、周囲にほかの人の姿を見ることはめったになかった。
<(大昔に)農民が田んぼを耕しながらふと見上げてみると、目の前の桜が満開だった。あっ、桜ってこんないいもんだったんだ、というものを写真で引き出したい>(同、カッコ内は筆者)
竹内さんいわく、<大型カメラによる今までの風景写真というのは、特定の景観があって、景観を写し変える作業だった>(同)。
その一方で、日本の風景写真を表現のレベルにまで押し上げた前田真三、岩宮武二、堀内初太郎、緑川洋一らの作品を明確に意識していた。
<自分自身の感情や思想のこもった風景を、35ミリを使って撮れないものかと模索をしていた>(同)
展示作品の出だしは、<夏の北海道取材の帰りに東北上空で出会った雲。(中略)運良く乗り合わせた飛行機がこのような雄大な雲の中を通過してくれたのである>(同)。
どんなきっかけで風景と出合おうと、それを作品にしてしまう貪欲さ。そこに竹内さんのすごさを感じる。
今後、財団の活動の柱として写真教育に力を入れるのであれば、撮影だけでなく、座学にも力を入れてほしいと思う。風景以外のさまざまな作品を見ることで、写真を見る目を鍛える。そこから新しい風景写真が生まれてくる。そう願っている。(文・アサヒカメラ 米倉昭仁)
【MEMO】竹内敏信写真展「天地聲聞 春夏編」
竹内敏信記念館・TAギャラリー 4月1日〜4月28日