『ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化』より #2
文春オンライン2024年2月28日 中川 裕
マンガ大賞を受賞し、アニメ、実写映画も好評を博している『ゴールデンカムイ』。同作には、ストーリー展開などの都合で詳しく説明されていないものの、細部までこだわって描かれた「絵」が多数存在する。
そんな同作の絵を切り口に、アイヌ文化の基本的知識、作品の裏側の設定を紹介したのが、アイヌ語監修を務めた中川裕氏による『ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化』(集英社)だ。ここでは同書の一部を抜粋し、作中に登場する動物たちがどのように描かれているのかに迫っていく。(全2回の2回目/前編を読む)
熊はいわばカムイ中のカムイ
北海道アイヌにとって、ただカムイとだけ言えば熊を指すほど、熊はいわばカムイ中のカムイというべき存在でした。「ゴールデンカムイ」も熊に始まり熊に終わる展開だと言っても過言ではありません。第1話でアシㇼパと杉元が最初に出会ったのも、杉元を襲ってきた熊をアシㇼパが矢でしとめたことによるものでした。
最終巻では杉元と尾形、そして鶴見中尉が最後の死闘を繰り広げた函館行きの列車にも熊が乱入してきて、アシㇼパの矢でとどめを刺されます。この最後のいわばオールスター決戦とも言うべき列車の戦いで、なぜ熊が出てくる必要があるのか、連載当初は疑問に思っていましたが、考えてみたら熊もまたこの漫画の中の重要キャストであり、最終決戦でラインナップされるべき存在だったのだと思い当たりました。
13巻122話より ©野田サトル/集英社
物語の軸となる3つの動物
「ゴールデンカムイ」では随所に熊が登場します。7巻の「親分と姫」編でも熊が重要な役割を果たしますし、11~12巻の姉畑編も、22巻の松田平太編も、熊をめぐるエピソードと言ってよいでしょう。そして13巻122話で、舟がひっくり返って湖に沈んでいくインカㇻマッの薄れゆく意識の中で、彼女の周りを大勢の熊が取り囲む場面があります。インカㇻマッならキツネが取り囲みそうなものですが、なぜ熊なのかというのは今後の考察の対象ということにしておいて、ここは彼女がウイルクの思い出と決別して、谷垣への愛に生きることを決意する重要な場面でした。
このように熊は要所要所に登場し、この物語を印象強く彩っています。あえて言えば、「ゴールデンカムイ」という物語は、狼(ウイルク)と虎(キロランケ)、そして熊という、三つの強大な力を持った動物(=カムイ)を軸にして展開していった物語だとも言えるかもしれません。
熊はキムンカムイ「山のカムイ」、ヌプリコㇿカムイ「山を司るカムイ」などと呼ばれ、その年齢や形状、雄か雌かなどでもいろいろな名前で区別されていたものでした。呼び名が多いということは、その文化における重要性を表しているということができます。
鹿をカムイ扱いしない理由
3巻22話でアシㇼパは「私たちの生活で鹿は無くてはならない存在だ」と杉元に語っています。
一方「キムンカムイ(熊)やホㇿケウカムイ(狼)みたいに名前にカムイをいれず、『獲物』という意味で鹿をユㇰと呼んだのも簡単に獲れたからではないかと思う」とも言っています。アシㇼパの説明のように、ユㇰ「鹿」はかつてのアイヌの主食であり、生きていく上での重要な存在であったのに、なぜかカムイ扱いされていません。11巻109話でアシㇼパが鹿について言った「私たちが住む西の方は鹿をカムイ扱いしない」理由について、ここであらためて考えてみましょう。
更科源蔵さんは『コタン生物記』で、「この動物のことを、鹿神と呼ぶのは、私の調査では鹿の少い宗谷地方だけ」(276頁)と言っていますし、カムイが自分のことを物語る「神謡」でも、鹿が主人公の話はついぞ聞いたことがありません。そのわけについて更科さんは「鹿とサケは空気や太陽のように当然あるものとされていた」と書いており、アシㇼパの言う「簡単に獲れたから」というのと同様の説明をしています。
ユカッテカムイの正体
私も基本的にはそういうことだろうと思いますが、それに加えて鹿は群れで移動して、一頭一頭が自分の意志で行動しているように見えないということが大きいのではないかと思います。かつて鹿は何十頭・何百頭という群れをなして野山を駆け巡っていたのだそうで、それらはもはや個の集まりとしてではなく、全体としてひとつの固まりのように見えたのではないでしょうか?
鹿の狩猟法のひとつに、追い落とし猟というのがあります。大勢で鹿の群れを断崖絶壁に追い込み、踏みとどまることができずに落ちた鹿をしとめるという猟法ですが、そのような場所をユックチカウシ(ユㇰ「鹿」クッ「崖」イカ「越える」ウシ「いつも~するところ」)と呼びます。沙流川流域の紫雲古津にそういう地名があるそうです。このようないわば「まとめ獲り」のような猟法が通用したのは、おそらく鹿だけだったのではないかと思います。英語では、deer「鹿」も、sheep「羊」やcarp「鯉」も、単数形と複数形は同じ形で、deers とかcarps という言い方は通常はしません。これもまた基本的に群れで行動する動物という、同じ理由によるのではないかと思います。
この鹿を人間の世界にもたらすのはユカッテカムイ「鹿を下ろすカムイ」と呼ばれるカムイで、天界にいることになっています。アシㇼパも「ユㇰは『鹿を司る神様』が地上にばら蒔くものだと考えた」と言っています。このカムイは天界で大きな袋の中に鹿の尻尾だの角だのを貯えていて、それを地上に撒くと鹿の姿になって野山を走り回るのだそうです。このユカッテカムイと後で触れるチェパッテカムイの正体は今ひとつわかっていません。
鳥と狩猟の関係
ただ、天界にいるということからして、空を飛ぶもの――つまり鳥ではないかと思われます。地域によってはヌサ「外の祭壇」に狩猟のカムイが祀られています。ハシナウという枝付きのイナウを特別に捧げられるカムイなのですが、これも鳥だと言われています。22巻219話では、ヴァシリがチャㇰチャㇰカムイ「ミソサザイ」をスケッチしている場面が出てきます。
それを見ていたアシㇼパは、「もし熊が近くにいればチャㇰチャㇰ鳴いて熊のところに案内しようとするのに」と言って、「熊がいる」という松田平太の言葉に疑問を示します。また、4巻35話では、エゾフクロウについて「夜にこの鳥が鳴いた方向を追いかけると必ず羆がいる」と説明しています。
このように、鳥というのは狩猟の成否に深い結びつきがあるようです。
カムイが陸に住む者たちのために授けてくれた“鮭”
鮭もまた、アイヌにとって主食とも言うべきものでした。13巻125話でキロランケは、「鮭は鹿と同じようにそれ自身がカムイではなく、天上のカムイの袋の中に入っていて、海にバラ撒かれるものなのさ」と、谷垣に説明しています。秋になると魔法のように海の向こうから現れて、大群となって川をさかのぼってくる鮭は、それこそカムイが陸に住む者たちのために授けてくれた、おおいなる恩恵ととらえたのでしょう。
そして一心不乱にただ上流へ上流へと群れをなして進んでいくその姿は、鹿同様個々の意志あるものとは思えず、チェパッテカムイ「魚を下ろすカムイ」のつかわした食料という見方になったのでしょう。チェパッテカムイもユカッテカムイ同様天界にいて、袋の中に蓄えているヒレやエラなどを海上に撒くと、それが鮭の群れになって川に向かって行くということになっています。
当時の法律で自家消費用の鮭漁は禁止されていた
ところで、13巻126話で、アイヌに偽装した谷垣らが網走監獄周辺で鮭漁を行って、門倉看守部長に見とがめられ、見逃してもらう代わりに鮭を要求される場面があります。その際門倉看守部長は、谷垣たちに「あんた達さ~困るよこんなところに」「こんなに色々立てちゃっても~~」と言っていますが、これは監獄の壁際に小屋を作っていることに文句を言っているのであって、鮭を捕っていることをとがめているわけではありません。
実は、当時すでに全北海道で、自家消費用の鮭漁は法律で禁止されています。これは1897年の「北海道鮭鱒保護規則」によるもので、その第10条には「鮭鱒ハ自用トシテ捕獲シ又ハ遊漁スルコトヲ得ズ」となっているのです。さらに1902年には「鮭鱒ハ許可ヲ受クルニ非ザレバ捕獲スルコトヲ得ズ」と改定されます。ならば許可を取れば鮭が捕れるのかということですが、現在でも役所で手続きを行うには、書類を書いたり判子を押したりと大変面倒です。当時文字を読み書きできるアイヌは少数であっただろうということを考えても、アイヌでこの許可を得ていた人たちはわずかであろうというのは、容易にわかるでしょう。
谷垣たちのやっていることはそもそも法律違反
この鮭漁の禁止については、札幌学院大学教授である山田伸一さんの「アイヌ民族の川でのサケ漁はいつ禁止されたのか」という講演で、非常にわかりやすく述べられていますので、ご覧になってください。
ということで、谷垣たちのやっていることはそもそも法律違反ですので、警察が来たら逮捕されるところですが、門倉看守部長は警官ではありませんからおそらくそんなことはどうでもいいでしょうし、自分でも鮭ぐらい捕っていそうですね。
https://bunshun.jp/articles/-/69068