先住民族関連ニュース

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海南島国際映画祭、日本映画5作品上映 12月開催

2020-11-30 | アイヌ民族関連
AFPBB News 2020年11月29日 17:00 

【11月29日 Xinhua News】中国海南省(Hainan)で来月開かれる第3回海南島国際映画祭はこのほど、同映画祭の8部門全ての上映作品リストを発表した。日本からは計5作品が上映される。
 5作品のうち「アイヌモシリ」「おらおらでひとりいぐも」「すばらしき世界」は「採珠拾貝 Asian Spectrum」部門に選出された。同部門は主にアジア地域の本年度の作品を上映、マレーシア、日本、フランスの合作映画「Malu 夢路」も同部門に選出された。このほか、「ヤクザと家族 The Family」「HOKUSAI」が有名俳優による新作にスポットを当てた「星光」部門に選出された。
 同省三亜市で毎年開催されている海南島国際映画祭は、全島的映画祭で、無料映画上映の方式を採用し、異なった季節、テーマ、国や地域の優秀作品の上映を段階的に実現することを計画している。(c)Xinhua
https://www.afpbb.com/articles/-/3318424

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先住民族が、ただただ好きなんです。

2020-11-30 | 先住民族関連
note 2020/11/28 11:42 曽我 美穂
こんにちは、曽我美穂です。エコライター、エディター、英語講師をしています。今は自然がとびきり豊かで食べ物が美味しい、富山県に住んでいます。I love TOYAMA!! 妻&2009年と2012年生まれの二児の母でもあります。普段は主にエコグッズ・サステナブルな暮らし・エコ家事・SDGs・環境問題・英語の学び方などについて執筆・編集や撮影をおこなっています。また、英語講師の仕事もしています。
なぜ今、ここで先住民族について語るのか?
ここまで自己紹介を読んでくださった方、ありがとうございます!そして「で?なんで先住民族が好きなわけ?」と思われたと思います。そこにはちょっと、長い私の先住民族オタクの歴史があります。これから説明するので、ちょっとお付き合いください。先に書きますが、長文です。
エコライターという肩書を自分で名乗り始めてから10年以上たち、この仕事が心の底から好きです。でも、最近気づいたのです。私のもう1つ、伝えたいことがあまりできていないことに。それは、大好きな先住民族について、世の中に伝えること!
私が先住民族のことを初めて知ったのは、幼稚園児の頃。好きだった紙芝居に出ていたアメリカの先住民族の子どもたちがかっこよくて「うわあ!!スゴイ!」と思いました。その後も、エスニック系のお店に行っても気づくと手に取るのは、世界の先住民族のグッズばかり。私にとってはカッコイイ=先住民族でした。
大学で高まる、先住民族愛……
大学では国際学部に入ったのですが、先住民族愛は高まるばかり。文化や開発に関わる授業をとり、ゼミでも文化人類学を学ぶことに。さらに、大学三年の時には交換留学制度を利用し、ニュージーランドの首都ウェリントンにあるビクトリア大学に1年間留学。専攻は「マオリ学部」!先住民族マオリの授業を取り、充実した日々を送りました。マオリのアートを扱う博物館に通い詰め、キラキラした目で「素敵!!」と話す私を見る留学生仲間の目は、半ばあきれ気味でした…。さらにサークルではマオリの歌と踊りのサークルに入り、民族衣装を着て歌ったり、踊ったりしました。ああ、楽しかった…。ちなみに、私の熱意が認められ、マオリ学部からは大学を離れる直前に「マオリ特別賞」をマオリ式の卒業式の時にいただきました。あれは、一生で一番うれしかった賞かもしれない…!!!
日本に帰った後は、さらにアイヌ民族のことも知りたくなり、ゼミの先生の紹介で、夏休みに1か月、アイヌのご家庭にホームステイをしながら、農業を手伝いました。それらのフィールドワークの集大成として、卒論では「マオリとアイヌの言語再生」について書きました。自分で書いていて「私、なんてオタクなのかしら…」と思います(笑)。オタク度全開で書いた卒論は本当に楽しかった!ゼミの先生に最長かもしれない・・・と言われるほど長い卒論を、日本語と英語で書きました。
先住民族って超カッコイイんです!
大学卒業後は7年ほど企業の広報の仕事をした後、フリーランスのエコライターになり、今に至ります。広報の仕事では先住民族との関わりは限りなくゼロ、エコライターの仕事ではごくたまに、先住民族関連の発信をすることがあります。でも、先住民族に関するライティングの機会がなく残念に思い続けてきました……。そしてふと、気づいたのです。発信の機会は自分で作ればいいじゃないか、と!!
ということで、このnoteでは、先住民族について発信します。伝えたいことのベースは
先住民族って超カッコイイんだよ!!!!!
ということ。具体的には、私が今まで出会った先住民族の方たちとのエピソード、先住民族関連の本や漫画、ニュース、写真、映画などを紹介していきます。
先住民族って「かわいそうな人たち」とか「つらいことをたくさん経験した人たち」という風に伝えられることが多い気がしています。もちろん、そういう面もあります。先住民族のことを知れば知るほど、心が痛むことも多くなるし、自分は当事者ではないことのジレンマを感じることもあります。
でも、かわいそうなだけじゃないんです!カッコイイし、素晴らしい文化を持っているんです。まずは、もっともっと多くの人たちに、それを知ってほしい!だから、これから、先住民族愛を全開にして、カッコよさを伝えていきたいと思います。
長くなりましたが、これから、よろしくお願いします!
https://note.com/indigenous/n/na543b8e885b4

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「白人を見たことがない」アマゾンの先住民と60年接触し続けた探検家

2020-11-30 | 先住民族関連
クーリエ 11/28(土) 18:00

アマゾン先住民の人々と接触をはかってきた冒険家、シドニー・ポスエロ(中央)
現代社会から隔絶された世界で、独自の生活を守り続ける人々がアマゾンの森にいる。そんな人々と接触をはかり続けて60年の探検家、シドニー・ポスエロにイスラエル紙「ハアレツ」がインタビューした。
ときに命の危険にさらされつつも、伝統的な暮らしを送る部族たちを「現代文明の侵略」から守るために活動してきたポスエロ。人生の大半をアマゾンに捧げている彼が見聞きしてきたものとは。
「まずはファスナー下げて見せて」
ブラジル、アマゾン地域の孤立した部族のメンバーたちは、初対面のとき、シドニー・ポスエロという「奇妙な白い生き物」の正体を確かめようとしたという。
「自分たちと同じ生き物なのか彼らは確かめたがっていたのです」とポスエロは微笑みながら思い出を語る。
「私に口を開けさせ中をのぞき、顔や髭を触りました。部族の女性たちはファスナーを下げさせると、私のペニスを見て、夫を呼んで彼にも見せていましたね。そして女性の調査メンバーがいた場合、男性たちが胸と腰を触り、本当に女なのか確かめました」
「とある部族の男性は、調査チームの黒人メンバーの手を取ると、色を落とそうと皮膚をこすっていたこともあります。最終的にはそういう肌の色なのだと理解していました」
彼がいなければ、多くの部族が消えていた
私の目の前に座る、80歳の素晴らしい冒険家──彼ほど危険を厭わずアマゾンの部族に人生をささげた人間は他にいない。
60年に渡るキャリアのなか、ブラジル生まれのポスエロは、それまで一度も白人と接触したことがなかった7つの部族とコンタクトを取り、ブラジル領土の約15%を先住民コミュニティの特別保護区として区画させることに成功した。そしてその後は逆に、彼らの保護のために「接触を避ける」という画期的な方針を取っている。
マチェテ(山刀)を手に、学位なき彼は民族学者となり、先住民とともに幾年もジャングルで過ごしたのだ。
ポスエロは長年、ブラジル、国立先住民保護財団(FUNAI)の「孤立したインディオ局(Department for Isolated Indians)」の局長を務めた。その努力によって彼は同分野一の権威となり、アマゾン地域の先住民部族のスポークスマン、そして世界で最も尊敬され多くの賞を受ける活動家となった。
彼がいなければ、数十の部族が絶滅していただろう。
私たちは、彼が居を構えるブラジルの首都ブラジリアで会った。8月の暑く乾いた日のことだ。新型コロナウイルス対策のため、会話は屋外で行った。
ブラジルにしては珍しく、彼は約束の時間通りに現れる。カーキのシャツにクロップドパンツ、サンダル姿だ。写真に写る彼は数十年前から同じような恰好をしていて、鋭いまなざしも髭面も同じ。髪はいつも後ろにしばっている。年を経て変わったのは髪が白くなったことくらいだ。
持ち歩いているのは抗マラリア薬(これまで39回罹患した)とコンパス付きの時計のみ。これは「都市部の移動にも実は重要」なのだとポスエロは言う(彼は携帯電話を持っていないからかもしれない)。
ポスエロは大きな笑顔とガッシリとした握手で私を迎える。数秒のうちに穏やかな雰囲気を作り、すぐにインタビューする側を安心させてくれた。人の心をつかむカリスマ性があるからこそ、孤立した部族と友人になるのに数百人が失敗するなか、彼だけは違ったのかもしれない。
死と隣り合わせの接触
1978年、それまで一度も白人を見たことのなかった人間とはじめて出会ったときのことを、ポスエロはよく覚えている。
「出会ったのはジャバリ谷に住むマイア族です。あそこはボートでしか辿り着けないんですよ」とポスエロは言う。
「違法伐採者が彼らに会ったと聞き、気になって探しに行きました。しかし向かう途中で川が氾濫したんです。結局ボートは捨てて洪水した森を歩きました。そこで突然、先住民をひとり見たのです」
「贈り物として、彼にマチェテを渡しました。どこに向かうのかもわかりませんでしたが、歩きだしたので後をついていったんです。すると、小さな小屋につきました」
「そこにいたのは私と、調査に協力してくれていた先住民4人、そして出会ったマイア族の2人です。先住民はだいたいが2~3種の言語を話しますが、私たちが会った人たちは、チームのメンバーが知るどの言葉もしゃべれませんでした」
「夜になり、私たちは小屋で身を寄せ合って眠りました。白い肌の人間は私だけ。そして白人の所業に関して噂を耳にしていたため、彼らは私を恐れているようでした」
ポスエロは続ける。
「日が昇ると外に出て体を伸ばし、次にどうなるか待っていると、部族の他のメンバーがもうすぐ来るのだとジェスチャーで分かりました。暴力的な状況になるのか、私たちには分かりません。その時は彼らのことを理解できなかったし、彼らも私たちを理解できなかったのです」
「チームには、もし何かが起こったら宙に向かって発砲しようと言いました。孤立した部族と会った場合、2つの可能性があることを、先住民メンバーは私よりもよく分かっていたのです。仲良くなるか、そうでなければ殺されるということを」
「逃げるルートを計画していると、足元の葉が揺れ、子供たちと女性の声がしました。これはいい兆候です。そして突然、彼らは姿を現しました。まずは胸元に子供を抱いた女性がひとり。そしてだんだん、贈り物──葉に包まれた、肥えてジューシーな芋虫──を手にした人々が到着しはじめたんです」
「安心してため息をつきつつ、私たちは芋虫をかじりました。美味しく栄養満点で、ココナッツのような味がするのです」
「本当は部族のもとに留まって彼らのことを理解したかったですが、本拠地に戻るようメッセージを受け取りました。(一般的に)部族の人々は5以上の数を数えないため、私は紐に35個の結び目を作り、35日後にまた来ると説明しました」
「結び目ひとつが1日を表す。結び目の解き方を教え、それを全部解いたときに私が戻るのだと伝えました」
「彼らは何日、何ヵ月という表現をしません。子供時代の話をするとき、彼らは当時の背の高さを手で示すのです。昼間に会う約束をするには『太陽がこの位置にあるときに、きみの家に行く』と言い、空の位置を指す。そして別の日の約束をするなら『月が二度目に姿を現したときに会おう』と言います。これは2ヵ月後に会おう、という意味です」
「時間に対する彼らの姿勢は私たちと違います。釣りに行く予定だったのに雨になったら、雨が降らない別の日にする。それだけのこと。私たちは常にスケジュールを守る社会に生き、彼らは時間には縛られない生活をしているのです」
だがこういった出会いの多くは、平和に終わらなかった。「何百名もの調査隊メンバーが接触を図ろうとして殺されてきました」とポスエロは言う。
「なぜ彼らがある人を殺し、別の人を生かすのか──その理由が私たちには分からないことが多いんです。先住民は、白人が同じ部族に属していると思っているのかもしれません。だからこそ、部族を攻撃したとある白人の行為を、別の人間にかぶせて殺してしまうことが多いのでしょう」
「(1981年に)アララ族と接触を図る過程で、彼らは矢を射ってきました。白人との戦争で数千人の戦士が犠牲になった部族です。突然、森の奥深くから川のように矢が襲ってきたのを覚えています。同僚のひとりは二本の矢が胸に刺さり、一本は肩を貫きました。もう一人は、矢でお腹が裂けました」
理由がわからないまま殺されることも
「接触を図るプロセスを1日では成し遂げられません」とポスエロは語る。
「数週間、または数ヵ月かかることもあります。たとえば最も孤立した部族のひとつ、コルボ族とは、歌をうたって接触しました」
「彼らの領域1キロ内に行き、歌をうたったのです。それも大声で。音を立てずに近づく者は大体が敵ですが、友好的なら到着を知らせるものです。私たちの歌が終わると、部族の人が返礼に歌をうたってくれました。そのお返しに私たちはナイフやマチェテ、斧などの贈り物を残しておいたんです」
「彼らと対面できたのは8週間後のこと。それでもスタッフのひとりが、しばらく後に殺されました。先住民数人が背後から急襲し、こん棒で殴り殺したのです。理由は尋ねませんでした。私が彼の死の復讐を狙っていると思われないようにです」
そもそも彼らの言葉をしゃべれないとき、どのようにコミュニケーションを取るのだろうか。
「はじめて会うときはジェスチャーとしぐさでコミュニケーションを取ります。眠りたければ手を頭の横に置くとか」
「ゾエ族とはじめて会ったときは、自分を指さし『シドニー』と言い、次に彼らのひとりを指しました。すると『ポトゥーロ』と向こうは言ったので、最初は彼らを『ポトゥーロ族』と呼んでいたのです」
「でも後で気が付いたのですが、ポトゥーロは下唇に刺したピアスのことでした。これにはサルの足の骨(または木片)を使います。イヤリングのように付け外しができるもので、ゾエ族の最も分かりやすい印です。下唇の穴は通過儀礼として子供時代に開けられます」(つづく)
https://news.yahoo.co.jp/articles/dd9753491fed268fcbbd9b3599240967c8dd8c24

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コラム アイヌ文化から知る日本の多様な美

2020-11-29 | アイヌ民族関連
NHK 2020年11月29日

11/29放送の「アイヌ文様の秘密 カムイの里を行く」いかがでしたか? 日曜美術館の公式「日美ブログ」では今回ロケで訪れたアイヌの里、「二風谷」をクローズアップします。番組と合わせてお楽しみください。
今回番組に登場した北海道沙流郡平取町二風谷(さるぐんびらとりちょうにぶたに)は新千歳空港から車で約1時間かけてたどり着く場所にあります(電車とバスでは2時間半〜3時間程度)。
15〜17世紀のアイヌ文化及び縄文〜擦文(さつもん)文化の生活の痕跡が残された二風谷遺跡に見られるように、古くよりこの辺りは人が連綿と居住する場所でした。現在も二風谷は北海道内でアイヌの人口比率が高い地域であり、暮らしている人の過半数がアイヌです。平取町内の地名のほとんどがアイヌ語起源で、二風谷という名もアイヌ語の「ニプタイ」(木の生い茂るところ)に由来します(諸説あり)。
カムイノミ(神に祈る儀式)の後チプ(丸木舟)に乗り込み、安全を祈願するチプサンケの祭礼が今日のアイヌ文化継承の一環として行われていたり、道内でも出色の展示内容を誇る平取町立二風谷アイヌ文化博物館があったり、伝統的なアイヌの家屋である茅の段葺き屋根による住宅・チセが復元されていたりと、アイヌ文化の保全に努めています。
現在9棟ある復元のチセのうち2棟ではアイヌ伝統工芸の実演が毎日のようにされていて(※冬季は休業)、一棟では男性の仕事である木彫、もう一棟では女性の仕事としての織りや刺繍が披露されています。また他のチセではアイヌの舞踊体験などをすることができます。
民具を中心に常に1000点近くの資料が常時見られる平取町立二風谷アイヌ文化博物館のほか、生涯をかけてアイヌの民具蒐集を続けてきた地元のアイヌ文化研究者・萱野(かやの)茂氏のコレクションを展示する萱野茂二風谷アイヌ資料館や、地元の職人の店が立ち並ぶ通りなどもあります。文化博物館のすぐ隣にはアイヌの歴史を知る上での考古資料が充実している沙流川歴史館もあります。沙流川歴史館の屋上に上がると二風谷湖と対岸の森林の景色が美しく広がっており、アイヌ語由来の地名がついた沢や崖を見ながら、アイヌの古くからの歴史に思いをはせることができます。
博物館を中心にイクパスイ(棒酒箸)、マキリ(小刀)、アットウシ(アイヌ特有の衣服)など、番組でも紹介したアイヌの民具に身近に接することもできます。 アイヌ文様が持つ意味については諸説あり、定まった解釈があるわけではありません。ただ、かつてはアイヌの家族において男たちは上手な彫刻ができなければ一人前ではないと技を磨き、女たちは刺繍や編み物の技術を母から娘、またその娘へと受け継ぎました。アイヌ文様には魔除けとしての意味があったとも言われますが、家族を守りたいとの思いを込めて代々引き継いできたのかもしれません。
平取町立二風谷アイヌ文化博物館学芸員・長田佳宏さんは「二風谷は過去形ではなく “今”に息づくアイヌの姿を見ることができる場所でもあります。来られた折にはそれを肌で感じてもらえたら」と仰っていました。
アイヌであっても自身のルーツから断絶されてしまった人が、二風谷に来て博物館を見たり地元の人と話すことで学び直すきっかけを得られるかもしれません。またアイヌではない人も、その文化に触れることで日本が多様な美を持つ国であることを再確認できるでしょう。日本の美の豊かさを感じに、アイヌの里を訪れてみてはいかがでしょうか?
◎平取町立二風谷アイヌ文化博物館
北海道沙流郡平取町二風谷55
開館時間:9時〜16時半
4月16日~11月15日 曜日に関係なく毎日開館/11月16日~4月15日 冬期間は毎週月曜日が定期休館日/12月16日~1月15日は休館
◎萱野茂二風谷アイヌ資料館
北海道沙流郡平取町二風谷79
開館時間:9時~16時半
休館日:特になし(冬期11月16日~4月15日は事前連絡を)
◎沙流川歴史館
北海道沙流郡平取町二風谷227-2
開館時間:9時~16時半
休館日:月曜(月曜日が祝・祭日の場合は翌日)・12月30日~1月5日
https://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/column/440063.html

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【北海道「地名」ケンミン性】アイヌ語で「シ・コツ」「チ・キサ・プ」「フラ・ヌ・イ」「イ・オ・チ」が由来の地名はどこでしょう《47都道府県「地名の謎」》

2020-11-29 | アイヌ民族関連
ベストタイムス 2020年11月28日
 日本の地名は世界でも稀に見るほどバリエーションが豊富。
 地名の由来を探ると、多様な地形、自然を愛でる表現性、ふるさとを思う民俗性など、この国の原点が見えてくる。
 読者のみなさんの故郷はどちらですか? 地名は・・・?
 日本人ならなぜか初対面でも話が弾む出身地・県民性・そして地名雑学‼ようこそ!地名の奥深い世界へ‼
■アイヌ語由来の地名多数
《地名の由来》◉伊達(だて):開拓者の伊達家に由来
 明治3(1870)年、仙台藩に連なる亘理(わたり)伊達家の当主、伊達邦成とその家来たちが移住したことに由来。 この地は当時、人が住めるような土地ではなかったが、みんなで力をあわせて村をつくり、現在の伊達市へと発展させた。
◉千歳(ちとせ):鶴は千年から命名
 古くはアイヌ語で「シ・コツ(大きなくぼ地・谷)」。 しかし、「死骨」という不吉な言葉を連想させることから、文化2(1805)年に箱館奉行・羽太正養(はぶとまさやす)が「鶴は千年」というめでたいたとえから「千歳」に改称したとされる。
◉月寒(つきさむ):当初は「つきさっぷ」
 アイヌ語で「チ・キサ・プ(木をこすって火をつけるところ)」に由来。 当初は「つきさっぷ」と呼ばれたが、昭和19(1944)年、難読を嫌った陸軍からの要請を受けて「つきさむ」へと読み方を変更している。
◉富良野(ふらの):十勝岳が地名に影響
 アイヌ語の「フラ・ヌ・イ(臭気をもつもの、硫黄臭い火炎の土地)」を由来とする地名。
 近隣の十勝岳が、地名誕生に大きな影響を与えたと考えられる。 また、その地名を最初に記したのは北方探検家の間宮林蔵とされる。
◉余市(よいち):ヘビのいるところ
「ヘビが群れているところ」を意味する「イ・オ・チ」、あるいは「ユーチ」というアイヌ語が転訛した地名。 アイヌ民族にとって、ヘビは神の使いとして畏怖されていたことから、悪い意味でつけられた地名ではない。
■「幸福駅」の由来とは?
◉もともとは「乾いた川」という意味だった
 この地は古来、アイヌ語で「乾いた川」を意味する「サツ・ナイ」と呼ばれたことから、「幸震」の字があてられ、音読みして「幸震(こうしん)」と呼ばれていた。 では、なぜ「幸福」になったのかというと、この地域を開拓したのが移住してきた福井県の人々だったからで、「幸震」の「幸」に「福井」の「福」から地名が誕生した。
https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_00648240/

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台湾人元日本兵の戦後補償問題――積み残された人々の願いに真の「解決」を

2020-11-29 | 先住民族関連
ニッポンコム 2020.11.28
「日本を愛して、日本のために戦った」―太平洋戦争中、日本の統治下にあった台湾から「日本人」として出征したにもかかわらず、日本人としての補償を受けることができなかった台湾人兵士の存在をどれほどの日本人が知っているだろうか。戦後75年がたち、既に当事者の多くはこの世を去ってしまったが、日本人には歴史に向き合い続ける責任があるのではないだろうか。
「日本人」として出征した台湾人
かつて日本は台湾を半世紀にわたり統治した歴史がある。1937年の日中戦争勃発から、45年の太平洋戦争終結までの間も、台湾は日本の統治下にあった。
台湾の土地には内地人(日本本土出身者)と本島人(漢人系住民)、先住民族が暮らし、異なる帰属意識があったが、「一視同仁」や「内台一如」といった統治方針の下、同じ「日本人」としての意識が形成された。戦争によってその方針がさらに強化されると、「皇民化」の推進や許可制の改姓名が実施され、名実ともに「日本人」になることを望む人々も少なくなかった。
戦況が徐々に悪化する中、台湾でも42年に陸軍特別志願兵制度、43年に海軍特別志願兵制度が始まると、応募者が殺到したという。また44年には台湾でも徴兵制度が導入された。
16歳で志願し、陸軍軍属としてインパール作戦に参加し、戦後も国民党政権による反乱鎮圧を口実とした台湾全土での民衆虐待・殺害事件「二・二八事件」の受難者でもある蕭錦文(しょう・きんぶん)氏は、「第一に、自分の国の大事にあって、自分の国のために働きたかった。自分の国を自分で守ることは国民としての当たり前の考えだった」と志願した理由を語る。
台湾の人々もまた「日本人」として国のために戦地に赴き、日本のために戦ったのである。厚生労働省社会・援護局によると、その数は軍人・軍属合わせて20万7183人で、その内3万306人が戦没した。
45年8月15日、戦禍を生き抜いた台湾の人々も「日本人」として敗戦を迎えた。そして、日本は敗戦の結果として台湾を放棄し、台湾人元日本兵ら台湾の人々は本人の意思に関係なく、「日本人」としての国籍を失うこととなった。
戦後日華関係史の中で置き去りにされた台湾人への補償
戦後、日本では恩給法や戦傷病者戦没者遺族等援護法などの法整備が進み、軍人・軍属とその遺族はさまざまな補償を受けることができた。しかし、これらの法律にはいずれも「国籍条項」が設けられた。すなわち、日本国籍を有しない者は補償の対象外とされ、日本国籍を「喪失」したとされる台湾人元日本兵とその遺族は、当初は1円の補償も受けられなかった。
台湾人元日本兵の悲哀は戦後の台湾が歩んだ歴史の中にも見出せる。戦後、台湾は新たな外来政権である中華民国・国民党政府によって統治された。言い換えれば、台湾人元日本兵らは、かつての「敵」によって支配されることになった訳である。
日本は1951年に米国をはじめとする連合国との間でサンフランシスコ平和条約を締結し、戦争状態を終結させ、台湾及び澎湖諸島における主権を放棄した。しかし、当時、台湾の中華民国・国民党政府は同条約を締結するための講和会議に招請されなかったため、日華間では52年4月28日に日華平和条約を締結した。そして、同条約第三条で、日台間の財産・請求権問題は「日本国政府と中華民国政府との間の特別取極(とりきめ)の主題とする」と定めた。
つまり、台湾人元日本兵の未払い給与や軍事郵便貯金などは、日本政府と中華民国・国民党政府との間で「特別取極」を定めて処理されることとなった。しかし、特別取極について両政府間で話し合いはされず、72年に日本は中華人民共和国と国交を樹立。日本と中華民国は断交し、日華平和条約そのものが失効した。なお、特別取極について、日本政府は中華民国・国民党政府に対し、3回にわたり、推進するよう文書で申し入れたが、中華民国・国民党政府は受け入れなかったという記録が残っている。
このように、台湾人元日本兵とその遺族の「日本人」としての補償や債務は、戦後の日華関係史の中で置き去りにされたのである。
一人当たり200万円の特定弔慰金が支給決定、だが・・・
忘れ去られていた台湾人元日本兵の戦後補償問題だったが、戦後30年近くたった1974年のある出来事がきっかけで動き出した。同年12月、インドネシアのモロタイ島で、戦時中に先住民族によって編成された「高砂義勇隊」の生き残りである中村輝夫氏(アミ族名:スニヨン)が発見されたのである。横井庄一、小野田寛郎両氏に次ぐ3人目の生還者であり、世間の注目を集めた。
しかし、台湾人元日本兵である中村氏は横井、小野田両氏と異なり、「日本人」としての補償を受け取ることができず、わずか6万8000円の帰還者手当が支給されたにすぎなかった。このような不条理に対し、民間有志や国会議員による支援の動きがあった。例えば75年には明治大学教授で言語学者の王育徳(おう・いくとく)氏が事務局長を務める「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」、77年には超党派の国会議員からなる「台湾人元日本兵士の補償問題を考える議員懇談会」(代表世話人:有馬元治)が発足した。支援団体が結成されたことで、台湾人元日本兵とその遺族らによる補償運動は大きく展開されるようになっていった。
そして、87年9月に「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」、88年5月に「特定弔慰金等の支給の実施に関する法律」がそれぞれ特別立法で成立し、台湾人元日本兵の遺族と当事者である戦傷病者に対し、申請が認められた場合には一人当たり200万円の特定弔慰金が支給されることとなった。当時の事務を所管していた総理府(現・総務省)のまとめによると、申請期限の93年3月末までに2万9913件の請求があり、計529億9000万円を支給したという。
未払い給与や軍事郵便貯金については、95年に120倍の額を返還することが決まった。これは台湾の軍人給与の実質的な上昇率などを考慮して日本政府が決定した。しかし、当事者をはじめ支援団体は、戦後50年が経過しており、台湾の経済成長や当時の自衛隊隊員の給与などを勘案すると、物価スライドで1000倍から最大7000倍強が妥当と主張していた経緯があり、日本政府による一方的な決定に対し、反発や抗議の声が上がった。
いずれにせよ、日本政府は台湾人元日本兵・遺族に対する補償や財産の返還について、以上の対応をもって「解決済み」としている。
先述の台湾人元日本兵の蕭氏はこうした日本政府の対応は「あまりにも冷たすぎる」と話す。そして「日本を愛して、日本のためにこの命を捧げた。同じように戦地に行って、日本に戻った者には十分な手当があり、台湾に戻った者には何もないのは悔しかった」と当時の心境を吐露する。
ないがしろにされた台湾人元日本兵の人権や尊厳
なぜ、台湾人元日本兵やその遺族は、ここまでの仕打ちを受けなければならなかったのか。
台湾南部・高雄にある「戦争と平和記念公園主題館」を運営し、台湾籍老兵の調査・慰霊活動を行なっている高雄市關懷老兵文化協會常務理事の呉祝栄(ご・しゅくえい)氏に聞いた。
呉氏は、この問題は日本と台湾の「二つの政府に責任がある」と指摘する。すなわち、どちらの政府も「人権を重視しなかった」という。日本政府は戦後の経済的困窮を理由に問題を放置し、その後、経済成長を成し遂げたにも関わらず、積極的に対応しようとしなかった。台湾の中華民国・国民党政府も戦後に日本から接収した財産の正当性や取り扱いが議論されることを懸念して、日華平和条約に基づく特別取極の推進には消極的であった。加えてかつての「敵」である台湾人元日本兵の問題には無関心だったのだ。
本来、守られ、尊重されるべき台湾人元日本兵の人権や尊厳は、二つの政府からないがしろにされていたわけである。
「台日交流センター」の設立が遺族らの最後の願い
台湾人元日本兵の戦後補償問題は、戦後の日本と台湾が置かれていた状況の中で、さまざまな政治・経済的制約や事情を乗り越え、長年にわたる当事者及び日台双方の関係者、民間有志の尽力があったことは紛れもない事実である。声を上げ、運動を繰り広げてきたからこそ、戦後置き去りにされていた問題が動いたのである。
その一方で、「日本人」として国のために戦った人々が、日本人としての補償を今なお受けられていない実状は変わらない。
兄がフィリピンで戦病死し、遺族として戦後補償問題に40年以上取り組んでいる林阿貞(りん・あてい)氏は「当時は『台湾人日本兵』という呼称はなく、皆『天皇陛下の赤子』『皇軍の兵士』だった」とし、問題を「解決済み」とする日本はこのままでは「汚名を残してしまう」と憂いている。
そして、「台湾人の血と汗と涙が日本政府の金庫には眠ったまま」と主張する林氏は、本来、台湾人元日本兵らに支給されるべきお金を未来の日台交流に資する公益事業に用いるべきだと訴えている。特定弔慰金は88年に日本政府が予算を付け、日本と台湾の赤十字社を窓口に支給が行われた。また未払い給与などの財産の返還については支払予定総額として425億円を用意し、95年から受け付け業務を開始した。筆者の手元にある日台双方の複数の資料によると、期限内に申請がなかったり、申請しても却下されたり、あるいは日本政府の対応に反発し、申請を拒否した人々に本来支給されるべき金額は、少なくとも二百数十億円に及ぶと考えられる。これらがその後いかに処理されたかは不明であり、すでに存在していない可能性もある。
これまで林氏は日本の国庫にあるとされるお金を用いて、台湾に老人ホームなどの施設を設立すべく尽力してきた。しかし、もはやそれを必要とする当事者も多くが鬼籍に入ったことから、今は日本人と台湾人が共有してきた歴史を学び、交流できる「台日交流センター」をつくることが最後の願いだと話す。
今こそ向き合いたい日本人の「先輩」の歴史
戦後75年がたち、当事者の多くがこの世を去った今、この問題にいかに向き合うべきか。呉氏は「台湾人元日本兵ら先人の歴史を記録し、慰霊を続ける」ことの大切さを強調する。これは日本人にも求められる姿勢だろう。
当事者がいなくなれば、この問題は自然に消滅する。だが、この問題に向き合わず、歴史を忘却した時、日本は「汚名」を後世まで残すことにならないだろうか。「日本人」として日本のために戦った台湾人元日本兵が、日本人としての補償を受けられていないことは、人権・人道問題であると同時に、感謝や労いの言葉すらない冷酷な対応は日本人の民族性をも問われる問題である。
時間が過ぎるのをただ待つだけでなく、台湾人元日本兵の歴史を学び、その後の戦後補償問題からも目をそらさず、日本人の「先輩」でもある台湾人元日本兵の慰霊をしていく責務が日本にはある。林氏は今もなお台湾の政治家らに真の「解決」を目指して陳情を続けているというが、すでに過去の問題として関心を持たれることはなく、目下進展は何もないという。この問題に必要なのは、単に法的・形式的な「解決」ではなく、歴史に向き合い続けていく日本人としての「道義的責任」ではないだろうか。
バナー写真=長年、台湾人元日本兵の遺族として戦後補償問題に取り組む林阿貞氏(筆者撮影)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00972/

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隕石を巡る“叙情詩”としてのドキュメンタリー:ヘルツォーク監督が『ファイヤーボール:宇宙からの来訪者』で描きたかったこと

2020-11-29 | 先住民族関連
WIRED 2020.11.28 16:00
 ドイツの映画監督ヴェルナー・ヘルツォークの新作『ファイヤーボール:宇宙からの来訪者』が、Apple TV+で公開された。「隕石と人」にテーマに世界各地を巡ったこのドキュメンタリーで、ヘルツォークは科学的な検証とスピリチュアルな要素の間にさまざまな“物語”を見い出している。
インド北部にあるランガル・クレーターは、はるか昔に巨大な隕石が地球に衝突した際に形成された。しかし、それが衝突によって生まれた窪地だと科学者たちが考えるようになったのは、19世紀になってからのことだった。
地面から見ると、それがクレーターであると判断することは難しい。なにしろあまりにも大きすぎて、全体を一度には把握できないからだ。とはいえ、ランガル・クレーターの中央に点在する神殿は、太古の人々がそこには特別な何かがあると認識していたことを示唆している。たとえ当時の人々に、その場所が外宇宙から来た岩石によって形成されたと知るすべはなかったとしてもだ。
隕石がもたらした影響の検証は常に科学的なものだが、そこにはしばしばスピリチュアルな要素もある。そして、これらのふたつの要素の間の緊張こそが、ドキュメンタリー映画『ファイヤーボール:宇宙からの来訪者』を突き動かすものだ。
ヴェルナー・ヘルツォークが脚本と監督を務めたこの作品の狙いは、隕石という地球外物質を理解し、それが残してきた痕跡を一つひとつのクレーターの縁をはるかに越えてすべてたどることにある。
ヘルツォークは、ケンブリッジ大学の火山学者であり共同監督も務めたクライヴ・オッペンハイマーとともに、世界中のさまざまな人物を訪ねている。研究室で隕石を夢中で調べる科学者たちはもちろんのこと、ノルウェーのオスロにある家々の屋上で微小隕石を探しまわるジャズ・ミュージシャン、オーストラリアの奥地で異世界の物語を記録している先住民族の画家、欧州の僻地にある天文台で隕石のコレクションを大事に守るイエズス会の神父といった人々だ。「すべての隕石に、それぞれ独自の物語があります」と、ヘルツォークは言う。
隕石に見いだした「語るべき物語」
『ファイヤーボール』は「Apple TV+」で11月13日に公開された。オッペンハイマーによると、ことの起こりは隕石の回収を目的とする毎年恒例の南極探検に出資している韓国極地研究所(KOPRI)を訪ねたことだったという。KOPRIに保管されている膨大な数の隕石コレクションを目にしたオッペンハイマーは、そこにはもっと大きな語るべき物語があると悟ったのである。
「太陽系の最初期と地球上の生命の構成要素を理解するうえで、これらの隕石は重要な意味をもっていると感じました」と、オッペンハイマーは言う。「隕石とは科学の面でも形而上的な面でも、わたしたちに何かを語りかける事象なのだと直感したのです」
オッペンハイマーは以前にも、火山をテーマにしたNetflixのドキュメンタリー映画『イントゥ・ザ・インフェルノ: マグマの世界』で、ヘルツォークとタッグを組んだことがあった。隕石を巡る映画をオッペンハイマーがヘルツォークに提案したところ、すぐさま決断が下された。「ほんの5秒で、わたしたちは一緒に撮ることになると確信しました」と、ヘルツォークは語る。
ヘルツォークのような映画監督にとって、隕石はうってつけの題材だ。ヘルツォークの代表作では常に、ふたつの世界がぶつかる境界的な空間を占めるものに光が当てられてきた。東洋と西洋、人間と超自然的存在、デジタルとアナログといったものだ。『ファイヤーボール』も、まさにその流儀にのっとっている。
もっと深い自然の洞察を
隕石は地域社会をかたちづくる局所的な現象であると同時に、地球全体が直面する存在上の脅威でもある。遠い過去から来たメッセンジャーでありながら、先触れとして迎えられ、不活性な物質のかけらでありながら生命の構成要素を内包している。科学の面でも精神の面でも驚異の源なのだ。そしてその点からすれば、隕石とそれを調べる人間には多くの共通点がある。
『ファイヤーボール』は表向きには科学ドキュメンタリーだが、そのような印象は受けない。「科学を巡るドキュメンタリーは意外性に欠けるのが常で、その多くはまるで授業のようなのです」と、ヘルツォークは言う。「絶対に授業のようにはならないようにしよう、単なる科学にとどまらない、もっと深い自然の洞察を提供できるようにしようと、わたしたちは話していました」
ヘルツォークとオッペンハイマーは、全編を通じて刺激的な事実を大量に投入している。一方で、さっと見せておけば十分なところもよくわきまえている(準結晶の数学的基礎なんて本当に知りたい人がいるだろうか? 特に別に知りたくはない)。
ヘルツォークのファンなら、彼独特のムードたっぷりでしばしばユーモアがにじむナレーションも楽しめるだろう。そのナレーションにかかれば、メキシコの港町は「泣きたくなるほど寂しいビーチリゾート」になるし、クレーターで日光浴する野良犬たちは「自分たちの日焼けベッドがもつ宇宙的な意味に思いいたらないほど愚かな獣たち」に変わってしまう。
地球には毎日、100トンを超える宇宙の岩石が降り注いでいる。そうした隕石のほとんどは宇宙塵と呼ばれる微細な粒子だが、ひとりの人間やひとつの地域社会、あるいは地球全体の運命を左右するほど大きなものがたまに落ちてくる。ヘルツォークの言う「すべての隕石にそれぞれ独自の物語がある」とは、つまりはそういうことなのだ。
無情な宇宙のランダムな変動が引き起こす自然現象に対して、人が意味を与えようとすることは自然であるように感じられる。物語はときおり、隕石と共に始まる。かと思えば、隕石が物語を終わらせることもあるのだ。
https://www.sankei.com/wired/news/201128/wir2011280003-n1.html

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チャドで遊牧民と農民が衝突、22人死亡 発端は牛

2020-11-29 | 先住民族関連
AFPBB News 2020/11/28 17:5

© STUART PRICE / ALBANY ASSOCIATES / AFP アラブ系遊牧民の親子。チャド国境に近いスーダン・西ダルフール州の村で(2008年3月16日撮影、資料写真)。
【AFP=時事】チャド南部カビア(Kabbia)地域で23日から24日にかけて遊牧民と農民の間で衝突があり、少なくとも22人が死亡した。マハマト・ゼネ・シェリフ(Mahamat Zene Cherif)外務・アフリカ統合・国際協力・ディアスポラ相が27日、明らかにした。両者の間では、対立によって死者が出る事例が相次いでいる。
 シェリフ氏はAFPに対し、遊牧民と農民は矢で打たれるなどしてそれぞれ11人が死亡、34人が負傷したと述べ、カビア地域では夜間外出禁止令が出され、これまでに66人が拘束されたと明らかにした。
 別の当局者の情報によると、引き金になったのは、牛などが農耕地を踏み荒らしたために農民が牛を盗んだことだった。
 乾燥地帯のサヘル(Sahel)地域では長年、先住民族の農民とアラブ系遊牧民の間で緊張状態が続いており、時に死者が出る衝突に発展。多くの場合、スーダンから時に越境して来る遊牧民が家畜を農耕地に連れ出して作物に被害を与え、両者が対立する流れで暴力沙汰が起きている。
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%89%E3%81%A7%E9%81%8A%E7%89%A7%E6%B0%91%E3%81%A8%E8%BE%B2%E6%B0%91%E3%81%8C%E8%A1%9D%E7%AA%81%E3%80%8122%E4%BA%BA%E6%AD%BB%E4%BA%A1-%E7%99%BA%E7%AB%AF%E3%81%AF%E7%89%9B/ar-BB1braGL

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「日本とアメリカ、和人とアイヌ。平民宰相は暗殺され、天才少女は夭折した」1921(大正10)年 1922(大正11)年【連載:死の百年史1921-2020】第2回(宝泉薫)

2020-11-29 | アイヌ民族関連
ベストタイムス 11/28(土) 19:00
死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。第2回は1921(大正10)年と1922(大正11)年。文明の交流と衝突のなかで起きた「暗殺」と「夭折」である。
■1921(大正10)年
少子化も予見した知米派、その暗殺は大きな破局の予兆でもあった
原敬(享年65)
 およそ百年前、ひとりの政治家が暗殺された。平民宰相と呼ばれ、初の本格的政党内閣を組織した原敬である。
 安政3(1956)年、南部盛岡藩の武士の子として生まれ、12歳で明治維新に遭遇。分家して平民となり、新聞記者や外交官を経たあと、政治家に転身した。その姿勢は極めて現実主義的で、のちの世でいえば田中角栄などに近い。利益誘導で味方を増やし、数の力で政局をリードしていくというやり方だ。
 現実主義者だから外遊などで見聞を広めることを好み、それゆえ先見の明もあった。52歳のときに行なった半年にも及ぶ世界旅行で米国を訪れた際には、女子教育の充実に感心しつつ、こんな懸念を日記に示している。
「然るに当校を卒業したる女子にて結婚したる者は百人中十八人に過ぎずと云ふ。此趨勢は独り此地方に限らず、将来如何に成り行くかは問題なり」
 非婚化、ひいては少子化を心配していたのだ。また、この米国滞在ではオノ・ヨーコの祖父にあたる銀行家にウォール街を案内されたり、ときの大統領、セオドア・ルーズベルトに会ったりした。その繁栄ぶりを目の当たりにした実感を通して、20世紀は米国の時代となることを確信。対米協調を政治信条のひとつとするにいたる。
 大正7(1918)年には総理となり、平民宰相としてもてはやされた。就任直後に第一次世界大戦が終結。日本は戦勝国として、翌年発足した国際連盟では常任理事国となる。その一方で、大陸進出をめぐり、欧米中の各国と軋轢も生じていたから、協調外交を得意とする原はうってつけに思われた。
 ただ、利益誘導型の政治がその富を貧乏人にも分配できるとは限らない。また、現実主義者ゆえ、富裕層が反発する普通選挙への移行にも消極的だった。それゆえ、大衆の人気はしだいに冷めていくことに。しかも、原は大正天皇と親しく、その病弱なことも知悉していた。皇太子・裕仁親王(のちの昭和天皇)を摂政とすべく、その前に見聞を広めてもらおうと半年間の欧州訪問を実現させる。これが一部保守派の反発を招いたのである。
 皇太子が帰国した翌月、原は日記に「余を暗殺するの企ある事を内聞せり」としたためつつ「運は天に任せ」警備は不要だと書いた。その翌月、政友会の大会に向かうべく訪れた東京駅で、18歳の右翼少年に刺されてしまう。養子の原奎一郎によれば「ほとんど即死に近い最期」だったが、好物の葡萄酒を口に注がれると、ひとくちだけ飲みこんだという。
 また、芸者から妾を経て正妻となった浅(あさ)の態度が見事なものだった。閣僚たちが遺体を官邸に運ぼうとしたところ、
「なくなれば、もはや官邸には用のない人ですから、芝の自宅のほうへ運んでいただきとうございます。これは主人の遺志でもあろうかと存じますので」
 と言い、そうさせたのである。
 ただ、日本はまだ彼を必要としていたかもしれない。抜群の政治力を持ち、当代きっての知米派でもあったこの男があと10年でも生きていれば、外交の方向性も多少は変わっていたのではないか。
 原が亡くなった3週間後、皇太子が摂政に任命された。大正10(1921)年11月。昭和の治世は事実上、ここから始まった。
■1922(大正11)年
アイヌ文学とひきかえに、夭折したバイリンガル少女
知里幸恵(享年19)
 日清日露の戦勝と第一次世界大戦での「漁夫の利」によって、世界の列強入りを果たした大日本帝国。しかし、国内には滅亡の危機に瀕する民族がいた。アイヌだ。
 北海道で古くから独自の文化を築いてきたが、和人の搾取や迫害により衰退。文字を持たず、農耕を行なってこなかったことで差別され、民族としての誇りも失われつつあった。そんな状況を少なからず変えたのが、大正12(1923)年に出版された『アイヌ神謡集』(知里幸恵)である。
 知里はアイヌの天才少女で、学校ではどの和人よりも賢く、15歳のとき、言語学者の金田一京助に見いだされた。これを機に、祖母や叔母が口承していた詩を翻訳する作業に取りかかり、11年5月に上京。アイヌ語にも日本語にも長けた卓越した能力で、この本を完成させ、アイヌの文化、そして民族性への評価につなげたのだ。
 しかし、彼女はその成果を自分の目で見届けることができなかった。上京から4ヶ月後、まさに本の校正を終えた夜に19年の生涯を終えてしまったからだ。死因は心臓麻痺。14歳ごろから心臓を患い、死の11日前には僧帽弁狭窄症の診断を下されていた。故郷に結婚を誓った恋人のいる彼女は、診断書に記された「結婚不可」という言葉に絶望したという。
 両親に宛てた手紙に、彼女は「此のからだで結婚する資格のないこともよく知っていました」としながら、こう続けた。
「人のからだをめぐる血潮と同じ血汐が、いたんだ、不完全な心臓を流れ出づるままに、やはり、人の子が持つであろう、いろいろな空想や理想を胸にえがき、家庭生活に対する憧憬に似たものを持っていました。(略)ほんとうに馬鹿なのです、私は……。」
 それでも、静養に務めながら、アイヌの文学を伝えることに一生を捧げようと決意し、亡くなる前日には故郷の自然を讃えるこんな詩を書いている。
「空は実に何とも云えぬ程美しかった/何という蒼さ 静けさ 深さであろう!/又、沈みゆく太陽は、何という輝かしさ/神々しさであろう!(略)彼処は静かで幸福に満ちている」
 彼女は文才のみならず、差別にも堪えうる強い意志とクリスチャンらしい敬虔な思いやりを持っていた。当時9歳だった京助の息子・春彦にも慕われ、翌日には近所の神社の祭りに行く約束もしていた。欠陥は心臓だけで、それが命取りになったのである。
 その薄倖な生涯は、アイヌそのものの運命にも重なって見える。
(宝泉薫 作家・芸能評論家)
https://news.yahoo.co.jp/articles/e60dc9f3fa4737c34f5ef1a434455ddd026c84db

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斎藤工 ドラマ『共演NG』で演じる“ショーランナー”を語る「視聴者の目線の先にあるものを見せる存在」

2020-11-29 | アイヌ民族関連
ヤフーニュース 11/28(土) 17:52
注目ドラマ『共演NG』でショーランナー・市原龍を演じる。「ショーランナーという職業を見せること自体が、このドラマを多角的に見せている」
今クールのドラマの中でも話題を集めているといえば、なんといっても『共演NG』(テレビ東京系/毎週月曜22時~)だろう。秋元康企画・原作、大根仁脚本&監督、中井貴一と鈴木京香が共演する豪華な布陣でも注目を集めている。「テレビ東洋」を舞台に、ドラマ制作の裏側を描くラブコメディで、この劇中劇『殺したいほど愛してる』の全てを取り仕切る“ショーランナー”という、日本ではあまりなじみのないポジションの役で、存在感のある演技を見せているのが斎藤工だ。このドラマについて、そしてハリウッドではメジャーな存在のショーランナーの役割について、映画製作にも注力している斎藤にインタビューした。
「ショーランナーって、テレビを観ている人には伝わらない職業だと思いますが、その職業を見せること自体が、このドラマを多角的に見せることができているなと、自分が演じる、演じないは関係なく思います。とても興味を持ちました」。
このドラマへ、そしてショーランナーという役へのオファーが来た時にまず感じたことをそう教えてくれた。さらに“製作総指揮”と訳されるショーランナーの仕事について「映画『トランスフォーマー』などを手がけるマイケル・ベイ、そしてスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスとか、自分で撮るのではなくそのポジションで色々な人を動かしている人」と具体的に教えてくれた。劇中劇『殺したいほど愛してる』のショーランナー・市原龍を演じる斎藤に、この『共演NG』というドラマを俯瞰で捉えると、という質問をぶつけてみた。
「中井貴一さん、鈴木京香さんをキャスティングできた時点で、勝っているドラマ。大根監督の脚本が素晴らしい」
「中井貴一さんと鈴木京香さんをキャスティングできた時点で、ひとつ勝負には勝っていると思います。そこに何が付随していけば総力が上がるのか、という構造になっている気はします。お二人ありきです。そしてお二人のコメディセンスがこのドラマのライフラインになっていると思います。中井貴一さんは紫綬褒章を受章されて、改めてすごい役者だと思いますが、コミカルな中井さんの“間”が本当にすごくて。大根(仁)監督の脚本も素晴らしくて、全体の会話の内容の要点とリズムがよくて、字幕で補っている部分も含めて、説明しすぎていないというか。登場人物一人ひとりにちゃんとリズムが均一にあるので、それが観やすさにつながっていると思います。これはこういう意味でと説明するために立ち止まって視聴者に寄り添いすぎると、リズムが狂うというか、一気見しづらいと思います。そういう意味では全体のバイオリズムがしっかりありながら、粒立ったワードが結実している巧妙さは、大根さんらしいと感じました」。
「ショーランナー・市原の言葉は、これからの日本のドラマ、エンタメがどう進化していくべきか、秋元さんや大根さんの思いが込められていると思う」
ショーランナーというポジションが、これからの日本のドラマ業界、エンタメ業界では絶対的に必要になってくると、コロナ後のエンタメ界の流れを指し示しているドラマだともいう。
「市原って怪しい役だと思っている人が多いかもしれませんが、大げさではなく、これからの日本のドラマ、エンタメがどう進化していくべきかという、芯を食ったことを肚の中では持っている人物です。彼の真意の部分に、もしかしたら秋元さんや大根さんの根幹にある思い、遠くない未来のテレビ、ドラマ業界に対する大きなエールが込められていると思っています。これはドラマ後半での僕のセリフにも出てくるのですが、今年はSTAY HOMEという状況があったこともありますが、Netflixやアマゾンプライムなどの配信系メディアを通じて、海外の優れた作品に触れる機会が多くなったという時代の流れに対して、日本ではまだまだコンプライアンスという問題が大きく、それによって表現の不自由というか制約が生まれています。その世界の時流とのコントラストが最もわかるのが、まさに今です。だからショーランナーの目線というは、視聴者の方の目線に近いのかもしれません。視聴者の方の目線の先にあるものを捉えて見せていくのが、ショーランナーなのかもしれません。大切な存在なのに、ないがしろにされがちなポジションだし、そのポジションに光を当てることで視聴者の方は、これから色々なドラマを観る上で楽しみが増えると思います」。
「出演者も視聴者も、コロナ禍の中でテレビ東京への期待が大きくなっている」
さらにテレビの未来というものを考える上でも、このドラマはかなり先進的だと説明してくれた。キリンとサントリーという、競合しているメーカーがスポンサーになっているということに、「“共演NG”じゃないんだ」と誰もが驚き、SNS上でも盛り上がった。
「出演している我々もそうだし、視聴者からのテレビ東京への期待が、コロナ禍の中で“希望”に変わっているのではないでしょうか。今YouTubeを始めメディアハザードというものが起こっている中で、テレビ局は今まで通りのものを作っているのがいいのか、それともこの時代の様式の変化に対して、どれだけ深く鋭利なものを作れるかということも試されていて、これはスポンサー企業さんもそうだと思います。そんな変化の中で、テレビ東京への期待値はますます高くなっていると思います。コロナ禍の中で、エンタメはものすごい真実か、ものすごいファンタジーかで二分化されている気がしていて。コロナ禍のことを描く必要はないと思いますが、そういう意味ではこの『共演NG』というドラマは、普段視聴者の方が思っていたことを見せるエンタテインメントで、真実のベールを剥がしていくような、今の時代にあったテイストに、結果的になっていると思います。コロナ前に戻ることなんてないのに、そこにこだわってアップデートしようとしない人も多い中、今回の僕のようにリモートで出演という、撮影現場も全部ではないですが、新しいところに向かっていっている気がします。それがテレビ東京であり、秋元さんであり、大根監督であり、その作品の主役が中井貴一さんであり、鈴木京香さんであるということに、すごく意味があると思います」。
“齊藤工”名義で総監督を務めた、日本のコンプライアンスの輪郭をコメディタッチで描いた映画『COMPLY+-ANCE コンプライアンス』
斎藤は俳優業と並行して映画監督としても活動し、自身が出演する「blank13」で長編監督デビューし、今年も企画・原案・撮影・脚本他総監督として作り上げた映画『COMPLY+-ANCE コンプライアンス』が、2月に公開(全国で順次公開)されるなど、映画製作に注力している。そんな映画人・斎藤にとってショーランナーは理想的なポジションという捉え方をしているのだろうか。
「ケースバイケースだと思います。自分が監督をした方がいい作品と、後ろに回って一切表に出ない方がいい作品があったり。今公開中の映画『アイヌモシリ』では、スチールカメラマンとして参加しています。最初は福永(壮志)監督から出演オファーをいただいたのですが、脚本を読んで、アイヌの方を描いたリアルな世界が存在するこの作品に、自分の出る幕はないと感じ、色々鑑みた結果、スチールだけの参加にさせていただきました。そういう意味では、その作品においての自分のベストな立ち位置は毎回探っているつもりなので、今の自分に今回ショーランナーという役をいただけたことに、意味を感じました。そして僕が作って、ちょうど公開中の『COMPLY+-ANCE コンプライアンス』という映画がありますが、自主規制の波に対する忖度や、コンプライアンス問題に一石を投じた作品になっています。規制もないのに問題が起こらないよう、あらゆる表現が控えめになってしまう今の日本のコンプライアンスというものに対して、なぜなんだろうと探るところから始まった作品です。ある意味皮肉を込めて、日本のコンプライアンスの輪郭をコメディタッチで描いた作品になっていて、映画の自由度というものを僕は信じています。まさに「共演NG」で描かれているような、『なんでだめなんだろう』って思っていても『こういうもんだから』のひと言で、片付けられてしまっていることを調べようと思ったのがきっかけです」。
安藤裕子「一日の終わりに」のMUSIC VIDEOの監督・脚本を担当。「自粛期間中に感じたことと安藤さんの歌詞とが必然的に線でつながりました」
斎藤は映画だけではなく、シンガー・ソングライター安藤裕子の「一日の終わりに」のMUSIC VIDEO(出演/門脇麦、宮沢氷魚)の監督・脚本を担当している。音楽ありきで作るMVと映画というのは、同じ映像作品とはいえ全く違うものという捉え方なのだろうか、それとも延長線上にあるものなのだろうか。
「僕は完全なるフィクションというのは生み出せなくて、『blank13』も僕の友人の実話で、実際に起こることを超えるフィクションってない気がしていて、誰かの実際の物語に作品のライフラインの手綱を設けているつもりです。『一日の終わりに』に関しては、自粛期間中の自分の時間というものが基になっていて、孤独を感じる時間が多くて、その時間と安藤さんの歌詞とが必然的に線でつながり、リンクしてしまったので、あの映像が生まれました」。
『一日の終わりに』は短編映画化され、『ATEOTD』として公開中
STAY HOME期間中の思いが投影された作品ということで、やはり人とのつながりや誰かの存在の大切さを、改めて気づかせてくれるMVになっている。
「歴史を調べてみると、人類の歴史上100年周期で伝染病に襲われていて、これは人間に対する地球からの警告が100年周期で行われているのでは?と思い、次の100年後、2120年を舞台にしました。他の生物を差し置いて人間ファーストになっている我々への警告かもしれないし、『風の谷のナウシカ』で宮崎駿さんはすでにそれを描いているし、僕の中でも真実味が増してきて、そういう世界を描いてみようと思いました。彼女の声がシネマティックというか、元々映画を作りたいということが、彼女のクリエイションの始まりだったということを聞きました。どの曲もMVとは別に、彼女なりの絵コンテのようなものがあるようで、今までもどれも短編小説のような世界観で楽曲を作ってきたと言っていました。そんな作品のひとつを映像化できてよかったです」。
このMVを短編映画化した『ATEOTD』が9月に公開された(全国で順次公開予定)。斎藤は映画、ドラマ、そしてエンターテインメント全体の“これから”をいい意味で貪欲に追求し、風穴を開け、前へ前へと進んでいる。その熱量が多くの人の心を動かし、大きな“うねり”になっているようだ。なお『共演NG』は見逃し配信が第1~4話までTVerで無料配信中で、12月7日放送の最終回、そして14日放送の特別編で、謎多きショーランナー・市原龍の全てが解き明かされる。特別編は斎藤もインタビューで語っているように、視聴者はもちろん業界人必見の内容になっている。
https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakahisakatsu/20201128-00209607/

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口を開けて叫ぶ岩 その名も「魔神の頭」が出現

2020-11-29 | アイヌ民族関連
朝日新聞 11/28(土) 15:30
 北海道旭川市の石狩川河川敷にある、アイヌ民族の伝説に登場する「魔神の頭」の流木が4年ぶりに取り除かれ、きれいな姿をみせた。
「魔神の頭」は石狩川が上川盆地から狭い谷を通り空知平野に抜ける、旭川市郊外のかつての交通の難所、神居古潭(かむいこたん)地区にある。魔神ニッネカムイと英雄神サマイクルが激闘を広げ、魔神は最後に首を切られて敗れた、という伝説が残る。
 その「魔神の頭」と言われてきたのが、高さ約3メートルの岩だ。右岸にあり、魔神が大きな口を開け、叫んでいるような姿にみえる。
 ところが、2016年の豪雨で川があふれ、魔神の頭には流木が多数からまってしまった。
 今年に入り、この流木をなんとかしようと関係者が動き出した。地形を通し、地球と人々の暮らしのつながりを学ぶ「ジオパーク」構想を進める旭川市や周辺6町などでつくる協議会は、「アイヌ民族の伝説のある岩を、きちんとした形で多くの人に知ってもらいたい」と、国交省旭川河川事務所に要望。同事務所も「伝説の地でもあり、流木がからまったままだと河川管理上も問題だ」と応えた。流木の撤去作業は今月上旬に行われ、魔神の頭はすっきりした姿を現した。
 魔神の頭は、約160年前にこの地を踏査した松浦武四郎の記録にも、スケッチが残っている。同協議会の岩出昌専門員は「武四郎のスケッチと同じ姿が現れた。魔神の伝説を知らない人もまだ多いので、これを機会に興味を持ってもらいたい」と話す。
 魔神の頭のある河川敷は、一般の立ち入りができない場所のため、協議会は今後、見学ツアーなどを計画していくという。(本田大次郎)
https://news.yahoo.co.jp/articles/ee2e53f429b7b5fdd271329f8319bfa896b6bc4f

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外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(27)感染が再拡大した欧州の「いま」と日本の「あす」

2020-11-29 | 先住民族関連
Jcastニュース 11/28(土) 12:00
 夏ごろには、いったんコロナ禍が小康状態になった欧州で、秋口から感染が再拡大し、その勢いがとまらない。なぜ感染がぶり返し、どんな対策を打とうとしているのか。独仏を中心に、日本の「明日」の姿を探る。
■欧州と緯度が重なる北海道の感染拡大
 私が住む北海道は、コロナ禍については、全国の「先行指標」のような立ち位置にあるようだ。鈴木直道知事は2020年2月28日に、全国に先駆けて独自の緊急事態宣言を出し、外出自粛を要請した。夏にはいったん収まりかけたものの、冬に向けて感染が急速に再拡大している。11月21日までの1週間で、人口10万人当たりの新規感染者は全国平均が10・79人だが、北海道は31・10人と突出しており、大坂や東京を上回っている。鈴木知事は23日、経済振興策「GoToトラベル」キャンペーンからの除外を表明することになった。
 たぶん、これには二つの要因がある。第一は、最北に位置し、いち早く寒冷の季節を迎え、冬も長引くことだ。もう一つは、札幌に一極集中するという歪な人口構成だ。
 札幌市の人口は約196万人で、市別に見れば東京都区部、横浜、大坂、名古屋に次ぐ全国5番目の政令指定都市だ。一方、北海道の人口は約524万人。つまり、北海道の人口の37%は札幌に集中していることになる。北海道の人口密度は1平方キロ当たり62・8人に対し、札幌のそれは1750人。単純に計算すれば約27・8倍だ。
 これを東京に置き換えてみれば、都区部には総人口の7・6%が集中し、東京都全体で見れば11%強、人口約3680万人の首都圏1都3県には30%近くが住んでいることになる。つまり北海道の札幌への一極集中は、全国の首都圏への一極集中を上回る計算になる。
 もちろん、都道府県の一つを、全国になぞらえることには飛躍がある。しかし北海道の面積は国土の2割強。数年前にネット上で、日本の地図パズルで北海道の型枠に全国都道府県のパズル片をいくつ詰め込むことができるかを競う遊びが流行ったが、最高は16県に上った。私も試みたが、東京23区を含め、16都県が北海道の広さに収まった。
 つまり、面積の大きさに比べ、この札幌への人口集中は、かなり異例と言っていい。
 背景には二つの理由がある。一つは、戦後の北海道の主力産業だった石炭採掘がエネルギー革命や事故によって衰退し、同じく柱だった林業が、外国産の安い材木の輸入に押され、廃れていったことだ。もう一つは1972年の札幌冬季五輪開催に合わせ、開発予算が札幌の都市整備に集中したことだ。これによって札幌は、炭鉱の職を失った人々の受け皿として人口が拡大することになった。
 北海道と命名された明治2年に、長く暮らしてきたアイヌの人々を除けば、札幌に住みつく和人は豊平川の渡し守をする2家族7人だけだったと言われる。それが1970年には100万人都市になり、その後も周辺合併を続けて倍増した。全国でもまれな新興急増都市なのである。
 寒冷地であることと、札幌への人口一極集中によって、今回のコロナ感染も北海道に特有の展開をたどるようになった。一つは、冬に向かい、全国に先駆けて感染が広がっていることであり、もう一つは、札幌と道内各都市の往来が、感染拡大源になっていることだ。
 危機感を募らせた鈴木都知事は11月16日、札幌市の秋元克広市長と緊急会談をして、札幌市民には外出自粛、札幌と道内他都市には、札幌との往来自粛を求めた。
 だが、即効性を見込むのは難しい。高度に都市機能が集積した札幌には、日ごろから通勤・通学・買い物などで周辺から通う人々が多く、とりわけ小樽、江別、石狩、北広島の近隣4市は一体化した活動圏だ。さらに、北海道開発局の調べでは、コロナ禍以前、新千歳空港の乗降客は1日6万人近くを数え、全国で5番目に多く、その6割が札幌に流入していた。10月から東京都も「GoToトラベル」の発着地の対象に加わったことから、行楽シーズンを迎え、首都圏からの観光客数も回復しつつあった。裏を返せば、道内他都市は札幌との行き来によって、さらに札幌は国内他都市との行き来によって感染拡大のリスクを抱え、しかもそれが、「経済活動再開」と矛盾するというジレンマを抱え込むことになった。しかも、人口減少が続く他都市では医療態勢も十分ではない。比較的整備されている札幌以上に、地域医療が逼迫する臨界点は早くにやってくる。
 以上が、この秋に札幌と北海道で起きたコロナ感染の簡単な素描だ。こうした問題を考えるにあたって、いつも私の念頭にあるのは、欧州各国の様子だ。札幌の緯度は北緯42度から43度に位置する。同じ緯度をたどればドイツのミュンヘン、マルセイユのあるフランス中南部やスペイン北西部に近い。季節感や、大都市への人口一極集中といった条件も、かなり似通っている。
 その欧州で何が起きているのか。ベルリンとパリに長年住むお二人に、近況をうかがった。
ジャーナリスト・梶村太一郎さんにうかがうドイツの今
 ドイツはこの春、南欧並みの感染者を出しながら、死者は比較的少なく、世界から「ドイツモデル」と称賛された。その「欧州の優等生」にもこの冬、危機は迫っている。その一方で、米製薬大手ファイザー社と協力し、世界に先駆けて米食品薬品局(FDA)にワクチンの緊急時臨時使用許可(EUA)を申請したドイツのバイオ企業ビオンテックが世界の注目を集めている。
 11月17日、ベルリン在住46年のジャーナリスト、梶村太一郎さんに、ZOOMでドイツ事情をうかがった。なお梶村さんには、このコラム6回目の「欧州のコロナ禍」(5月30日リリース)でも話を聞いている。
 その回でもお伝えしたように、「ドイツモデル」の大きな特徴は「参謀本部」方式にある、と梶村さんは言う。参謀本部は、19世紀のプロイセンで確立した軍事組織で、平時から、有事を想定して軍事計画や動員計画を研究し、準備する軍の中枢部門だ。
 感染症における参謀本部は、連邦保健省直属の機関、ロベルト・コッホ研究所である。1890年にコッホが設立したこの研究所は、2002年から3年にかけてSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行したのち研究を重ね、2013年に連邦議会に、最悪事態を想定したリスク分析の報告書を提出した。これは,変種のコロナウイルスが東南アジアから欧州、北アメリカに感染拡大するというシナリオで、今回の新型コロナ発生とよく似ている。特筆すべきは、ドイツ政府がこうした研究をもとに医療体制や予防体制を構築していた点だ。これが、パンデミックにおいて、ドイツがパニックに陥らず、冷静に初期対応をするに当たって、大きな備えになった。
 この研究所は毎日感染情報を公開しており、そのサイトを見るだけでも深刻さがうかがわれる。11月23日のサイトには、この日だけで1万864人の新規感染が確認され、累計では92万9133人。治療中の患者が29万6200人に上り、ICU患者も33人増えて3742人になる。直近1週間の10万人当たりの新規確認は143症例になり、これも日本の全国平均10・79人とはケタが違う。だが、その感染の勢いをみれば、欧州でも医療態勢が充実しているとはいえ、かなり緊迫した状況だ。
 こうした趨勢が明らかになった10月28日、ドイツのメルケル首相は州政府と話し合い、11月2日から月末までのロックダウンを決めた。今回も、持ち帰りを除き飲食店やバーを閉鎖し、娯楽イベントなどを禁じた。劇場や映画館、スポーツ施設なども閉鎖し、公共の場の集まりは最大2世帯、計10人までとする。また、宿泊施設の利用も「観光目的以外」に限る、とした。その一方で、学校や商店などは閉鎖しなかった。春に比べると、やや緩やかな都市封鎖といえる。それでも、梶村さんが送ってくださったロックダウン後のスナップ写真には、ベルリンの公園をマスク着用で散歩する人や、行きつけのトルコ人経営の魚屋が、マスク着用で1回に入店者を1人に制限する様子などが写っており、平穏な日常にも緊張感に包まれる雰囲気が伝わってくる。
「今回の措置は、ドイツでは『ソフトなロックダウン』とか、『ロックダウン・ライト」と呼ばれている」
 春のロックダウンでは、学校が休校になり、食品を扱うスーパー、薬局、病院以外は商店も閉めた。
「30代の息子は3歳と昨夏生まれた乳飲み子を抱え、保育園も閉まっていた。在宅で仕事をしていたが、週に2日は出勤しなければならず、奥さんと交替で子どもの世話をしながら3か月を過ごした。『3か月で5年分ぐらいの歳をとった』とぼやいていました」
 厳しすぎる行動制限は長く続かない、ということだろうか、今回は理美容院も店を開けているし、前回はできなかったお葬式への参列や教会の礼拝も許されているという。
激しい第2波と日本の7倍になる犠牲者
 メルケル首相が今のロックダウンを決めた時点で、新規感染確認は、過去最多の約1万5千人だった。感染経路を追うのが難しくなり、クリスマス前に制限をかけることで、抑え込みたいとの狙いだった。だが梶村さんはこういう。
「今回の行動制限後、感染拡大はようやく頭打ちになってきたが、まだ油断はできない。総じて言えることは、この冬の第2波は、春の第1波より激しいということだろう」
 その例として挙げるのは、死者数の増加だ。今の時点で、日本の死者数の7倍に当たる1万4千人以上の犠牲者を出している。
「9月上旬ころは、この勢いが続けば年内に死者が1万人に達するのもやむを得ないか、という認識だった。だが、11月になると死者が1日100人単位で増え、昨日も267人が亡くなった。ドイツ全土に感染が広がり、その増加に応じて重症者や死者が増えている」
 梶村さんは感染度に応じて色を塗り分けたコッホ研究所の資料を送ってくださったが、それを見ると、全体が赤く染まり、全土への広がりが一目瞭然だ。だが、その中でも、ドイツの南部、西部が濃く、東部と北部では比較的広がっていないことも読み取れる。
「今回の特徴は、ドイツと国境を接したポーランドやチェコなど旧東欧での感染が拡大していることだ。人口が約3800万人のポーランドでは、人口8200万人のドイツよりも多い新規感染者が出ている」
 医療態勢の充実したドイツでは、今月に入ってベルギーやオランダ、フランスからコロナ重症患者を受け入れ始めたが、そろそろ国内のICU施設も逼迫し始めており、緊急ではない手術を先延ばしして、コロナの重症患者を受け入れるなどの措置を取り始めた。
 だがドイツの強みは、将来を読む先見性と持ち前の組織力だ。ベルリン市はこの春、見本市会場に、500床の臨時集中治療病院の施設を敷設した。当初は1千床の予定だったが、まだ余力があったため半分で建設を中止し、空いたままになっている。
 梶村さんによると、ボランティアで建設を主導したのは、元ドイツ連邦技術支援隊隊長のアルブレヒト・ブレーメ氏(67)だった。
 彼は技術大学を卒業後に兵役代替役務で消防士を務め、長く元ベルリンの消防署長をした人物だという。その後、当時の連邦内務大臣で現連邦議会議長ショイブレ氏によって支援隊隊長に任命された。2年前に定年引退したが、今回のコロナ禍で手腕を見込まれ、建設を引き受けた。
 建設開始が3月下旬で、わずか6週間後の4月末には500床を完成させた。経費は日本円で480億円かかった。未使用になっていたので一時は「ムダ遣い」との声も出たが、今は「安心の担保」になっていることから、非難する声ははほとんどないのだという。体外式模型人工肺のECMOこそないが、酸素吸入装置やCTを使える作りになっており、今は最悪の場合を想定して機器を使う訓練をしているという。
「感染は防げない」を前提に「犠牲者を減らす」対策
 だが、梶村さんが指摘した通り、状況は予断を許さず、一進一退を繰り返している。長期化は避けられない見通しだ。
 インタビュー後の11月25日ベルリン発時事通信電によると、コッホ研究所の統計で、過去24時間のコロナ死者数が410人になり、4月の第1波時の315人を超えて過去最多になった。1日の新規感染者数も1万8000人超と依然高水準が続いているという。
 こうした動きを受けて同日、メルケル首相は各州と協議をし、クリスマスに向けた方針を打ち出した。梶村さんによると、以下の内容だ。
1. 12月1日から、私的な集まりは、最大で2世帯、大人5人に制限。ただし、(感染率の低い)14歳以下の子は例外とする。
2. 冬休みは全国で12月19日から前倒しにして始める。
3. 12月23日~1月1日の間は、1の規制を緩和し、世帯数を問わず、最大10人の大人が集ってよい。この場合も14歳以下の子は例外とする。
 つまり、12月からはいったん規制を強め、クリスマスから年末までは大人10人と子供や孫が集まってもよいという方針だ。感染拡大を厳戒しつつ、最大行事のクリスマス期間だけは制限を緩め、一家団欒の日常を取り戻してほしいという、ぎりぎりの選択だろう。
 連邦制をとるドイツでは、日本よりも各州の権限が強い。感染予防法は各州に権限をゆだねており、マスク着用をどこまで義務付けるか、開く店の種類を具体的にどこまで認めるかなどは、州の条例で規制している。たとえばベルリンでは、最初は感染防止に効果がない、と言われたマスクについて、9月から公共交通機関出の着用を義務付け、最近では約20の繁華街で着用を条例で義務づけた。この点では、地域ごとに、感染に応じた施策を立てる日本とも似ている。
 だが、日本との一番違いは、、政治家の責任の取り方だと梶村さんは指摘する。
「コッホ研究所のウィーラー所長は、『私はこう思う』と言いつつ、感染防止策については『学者が判断することではなく、政府が判断することだ』とクギを刺す。学者と政治家の判断は違って当然という考え方で、政策決定のプロセスがはっきり表に出る。それが安心感につながっている」
 ドイツの報道によると、メルケル首相は,今回のロックダウンについて、もっと厳しい措置を取るよう主張したという。「命を救うためには、もっと厳しく制限する必要がある。人の接触率を4分の1に絞り、日常生活で会う人を、同居人以外は1人に制限してほしい」という旨の発言をした、と伝えられている。
 だが前述のように、厳しいロックダウンには人々の疲弊や経済的損失という別の悩みが付きまとう。
今回の措置に当たってメルケル首相と各州は、当面100億ユーロ(約1兆2300億円)を企業に追加支援することでも合意した。閉鎖によって影響を受ける従業員50人以下の中小企業は、前年11月の売上高の最大75%を受け取れる。
 それでも、家庭内などと比べ、比較的感染が少ないと言われる飲食店や宿泊業者からは、不満の声も出ている。ドイツ商工会議所の統計によると、今回のロックダウン2週間の途中経過で、ドイツ全体の小売店、商店の売り上げは前年同月上半期と比べ、43%の減少になったという。
 では、こうした損失補償をしながらの「ソフトなロックダウン」はいつまで続けられるのだろう。
 メルケル首相は、暖かくなる来年4月の復活祭(イースター)までは、今のような感染状況が続くとの見通しを持っている。また、元ハンブルク市長で社会民党(SPD)のオーラフ・ショルツ財務相は、来年6月いっぱいまでのコロナ対策の臨時予算を総額960億ユーロ(約12兆円)と算出し、「借金をすれば、まかなえる」と発言している。
 EUの「安定・成長協定」は加盟国の財政の健全性を保つため、財政赤字を国内総生産(GDP)比で3%以内、債務残高を60%以内にするよう定めている。多くの国はこの財政規律に違反しているが、ドイツはここ数年で債務残高を減らし、昨年は60%を切った。こうしたゆとりが、長期的な取り組みを下支えしているのだろう。
 各国のコロナ対策は、感染の状況や財務状態に応じて違いが顕著になっているが、梶村さんは大別すると二つの類型になると指摘する。第1は日本や台湾、韓国、ニュージーランドのような島国で、「水際作戦」で流入をシャットダウンするタイプ。第2はスマートフォンのアプリなどで感染者との接触を監視し、警告するタイプ。9つの国と隣接するドイツでは、「水際作戦」は不可能だ。かといって、プライバシーを制限してまで「監視」を強めることも難しい。そこで長期的な目標として定めているのが、感染は防げないことを大前提として、「犠牲者を減らす」ことなのだという。
 コロナ対策を担当するシュパーン保健相が、会見で毎回のように言及するのは、ドイツのリスクグループの多さだ。
 内閣府の30年版高齢社会白書によると、総人口に対する65歳以上の人の高齢化率は、2015年時点で日本が26・6だったのに対し、欧米では21・1%のドイツがこれに次いでいる。フランスの18・9%、英国の18・1%、米国の14・6%と比べても高く、推計では2030年ごろには30%を超える勢いだ。ドイツは「感染を抑えつつ、重症化しても命を救う」ことを最優先にし、当面は10万人当たりの1週間の新規感染者数を50人以内に抑える目標を掲げている。
「一口でいえば欧州の感染率は日本の10倍で、米国は日本の100倍。せめて今の北海道並みになりたい、という状態です」
 梶村さんはそう話すが、裏を返せば、北海道を初め日本全体が、今の欧州のようにならないという保障はない。むしろ長期的にそうなることを想定して備えるべきだろう。梶村さんはさらにこう付け加えた。
「ただし明るい知らせもある。ウイルスの再生産係数は春の最悪段階では3前後だったが、今は1・2か1・3、それに、ワクチン開発の朗報もあります」
トルコ系の医師夫妻がワクチン開発に寄与
 米国のバイオ企業モデルナや製薬大手ファイザーは11月、開発中のワクチンが、3つある臨床試験の最終段階で、90%以上の効果を発揮したと発表した。ファイザーは20日にFDAにワクチンの緊急時の使用許可で1号目の名乗りをあげた。
 このファイザー社と協力したドイツのバイオ企業ビオンテックが欧州で注目を集めている。
 ファイザーとモデルナが開発中のワクチンで使っているのは、mRNA(メッセンジャーRNA)と呼ばれる物質の特性を利用した技術だ。DNAの遺伝子情報はまずメッセンジャーRNAに転写され、その情報をもとにタンパク質が作られる。ウイルスの遺伝子配列がわかれば、そのmRNAのワクチンで体内にウイルスのタンパク質を作り出し、それを捉える免疫細胞が、本物のウイルス侵入を排除して感染を防ぎやすくする。動物細胞などでウイルスを培養して弱毒化する従来型とは違う技術だ。
 ベルリン発時事通信電によると、ビオンテックの創業者は、4歳でトルコから移住してきたウール・シャヒンさんと、妻でトルコ系移民2世のエズレム・テュレジさんで、共に博士号を持つ医師夫妻だ。同社は12年前に創業し従業員1300人の中規模企業だった。しかし以前から取り組んでいたmRNAワクチンの技術力を買われ、年間売上高が500億ドル(約5兆2000億円)を超える世界最大級のファイザーと3月に共同開発で合意した。米ナスダック市場での株価は、昨年10月の上場から1年余りで7倍超に値上がりしている。
 梶村さんによると、ウグル・シャヒンさんは1965年9月にトルコで生まれ、4歳の時に母親と共に、ドイツのフォード工場で働く父親の元にやってきた。エズレム・テュレジさんさんは1967年に北ドイツの田舎町ラストルップで生まれた。父親はイスタンブール出身の開業医で、母親もトルコ系だ。夫妻の間には13歳の娘さんがいるという。
 梶村さんによると、高度成長期に入った当時の西ドイツは1961年、トルコ人を労働力として受け入れる協定を結び、イタリアやスペインから続いて多くのトルコ移民がドイツに住み着いた。70年代にかけて移住した移民は「ガストアルバイター(ゲストワーカー)」と呼ばれ、その後定住して国籍や選挙権を持つ人も多い。だが当初はドイツ語教育の態勢が不十分なこともあって、さまざまな軋轢や差別の問題を引き起こした過去がある。
 ドイツ社会にとって、最先端技術でワクチン開発に取り組むトルコ系の夫妻の活躍は、そうした苦い過去を拭い去る快挙と映ったのではないか。
 その質問に対して、梶村さんの答えはこうだった。
「たしかに、トルコのコミュニティでは大騒ぎをしているけれど、ドイツでは当たり前のことと受け止めた」
 そう言って梶村さんが語ってくれたのは、5年前に耳鼻科に通った経験だった。近所のかかりつけの医師から紹介された耳鼻科の専門医はトルコ人2世で、手術の場に指定したのは大学関連病院。そこで、その2世が大学教授であることを初めて知ったのだという。
「今のドイツで、祖先や親族がトルコ系など移民としての背景がある住民の割合は26%です。去年11月に、広島市と長い姉妹都市でもあるハノーバー大都市圏の市長に選出されたベリット・オナイ氏は、緑の党所属のトルコ系政治家です。それだけ、トルコ系移民も統合が進み、社会進出をしている。今回のビオンテックのニュースも、美談ではなく、ドイツ社会の成熟の表れという文脈でとらえた方がいい」
 開発中のワクチンは、RNAが壊れやすいために、零下70度前後の超低温で保管する必要があり、輸送の難しさも指摘されている。
 だが、この点について、ドイツは国防軍が特殊な容器に入れて移送する計画を立て、EUの認可が下りれば年内に接種を始める準備をしているという。16州でワクチンを接種する場所の選定を進め、インタビューしたこの日も、ベルリンの見本市会場など6か所で接種するというニュースが流れたばかりだった。
 その数日後、梶村さんから次のようなメールをいただいた。
「ベルリン市の計画では、12月後半から、毎日2万人にワクチン接種を実現したいとのことです。まずは75歳以上の老人39万人と医療福祉関連者の9万人から始めるそうです。ビオンテック社のワクチンはドイツ国内でも生産していますのでアメリカから輸送する必要はありません。ビオンテックのウルグ・シャヒン教授は、昨日、『目算では来年の秋までにドイツ住民の70%がワクチン接種すれば、コロナは完全に制圧でき、元の生活ができるだろう』と述べています」
 もちろん、新技術を使うワクチンについては、安全性や副作用について、慎重な検討が必要だろう。無症状や軽症の人が多いコロナの場合は、健康な子どもや若者、妊婦の人々に対するワクチン接種に、とりわけ十分な注意が必要になる。ワクチンの早期接種に過剰な期待を寄せ、感染防止の手を緩めるようなことがあってもならない。
 だがそうしたことを前提にしていえば、「神頼み」で外国産のワクチンに望みを託すこの国に比べ、将来を見越して着々と準備に怠りないドイツ社会の堅実さと周到さは、やはり瞠目すべきことのように思える。
パリ在住の石村清則さんに聞くフランスの今
 ドイツと同じく、夏にいったん沈静化したコロナ禍が、秋から再び猛威をふるい、ロックダウンを余儀なくされたのがフランスだ。
 マクロン大統領は10月28日、コロナの感染再拡大が深刻化していることを認め、30日から少なくとも1カ月、全土で外出禁止令を課すと表明した。
 フランスの第1回目の外出禁止令は3月から2カ月間続いたが、その後は半年間のブランクがあった。マクロン大統領は夏以降、外出禁止令に関し、「回避するためにあらゆることをする」として経済活動再開を優先させてきた。だが、1日の感染者数は10月に5万件超、死者も1日500人を超えるペースが続き、座視できないまでになった。
 マクロン大統領は「11月半ばには集中治療室が限界を迎える」と危機的な状態にあることを訴えた。春と違い、感染は全土に広がった。もう重症患者を、比較的感染していない地域に搬送することも難しい状況になった。これ以上放置すれば、春の第1波よりも大きな犠牲が出る、という苦渋の決断だった。
 だが、ドイツと同じく、ロックダウンといっても、今回は第1回と多少の違いがあった。
 カフェ、レストランなど「必要不可欠でない」商店はすべて閉鎖する。食料品の買い出しといった例外を除き、市民の外出も禁じ、違反者には罰金を科す。
 だが、前回と違って、保育所、幼稚園から高校までの学校は閉鎖しなかった。
 職場には可能な限り、テレワークを要請する一方、工場や農業、建設業などでは現場で働くよう求めた。経済への打撃を最小限にしたい思いがにじんだ方針だろう。
 実際の生活はどうだったのだろう。11月14日、パリ在住37年の石村清則さんにZOOMでインタビューをした。
 石村さんは私の高校同期で、パリ・インターナショナル・スクールで、第一言語として日本語を選択する生徒に、文学作品などを通して日本語を教えている。石村さんには、やはりこのコラム6回目の欧州編でお話をうかがった。石村さんはまず、ロックダウン宣言前後の状況について語り始めた。
「7~8月のバカンスが終わった9月から10月にかけ、感染がどんどん増えた。10月30日のロックダウン前後は、毎日3~5万人の感染が確認され、最高で8万5000人にもなった。第1波は特定の地域に感染が広がり、そうでない地域もあったが、今回はフランス全土に感染が広がっている。専門家が指摘するように、都市部の人々がバカンスで、感染が広がっていない地域に出かけた影響が大きいのだろう」
 9月からは新学期で学校も始まり、20代前後の若者が大学に戻った。その人々が家庭に戻るなどして、感染は全世代にまで指数関数的に拡大したという。
「フランスのクリスマスは、日本の正月に匹敵する大切な行事。家族が集まれないと、不満は爆発する。政府はそれを見越して、クリスマスの時期には制限を緩めようという狙いがあるのではないか」
 その言葉を裏付けるように、カステックス首相はインタビュー直前の13日に記者会見をし、12月1日までとしていた外出禁止を延長する一方,「我々の目的は、クリスマスには規制を緩和することだ」と述べた。
 この時点で、国内の入院患者は春のピークを超える3万2千人に達していた。首相は、「30秒ごとに1人がコロナで入院し、3分ごとに1人が集中治療病床に運ばれている」と警告した。亡くなる4人に1人の死因がコロナという最悪事態だ。
 死者はその後も増えて5万人を超えたが、ロックダウンの効き目が出たのか、11月下旬になると、最大で6万人超だった1日当たりの新規感染者は1万人を切るまでになった。
 マクロン大統領は11月24日のテレビ演説で、今後ロックダウンを3段階で緩和することを明らかにした。
 それによると、28日から生活必需品以外の商店も営業を再開し、1日当たりの新規感染が5千人未満という条件を満たせば、12月15日にロックダウンを解除し、夜間外出禁止令に切り替える。さらに1月20日にはレストランや屋内スポーツ施設の営業も再開する、というシナリオだ。クリスマスの季節に向けて、制限と緩和を使い分ける戦略が透けて見える。
「ソフト」化したロックダウン
 石村さんによると、今回のロックダウンは春とはかなり様相が違っているという。
 前回は、例外として認められる外出は買い物や犬の散歩などに限られ、しかも「1時間以内、自宅から1キロ圏内」に限られていた。このため、町はゴーストタウンのように人影が絶え、独りで出かけるのも怖いほどだった。
 今回は時間、範囲といった厳しい行動制限はなくなり、町で見かける買い物客は多かった。
 この制限緩和は、ロックダウンがパリなど大都市だけでなく、全土に拡大したことが原因だろう、と石村さんは言う。地方都市では、1キロ以内では買い物もままならず、車で遠出をする必要があるからだ。外出する場合には、何時にどのような目的で外出するのかを紙に印字するか、スマホに入力して、警察に職務質問をされる場合には、それを見せる必要がある。だが、大幅に逸脱していなければ、それほどチェックは厳密ではない、
 以前は完全に閉店したレストランやバーも、今回は深夜を除き、持ち帰りが認められている。
 通勤には、職場からの証明書が必要で、公共交通機関のチェックで携行していなければ罰金が科せられる。だが世論調査で働き手の45%はテレワークをしているというデータもあり、フランスでも在宅勤務が定着しつつあるようだ。国鉄やパリ市内のバス、地下鉄はかなり減便になったという。
 前回と違うのは、ウイルスは中国発ということを理由に、一部で「アジア人狩り」の暴力沙汰が起きていると伝えられていることだ。日本大使館からも、邦人同士で固まらず、目立つ格好もしないように、という注意が届く。
 だが前回も書いたように、石村さんの自宅はパリ西部でセーヌ右岸、ブローニュの森に隣接する16区にある。石村さんの家はその南端に位置し、すぐ窓の下にマルシェと呼ばれる路上の朝市が立つ閑静な住宅地だ。居住者は「中の中」から「中の上」くらいの層の人が多い。
「この周辺では、暴力事件などは見たことも聞いたこともない。アジア人が被害を受けたとされる場所は移民が多く、失業率も高いパリ郊外。ロックダウンでさらに職を失い、不満やストレスが、はけ口を求めて暴力に向かうのかもしれません」
学校では対面授業とオンラインが5割ずつ
 石村さんが勤めるパリ・インターナショナル・スクールは、「国際バカロレア」の(IB)カリキュラムを採用し、幼稚園から高校3年まで70カ国の園児や生徒が学ぶ。
 前に触れたように今回は、高校までの学校は開校するのが原則だ。フランスの国民教育省は最近、各校に通達を出し、コロナ対策の要点を指示した。
 登校時に健康状態をチェックし、授業では生徒間に1メートルの間隔を置き、換気をする。登下校では生徒が集中しないように、学年ごとに時間をずらすなど工夫をする。校内の移動は一方通行とし、マスクを外すのは昼食をとる時に限る。また、オンライン授業は5割までとし、5割は対面にしなければならない。
 基礎疾患がある教員や、65歳以上の教員が勤務する場合には、かかりつけ医師の証明に加え、学校側が依頼する産業医による許可も必要だという。さらに学校では1日2枚、週に10枚のN95微粒子用マスクを、そうした教員に配布する。
 一方、6歳以上の子にはマスク着用が義務づけられており、生徒が忘れた場合には、学校がその生徒にマスクを配る。
 もし生徒がコロナに感染したら、個人を特定できる情報や性別は伏せ、学年と人数だけを全校職員や保護者に伝え、濃厚接触者にのみ個人的に連絡をしてPCR検査を受けさせる。1クラスに3人以上の感染が確認されれば、学級閉鎖にする。
 こうした細かな対策を教えてくれた後、石村さんはこう振り返った。
「一口にいうと、第1回の時に比べ、社会に多少のノウハウが積み重なってきた。初めてのことではないし、冬になれば感染が拡大するという心の備えもあったと思う。閉鎖になったレストランやバーも、最大1万ユーロ(124万円)の補助金や政府補償による家賃の減額に加え、テイクアウトで最低限の稼ぎを補うなど、生き残りに必死だ。あとは、クリスマスまでにどこまで社会活動を再開できるか。それが本当に大きな分かれ目になると思う」
北大の遠藤乾院長が語る欧州の今
 独仏のお2人に現地の情勢をうかがったあと、11月22日に、北大公共政策大学院長の遠藤乾さんにZOOMでインタビューをした。遠藤さんはEU研究の第1人者だ。
 遠藤さんはこの秋の特徴を、「最初に感染が激増したところに第2波が戻ってきたうえに、第1波で割合に逃れられた旧東欧や北のバルト3国に感染が拡大している」と分析する。
 寒気到来は感染拡大の要因の一つだが、それだけではスペインの再拡大の説明がつかない。共通のパターンを見ると、バカンス中は家族単位で行動し、ある程度は持ちこたえていたが、9月の新学期で学校が開き、そこで感染した学生らが家に帰って家族らに感染が拡大するという類型が考えられる。ベルギーがその典型例だ。
 さらに首相がマスク着用を義務化せず、国政選挙を控えて厳しい制限をしなかったポーランドなど、国によって個別の事情は異なる。比較的マスクの効果が見られたドイツ、イタリアでは感染拡大までに時差があり、ドイツは充実した医療態勢に助けられ、相対的にはまだ持ちこたえている。
 こうした欧州の状況を前提に、遠藤さんは、欧州の今は、日本の「これから」を暗示している、と指摘する。
「春先の感染時には、医療従事者の踏ん張りもあって、日本も何とか持ちこたえた。ICUの逼迫度にも、まだ余裕はあった。しかし、今の欧州の状況を見ていると、このまま放置すれば、日本でも今後、厳しい状況が待ち受けていると思わないわけにはいかない」
 最も大きな懸念材料は、医療従事者の精神的・肉体的な疲弊が進み、瀬戸際まで追い詰められていることだ。
 第1波の時にはフランスの病院を訪れたマクロン大統領に医療従事者が抗議した。ベルギーでは、ブリュッセルの病院を訪れたウィルメス首相を、沿道に並ぶ医療従事者が、一斉に背を向けて抗議の意思表示をした。だが、その後も劇的に改善したという国は少ない。
 ツイッターでは、「バカンスにも行かず、我慢して仕事を続けてきたのに、もっと逼迫した状態になってしまった」という嘆きや失望の声が流れ始めている。
 日本では、医療従事者が表立って政治家に抗議するという場面は少なかった。だが、その裏に隠された疲弊や不満を見のがすべきではない、と遠藤さんはいう。
「正しく恐れるというのなら、どこに最も大きなコロナ禍のしわ寄せが行っているのかを、考えるべきでしょう。医療や福祉介護の現場に、パブリック・セクターがもっと支援すべきです」
EUの向かう先は?
 この春のインタビューで遠藤さんは、欧州各国が自国民を優先させてマスクや防護服を確保したため、不足したイタリアなどには感情的なしこりが残っただろうと語った。経済的な打撃や、回復力も国によって大きく異なり、その差はEUの結束を弱める遠心力として作用する。だが、独仏が復興基金を提唱して求心力を高める姿勢を見せており。そこにEUの将来が懸かっている、との見方だった。
 EUは7月、7500億ユーロ(約92兆円)の復興基金を創設することで、全加盟国が合意した。コロナで大きな打撃を受けたイタリアやスペインなどに手厚い配分をする計画だ。だが、最近になって、権力の濫用で「法の支配」が揺らいでいる場合には資金を拠出しないというルールが導入され、これにハンガリーとポーランドが反発して協議は行き詰まっている。予定通り、来年に資金を配分できるかどうかは微妙な情勢だ。この点について遠藤さんはこう話す。
「越年の可能性はあるが、合意するまで前年の例にならって執行するなど、まだ妥協の余地はある。復興基金はその規模からいっても、統合史に残る事業であり、EUはこれでコロナに対する存在感を示せた。EUはこれまでに何度も大きな危機を迎え、妥協と交渉によって一つ一つ乗り越えてきた。それを思えば、悲観の必要がない。むしろEUが来年に直面する大きな課題は、対米関係の立て直しになるだろう」
 米国では、ようやくバイデン次期大統領への政権移行プロセスが始まり、新閣僚の指名が取り沙汰されるようになった。だが、トランプ政権の4年間で危殆に瀕した米欧関係を修復することは、容易ではない。
「アジア重視にシフトしたオバマ政権は欧州に冷たく、『欧州パッシング』とでもいうべき現象が見られた。だがボルトン前大統領補佐官(国家安全保障担当)の回顧録などを読むと、トランプ氏はまさに欧州を敵視し、ドイツなどとは敵対していた。欧州にとっては、本当に厳しい4年間だったと思う」
 バイデン次期大統領は、基本的には大西洋関係、つまり欧州を重視する姿勢を取ってきた。その点で欧州は心配していないが、むしろ対中、対イラン、対北朝鮮など複数の変動要因によって、足並みがそろうかどうかを気にかけている。遠藤さんはそう分析する。
 さらに来年までには英国のEU離脱が決着し、その後ドイツのメルケル首相が引退し、フランスでも1年半後の大統領選に向けてEU指導者の権力基盤が変化する。
 EU域内外の多元方程式をどう解いていくのか。コロナ禍が続く来年もまた、EUにとっては多難な一年になりそうだ。
ジャーナリスト 外岡秀俊
●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/10cd737999761d02cd1c93962dbefb4f5aa3c357

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第3波でドタバタ「修学旅行」巡る学校の苦慮、各観光地の明暗も

2020-11-29 | アイヌ民族関連
東洋経済 11/28(土) 10:11
 コロナ禍の拡大、深刻化で再び日本中に暗雲が漂い始めている。GoTo政策の見直しを巡るドタバタ、飲食店への営業時短要請、病床の逼迫化など、国民は再び春の第一波のときのような不安な状況に追いやられている。
 リーダーシップを発揮できない政府や自治体に翻弄される日々が続く中、教育現場はある問題に頭を悩ませている。学校生活に欠かせない修学旅行である。春は突然の一斉休校で授業はもちろん、学校行事も大きな影響を受け、多くの小中学校では児童、生徒たちが心待ちにしていた修学旅行が延期、中止となった。
 それから半年。再び、コロナ感染が拡大し、過去最悪規模の広がりを見せている。とても集団での宿泊を伴う旅行を実施できる環境ではない。都内の私立学校の関係者がこう嘆く。
 「毎年3月に中学生の修学旅行を実施してきましたが、今年はコロナで延期にしました。秋以降の実施を検討してきましたが、第3波の到来で様子見が続いています。いったい、どうなることやら」
■文科省から修学旅行への「お願い」
 修学旅行の実施について調査したNHKの報道(10月9日)によると、全国各地の約2万1000校のうち、「実施」を決めたのが60%、「検討中」は17%、「中止」は15%だった。実施を決めた学校の大半は行き先や時期の変更などで対応している状況が浮かび上がった。
 そうした中、10月2日に文部科学省が各都道府県の教育現場に事務連絡を行った。「修学旅行等の実施に向けた配慮をお願いするものです。」というタイトルで、そこにはこんな“お願い”が記されている。
 <今年度未実施の学校におかれては、かねてよりお願いしているとおり、修学旅行等の教育的意義や児童生徒の心情等を考慮し、当面の対応として修学旅行等の実施を取りやめる場合も、中止ではなく延期扱いとしたり、既に取りやめた場合においても、改めて実施することを検討するなどの配慮をお願いします>
 この事務連絡の直前、9月25日付では「修学旅行等におけるGoToトラベル事業の活用等について」という事務連絡も出している。修学旅行の実施、GoTo活用を促しているかのようだ。
 コロナ禍での修学旅行に対しては保護者の間から懸念の声が挙がっている。大阪市のサイトにはこんな市民の声が紹介されている。
 「修学旅行が9月初めに予定されているのですが、昨今のコロナウイルスの情勢を踏まえて、とても現実的ではないように思います。学校側も対応をしてくださっていますが、例えうちの子が行かないにしても、行った子たち、先生方が感染してしまったら、うちの子もいつかは、などそれはとても不安です。他の保護者の方々とも、よくそういう話をしています」
 保護者の心配は当然だ。市にこの保護者の声が寄せられたのは9月以前のこと。今の感染状況は一段と深刻化しているから、全国の保護者が同じような思いを抱いているのではないだろうか。
■都立高校は対応がわかれている
 都道府県の自治体はどんな対応をしているだろうか。東京都教育委員会は9月14日に感染症対策と学校運営に関するガイドラインを改訂。その中で文化祭や体育祭、宿泊を伴う行事や校外での活動は12月末まで延期または中止とし、2021年1月以降は感染防止対策を講じたうえで実施を認める、海外への旅行については今年度は中止とする、としている。改めて担当者に今年の全日制都立高校172校の修学旅行実施状況を聞いてみた。
 「9月末時点では、2021年1月以降に実施することを検討している学校が109校、中止が32校で、来年4月以降に延期が31校となっています。実施については保護者、生徒の同意を得たうえで、万全の感染防止対策を講じてということになります」(東京都教育委員会)
 行き先についても従来の沖縄、北海道、関西方面から見直す動きが出ているという。さらに都内の自治体の対応を調べてみると、三鷹市のHPにはこんな記載がある。
 <中学校における修学旅行については、令和2年9月~10月に実施を予定していましたが、新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から、令和3年2月~3月に延期しました。修学旅行に係る費用のうち、1割を公費負担(上限6000円/人)としていますが、感染リスク軽減に係るバスの増車を含め、延期による影響額についても、公費負担として実施します>
 感染防止と生徒家庭の負担軽減の措置を図っていることがうかがえる。まさに、自治体の対応力が問われる状況である。
 今年の修学旅行の動向を調べると、完全に中止というのは少数派で、延期して時期をずらして訪問先も人気観光地などではなく、移動距離が少なく、その分感染リスクが減る近場に変更という動きが多くみられる。
 最近の報道で目に付くのが「遊覧飛行体験」だ。静岡県内の中学校は遠方への修学旅行を中止した代わりに、静岡空港発着の「遊覧飛行体験」に参加。空港を出発して富士山や駿河湾などふるさとの眺めを楽しんだ。
 上空からの景色を堪能するだけでなく、空港では格納庫などの見学も。飛行機は母校の上空も通過し、下級生が人文字で描いた校名に感動していたという。
 地元の歴史や文化を学ぶツアーも人気だ。その象徴が北海道・白老町に今年7月に開業したアイヌ文化発信拠点「ウポポイ」を訪れるツアー。9月末時点で、道内外700校以上が見学予約を行った(このうち6割が9月、10月に訪問)。小中学校は道内が中心で、高校の多くは道外だという。
■京都、沖縄は訪問する学校が大幅減少
 逆に、修学旅行の人気地だった京都、沖縄などは、訪問する学校が大幅に減ってしまった。平成20年に101万人、昨年も約70万人の修学旅行生が訪れた京都市は、4~7月期の修学旅行の大半が延期、中止となってしまった。市内には修学旅行生の受け入れで経営が成り立っている旅館やホテルが少なくない。
 ある旅館では春シーズンだけで約50校がキャンセルとなったというから打撃だ。市は6月に全国186の自治体に修学旅行実施を訴える依頼文を送付したり、感染防止対策のガイドラインを発行するなど懸命の取り組みを続けてきたが、9月末までに訪れた学校は約200校、児童・生徒数は2万5000人ほどにとどまっている。
 インバウンドが消滅し、修学旅行生の姿も見られない古都。観光客は静寂を楽しめるかもしれないが、宿泊・観光業者は厳しい事態が続く。
 修学旅行の「安・近・短」傾向が増える中で、昨年まで修学旅行の受け入れとは無縁だった自治体がにわかに脚光を浴びている。日本を代表する洋食器の生産地として知られる新潟県の燕市である。
 11月末現在の受け入れ実績は県内・県外あわせて52校(県外は6校)、1632人となっている。この先も3月末までに10校が予定しているため、総訪問者数は2000人を超える。
 児童・生徒たちは産業観光の拠点である燕市産業史料館と工場見学を組み合わせたコースを巡ることで、地場産業のモノづくりについて深く、分かりやすく触れることができる。
 市は児童・生徒向けに学習用ハンドブックを作成し、産業史料館を訪れた子どもたちには市製のカレーチャーハンスプーンを贈呈するなど歓迎している。燕市を訪れた学校の関係者は、燕市を選んだ理由について「洋食器など世界に誇れる産業があり、見学を好意的に受け入れてくれるため」と語っていた。
■修学旅行と無縁だった自治体が脚光浴びる
 燕市産業史料館の担当者は、一連の動きを歓迎しつつ、こう分析している。
 「マイクロツーリズムが注目される中、近隣県ならびに県内の学校にとって、ここ燕市は新潟県のど真ん中に位置し、近場の学習旅行先としては立地も良く、気軽にお持ち帰りできる体験と、モノづくりについて学べる最適な土地だったようです」
 鈴木力市長は自らのブログに「燕市及び燕市観光協会では、ここ数年、産業観光の誘致・推進に取り組んできました。それがこのような形で実を結ぶとは嬉しいかぎりです」とつづっている。
 コロナ禍における修学旅行地の変更は、児童・生徒たちにとっても引率する教師にとっても、ふるさと、地方の魅力、実力を見つめ直す絶好の機会となっている。モノづくりのすごさ、ふるさとの自然、食の豊かさを身に染みて感じた子どもたちが、地元や地方への愛着を強め、やがて定着することになるかもしれない。地方活性化、一極集中是正の観点からも、これを機に従来の修学旅行のあり方を見直す時期ではないだろうか。
山田 稔 :ジャーナリスト
https://news.yahoo.co.jp/articles/d7635f10171524c43b320856fbf49c685f8fcbde

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チャンネル桜、DHC…右派系ネット動画が「激戦区」になったワケ

2020-11-29 | アイヌ民族関連
現代ビジネス 11/28(土) 10:01
 2000年代から2010年代の日本のネット言論で大きな存在感を放ち、世論にも大きな影響を与えた「ネット右翼」。その通史を描き出す、文筆家・古谷経衡氏による野心的連載「ネット右翼十五年史」が2年の時を経て掲載再開!  今回分析するのは、右派メディアの中でも強い波及効果を持つ「動画メディア」の栄枯盛衰である。
ネット右翼の主軸は「アラフィフ」へ
図は筆者作成
 2002年に勃興したネット右翼の主要な「情報源」は当時から現在まで一貫してネット動画である。安倍内閣の継承を旗印にした菅内閣に交代しても、この傾向は全く変わらない。
 第二次安倍政権下、およびそれ以前の民主党政権下では、いわゆる「保守系雑誌」の隆盛が囁かれた。WAC社の『WiLL』が代表的だが、この雑誌は第二次安倍政権下の2016年春に事実上分裂し、元『WiLL』編集長の花田紀凱氏が飛鳥新社に移籍して『HANADA』を創刊する。一方、編集長が空席となった『WiLL』にはWAC社が刊行する『歴史通』編集長であった立林昭彦氏が就任した。
 『WiLL』分裂当初、「保守分裂」の様相を呈した二誌は読者を二分すると観測されたが、多少の振幅はあるにせよ、その後両者は産経新聞社の『正論』と合わせて、今や保守系雑誌の三巨頭として並び立っている。『WiLL』分裂によって保守系読者は細分化するどころか、これらのは却って市場を拡大したと思われる。
 ただし、ネット右翼は『WiLL』『HANADA』そして『正論』の三誌を併読しているとされがちだが、それは誤解である。1973年に創刊した『正論』の購読層は、古参の伝統的保守派で概ね60~70代以上。後発の『WiLL』『HANADA』はそれよりも読者年齢は低いが、おおむね50~60代以上が主軸となっている。
 2013年に私がネット右翼に大規模調査を実施した結果、ネット右翼の平均年齢は約38歳とでた。それから7年余りがたち、新陳代謝がほぼないネット右翼業界はさらに高齢化が進んでその平均年齢は45歳前後となっている。現在、彼らの主力はアラフィフである。
 しかしすでに述べた通り、『正論』『WiLL』『HANADA』の三大保守雑誌の購読者年齢に、ネット右翼のそれは一歩届かない「ヤング層」である。保守層やネット右翼の中で、これら三大保守雑誌を読んでいる者は少数である。それはすでに本連載で述べた通り、ネット右翼の構造的性格が起因している。
 ネット右翼は既存の保守系言論人の言説を「オウム返し」のように真似るだけの存在であり、より平易に言えば、いわゆる保守系言論人のファンにすぎず、彼らを宿主にしてその言説に寄生する存在だからである。もともと読書習慣が薄く、月刊誌を購読するという習慣そのものが希薄なネット右翼は、表紙や目次を見ることはあるかもしれないが、実のところ三大保守雑誌の主力行読者層とはなっていない。
 彼らの情報源は、保守系言論人が「動画」と「SNS」によって垂れ流す言説がほとんどすべてである。7年8か月続いた第二次安倍政権が終わり、菅内閣が発足したばかりであるが、実はこの間、ネット右翼の最大の情報源たる「右派系ネット動画」の世界は、代り映えのしない政界をよそに激変した。本稿ではその変遷を解説する。
チャンネル桜の成功
 まずネット右翼が好む右派系ネット動画の開祖は、2004年8月に開局した日本文化チャンネル桜(以下チャンネル桜)であった。
 チャンネル桜は、後述するDHCテレビよりは後発にスタートしたCS(衛星)放送局であるが、様々な経営努力の結果、おおむね2006年頃から日本で勃興しだしたYouTubeに目を付け、CS放送で流した番組内容の一部ないし全部を同サイトに転載する形で、一躍ネット右翼から注目を集めるようになった。さらに、ほぼ同時期にニコニコ動画(ドワンゴ)への転載も開始している。
 チャンネル桜の出演者陣は、それまで産経新聞と雑誌『正論』だけに自閉していた高齢の保守系言論人が主力で、ネットとの親和性は低いと思われていた。しかし、チャンネル桜はその古色蒼然たる保守系言論人の言説をそのまま動画としてアップロードし、これがかえって全く新しい手法として新鮮に受け止められた。
当初はそれほど「嫌韓」ではなかった
 いまでこそ右派系動画チャンネルは百花繚乱の勢いだが、ゼロ年代後半にこういった右派系オピニオンを、動画媒体に組織的に転載したのはチャンネル桜だけといってよい。こうして、高齢保守系言論人のオピニオンがそのままインターネットの世界に「輸出」される格好となり、彼らに無批判に寄生するネット右翼のオピニオンもまた、彼らと全く同じものに変質していった。
 その内容は「大東亜戦争肯定―反東京裁判史観」「対米追従」「嫌韓・反中・親台湾」「靖国神社参拝支持」「朝日新聞批判」「テレビ局批判」など、現在でも変わらず繰り返されているフレーズのオンパレードである。
 しかし、チャンネル桜草創期のメンバーは産経新聞・正論界隈出身の論客が多く、韓国に対しては比較的ではあるが融和的であった。これは、戦後の日本の保守が「反共」を旗印に韓国軍事政権と連携し、日本の保守系言論人の少なくない部分が大学生時代などに韓国に留学した経験を持つなど、韓国の保守派と交流を持っていたためである。
 実際、初期のチャンネル桜は「反中・親台湾」は旺盛でも「嫌韓」色はそこまで強烈という程ではなく、歴史修正的価値観に重きが置かれていた(もっとも、元在特会会長の桜井誠氏を繰り返し出演させるなど、「嫌韓」の定石を一応抑えることにも余念がなかった)。
 チャンネル桜が黄金時代を迎えたのは民主党政権時代の2009~2012年で、当時は他に競合動画が殆どなかったことから、その再生回数は月間で数百万回を軽く数えた。
 この頃、保守界隈もそれに寄生するネット右翼も、麻生政権の下野と民主党政権誕生によって、「反民主党」という共通目的のもと大同団結し、西部邁氏的な「反米・反グローバリズム保守」から、産経系の親米保守、経済右翼、ビジネス保守、ネット右翼、果ては事件師的性格を持つ怪しい輩も多数同局に集結した。
内輪揉めと崩壊
 私がチャンネル桜に初出演したのは2010年で、ちょうどネット右翼の黄金時代に重なる。彼らは政治団体をも包摂し、デモ活動や抗議活動をニコニコ動画やUSTREAM(2018年に無料プランを終了)で中継し、録画編集したものをYouTubeに転載するという手段で、雪だるま式に視聴者数を倍加させていった。
 2012年の自民党総裁選で町村派(当時呼称・清和会)の安倍晋三氏が「憲法改正」「尖閣諸島への公務員常駐」などタカ派路線を鮮明にすると、保守界隈もネット右翼界隈も安倍支持一色となった。
 とりわけチャンネル桜は安倍支持を強烈に打ち出し、この時期の「安倍待望論」を全面的にリードした。安倍氏が総裁選で石破茂氏を破って総裁になり、2012年12月の総裁選挙で政権を奪還すると、チャンネル桜はいよいよ「安倍応援団」の最大勢力のひとつとしてネット右翼に絶大な影響を与えた。しかしチャンネル桜の隆盛はおおよそこのあたりが絶頂であった。2014年2月の東京都知事選挙で、所謂「内輪揉め」が発生したのである。
 チャンネル桜中枢とその支持者は、同都知事選に立候補した元航空幕僚長・田母神俊雄氏の実質的な選対事務所を一手に引き受けた。同氏が奮闘したとはいえ主要四候補(舛添要一、宇都宮健児、細川護熙、田母神俊雄)の中で最下位の61万票に終わり、同年の衆院総選挙で次世代の党(当時)から立候補して落選するや、都知事選時に集めた寄付金の使途で揉め、チャンネル桜は田母神批判を先鋭にした。田母神氏自身は2016年4月に公職選挙法違反で逮捕された(翌年起訴され、2018年に一審を経て二審の懲役1年10か月・執行猶予5年の判決が確定)。これによりチャンネル桜と田母神氏の対立は決定的となった。
 この頃から、逮捕・起訴された側の田母神氏支持者とチャンネル桜中枢との対立が激化し、少なからぬ視聴者がチャンネル桜から離れたともされる。
台頭する「DHCチャンネル」
一方、第二次安倍政権が長期政権の様相を呈し始めるや、新しい大きな動きが活発化した。DHCチャンネルの隆盛である。
 DHCチャンネル自体は2004年に開局したチャンネル桜よりもはるかに早い1996年に開局していたCS局であったが、開局当時は保守系のオピニオンは少なく、自社製品の広報やカルチャー番組、政治的には無色のエンタメ番組が主力であった。それが第二次安倍政権誕生以降とりわけ急速に保守化し、CS放送局の中ではチャンネル桜と勢力を二分するまでに成長した。
 とりわけDHCチャンネルでヒットしたのは、2015年から放送が開始された『虎ノ門ニュース』(番組名には変遷がある)と『ニュース女子』である。後者はTOKYO MXや地方局の枠を買い取る形でも放送されたため、加速度的に視聴者数が増えた。
 チャンネル桜とDHCチャンネルの最大の違いは、バックにある資金力の違いであった。チャンネル桜は開局当初、有料チャンネルでの放送という形をとっていたが、それは創設者で現社長の水島総氏の私財を投じる形で行われていた。よってたちまち資金難に陥ると、視聴者からの寄付に頼る「二千人委員会方式」に切り替えた。
 「二千人委員会」とは、視聴者の中うち篤志家が1万円/月の寄付会員(年額12万円)になり、それを二千人集めることによって放送を続行するというもので、これにより放送自体はストリーミング放送等を除いては無料で行われた。
 一方、DHCチャンネルは母体が日本有数の化粧品会社であり、潤沢極まりない予算編成が可能である。無論、予算の多寡が番組の質を決定するものでは無いが、豪華なキャストやセットはそれまでの「手作り感」あふれるチャンネル桜と比べると斬新と映り、これによって2016年頃にはネット右翼の最大人気番組は『虎ノ門ニュース』となった。
 これと肩を並べる人気番組であった『ニュース女子』は、2017年1月に放送した沖縄の基地反対派に関するデマ報道でBPOから重大な倫理違反の指摘を受ける(2017年12月)と、翌2018年3月末にはTOKYO MXでの放送を終了した。これにより、ますます『虎ノ門ニュース』の比重は高まることになった。
このころ、チャンネル桜もDHCチャンネル(一部を除く)も、CS放送から続々と撤退する。まずDHCチャンネルが2017年3月にCS放送から撤退すると、チャンネル桜も同年10月に撤退した。これにより、両局は完全なYouTube動画放送局となったが、これはCS放送よりも、YouTubeにおける再放送や転載での視聴者が圧倒的に多かったためと推測される。右派系動画番組はYouTube専売で放送するのがもっとも商業的成果を挙げるという構造が、2017年には確立されたのである。
右派動画チャンネル乱立の時代へ
 ここから、雨後の筍の如く右派系YouTube動画局が誕生した。まず2017年2月に『文化人放送局』が開局すると、同年10月には『林原チャンネル』が開局。林原チャンネルはDHCチャンネル元社長の浜田マキ子氏が独立して開始したものである。
 2020年10月末現在、右派系動画チャンネルの登録者数トップはDHCチャンネルの約71万人、次いでチャンネル桜が50万人、そして後発の文化人チャンネルが約35万人で、個人チャンネルを除けばこの3つが右派系動画放送局の三巨頭となる(これ以外にも、株式会社ON THE BOARDが主催する個人チャンネルが2つと、櫻井よしこ氏が事実上の主宰となる言論チャンネルがあるが、後者については有料放送なので視聴登録総数は不明)。ネット右翼はこうした動画チャンネルを常に重複、並立して視聴しており、どれかを単独を視聴する事は少ない。
 第二次安倍政権下でこれら右派系動画群は一貫して「安倍応援団」の一翼を担った。とりわけ2015年頃を境に、DHCチャンネルの人気や登録者数がそれまで右派系動画放送局群で首位を堅守していたチャンネル桜を上回ると、DHCチャンネルのレギュラー出演者は元来ネットの外側で実績・人気のあった作家などで固められるようになり、さらにはその出演者の多くが安倍首相主催の『桜を見る会』などに招待されるなど、政治的発言力も増大していった。一方、チャンネル桜の出演者は同会に呼ばれないなど、2015年以降は右派系ネット動画の首位がチャンネル桜からDHCチャンネルに大きく交代し、業界の勢力図は激変して今に至っている。
「反安倍」に舵を切るメディアも登場
 これまで挙げた動画放送局群は第二次安倍政権誕生以降、親安倍で一致していたが、二番手以下に甘んじるようになったチャンネル桜は、概ね2019年頃から「反安倍」への方針転換を顕著にしたことも特徴的である。
 彼らは2012年の時点では「安倍応援団」の最前衛と目されていたが、次第に安倍政権の進めた外国人実習生制度(実質的な移民政策だと彼らは主張する)や、アイヌ政策(そもそもアイヌ民族は存在せず、それがゆえにアイヌの文化振興等は”利権”であると彼らは主張する)、規制改革などを批判し、反安倍・反グローバリズム保守に転換した。もっともその背景には、チャンネル桜が開局草創期から西部邁氏などの所謂「反米保守・反グローバリズム保守」などの出演者を包摂してきたからという理由もある。あるいは「反安倍→反菅の保守」という、ネット右翼においてはマイノリティの視聴者を引き付ける役割を担う、マーケティング上の要請もあるのかもしれない。
 概ね2015年以降、DHCチャンネルの「一強」が続く中、保守系言論人の多くがDHCチャンネル内での著書の宣伝に躍起となっており、この傾向はますます続くものとみられる。一方、2019年からは『WiLL』が独自に動画チャンネル『WiLL増刊号』を開設し、2020年10月時点で登録者数約18万人に達するなど、新興勢力の勃興も見られる。
 誰しもがYouTubeチャンネルを開設できるようになり、右派系ネット番組はまさにレッドオーシャンの時代を迎えている。以前の寄稿で示した通り、ネット右翼の実数は全国でおよそ200万人、最大でも250万人程度の規模とみられる。その全員が動画を見るわけではないため、せいぜい動画視聴者数の天井は7掛けの150万人程度、という市場規模であろう。
「内輪受け」追求の末に……
 新陳代謝のないネット右翼の総数は増えない。しかし、ネット右翼には中小零細企業の経営者や下級官吏、大企業の管理職、開業医などの中産階級も多く、ひとり頭の購買力は旺盛なので、各社はこぞってこのレッドオーシャンに参入し、それを雑誌・著書の購読に結び付けようと躍起になっている(――ただしすでに述べた通り、ネット右翼には読書習慣が希薄なためこの行為は著効していない)のがここ数年の状況である。全体のパイは広がらず、またアニメや漫画と違って海外市場というものが望めないので、畢竟各動画チャンネルの中では出演者の取り合いと対立が起こる。
 民主党政権という「巨大な共通の敵」を失って以降、保守業界、ネット右翼業界では数々の内紛や民事裁判が起こってきた。その都度、ネット右翼は対立するどちらかの側につき、敗れた側は保守業界から消えていった。前述の田母神氏がその典型である。まさに関ヶ原における西軍諸将の敗行軍が、保守業界のいたるところで発生している。彼らは保守業界、ネット右翼業界以外に通用する普遍的な言説を持たないため、ここから追放されることは即商業的恩恵の終焉を意味するのだ。
 こういった保守業界の興味深い内紛の実態は別稿に譲るとしても、右派系動画番組の生き残りをかけた戦いは、今後もますます熾烈の度を増していくものとみられる。
古谷 経衡(文筆家)
https://news.yahoo.co.jp/articles/0659684f62949e8f1b48d79f3f31e06a5aa3f249

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「3密回避」で冬キャンプ 東胆振で利用増 年末年始も好調 テントでテレワークも

2020-11-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞11/28 05:00
新型コロナウイルスの感染リスクとなる「3密」を回避できるとして、冬のキャンプへの関心が高まっている。胆振管内のキャンプ場ではオフシーズンとなる11月以降も利用者が減らない。白老町のキャンプ場の運営会社は今月、冬のニーズに着目したキャンプ用品の専門店を札幌市内で開店した。ただ、野外でも感染リスクがゼロと言うわけではない。各キャンプ場はキャンパーそれぞれで予防策を講じるよう呼びかける。
 「今年は寒くなってもお客さんが全然減らない。野外なら安心できるんだろうね」。胆振管内安平町のオートキャンプ場「ファミリーパーク追分」の和泉貢オーナーはこう語った。今年は11月だけで昨年の倍近い2千組以上が利用。1週間程度連泊する人も多く、中にはパソコンを持ち込み、テント内で「テレワーク」をする愛好者もいるという。
 苫小牧市のキャンプ場「オートリゾート苫小牧アルテン」も年末年始の予約が順調で12月は昨年より2割程度多い。
 一方、今年7月に白老町森野に「白老キャンプフィールドASOBUBA」をオープンさせたASOBU合同会社(本店・白老町)は21日、札幌市白石区東札幌の商業施設ラソラ札幌に専門店「ASOBUGU」をオープンした。最近のキャンプ人気を受け、冬も需要が見込めると判断。江越慈高代表は「コロナでストレスがたまりやすい状況なので楽しく遊ぶ機会を提供したい」と語る。
 広さ260平方メートルほどの店内にスタッフが選んだ商品千点が並び、アイヌ文様を透かし彫りしたたき火台などのオリジナル商品も。年明けにはキャンプ用品を貸し出し、自社の白老のキャンプ場で、冬の体験企画も計画している。
 ただ、スーパーコンピューター「富岳」を活用したコロナ対策の研究では「野外でも密集すれば感染リスクは高い」とのシミュレーション結果が出た。多くのキャンプ場では共有スペースの消毒などの対策を実施しているが、運営側だけでは限界がある。オートリゾート苫小牧アルテンの運営会社の宮田哲也社長は「安心してアウトドアを楽しんでもらうためにもキャンパーそれぞれも密にならない、換気などの対策をとってほしい」と話している。(尾崎良、柳沢郷介)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/486059

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