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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

祈る、悲しみ乗り越えるため クライストチャーチで礼拝

2011-02-28 | 先住民族関連
(朝日新聞 2011年2月27日21時31分)

 【クライストチャーチ=藤谷健】賛美歌を歌いながら目に涙をためる男性、知り合いに抱き寄せられ号泣する女性――。22日に起きたニュージーランドの地震後、初めての日曜日となった27日、最大の被災地クライストチャーチ市内の各教会で日曜礼拝が開かれた。犠牲者を悼み、大きな悲しみを乗り越えるため、人々の祈りの声が重なった。
 市南西部の閑静な住宅地にあるスプレイドン福音教会。午前9時からこの日3回あるうちの初回の礼拝が始まった。欧州系のほか、先住民のマオリ系、韓国や中国などのアジア系などの若者から高齢者ら約500人が集う。冒頭にカンタベリーテレビ(CTV)ビルの崩壊の犠牲となった信者の姿がスクリーンに映し出され、参加者一同が祈った。
 ジェミーソン牧師は「悲しみや怒り、絶望に襲われているかもしれない。人々が寄り添い、助け合い、心配りし、そして祈ることがいま最も大切なことだ」と語りかけた。
http://www.asahi.com/national/update/0227/TKY201102270340.html

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アメリカ超古代文明の人骨を初発見!

2011-02-28 | 先住民族関連
(The Liberty web 2011.02.26)

25日発信のナショナルジオグラフィックニュースに大変興味深いニュースが出ている。アメリカ・アラスカ州中部で、1万1500年前の家が発掘され、内部の穴の中に当時3歳だった初期アメリカ人の子供が埋葬されていたというニュースだ。
これまでアラスカで発掘された人骨は最古でも数百年前レベルで、今回それが一挙に1万1000年もさかのぼることとなった。年代は、遺跡の炭化した木片から放射性炭素年代測定したもの。人骨は全体の20%に過ぎず、性別や死因はわからない。ただ丁寧に埋葬されていたことだけは確かなようだ。出土した家から半遊牧民的な生活がうかがい知れるという。
実はアメリカにはアメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)よりも遥かに昔、超古代文明があったという幸福の科学による霊査がある。その当時のアメリカ人は、皮膚の色が赤い、赤色人種だったという。ネイティブ・アメリカンも褐色の肌や赤く皮膚を塗るなどして、レッド・インディアンと蔑称されることもあるが、段違いの赤い色の人種だったようだ。
その赤色人種の超古代文明は、当時隆盛を誇っていた、大西洋上に浮かぶアトランティス文明の派遣軍により驚異的な殲滅を受け、文明が滅んだ。そのために一切痕跡がない(一部オーパーツがある)。しかし今回の人骨発見はそれを裏付ける極めて重要な発見になるのではないか。分析に耐えうるDNAが手に入ればもっと明快な事実が明らかになるだろう。さらなる情報を待ちたい。(ア)
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=1420

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アマゾンの巨大ダム建設「一時中止」 ブラジルの裁判所が命令

2011-02-28 | 先住民族関連
(msn.com 2011.2.26 13:31)

 ブラジル・アマゾンの熱帯雨林に世界3位の巨大ダムを建設する計画で、同国北東部パラ州の連邦裁判所は25日、建設の一時中止を命じた。地元メディアが報じた。生態系や先住民の生活を破壊するとして国際的な反対運動が起きている。
 電力の安定供給に向けて前・現政権が強く推進している事業で、今後の電力政策に影響が出る可能性もある。裁判所は、環境当局が1月に出した建設許可の条件について異議を唱え、中央銀行からの支出を禁じた。
 このダムはパラ州のアマゾン川支流シングー川のベロモンチ水力発電所で、総出力約1123万キロワット。昨年4月に国内企業連合が落札、既に一部建設が始まっている。(共同)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110226/amr11022613320004-n1.htm

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ポリネシア伝統文化と近代科学を橋渡し

2011-02-28 | 先住民族関連
(nationalgeographic February 25, 2011)

Tasha Eichenseher in Mo‘orea
for National Geographic News
 太平洋に浮かぶポリネシア諸島の一つ、モーレア島に住む老人は語る。「陸と海、それは分かちがたい。陸を苦しめれば海は悲しむ。海を追い詰めれば陸の我々に返ってくる」。
 彼のような村人が持つ島と海の知識は世代を超えて受け継がれてきたが、その叡智はいまや西欧の近代科学の世界にも浸透し始めている。テ・プ・アティティア協会(Association Te Pu Atitia)のメンバーであり、カリフォルニア大学バークレー校のガンプ研究所(Gump Research Station)副所長でもあるヒナノ・ティーバイ・マーフィ(Hinano Teavai-Murphy)氏は、土着の知恵と近代科学を融合しようとしている。テ・プ・アティティア協会は、島の年長者と若者に積極的なコミュニケーションを奨励し、島で研究する科学者たちとの情報共有も目的とする地域密着型の非営利組織だ。
 マーフィ氏によると、年長者たちが育んできた自然界に関する知恵は科学の力で検証できる段階に来ているという。
「データは揃っている。我々はあらゆることを現地で学び体得した」と同氏は語る。「モーレア島の人々の話に耳を傾けない研究者は、自然資源の“有効な管理方法”を教え諭す姿勢から抜け出せない。地元の人々にとっては余計な御世話だったに違いない」。
「モーレア島周辺に新たに保護区域が制定されて漁業が制限された時も例外ではない。特に年長者の多くはそう感じていたはずだ」と、モーレア島の隣にあるタヒチの文化人類学者タマトア・バンブリッジ(Tamatoa Bambridge)氏は言う。「環境保全という名目で、我々は彼らの文化を台無しにしてしまうことがある」。
 その流れを断ち、文化的な“架け橋”を渡す試みとなるのが、前出のガンプ研究所などが主導する「モーレア・バイオコード・プロジェクト(Mo‘orea Biocode Project)」だ。微生物を除く島全体の生物種の遺伝子特性データを集め、タヒチ語やラテン語の名前から種を特定する。また、言語に頼らず種を特定できる遺伝子特性も活用する予定だという。
 自身でも先住民族の知恵を記録する2年間のプロジェクトを立ち上げたバンブリッジ氏は、「種の特定はモーレア島の生物多様性を解き明かすための重要な作業だ」と説明する。「生物多様性についてはいい加減な説も多いが、この地の豊かな多様性や、言語と文化から得られる叡智は確かだ。それにポリネシアには優秀な“専門家”が多い。住民たちから話を聞けば、自然界の仕組みを解明するヒントが得られる。単なるデータベースでは遠く及ばない価値がある」。
 バイオコード・プロジェクトの責任者を務めるニール・デービス氏によると、年配の住民との積極的なコミュニケーションが大切だという。「現場の人々と生物多様性との関連がわからなければ、施行済みの保護活動が失敗する可能性もある。生物多様性を維持するためには、文化的な多様性にも配慮しなければならない」。
 一方マーフィ氏は、「プロジェクトはモーレア島の年長者たちにとっても、生態系の広さを理解する助けとなる。自分たちも知らない生物が数多く生息していると気付き始めたようだ」とも語っている。
「住民たちは徐々にではあるが、島に腰を落ち着けた我々を信頼するようになった。ただ、彼らには搾取された忌まわしい記憶がある。協力関係の構築は決して簡単ではない」とマーフィ氏は話す。かつてやって来た大企業の幹部たちは、自然界や資源の採取方法に関する先人たちの知恵を聞いて回った。“タヒチ”という単語を商標登録した企業もあったという。
 森林伐採や農業生産の増加、沿岸部の開発、ラグーンに流入する土や堆積物の増加などの環境変化には関連性が指摘されているが、住民たちは既に気付いている。冒頭の老人はモーレア島を取り巻く環状道路に触れ、「15年間続く沿岸部の道路工事で自然がめちゃめちゃになり、サンゴ礁も掘り返されてしまった」と振り返る。全長66キロの道路は、陸と海をコンクリートで隔ててしまった。「なにが起きているか、海を見れば一目瞭然だよ」。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110225003&expand&source=gnews

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アラスカで氷河期の子どもを発見

2011-02-28 | 先住民族関連
(nationalgeographic February 25, 2011)
Brian Handwerk
for National Geographic News
 アメリカのアラスカ州中部で、1万1500年前の家が発掘され、内部の穴の中に当時わずか3歳だった初期アメリカ人の子どもが静かに埋葬されていた。
 家も人骨も北アメリカの亜北極地帯で最古と目され、分析に耐え得るDNAが手に入れば、どのような人たちが暮らしていたのか解明する手掛かりが得られると期待されている。当時、アメリカ大陸とアジア大陸は、ベーリング地峡で地続きになっていた。
 まだ多くの謎が残されているが、一つはっきりしているのは、子どもが丁寧に埋葬されていた点である。
 研究チームの一員でアメリカにあるアラスカ大学フェアバンクス校の生物考古学者ジョエル・アイリッシュ氏は、「子どもは家の内部に備えられた“暖炉”の穴の中で火葬されたようだ。横たえられており、火は頭部から回ったようだ」と話す。穴の中からは炭化した木片も出土しており、遺跡の放射性炭素年代測定が可能になった。
 深さ45センチの暖炉に子どもの亡骸を土で埋め、この狩猟採集民の一族は住居を放棄したと考えられる。埋めた土の線より上には人工物が存在していない。
 今回の遺骨は桁外れに古く、わずか数百年前のアラスカ州での記録を大幅に更新した。
 発見した骨は全身のわずか20%に過ぎず、性別や死因は判明していない。それでも、死後の埋葬が敬意を持って行われた様子は、安らかに眠る態勢で安置されていたことからはっきりしている。
 研究チームの一員で同じくアラスカ大学フェアバンクス校の考古学者ベン・ポッター氏は、「考古学的にみて、この子どもは間違いなく特別な存在だが、出土した家も研究に値する」と話す。
 暖炉にはさまざまな動物の骨も残されており、床の周囲には柱の痕跡が存在する。同時代の短期滞在用の野営地や作業場は発見されていたが、アラスカ最古の“住居”と言える遺物は初めてなのだ。
 アメリカにあるテキサスA&M大学の考古学者テッド・ゲーブル氏は、今回の研究を受けて次のように話す。「この家は非常に興味深い。人が実際に生活していた住居がようやく見つかったようだ」。
 この家の住人はサケが好物だったらしい。地上性のリスの骨も残されており、半遊牧民的な民族の夏用住居だったと推定される。どちらの動物も暖かな季節に目立って数を増やす。
 以前に発見されていたこの時代の居住地跡は、秋に設けた一時的な野営地だったと考えられている。前述のポッター氏は、「バイソンやヘラジカが狩猟のターゲットと思われていたが、季節的なパターンも加わっていたようだ。魚釣りは新しい発見で、後の時代のアラスカ先住民族の習慣と類似性がある」と語る。
 付近のアラスカ先住民たちはこの地を「ホーソー・ナ(Xaasaa Na:「上流の太陽の川」の意)」と呼んでいる。氷河期の子どもが見つかったことを聞いた彼らは、さっそく「ホーソー・チャグ・ツェニーン(Xaasaa Cheege Ts'eniin:「上流の太陽の川口の子ども」の意)」と名付けた。
 いくつかの先住民族グループは考古学者たちと密接に共同作業を進めており、中にはDNAの比較分析に協力しようと申し出ている人もいる。ホーソー・チャグ・ツェニーンや、さらには現在の先住民族の血統について詳細に知ることができるはずだ。
 既に出土した歯の予備的調査から、生物学的にアメリカ先住民族と北東アジア人の両方に類似していることが判明している。
 詳細な部分には異論もあるが、ベーリング海峡が陸橋だったおよそ1万3000年前の氷河期に、シベリアから“最初のアメリカ人”が渡った大筋では研究者も一致している。
 研究チームのアイリッシュ氏は、「この遺跡は、シベリアのウシュキ湖遺跡と特によく似ている」と話す。1万4000年前のウシュキ湖遺跡にも同じような埋葬地があり、後の時代のアメリカ先住民族文化と多くの共通点が認められている。
 安易な結論は早すぎるとの批判があるが、DNA分析によってさらなる解明が進むだろう。1万1500年前に亡くなった幼子は、私たちにさまざまな事実を語りかけてくれるにちがいない。
 前述のゲーブル氏は次のように述べた。「氷河期の人類がどのようにして最初にベーリング地峡を横断したのかを解明する上で、アラスカに残された記録は非常に重要だ。
 人骨がなければどのような人間だったのかはわからない。今回の発掘により、初期の“ベーリング地峡人”の遺伝学的位置づけを、初めて具体的に知ることができる可能性がある」。
 今回の研究成果は、2月25日発行の「Science」誌に掲載されている。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110225001&expand&source=gnews

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雪原への道 第6部・夢は続く アイヌ隊員

2011-02-28 | アイヌ民族関連
(さきがけon The Web 2011/02/25 付)

少数民族の誇り示す
 「あいぬ物語」という本がある。猛烈なブリザードの吹く南極・ロス棚氷で犬ぞりを操り、白瀬隊を最終到達地「大和雪原」へと導いた樺太アイヌ隊員・山辺安之助が半生を語った自叙伝だ。白瀬隊が南極から帰国した翌年の1913年、山辺が口述したアイヌ語を言語学者の金田一京助が日本語に訳し、あらためてアイヌ語のルビを振った。その異色の書には、国家と時代に翻弄(ほんろう)されながら、誠実に生きた少数民族の男の生きざまが記されている。

寄付を集め学校建設
 山辺は南極へ行く前から白瀬矗(のぶ)の故郷・にかほ市金浦と縁があった。白瀬と同郷の佐々木平次郎が樺太で経営していた漁場で働いていたのだ。04年に開戦した日露戦争では佐々木の漁場にも戦火が広がり、山辺は日本軍のために村人を束ねて現地を案内した。この功績で、山辺はアイヌ初の叙勲(勲八等瑞宝章)を受けている。
 日露戦争後、村の総代となった山辺は「過酷な労働を強いられるアイヌを救うのは教育しかない」と学校建設に奔走。佐々木をはじめとした漁場経営者から寄付を集め、09年に学校を完成させた。
 白瀬が新聞社を通して南極でそりを引かせる樺太犬を探している時、山辺は自ら犬係として探検隊に参加することを志願した。この時の心境を山辺は「諸外国と競争して日本が初めて挑む事業。日露戦争で拾った命だから、もう一度国家のために働いて死ぬのなら本望だ」と語っている。金田一は山辺の本音を「差別を受け、虐げられていたアイヌの誇りを示し、その地位を向上させるためだった」と解説している。

村の生活安定に尽力
樺太から南極探検に参加した山辺(右)と花守 山辺は身長1メートル80センチで屈強な体格を誇った。もう一人のアイヌ隊員・花守信吉とともに、酷寒の地で無類の体力を発揮した。隊長の白瀬以下、5人で編成した突進隊がロス棚氷を南進する時には、犬ぞりの運行や犬の世話、食事の準備と休む間もなく働いた。ほかの3人はテントで眠るのに、アイヌ隊員の2人はそりを風よけに野宿していたとされる。勤勉な働きぶりに、白瀬の信頼も厚かったという。
 南極から帰国した山辺は、東京で金田一とともに「あいぬ物語」を編集した後、樺太に戻った。漁業だけに頼っていた生計に農業も取り入れるなど、総代として村の生活安定に尽力。23年に56歳で亡くなった。
 2人のアイヌ隊員を慰霊するためにこれまで3度樺太を訪れ、2004年に「南極に立った樺太アイヌ」(ユーラシア・ブックレット)を出版した佐藤忠悦さん(70)=元白瀬南極探検隊記念館嘱託職員=はこう話す。
 「山辺と花守が白瀬隊で果たした役割の大きさは、野村直吉船長にも引けを取らないと思う。白瀬隊の偉業を振り返る時、少数民族の誇りを懸けて南極探検に参加したアイヌ隊員のことを決して忘れてはいけない」
http://www.at-s.com/bin/musi/MUSI0020.asp?event_no_i=I197975220

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金田一京助の家族宛て書簡 盛岡・上田公民館で展示

2011-02-28 | アイヌ民族関連
(岩手日報 2011/02/24)

 盛岡市上田4丁目の上田公民館図書室で、同市出身の言語学者金田一京助(1882~1971年)と家族の間で交わされたはがきを展示する「金田一京助と兄弟のハガキ展」が開かれている。
 はがきは、金田一の弟で盛岡中学の英語教師だった平井直衛(1893~1967年)が、市立図書館に寄贈した蔵書約200冊を同公民館職員が整理していて発見した。
 東京でアイヌ語研究に没頭する金田一が仙台の学校に通う直衛に本の出版を知らせるため出したはがきや父親に近況を知らせるものなど19点が展示されている。
 同市上田3丁目から訪れた無職高柳慶三さん(68)は「迫力ある筆致ではがきの絵も美しいものばかり」と見入っていた。
 同市中ノ橋通1丁目の盛岡てがみ館の川村敏明館長は「金田一京助はたくさんの手紙を残したが、家族宛ての書簡が見つかるのは珍しい」と語る。
 27日(午前9時~午後5時)まで。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110224_13

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【北の龍馬たち 坂本直行物語】(15)アイヌ民族の古老

2011-02-28 | アイヌ民族関連
(朝日新聞 2011年02月24日)

■熊追う「山の達人」を敬愛
 「ああ坂本(しゃかもと)しゃんか、俺あいつど(一度)あえてえと思ってたきゃあ、いいえんべえだった」
 アイヌ民族の古老・広尾又吉は坂本直行の顔を親しげに見て、柔和に笑いかけた。
 直行が又吉と初めて話をしたのは戦前のことだ。直行は次のように記している。
 「僕はその瞬間、もうずうっと以前から知合(しりあ)ってたような、親しさと気安さを覚えた」(「雪原の足あと」)
 日高山脈を愛した直行は、日高に詳しい又吉を敬愛するようになった。
 「写真で見るカール・マルクスそっくりだ」
 直行の次男・嵩(たかし)(72)は、又吉が背中に旧式の単発銃(村田銃)をかけて晩秋の原野の坂本家にやって来たときにそう思った。著書「開拓一家と動物たち」で書く。
 クマを追って来た又吉は坂本家に泊まることになった。ストーブのわきにあぐらをかき、焼酎を少しずつ飲みながら、昔語りを始めた。子どもたちは、又吉の熊狩りの話をわくわくしながら聴き入った。
 その声は甲高く、若々しかった。歯はみごとにそろっていた。
 酔った又吉は、褌(ふんどし)一本になってふとんに潜り込んだ。「すげえ爺(じい)さんだ」と嵩は思った。
 北大の地質学鉱物学教室に勤務した熊野純男(88)=札幌市東区=は1952年10月、直行と又吉を訪ねた。熊野は、日高を語り合う「山の達人」2人の姿をカメラに収めた。又吉は直行と熊野に、熊の牙をおみやげにくれた。
 詩人でアイヌ文化研究家の更科源蔵(1904~85)に頼まれ、直行が案内したのは57年11月10日。直行の著書によると、又吉は歩行不可能で、腹膜に水がたまる病気で寝ていた。それでも起きあがり、昔話を聞かせてくれた。
 更科は、又吉の子守歌を録音したかったが、もう歌えなかった。
 又吉が死去したのはそれから1カ月半後の12月25日。戸籍上は1871(明治4)年1月生まれで、享年86歳。
 翌日の葬儀に直行が馬で駆けつけると、熊野の撮った写真が遺影になっていた。
 僧侶が又吉の法名を「秀岳瑞松信士」と書いた。「又吉さんは自然児でしたからね」と僧侶は、法名の由来を直行に話した。「坊さんの言葉なんか、有難(ありがた)く思ったことはない」直行だが、この時は「妙に有難く聞こえた」という。
 そして直行は涙を流し、雪原を馬で駆けた。
 札幌の山道具店「金井テント」社長の金井五郎が直行に店名を付けてくれるように頼んだのは、ちょうどこの頃のことだ。
 同テントは直行の命名で58年から「秀岳荘」と改名した。だが、五郎の長男で現社長の哲夫(72)は命名の由来を父親から聞いていない。
 直行が又吉への思いを店の名に重ねたのかもしれない。
(文中敬称略)
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000781102240001

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卓上四季 NZ地震

2011-02-28 | アイヌ民族関連
(北海道新聞2月24日)
地球儀を手にあらためてニュージーランドの位置を探す。南極側からのぞき込むと、オーストラリア大陸の南東沖に、北海道の宗谷岬をぎゅーっと引っ張ったような形の「北島」と胴長な「南島」からなる島国がある▼そこに九州や四国などを加えれば…。日本列島そっくりになるだろう。似ているのは姿だけではない。ともに二つのプレート(岩板)が押し合う境界に位置する「地震国」でもある。火山も多い▼道民にはとても身近な国だ。小樽、苫小牧、恵庭など6市町が、ニュージーランドの自治体と姉妹都市の提携を結んでいる。酪農や畜産研修などで行き来をした人も多いだろう▼先住民族のマオリとアイヌの人たちも、共通する課題を解決するため交流を続けてきた。マオリ民族はニュージーランドを「アオテアロア」と呼ぶ。マオリ語で「白い雲がたなびく大地」という意味だ。麗しい土地への誇りが伝わってくる▼南島の中心都市クライストチャーチのあちこちに、地震による火災の禍々(まがまが)しい白煙が立ち上った。直下型の激しい揺れに襲われた街には、道内からも高校生らが留学していた。無事が確認されても、家族の心配は尽きないだろう▼まだ安否がさだかでない日本人もいる。多くの被災者が、重いがれきの下で救いを待っている。一分一秒でも早く救出を。そして北海道からも、赤道を越えて支援の手を差し伸べたい。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fourseasons/274381.html

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何を弓で射るのか 棟方志功「華狩頌板壁画」

2011-02-28 | アイヌ民族関連
(朝日新聞 2011年2月23日14時38分)

 馬上の3人が弓を引く。何が獲物かとよく見ると、手元には弓も矢もない。いったい何を射ようとしているのか。
 棟方志功の代表作の一つ。日展に初出品するため、版木14枚を使った大作を完成させた。イタリアの国際美術展ベネチア・ビエンナーレの版画部門で、国際版画大賞を取る2年前のことだ。
 写真家坂本万七からもらった高句麗遺跡(中国東北部)の壁画の写真から、着想を得た。花矢を射るアイヌ民族の祭礼も参考にしたという。
 画面の中で、土着的なものと、棟方の作家性とが混じり合う。自らの作品を版画ではなく「板画(はんが)」と呼んだ。板の声を聞けば、ひとりでに作品になると考えていた。
 一方で、強い作家性も。背景を鳥と花で埋め、装飾を加えて大画面に緊張感を与えた。白黒なのに華やかだ。静岡市美術館の青木良平学芸員は「形を極限までそぎ落としているのに、人も動物も生命感にあふれている」と話す。
 棟方は、弓矢を持たない理由を「心で花を狩る」ためだと記す。いにしえの狩猟風景を壁画にしたのではない。作家に代わって3人が射ようとするのは、美を求める人々の心なのだ。(西田健作)
 ▽「棟方志功――祈りと旅」 ~3月27日。静岡市葵区の静岡市美術館(054・273・1515)。3月21日を除く月曜と、22日休み。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102230199.html

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氷海の民シンポジウム、考古学の第一人者らが講演

2011-02-28 | アイヌ民族関連
(北海民友新聞 2月23日付け)

 第26回北方圏国際シンポジウムの分科会「第17回氷海の民シンポジウム」(主管=北の文化シンポジウム実行委員会、桑原誠同行委員長)が21日、市文化会館で開催された。テーマは「古代人と自然の関わり」。環境考古学の観点から古代植物分析の第一人者で北海道開拓記念館の山田悟郎氏(62)が縄文時代早期からアイヌ文化期までの「気候変化と植物利用」を、また、動物考古学の観点から国立歴史民俗博物館の上奈穂美氏(28)が「オホーツク文化の生業」について講演を行った。約100人が参加し、独自の考察を交えながら展開される深い講演内容に耳を傾けた。
 山田氏は、花粉化石や炭化した植物遺体の研究を通して、氷河時代が終わった約1万年前の縄文時代早期からアイヌ文化期(13世紀から18世紀)までの約8000年間に9回の大きな気候変化が起こったことを紹介した。最初に「土の中には、いろいろな情報が含まれています」と前置きした上で、住居跡や焼土、低湿地遺跡の遺物包含層から水漬けになった作物種子や炭化種子が出土したことを述べた。フローテーションと呼ばれる水を利用した浮遊選別作業の精度が増したため、今まで見つからなかった多くの植物遺体の発見が可能となったという。
 上氏は、オホーツク文化当時人々の暮らしの支えとなった生業について、遺跡から出土する貝や骨の復元作業から特徴などを分析した。5世紀ころオホーツク海南部を中心に成立したオホーツク文化は、7・8世紀に道東から千島に展開。9・10世紀ころ擦文文化人と融合し終焉を迎えた。漁労技術やクマ送りの儀式が擦文文化を経て、アイヌ文化に受け継がれていると述べた。
http://www.minyu.ne.jp/digitalnews/110223_1.htm

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手紙が伝える先人の姿 盛岡で新渡戸らの178点展示

2011-02-28 | アイヌ民族関連
(岩手日報 2011.2.23)

 盛岡てがみ館(川村敏明館長)の第35回企画展「学びを究めた郷土の人々~肉筆から浮かぶ風姿」は22日、盛岡市中ノ橋通1丁目のプラザおでって6階の同館で始まった。教育や学術研究に力を注いだ先人たちの肉筆を通じ、その業績を伝える。
 盛岡市出身の新渡戸稲造(1862~1933年)や二戸市出身の物理学者田中舘愛橘(あいきつ)(1856~1952年)ら12人が知人に宛てた自筆のはがきや手紙、関連図書など178点が並ぶ。
 盛岡市出身の言語学者金田一京助(1882~1971年)が、北海道へ修学旅行に訪れるためアイヌ文化を教えてほしいと求めた高校生に「お互いが同じ日本人だという気持ちで接するように」と説明する手紙も展示。誰にでも分け隔てなく丁寧に接する人柄が伝わってくる。
 川村館長は「現代に通じる教育論を考え、実践していた先人たちが岩手にもたくさんいたことを知ってほしい」と呼び掛ける。
 6月2日まで(毎月第2火曜日休館)。開館時間は午前9時~午後6時(入館は午後5時半まで)。
http://www.iwate-np.co.jp/kanko/f2011/m02/f201102231.htm

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【平取】子どもも熱演 アイヌ文化祭

2011-02-27 | アイヌ民族関連
(苫小牧民報 2011年 2/22)

第22回シシリムカアイヌ文化祭が20日、平取町中央公民館で開かれ、大勢の町民が伝統的な古式舞踊やアイヌ語劇を楽しんだ。
 道アイヌ協会平取支部(木村英彦支部長)、平取アイヌ文化保存会(鍋沢保会長)、平取町二風谷アイヌ語教室(川奈野一信運営委員長)が主催した。
 開会式に続いて、劇「子どもと遊んだ神」(萱野茂著「カムイユカラと昔話」)でステージは幕開けした。出演はアイヌ語教室で学ぶ子どもたち。ヘビ神やオキクルミの子、村の子どもたちのやりとりを、アイヌ語で演じた。
 保存会は、ウポポ(座り歌)、ハララキ(鶴の舞)やエルムシノッ(ネズミの遊び)など7つの古式舞踊を披露した。
 3年前からスタートしたイオル(伝統的生活空間)再生事業の「コタンの再現」「イオルの森」「水辺空間」整備と、体験交流を撮影したスライド上映のほか、静内民族文化保存会による古式舞踊特別講演も行われた。
http://www.tomamin.co.jp/2011s/s11022202.html

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アイヌシアターに期待/阿寒湖温泉

2011-02-27 | アイヌ民族関連
釧路新聞 2011年02月23日

 釧路市阿寒町阿寒湖温泉での建設が進む(仮称)阿寒湖温泉アイヌシアターについて、地元関係者でつくる運営協議会(会長・大西雅之NPO法人阿寒観光協会まちづくり推進機構代表理事)が22日、釧路市役所を訪れ、蝦名大也市長に運営についての要望書を手渡した。要望書では施設運営を協議会代表団体の同機構とし、市から無償貸与してもらうことと、同施設の名称の早期決定を申し入れた。
http://www.news-kushiro.jp/news/20110223/201102233.html

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人種差別撤廃委の勧告を実現させる集会 朝高生が「無償化」アピール

2011-02-27 | アイヌ民族関連
[朝鮮新報 2011.2.22]

権利獲得し、学校守る
 19日、東京・永田町の星陵会館で300余人参加のもと行なわれた「国連人種差別撤廃委員会の勧告を実現!-先住民族アイヌの権利回復・審議会の設置を!『在日』・沖縄・あらゆる差別撤廃!」(主催=国連人種差別撤廃委員会の勧告を実現!実行委員会)集会で、朝高生が「無償化」問題についてアピールした。
 国際人権諸条約などの対日勧告には、「在日」に対する諸問題が示されている。昨年3月、9年ぶり2度目(2001年以来)となる、国連人種差別撤廃委員会の対日審査の総括所見にも、在日朝鮮人に対する暴力や「高校無償化」の朝鮮学校排除問題などが言及された。
大集会突破口に
 「高校無償化」問題について発言した東京朝鮮中高級学校の康麻梨さん(高2)は、「無償化」制度から朝鮮学校が除外され、生徒たち、とりわけ高級部3年生たちがビラ配りや街頭宣伝、デモ行進などに積極的に参加してきたことに触れながら、先輩たちの努力が報われず、そのまま卒業式を迎えようとしていることが悔しいと訴えた。また、かつて朝鮮学校は、父母たちが学生の頃に、JR定期券差別撤廃問題や大学受験資格問題、高体連加盟・インターハイ出場資格の問題などが生じ、その度に生徒たちが権利獲得のために声をあげ、たたかい勝ち取ってきたといい、今度は私たちが後輩のために権利を獲得し、学校を守る番だと力説した。
 康さんは、今まで、支えてくれた日本の人々に謝意を述べながら、「先代たちが汗と涙で守ってきた、この朝鮮学校で、民族教育を受けれることに誇りを持っている。『無償化』が適用されるまで、決してあきらめない。これから生まれてくる子孫たちが思う存分学校で学べるように、『無償化』の権利を勝ち取りたい」と語った。
 これに先立ち、「高校無償化」の朝鮮学校排除を許さない!全国集会実行委員会の長谷川和男さんが発言した。36年間、朝鮮学校と交流をしてきた長谷川さんは、「無償化」問題をめぐる1年間の経緯、3回に渡り行なわれた大規模な集会とデモ行進について述べた。26日には、代々木公園で4回目の大集会が行なわれる。賛同団体は、300を超える見通しだ。「(朝鮮高級学校の)卒業式に、日本の民主主義、人権感覚はまともだったんだというメッセージが届けられるよう、大集会を一つの突破口としたい」。
撤廃委勧告の実現へ
 昨年3月に出された人種差別撤廃委の総括所見には、▼コリアンスクールに通う生徒を含むグループに対する不適切で下品な言動、及びインターネット上での、とくに民に対して向けられた有害で人種主義的な表現や攻撃と言う事象が継続的に起きていること▼「高校無償化」法案において、朝鮮学校を除外することを示唆する複数の政治家の姿勢などに懸念を示し、改善を勧告した。
 同所見には、有識者懇談会や各種協議の場への▼アイヌ民族の代表の参加を増大させ▼協議の結果を、アイヌの権利に明確に焦点を当てた行動計画やプログラムに結実▼先住民族の権利に関する国連宣言など国際的な公約を吟味し実施することを目的とする3つ目の作業部会の設置を検討すること、「沖縄の軍事基地の不釣合いな集中」などの差別問題も対象となっている。日本政府のアイヌ政策推進会議の(アイヌ政策見直しの)作業報告が、3月にも出る。しかし、その内容は、先住民族アイヌに対する植民地支配の歴史的責任を否定した上で、「先住民族の権利に関する国連宣言」に基づく権利回復は切り離されている状況である。
 集会の1部では、旭川アイヌ協議会の川村シンリツ・エオリパック・アイヌ会長をはじめ、先住民族アイヌの人々が発言し、アイヌ・ラマット実行委員会共同代表の出原昌志さんが同会の位置づけ、この間の経緯について報告をした。
 また、在日の慰安婦裁判を支える会の梁澄子さん、沖縄一坪反戦地主会関東ブロック顧問の上原成信さんらがそれぞれの角度から、連帯のメッセージを送った。一方、社民党の福島みずほ党首からもメッセージが寄せられた。
 2部では、アイヌと朝鮮の歌舞が披露された。
 集会後、日比谷公園まで、参加者らによるデモ行進が行なわれた。(姜裕香)
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2011/03/1103j0222-00001.htm

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