西日本新聞朝刊2016年10月30日03時05分 (更新 10月30日 09時49分)
モーナ・ルーダオの像(右奥)の前で犠牲者を弔う踊りを披露する子どもたち
台湾が日本の統治下にあった1930年に南投県仁愛郷霧社地区で起きた抗日武装蜂起「霧社事件」の慰霊祭が27日、現地で催され、千人以上に及ぶ犠牲者の霊を弔った。事件を起こした地区内の先住民、セデック族は約40キロ離れた山里に強制移住させられ、過酷な生活を強いられたが、原野を切り開いて約85年生き抜いてきた。遺族は「もう恨みはない。事件を忘れないことが大事」「他の民族と力を合わせて頑張りたい」と語り、祖先をしのんだ。 (台北・中川博之)
3千メートル級の山が連なる中央山脈の中腹にある霧社。慰霊碑の前で行われた慰霊祭には約400人が参列し花や果物、酒をささげ、踊りを披露した。南投県府長官は「自由のために命を犠牲にして戦ったみなさんに祈りをささげられることに感謝する。さまざまな民族が和解し、融合する社会を目指す」とあいさつした。
事件を起こしたセデック族は、日本の軍隊や警察に制圧されただけでなく、日本側についた他の部族による襲撃も受けた。生き残った298人は翌年、約40キロ離れた清流地区へ移住させられた。
事件で父方と母方の祖父母4人全員が自殺したという黄瑞香さん(76)によると、清流地区に着いた母親たちは原野を切り開き、わずかなもみ米で稲を植え、周囲の集落から食料を分けてもらい飢えをしのいだという。
慰霊祭で遺族代表としてあいさつした曾春風さん(75)によると、移住先は気候や水が違うためマラリアなどで多くの高齢者や子どもが亡くなり、一時は人口が2割ほど減少。曾さんは「母親は『霧社には絶対に住むな。また同じようなことが起きるかもしれない』と話していた。事件のことがずっと心に残っていた」と振り返る。
ただ、日本に対する「恨みはない」と言い切る。現在、清流地区には当時より200人ほど多い約500人が暮らし、農業で生計を立てているほか、6~7割の住民は地区内外で公務員として働いている。曾さんは「日本がすばらしい教育を残してくれたおかげ」と語り、黄さんも「みんなが頑張り清流地区はすばらしい場所になった。ここを訪れる日本人はみんな友達」と話す。
台湾の先住民は約55万人で人口全体の約2%を占める。マレー・ポリネシア系の固有の言語を持ち、狩猟や漁をして暮らしてきたが、17世紀初頭のオランダ以降、清朝、日本、国民党による支配を受け、土地を奪われ、同化を強いられた。各地で抵抗が相次いだ結果、多くの命も奪われた。蔡英文総統は8月、「400年来、皆さんが味わってきた苦しみと不平等に対し政府を代表しおわびする」と謝罪。先住民の自治の促進や地位向上に向けた新法の整備を進めている。
【ワードBOX】霧社事件
日清戦争で勝利した日本が台湾を統治していた1930年10月27日に起きた先住民による大規模な抗日武装蜂起。モーナ・ルーダオ率いる若者ら約300人が、霧社公学校(小学校)で開かれていた運動会を襲撃し日本人130人以上を殺害した。先住民側も軍隊や警察による鎮圧、敵対部族による襲撃で、自殺者も含めて約1000人が死亡した。発端はモーナ・ルーダオの長男と日本人巡査のトラブルとされるが、日本による森林開発のための過酷な労役や先住民の狩猟の場がなくなったことも原因に挙げられている。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/article/285569
モーナ・ルーダオの像(右奥)の前で犠牲者を弔う踊りを披露する子どもたち
台湾が日本の統治下にあった1930年に南投県仁愛郷霧社地区で起きた抗日武装蜂起「霧社事件」の慰霊祭が27日、現地で催され、千人以上に及ぶ犠牲者の霊を弔った。事件を起こした地区内の先住民、セデック族は約40キロ離れた山里に強制移住させられ、過酷な生活を強いられたが、原野を切り開いて約85年生き抜いてきた。遺族は「もう恨みはない。事件を忘れないことが大事」「他の民族と力を合わせて頑張りたい」と語り、祖先をしのんだ。 (台北・中川博之)
3千メートル級の山が連なる中央山脈の中腹にある霧社。慰霊碑の前で行われた慰霊祭には約400人が参列し花や果物、酒をささげ、踊りを披露した。南投県府長官は「自由のために命を犠牲にして戦ったみなさんに祈りをささげられることに感謝する。さまざまな民族が和解し、融合する社会を目指す」とあいさつした。
事件を起こしたセデック族は、日本の軍隊や警察に制圧されただけでなく、日本側についた他の部族による襲撃も受けた。生き残った298人は翌年、約40キロ離れた清流地区へ移住させられた。
事件で父方と母方の祖父母4人全員が自殺したという黄瑞香さん(76)によると、清流地区に着いた母親たちは原野を切り開き、わずかなもみ米で稲を植え、周囲の集落から食料を分けてもらい飢えをしのいだという。
慰霊祭で遺族代表としてあいさつした曾春風さん(75)によると、移住先は気候や水が違うためマラリアなどで多くの高齢者や子どもが亡くなり、一時は人口が2割ほど減少。曾さんは「母親は『霧社には絶対に住むな。また同じようなことが起きるかもしれない』と話していた。事件のことがずっと心に残っていた」と振り返る。
ただ、日本に対する「恨みはない」と言い切る。現在、清流地区には当時より200人ほど多い約500人が暮らし、農業で生計を立てているほか、6~7割の住民は地区内外で公務員として働いている。曾さんは「日本がすばらしい教育を残してくれたおかげ」と語り、黄さんも「みんなが頑張り清流地区はすばらしい場所になった。ここを訪れる日本人はみんな友達」と話す。
台湾の先住民は約55万人で人口全体の約2%を占める。マレー・ポリネシア系の固有の言語を持ち、狩猟や漁をして暮らしてきたが、17世紀初頭のオランダ以降、清朝、日本、国民党による支配を受け、土地を奪われ、同化を強いられた。各地で抵抗が相次いだ結果、多くの命も奪われた。蔡英文総統は8月、「400年来、皆さんが味わってきた苦しみと不平等に対し政府を代表しおわびする」と謝罪。先住民の自治の促進や地位向上に向けた新法の整備を進めている。
【ワードBOX】霧社事件
日清戦争で勝利した日本が台湾を統治していた1930年10月27日に起きた先住民による大規模な抗日武装蜂起。モーナ・ルーダオ率いる若者ら約300人が、霧社公学校(小学校)で開かれていた運動会を襲撃し日本人130人以上を殺害した。先住民側も軍隊や警察による鎮圧、敵対部族による襲撃で、自殺者も含めて約1000人が死亡した。発端はモーナ・ルーダオの長男と日本人巡査のトラブルとされるが、日本による森林開発のための過酷な労役や先住民の狩猟の場がなくなったことも原因に挙げられている。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/article/285569