武将ジャパン 2024/12/30
以前、お雑煮の歴史について調べたところ、ハッキリとは地域性が見えにくい地方がありました。
「北海道」です。
複数の出身者に聞いてみたところ、これがバラバラ。
「宮城県からの開拓団だから、東北の味ですかね……」
なんていかにもありそうな答えが来たり、
「ご先祖様の土地から習ったもので、香川県がベースじゃないかな」
という意外な地域からの答えが来たり。
考えてみれば、北海道は明治時代以降、全国各地から色んな人々が入植した土地なんですよね。
では、いかなる事情で、彼らは新天地で暮らすようになったのか?
漫画『ゴールデンカムイ』、さらには大泉洋さんの『ファミリーヒストリー』でも注目された北海道開拓について振り返ってみたいと思います。
明治以前の移民
北海道への移住は明治から――。
と書いておいてなんですが……実は江戸時代以前にも移住者はおりました。
・本州の戦乱を避けた
・漂流民が住み着いた
・島流しになった
・奥羽が凶作で、作物を求めて渡来した
・アイヌと交易していて、そのまま住み着いた
・砂金目当てで住み着いた
・砂金目当てのふりをした切支丹(ただし多くが発覚し、処刑)
ざっとこんな理由ですね。
江戸時代、この地は松前藩の領土でした。
ただ、松前藩は本格的な移民ではなく、現地の人々と交易をして利益を得ることが目的でした。
※詳細は以下の記事にございます
なぜ石高ゼロで運営できた?戦国期から幕末までの松前藩ドタバタ歴史
続きを見る
ロシア船の南下が目立つようになったのは18世紀末あたりから。
幕府も、警備のための移住が必要と認識するようになりましたが、過酷な気候で中々うまく進みません。
幕末には、奥羽諸藩に蝦夷地内に領土を与えて移住を促すものの、政治的混乱もあり、結局、失敗に終わっています。
「開拓使」設置と初期の移民
年号が慶応から明治に変わった、激動の時代。
幕府に忠義を尽くした榎本武揚や土方歳三が夢見た「蝦夷共和国」は、半年ほどで解体しました。
そこで明治新政府は「開拓使」を設置します。
蝦夷地あらため北海道へ、組織的な移民が始まるのです。
ただ、これまた当初から問題がありました。
・藩閥政治の影響でモメる(佐賀系の開拓使に、長州系の兵部省が文句をつける)
・その結果「北海道まで来たけど、どこへ落ち着けばいいんですか?」状態の集団が発生
・募集がざっくりしていて、素行の悪いアウトローも入り込む
・ろくな装備もないまま移住させて、冬期間にバタバタと死人を出す
こんな調子でかなり混乱したようです。
また、志願した移民は、奥羽諸藩の士族が多数含まれておりました。
戊辰戦争で敗北し、行くところを失った士族たちが、新天地を求めて応募してきたのです。
なかなかエグい話ではありますが、新政府としては、
「政府に逆らった連中が移民となって苦労しても、仕方ない。流刑と移民の一石二鳥」
という発想もあったことでしょう。
イギリスの流刑地であったオーストラリアを彷彿とさせる関係です。
本サイト編集人氏のご実家・ご先祖様も、まさにこの開拓団一員だったようで、岩出山城主の伊達邦直と共に移り住んだとのこと。
肖像画の下に書かれた解説文を簡潔にマトメますと、以下の通り。
戊辰戦争に敗れて禄高を削減。
開拓を決意して、1871年に厚田郡へ移住するも、不毛の地だったため1872年に当別町へ移住した。
1881年、開拓の功により従六位に叙せられる。
文面だけではさほどの苦闘は感じられませんが、実態はほぼ流刑状態で、当初、奥羽士族以外は少なかったようです(小説『石狩川』(→amazonで無料)に詳しく描かれてます)。
それでも、彼らが根性で道を切り拓くニュースが伝わると、ぼちぼちと他の移民も増えてきます。
北海道の豊かな自然を目当てにして、漁業や農業で身を立てよう――。
そんな再チャレンジを決意させる大地、それが明治初期の北海道でした。
士族の生活安定
開拓使は、10年企画でした。
明治14年(1881年)にタイムリミットの10年間が過ぎて、次の時代に入ります。
朝ドラ『あさが来た』で話題になった五代友厚。
その五代が関与して大問題になった「開拓使官有物払下げ事件」は、この開拓使廃止に伴って発生していますね。
当時、北海道には3つの県が置かれました。
・函館県
・札幌県
・根室県
そして開拓使に代わって置かれたのが、「北海道事業管理局」です。
この時代、政府で考えられるようになった政策が「士族の生活安定」です。
武士として俸禄を失って10年以上。
商売も農業もわからない士族たちは、生活が安定せず、反政府反乱に身を投じる者も多く、社会問題と化していました。
大名や上級士族はそれでもマシでしたが、下級士族は困窮するほかありません。
そこで、東北地方を中心とした県、下級士族が多い県から、集団で北海道に移民させることにしたのです。
あるいは大災害が起こった際、壊滅した村落から集団で移住してきた例もありました。
屯田兵制度
明治7年(1874年)に屯田兵制度が開始されると、こうした士族のために利用されました。
そのピークは明治15年(1882年)から明治29年(1896年)頃。
以降は縮小し、開拓が十分に進んだとして、明治37年(1904年)終焉を迎えます。
このころになると、毎年年間6万人ほどの移民がやってくるようになっており、屯田兵制度はその役割を終えたわけです。
屯田兵の出身地内訳を見ると、東北だけではなく西日本からもいます。
特に四国が多い。
『ファミリーヒストリー』に登場した大泉洋さんのご両親も、奇遇にも宮城(仙台藩・片倉家の家臣)と四国(愛媛)からの移住組でしたね。
一方で、東京や大阪といった都市部はほどんとおりません。
屯田兵は、一石二鳥以上のメリットがありました。
・貧窮士族の生活安定
・戦時は兵力となる
・北海道の警備を担当できる
・開拓の推進
・経費もあまりかからない
こうした屯田制で置かれた陸軍の師団が、「第7師団」、別名「北鎮部隊」です。
北海道の兵士だけでは足らず東北の兵士も加わって組織された「第7師団」は、日露戦争はじめ、多くの戦いにも参戦しています。
第七師団はゴールデンカムイでなぜ敵役なのか 屯田兵時代からの過酷な歴史とは
続きを見る
屯田兵制度は、北海道開拓を果たすために大きな足跡を残しました。
ただ、この制度は戊辰戦争で敗北し、行き場のない人々から人生の選択肢を奪った、そんな暗い部分もあります。
それしか選びようのない人とその家族を、故郷から引き離し、過酷な環境に移住させたわけです。
そういう明治政府の暗部でもあるということは、留意せねばならないでしょう。
屯田兵が苦労して土地を耕す一方、北海道に赴くこともなく、土地を手にする者も出てきます。
明治30年(1897年)、「北海道国有未開地処分法」は、本州の投資家にまとまった大面積の土地を、開発と引き換えに提供するというものでした。
北海道の土地を大盤振る舞い……要は、資産家や華族が、額に汗することなく、その広大な土地を手にするというものでした。
この法律は、先住民に打撃を与え、小作争議の原因にもなっています。
明治の北海道には、明治時代の格差社会の歪みが顕著にあらわれておりました。というのも……。
エゾヒグマの恐怖
屯田兵は、政府にとって都合のよい制度でも、当事者にとっては過酷なもの。
慣れぬ寒冷地での暮らしや豪雪、本州にはいない野生動物との接触は、危険極まりないものでした。
最も凶暴なのが、ご存知、エゾヒグマです。
本州のツキノワグマは雑食です。
山に入り込んだ人間と偶発的に接触してしまった際に、パニックになって暴れる危険性はあります。こうした時に、爪や牙が頸動脈や急所に当たると、不幸にして死亡事故になりうるのです。
ただし、あくまで人を狙って食べようと接近することはありません。
一方でエゾヒグマは、肉食です。
彼らにとって人間は、動きが鈍い獲物。マークしたら、むしろ積極的に捕食しに行く標的となります。
体の大きさもツキノワグマとは比較にならないほど巨大であり、危険性は段違いです。
エゾヒグマの恐怖を知らない移民たちは、しばしば不幸な事故に遭遇しており、最も知られたものが三毛別羆事件でしょう。
あまりの巨体(体長2.7m・体重340kg)で冬眠する穴が見つからず、越冬したのではないか?というヒグマが集落を襲い、死者7名・重傷3名(うち1名は後日死亡)。
詳細は以下リンク先の記事をご覧ください。
人の味を覚えたヒグマの怖さ「三毛別羆事件」冬の北海道で死者7名重傷者3名の惨事
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だいぶ抑えて表現されておりますが、文字通り背筋の凍るような話です。苦手な方はご遠慮を。
ゴールデンカムイで注目
明治政府の政策により切り拓かれた北海道。
そこにはアイヌの人々、戊辰戦争の敗者、屯田兵、元新撰組隊士、当時日本で最も過酷な牢獄とされた樺戸や網走の監獄から脱出した囚人が、夢や野望を胸に秘めて存在する場所だった――。
そんな世界観で描かれているのが2016年マンガ大賞を受賞した『ゴールデンカムイ』ですね。
2018年にはアニメ化もされ、2022年に最終回を迎えながらも、2024年には実写版映画が公開されるなど、一向に余韻が冷めやらぬ歴史漫画の一つ。
「いくらなんでもあんなに無茶苦茶なわけないじゃ〜ん!」と思ってしまうかもしれませんが、歴史的根拠はちゃんとあります。
おいしいグルメやツーリング、あるいはカーリングだけではなく、苦難の過去もある北海道。
津軽海峡の向こうには、本州とは異なる歴史があるのです。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/12/30/112373#google_vignette