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アイヌ伝説の猟師が語る「ヒグマの最大の欠点」とは?戦前の北海道で実際にあった「人間と熊」の闘い

2024-12-31 | アイヌ民族関連

 

東洋経済 12/30(月) 14:02

熊撃ち名人と刺し違えて命を奪った手負い熊、夜な夜な馬の亡き骸を喰いにくる大きな牡熊、アイヌ伝説の老猟師と心通わせた「金毛」―――。

戦前の日高山脈で実際にあった人間と熊の命がけの闘いを描いた傑作ノンフィクション『羆吼ゆる山』。長きにわたって絶版、入手困難な状況が続いていたがこのほど復刊された。

本稿では同書から一部を抜粋してお届けします。

■毒の効き目を調べる

 熊が何かに襲いかかるときは、前足を振り上げて立ち上がる―これが熊の習性の中でも最大の欠点である、と清水沢造(編集部注:アイヌの老猟師)は言っていた。

 かつて狩猟を生業としていたアイヌの人々は、この天のカムイから授けられた獣を狩るのに、昔は弓矢をもってしていた。熊が立ち上がったとき、一の矢で急所を衝くことができれば、それでもどうにか倒すことはできた。

 しかし、羆は蝦夷地最大、最強の猛獣であり、それを殺獲する武器として弓矢はいかにも非力であったし、危険も大きかった。一の矢で急所を外したあげく羆に襲いかかられ、命を落とした人も少なくなかったといわれる。

 そうした状況の中で彼らが苦心の末に作りだしたものに、ブシという毒薬があった。それは、ヘビノダイハチ(ヘビノタイマツ、またはマムシグサ)に含まれている毒素と、ブシ(トリカブト)に含まれている毒素とを煮詰めて抽出した毒薬であったが、製法が人によって異なり、それゆえ、毒の回りに早い遅いがあったという。抽出を終えた段階で、もう一つやらねばならぬ作業があった。それは毒の強弱、つまり効き目を試すことである。

 ドロリと煮詰まった液体を、ほんの耳搔き一杯分ほど自らの舌の上に乗せ、じっと正座するのである。やがて、額に汗が噴き出し、顔面は蒼白となり、全身が小刻みに震えだす。この時点でマキリ(小刀)の刃を用いてその薬をこそぎ落とし、口をすすいでしまう。このように自分の体に現れる徴候をもって、毒の効き目ははっきりと確かめられるのである。

 この液体を、十勝石(黒曜石)で作った矢尻に塗って、熊の体に射込むのだが、これまた当たりどころにより、毒の回りに早い遅いがあった。しかしブシを用いるようになってからは、獲物は確実に倒せたし、危険の度合いも低下した。

 こうして、この毒薬を用いてのアマッポ猟はたちまちのうちに広まり、全道的に行なわれるようになったという。

■大声で熊を立ち上がらせて、銃を発砲する

 ところが、明治の初め頃から猟銃が持ち込まれるようになって、アイヌの人々の中にも銃を使う者が増えてきた。彼らは、狩猟者としてそれを必要とするがゆえに、猟銃の取扱いにはきわめて精通し、大正から昭和にかけての沢造たちの時代になると、操作法に心を砕いて、一瞬でも早く正確に射撃できるよう、各々が鍛練をしたものであった。

 なかでも「腰矯(こしだめ)」という、銃を腰のあたりに当てて発砲する技法に惹かれた沢造は、1年あまりの時間をかけて、あらゆる角度からの練習を重ね、ついにそれを己れのものとして完成させた。

 沢造にはまた、熊の習性を知悉(ちしつ)する者だけが使える、得意の手があった。それは、走り寄ってくる熊に対して大声を発し、その熊を立ち上がらせる、というものである。立ち上がって襲いかかろうとする寸前に腰矯にした銃を発砲すれば、弾丸が熊に致命的な打撃を与える確度は増す。

 「襲いかかってきた熊の前に立ち塞がって大声を張り上げれば、たいていの熊は立ち上がるものだ」と沢造は平然として語っていたが、それを聞いたとき私は、ある種の畏怖を覚えた。その言葉に私がおののいたのは、そのような技に恐れを抱いたからというよりも、猟を生業とする者の凄みを感じとったからに違いない。

今野 保

https://news.yahoo.co.jp/articles/0287b894de1b2bfd4008c7c9e3829b3f8d06e684


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SUPER EIGHT・安田章大のドキュメンタリー番組 アイヌの人たちと交流 監督エリザベス宮地が魅力語る「病気のことも赤裸々に…」これまでBiSH、藤井風、MOROHA、東出昌大に密着の映像作家

2024-12-31 | アイヌ民族関連

 

UHB 12/30(月) 11:00

人気グループ「SUPER EIGHT」の安田章大さんが出演するドキュメンタリー番組が12月31日午前9時50分からフジテレビ系列の北海道文化放送(UHB)で放送される。

 新番組「Wonder Culture Trip ―FACT―」の第1回で、北海道を旅し、「狩猟」「音楽」「食」をキーワードに、アイヌ文化を紡ぐ人たちの素顔に迫る。

 YouTubeでも配信予定。

 番組は音楽専門チャンネル「スペースシャワーTV」を展開する「スペースシャワーネットワーク」(本社・東京都渋谷区)との共同企画。第2回はスペースシャワーTVで2025年1月28日午後10時から放送する。

 映像監督は、エリザベス宮地

 これまで、BiSH、藤井風、MOROHAなどのアーティストや俳優の東出昌大さんのドキュメンタリーを撮影・制作してきた注目の映像作家だ。

 番組の魅力のほか、現在行っているほかの撮影についてエリザベス宮地さんに聞いた。

安田さんは相手の心を開かせるのがすごい上手

監督 エリザベス宮地さん

 Q.「Wonder Culture Trip ―FACT―」の第1回は、どんな番組ですか?

 シンプルにSUPER EIGHTの安田章大さんがアイヌ民族の方々に直接会って取材するっていう番組です。

 もう完全に台本がないんですね。スケジュールとこの人とお会いするっていうのは決まってるんですけど、撮影内容に関しては一切台本がなくて。なのでドキュメンタリーだと思います。

 撮影中に僕から次このテーマでお話くださいとかも一切なかったです。

 Q.安田さん自身が出演者であり取材者ということですか?

 取材者ですね。予期せぬことも起こったりしつつ、例えば移動中とかもいきなりカメラ回したりしてて、安田さんも全然オッケーというか、いつ回してもオッケーっていうスタンスでした。

 僕らも撮影してみないと分からなかったです。どういう番組なるかも。

 Q.撮影していて成立するか不安になりませんか?

 ドキュメンタリーの良さっていうのはどうなるか分からないもの。僕が部屋で一人で考えていることよりも豊かな出来事とか言葉だったりと出会う可能性があるのがドキュメンタリーだと思うので、あまり不安とかはなかったです。

 あと、安田さんがすごいやっぱりコミュニケーション能力が高い。相手を緊張させずに打ち解けて心を開くっていうのがすごい上手だなと思ったので、撮影が始まってすぐそういう不安はなくなりました。

 Q.どういったところが魅力の番組ですか?

 安田さんだからこそ話してくれたことが、たくさんあると思います。

 芸能人っていう圧力をもしかしたら感じさせる人もいるかもしれないですけど、安田さんはそうじゃない。、常にオープンで、相手と目と目を合わせてまっすぐコミュニケーションをとる方なので、安田さんじゃないと初対面でたった小一時間でいろんな話聞き出せなかったんじゃないのかなと思います。

 安田さんが出会って話してる内容。編集上、大分短くはしちゃったんですけど相手からいただいた言葉っていうのもそのまま魅力だと思いますね。

 アイヌの差別の問題についてとかも、しゃべりたくない人だっているだろうけど、安田さんは聞いていました。

 安田さんの病気とかってアイヌとか先住民に興味抱くすごい大きなきっかけでもある。そもそも人間ってなんだ?っていう人間らしい生き方とかってなんだ?っていうのは多分、病気後にすごい考える機会増えてて、そういう話もすごい自分から確かに赤裸々に話してましたね

 安田さんって病気になった後、自分が生きる意味っていうか、生き残った意味を考えていると思うんです。今も。通常なら死んでもおかしくない状況に2回もなった時に、言葉が違うかもしれないですけど、どうして生き残ったんだろうっていうことを考えて、アイヌ文化に興味を抱いたっていうのは自分の生き残った理由を探す一つだったんだと思う。

 都会であくせく働いていると生きる意味とか見失いがちだし、そもそも生きる意味があるのかないのかも含めなんですけど、そういうことをいずれ生きてると絶対考えないといけないと思うので、そういうのにもし悩んだる人がいたら見てくれたらいいんじゃないかなと思います。

生きていくのって大変じゃないですか…

撮影の一場面 (C)UHB

 Q.どういう思いで番組に参加しましたか?

 取材対象がアイヌっていうのにすごい興味を抱いて。

 文化もそうだけど、「WILL」(東出昌大さんの狩猟ドキュメント映画・2024年公開)を撮影して、いわゆる人間の狩猟採集民だったころの生き方とか学んだ。出会う猟師さんたちがすごい自然に感謝する人が多くて、自然に対してすごい謙虚ですし、そういう考え方をWILLの撮影を通して学んで、今回の依頼が来た時に、やっぱアイヌってまさにそういうことをずっとやられてる方たちだと思うので、僕も学びたかったですね。

 あと僕が気になってたのは、カムイ、神様を信じてること。アイヌの方々が暮らしの考え方の大前提にカムイっていう存在が大きくあると思ってて、それがすごい僕は魅力に感じてて。

 考え方を知りたかったですね。カムイに対する考え方というかすごい共感というか憧れみたいなのが僕強いです。

 Q,なぜ、憧れるんですか?

 大人になってから自分の仕事を経て、都会で暮らす違和感とかも経て興味を抱くようになったんですけど、生まれた時から身近なものとして、生活の一部としてある人たちが結構羨ましいですね。

 なんていうか、生きていくのって大変じゃないですか…。

 特に都会。結構生きてくだけで大変だと思うので、基本的にはそういうところから。

 Q.宮地さんの地元は?

 高知県です。高知にいるときは自然がとか全く思ってないですけど、都会だと、自分一人で生きてるみたいな気持ちになっちゃう時もあるんですよ。

 心があんまり元気がない時でも常に大きな自然とかカムイとかと繋がってるっていうのがアイヌの皆さんだと思うので、本当に素晴らしいなと思います。憧れみたいなのがありますね。

BGMやドローンでの空撮も魅力

狩猟に同行し記念撮影も (C)UHB

 Q.使用している音楽も心に残りました。

 MAREWREW(マレウレウ)というアイヌの音楽をやられているグループの曲をBGMにさせていただいてます。シーンとシーンの切り替え時しか使ってないんですけど、安田さんとか出演者の方の話の内容とかにできるだけ添うようなメロディとかリズムの曲を選ぶようにしてます。

 Q.ドローンでの空撮も綺麗でした。真上から撮影した映像とか。

 カメラマンがすごい頑張ってくれてます。すごいよかったですね。ちょうど紅葉の時期で。10月29日から11月1日まで撮影しました。

掘り下げていただくもよし

音楽を通じて交流 (C)UHB

 Q.見た方にはどういうことを感じてほしいですか?

 輪郭にはちゃんと触れられてるとは思うので、僕が感じたようなカムイへの考え方だったりアイヌの生き方が、出演者の方々の言葉から輪郭が見える内容にはなっていると思うので共感する部分があれば、ご自身の中で掘り下げていただくもよしっていう感じですかね。

 アイヌを知らない方もたくさんいると思うので、安田さんきっかけで見る人もたくさんいると思うので、なんか一つでも引っかかる部分があれば。自分の中で咀嚼してもらえれば。

次回は宮古島へ… これから編集します

食も堪能 (C)UHB

 Q.番組の2回目はどんな内容ですか?

 2回目は宮古島でスペースシャワーTVで放送なんですけど、1月末に。

 今度は宮古島に取材行ってアイヌの方たちと宮古島の方たちで「ウタサミャーク」っていう音楽イベントがあったんですね。それを安田さんが取材に行くっていう内容です

 最終的にその音楽イベントがあったんですけど、安田さんはスケジュール的に参加できなかったので、リハーサルまで。

 すごい素敵なイベントでした。北海道のロケで知り合ったアイヌの方達も来てたので。

 Q.改めて2回目のPRを教えてください。

 全く編集してなくて、今からです。

 Q.それはそれで面白いですね。

 どうなるのかな。前編・後編みたいになるんですけど、前編では、安田さんが音楽イベントに出演される方たちに取材に行って、後編では音楽ライブがメインになる回になると思います。

 その音楽ライブだけ見るよりも安田さんの取材も見てほしい。どういう気持ちでやるのか?そもそもなんでこういうイベントをやるのかとか、宮古島の方たちとアイヌの方たちに聞いて、共通点とか安田さんがすごいまた聞き出してるし、よりわかると思う。

 宮古島の方たちとアイヌの方たちが似ていましたね。根本的な考え方とか流れてる時間、日常生活のタイム感みたいなのとか、穏やかさとかすごい似てて、どうして似た部分があるのかとかも番組見たらわかる内容には多分なる。

 Q.自然との対峙の仕方とかですか?

 そうだと思いますね。一方は海で環境も違うんですけど、なんか似てるっていうのは多分、人生というものに対する考え方で共通する部分が多いんだと思います。

 Q.これから編集なんですね。

 これから編集です。ごめんなさい。全く撮影した映像を見てないです。ちょっともう本当明日ぐらいからやります。締め切りが迫ってますね

 Q.ゆったりした時間の流れというものの話をしつつ、僕らは締め切りに追われる身ですね?

 もう締め切りに追われていたら、あっという間に人生終わりますよね。締め切りないと僕も頑張らないんですけど。

 Q.貴重なお話ありがとうございました。

SUPER EIGHT 安田章大さん (C)UHB

 「Wonder Culture Trip ―FACT―」第一回

 放送日時:2024年12月31日午前9時50分~10時50分

 放送:北海道地上波ローカル(UHB)

 配信:YouTube、TVer 

 制作:スペースシャワーネットワーク

 制作著作:北海道文化放送

 「Wonder Culture Trip ―FACT―」第二回

 放送日時:2025年1月28日午後10時~11時

 放送:スペースシャワーTV

UHB 北海道文化放送

https://news.yahoo.co.jp/articles/3fcf32f4e7c31e707d18b8ddcffc489e0a988905


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山崎賢人が躍動と葛藤を繊細に表現!相棒を演じた山田杏奈とのバディ感も心地良いドラマ版「ゴールデンカムイ」

2024-12-31 | アイヌ民族関連

 

ホミニス 2024.12.30

2025年1月24日(金)に公開される現代忍者エンターテインメント「アンダーニンジャ」で主演を務める山崎賢人(※「崎」は正しくは「立さき」)。コメディにもシリアスにも振れる演技力、高難度のアクションもこなせる高い身体能力にストイックな役づくりも行なう山崎は、大ヒットシリーズ「キングダム」をはじめ"実写化請負人"として定評がある。そんな山崎の今年の大きな活躍として記憶に新しいのが、主演映画「ゴールデンカムイ」だ。

山田杏奈のインタビュー記事はこちら

野田サトルによる超大ヒットコミックを原作とする本作。激動の明治末期、"不死身の杉元"と異名を付けられた元軍人・杉元佐一は、アイヌ民族が強奪された莫大な金塊の存在を知る。金塊を奪った男"のっぺら坊"はある場所に金塊を隠し、その在りかを記した刺青を24人の囚人の身体に彫って彼らを脱獄させた。その刺青は全員で一つの暗号になるという。そんな折、野生のヒグマに襲撃された杉元をアイヌの少女アシリパ(※「リ」は小文字が正式表記)が救う。金塊を奪った男に父親を殺されたアシリパと金塊を追う杉元は行動を共にする...というストーリーだ。

北の大地を舞台に、莫大の埋蔵金を巡る一攫千金ミステリーと、一癖も二癖もある魅力的なキャラクターたちによる埋蔵金争奪の冒険サバイバル・バトルアクションが展開する。独特の世界観から長らく「実写化は不可能」と言われていたが、不死身の杉元を熱演した山崎を筆頭に山田杏奈、眞栄田郷敦、矢本悠馬、玉木宏、舘ひろしら豪華キャストの共演で映画化が実現。年明け早々から大きな話題をさらい、興行収入30億円を突破した。

そんな大ヒット映画の続編となる待望のドラマシリーズ第1弾「連続ドラマW ゴールデンカムイ ―北海道刺青囚人争奪編―」が、12月31日(火)にWOWOWプライムにて年越し一挙放送される。金塊を狙う鶴見中尉率いる大日本帝国陸軍「第七師団」に捕えられた杉元が激しい攻防戦を展開した映画の続きを描くこのドラマ版。杉元とアシリパは網走監獄からの脱獄囚・白石とともに、金塊の在りかを示す暗号の刺青を彫られた脱獄囚たちを捜す。しかし、鶴見中尉、元新撰組「鬼の副長」こと土方の一派も囚人たちを狙っていた...。

映画に続いて主演を務める山崎は、戦闘シーンでの鬼神のごとき戦いぶりや激しいアクションも披露しながら生き生きと躍動。一方で、杉元の葛藤や心の底に秘める闇も繊細に表現する。また、山田演じる相棒・アシリパと互いに信頼を寄せ合うバディ感も良く、表情や佇まいから感情が伝わる。

杉元は山崎のハマり役と言っていいだろう。原作が名作であればあるほどファンも多く、そのプレッシャーは計り知れないが、一見するとミスマッチに思える役柄でも自分のものにしてしまう山崎の確かな演技力とストイックな役づくりあってこそだ。

続投する主要キャストに加え、アシリパの父の古き友キロランケやアイヌの女インカラマッ(※「ラ」は小文字が正式表記)、「札幌世界ホテル」の女将・家永に鶴見の忠臣・鯉登など人気キャラクターたちも続々参戦。各話ごとに登場するクセ者たちにも注目したい。

原作ファンも納得のハマりぶりになった鶴見中尉役の玉木や尾形役の眞栄田だけでなく、新キャストたちも作品への強い愛と熱意を感じさせる演技を見せる。また、血湧き肉躍る争奪戦と、コミカルなほのぼのシーンや温かな食事シーンとの緩急も本作の見どころの一つだ。

杉元ら一行、第七師団、土方一派による三つ巴の戦いだけに留まらない波乱の金塊争奪戦が展開するドラマ版。WOWOWプライムでは年越し特集が組まれており、映画とドラマの一挙放送に加え、豪華キャスト陣が集結した座談会「実写版『ゴールデンカムイ』ネタバレ上等ッ!!アフタートーク」も放送される。先日、ドラマシリーズの続編となる映画第2弾の製作も決定したばかりだが、ぜひ年越しも「金カム」の世界観に没入してほしい。

文=中川菜都美

https://hominis.media/category/actor/post13672/


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とにかく過酷だった北海道開拓~明治維新敗者に新選組や囚人達の苦難とヒグマの恐怖

2024-12-31 | アイヌ民族関連

 

武将ジャパン 2024/12/30

以前、お雑煮の歴史について調べたところ、ハッキリとは地域性が見えにくい地方がありました。

「北海道」です。

複数の出身者に聞いてみたところ、これがバラバラ。

「宮城県からの開拓団だから、東北の味ですかね……」

なんていかにもありそうな答えが来たり、

「ご先祖様の土地から習ったもので、香川県がベースじゃないかな」

という意外な地域からの答えが来たり。

考えてみれば、北海道は明治時代以降、全国各地から色んな人々が入植した土地なんですよね。

では、いかなる事情で、彼らは新天地で暮らすようになったのか?

漫画『ゴールデンカムイ』、さらには大泉洋さんの『ファミリーヒストリー』でも注目された北海道開拓について振り返ってみたいと思います。

明治以前の移民

北海道への移住は明治から――。

と書いておいてなんですが……実は江戸時代以前にも移住者はおりました。

・本州の戦乱を避けた

・漂流民が住み着いた

・島流しになった

・奥羽が凶作で、作物を求めて渡来した

アイヌと交易していて、そのまま住み着いた

・砂金目当てで住み着いた

・砂金目当てのふりをした切支丹(ただし多くが発覚し、処刑)

ざっとこんな理由ですね。

江戸時代、この地は松前藩の領土でした。

ただ、松前藩は本格的な移民ではなく、現地の人々と交易をして利益を得ることが目的でした。

※詳細は以下の記事にございます

なぜ石高ゼロで運営できた?戦国期から幕末までの松前藩ドタバタ歴史

続きを見る

ロシア船の南下が目立つようになったのは18世紀末あたりから。

幕府も、警備のための移住が必要と認識するようになりましたが、過酷な気候で中々うまく進みません。

幕末には、奥羽諸藩に蝦夷地内に領土を与えて移住を促すものの、政治的混乱もあり、結局、失敗に終わっています。

「開拓使」設置と初期の移民

年号が慶応から明治に変わった、激動の時代。

幕府に忠義を尽くした榎本武揚や土方歳三が夢見た「蝦夷共和国」は、半年ほどで解体しました。

そこで明治新政府は「開拓使」を設置します。

蝦夷地あらため北海道へ、組織的な移民が始まるのです。

ただ、これまた当初から問題がありました。

・藩閥政治の影響でモメる(佐賀系の開拓使に、長州系の兵部省が文句をつける)

・その結果「北海道まで来たけど、どこへ落ち着けばいいんですか?」状態の集団が発生

・募集がざっくりしていて、素行の悪いアウトローも入り込む

・ろくな装備もないまま移住させて、冬期間にバタバタと死人を出す

こんな調子でかなり混乱したようです。

また、志願した移民は、奥羽諸藩の士族が多数含まれておりました。

戊辰戦争で敗北し、行くところを失った士族たちが、新天地を求めて応募してきたのです。

なかなかエグい話ではありますが、新政府としては、

「政府に逆らった連中が移民となって苦労しても、仕方ない。流刑と移民の一石二鳥」

という発想もあったことでしょう。

イギリスの流刑地であったオーストラリアを彷彿とさせる関係です。

本サイト編集人氏のご実家・ご先祖様も、まさにこの開拓団一員だったようで、岩出山城主の伊達邦直と共に移り住んだとのこと。

肖像画の下に書かれた解説文を簡潔にマトメますと、以下の通り。

戊辰戦争に敗れて禄高を削減。

開拓を決意して、1871年に厚田郡へ移住するも、不毛の地だったため1872年に当別町へ移住した。

1881年、開拓の功により従六位に叙せられる。

文面だけではさほどの苦闘は感じられませんが、実態はほぼ流刑状態で、当初、奥羽士族以外は少なかったようです(小説『石狩川』(→amazonで無料)に詳しく描かれてます)。

それでも、彼らが根性で道を切り拓くニュースが伝わると、ぼちぼちと他の移民も増えてきます。

北海道の豊かな自然を目当てにして、漁業や農業で身を立てよう――。

そんな再チャレンジを決意させる大地、それが明治初期の北海道でした。

士族の生活安定

開拓使は、10年企画でした。

明治14年(1881年)にタイムリミットの10年間が過ぎて、次の時代に入ります。

朝ドラ『あさが来た』で話題になった五代友厚

その五代が関与して大問題になった「開拓使官有物払下げ事件」は、この開拓使廃止に伴って発生していますね。

当時、北海道には3つの県が置かれました。

・函館県
・札幌県
・根室県

そして開拓使に代わって置かれたのが、「北海道事業管理局」です。

この時代、政府で考えられるようになった政策が「士族の生活安定」です。

武士として俸禄を失って10年以上。

商売も農業もわからない士族たちは、生活が安定せず、反政府反乱に身を投じる者も多く、社会問題と化していました。

大名や上級士族はそれでもマシでしたが、下級士族は困窮するほかありません。

そこで、東北地方を中心とした県、下級士族が多い県から、集団で北海道に移民させることにしたのです。

あるいは大災害が起こった際、壊滅した村落から集団で移住してきた例もありました。

屯田兵制度

明治7年(1874年)に屯田兵制度が開始されると、こうした士族のために利用されました。

そのピークは明治15年(1882年)から明治29年(1896年)頃。

以降は縮小し、開拓が十分に進んだとして、明治37年(1904年)終焉を迎えます。

このころになると、毎年年間6万人ほどの移民がやってくるようになっており、屯田兵制度はその役割を終えたわけです。

屯田兵の出身地内訳を見ると、東北だけではなく西日本からもいます。

特に四国が多い。

『ファミリーヒストリー』に登場した大泉洋さんのご両親も、奇遇にも宮城(仙台藩・片倉家の家臣)と四国(愛媛)からの移住組でしたね。

一方で、東京や大阪といった都市部はほどんとおりません。

屯田兵は、一石二鳥以上のメリットがありました。

・貧窮士族の生活安定

・戦時は兵力となる

・北海道の警備を担当できる

・開拓の推進

・経費もあまりかからない

こうした屯田制で置かれた陸軍の師団が、「第7師団」、別名「北鎮部隊」です。

北海道の兵士だけでは足らず東北の兵士も加わって組織された「第7師団」は、日露戦争はじめ、多くの戦いにも参戦しています。

第七師団はゴールデンカムイでなぜ敵役なのか 屯田兵時代からの過酷な歴史とは

続きを見る

屯田兵制度は、北海道開拓を果たすために大きな足跡を残しました。

ただ、この制度は戊辰戦争で敗北し、行き場のない人々から人生の選択肢を奪った、そんな暗い部分もあります。

それしか選びようのない人とその家族を、故郷から引き離し、過酷な環境に移住させたわけです。

そういう明治政府の暗部でもあるということは、留意せねばならないでしょう。

屯田兵が苦労して土地を耕す一方、北海道に赴くこともなく、土地を手にする者も出てきます。

明治30年(1897年)、「北海道国有未開地処分法」は、本州の投資家にまとまった大面積の土地を、開発と引き換えに提供するというものでした。

北海道の土地を大盤振る舞い……要は、資産家や華族が、額に汗することなく、その広大な土地を手にするというものでした。

この法律は、先住民に打撃を与え、小作争議の原因にもなっています。

明治の北海道には、明治時代の格差社会の歪みが顕著にあらわれておりました。というのも……。

エゾヒグマの恐怖

屯田兵は、政府にとって都合のよい制度でも、当事者にとっては過酷なもの。

慣れぬ寒冷地での暮らしや豪雪、本州にはいない野生動物との接触は、危険極まりないものでした。

最も凶暴なのが、ご存知、エゾヒグマです。

本州のツキノワグマは雑食です。

山に入り込んだ人間と偶発的に接触してしまった際に、パニックになって暴れる危険性はあります。こうした時に、爪や牙が頸動脈や急所に当たると、不幸にして死亡事故になりうるのです。

ただし、あくまで人を狙って食べようと接近することはありません。

一方でエゾヒグマは、肉食です。

彼らにとって人間は、動きが鈍い獲物。マークしたら、むしろ積極的に捕食しに行く標的となります。

体の大きさもツキノワグマとは比較にならないほど巨大であり、危険性は段違いです。

エゾヒグマの恐怖を知らない移民たちは、しばしば不幸な事故に遭遇しており、最も知られたものが三毛別羆事件でしょう。

あまりの巨体(体長2.7m・体重340kg)で冬眠する穴が見つからず、越冬したのではないか?というヒグマが集落を襲い、死者7名・重傷3名(うち1名は後日死亡)。

詳細は以下リンク先の記事をご覧ください。

人の味を覚えたヒグマの怖さ「三毛別羆事件」冬の北海道で死者7名重傷者3名の惨事

続きを見る

だいぶ抑えて表現されておりますが、文字通り背筋の凍るような話です。苦手な方はご遠慮を。

ゴールデンカムイで注目

明治政府の政策により切り拓かれた北海道。

そこにはアイヌの人々、戊辰戦争の敗者、屯田兵、元新撰組隊士、当時日本で最も過酷な牢獄とされた樺戸や網走の監獄から脱出した囚人が、夢や野望を胸に秘めて存在する場所だった――。

そんな世界観で描かれているのが2016年マンガ大賞を受賞した『ゴールデンカムイ』ですね。

2018年にはアニメ化もされ、2022年に最終回を迎えながらも、2024年には実写版映画が公開されるなど、一向に余韻が冷めやらぬ歴史漫画の一つ。

「いくらなんでもあんなに無茶苦茶なわけないじゃ〜ん!」と思ってしまうかもしれませんが、歴史的根拠はちゃんとあります。

おいしいグルメやツーリング、あるいはカーリングだけではなく、苦難の過去もある北海道。

津軽海峡の向こうには、本州とは異なる歴史があるのです。

https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/12/30/112373#google_vignette


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巨大なヒグマに襲われた…アイヌ伝説の猟師が実行した「恐るべき撃退法」とは?

2024-12-31 | アイヌ民族関連

 

山と渓谷 12/30(月) 11:51

長きにわたって絶版、入手困難な状況が続いていた伝説の名著『羆吼ゆる山』(今野保:著)がヤマケイ文庫にて復刊。「赤毛」「銀毛」と呼ばれ恐れられた巨熊、アイヌ伝説の老猟師と心通わせた「金毛」、夜な夜な馬の亡き骸を喰いにくる大きな牡熊など、戦前の日高山脈で実際にあった人間と熊の命がけの闘いを描いた傑作ノンフィクションです。本書から、一部を抜粋して紹介します。アイヌ伝説の猟師・沢造と銀色の毛をもつ巨熊との対決は――。

山の収穫

沢造は、猟をするために山に入るときは、ニワトリの脂身を多めに持ってゆき、川の流れにつけて血抜きしたウサギの肉をこの脂で焼く。するとウサギの肉はニワトリの肉を焼いたようになって、いい匂いが染み込む。これを餌にすると、まず、どんなキツネも喰いついてしまう、という。

それでも罠に掛からないキツネには、羆に使う口発破の小型のものを嚙ませる。この口発破は、塩素酸カリウムと鶏冠石(砒素の硫化鉱物)にセトモノの細片を入れて調合するのだが、これらを混ぜ合わせるのはきわめて危険な作業となる。

さて、猟場を一回りした沢造は、獲物を入れた背負い袋を背にして帰途についた。

そして、一番楽しみにしていたイワナ沢の例の一本橋の近くまで戻ってきたとき、橋の上に置いた弓張り仕掛けのハネ罠に、見事な黄テンが掛かっているのを見つけた。今日はすでに、茶の毛色のテンを二匹得ていたが、これほど見事な色合いの黄テンは滅多に捕れない代物なので、沢造は思わずほくそ笑んで橋に駈け寄った。

背の荷物を崖っ縁の雪の上におろし、一本橋の上にそろりと足を踏み出した。針金で首を絞められた黄テンは、すでに固くなって、仕掛けた弓の先にぶら下がっている。そこに近寄って首の針金を外し、テンを持ち上げて立ち上がったとき、不覚にも足元がぐらついてよろけてしまった。

沢造は咄嗟にクルリと体の向きを変え、崖っ縁に飛んだ。すると、そこに積もっていた雪がぱっくりと割れて、大きな雪の塊りが沢造の荷物を乗せたまま崖下のイワナ沢に落下し、ドスンと音をたてた。

「ありゃー、荷物まで落ちてしまった。しょうがねえなー、沢の入口から回らねばなんねえか」

沢造は舌打ちしながら左手の斜面に向かった。そうして本流であるベツピリカイ川の岸辺にいったん降り、そこから右岸伝いに下ってイワナ沢に出合いから入り、右側の崖の下を歩いて、荷物の落ちている上流に向かった。

高い崖の下に雪が砕け散っているところがあって、荷物はそこに雪まみれになってころがっていた。その荷物に手を伸ばしかけたとき、後ろの方で妙な物音がして、沢造の背にゾクリと寒気が走った。はっとして振り返ると、崖下の窪みから落葉と雪を蹴散らして一頭の熊が飛び出した。

熊との死闘

沢造が左手に摑んでいたテンを荷物の方へ放り投げたとき、ウォーッと一声、腹に突き刺さるような吼え声を上げて熊が立ち上がり、沢造めがけて襲いかかってきた。

素速く身をかわした沢造は、右手で腰に下げた刺刀(さすが)を抜いた。そして、二度目に立ち上がった熊が両前足を振り上げて威嚇の声を上げながら今まさに飛びかかろうとする寸前、その腹にパッと抱きついた。熊の腰のあたりに両足をからませ、脇の下から両腕を回して背中の毛を手でしっかりと摑み、頭を熊の顎の下に押しつけた。

熊は、なんとかして沢造を振り落とそうともがき、ウワッ、ウワッと短く吼えながら川岸の雪の上を跳ね回った。振り落とされれば命にかかわるのは目に見えている。

沢造は懸命に熊の腹にしがみつきながら、右手の刃渡り三十センチ近い刺刀を熊の心臓に突き当て、突き刺し、柄まで押し込み、なおもグイグイと力にまかせて刀を抉り上げた。傷口から鮮血がドッとほとばしり、辺りの雪を真っ赤に染めた。

刺刀の切っ先で心臓を突き破られた熊は、狂ったように跳ね回り、暴れだした。

沢造は落されまいと手に満身の力を込めてしがみついていたが、血まみれの刺刀の柄がぬるりと滑って右手が外れた瞬間、熊が大きく横に跳び、からめていた足が外れ、さらに背中の毛を摑んでいた左手も離れ、ついにその場に振り落とされた。そしてすぐさま身を起こし、崖下の大岩と岩壁の間の狭い隙間に目をつけるやいなや、一瞬後にはそこに潜り込んでいった。

ズキンと左肩に痛みが走るのを覚えながら、そっと振り返って見ると、熊は倒れては起き上がり、岩に当たっては倒れ、川に転げ落ちては岸に上がり、水の中と雪の上とを問わずのたうち回ったあげく、崖に頭を打ちつけてひっくり返り、またもや立ち上がっては流れに倒れ込むといった、手の付けられぬ暴れようで、それでもなお、沢造の姿を求めてか、そこらを無闇矢鱈に走り回っていたが、もはや目が見えなくなっているのか、まもなくよろよろと足をもつれさせ、断崖の下に頽れてしまった。

沢造は身じろぎもせず、熊の断末魔の喘ぎを岩の隙間から冷たい目で眺めていた。

沢造にしてみれば、自分の猟場に無断で入り込み、しかも突然襲ってくる熊などに、同情すべき点は何ひとつなかったし、どんな因果があるにせよ、こんな目に遭わされるのはまったく心外であった。

やがて熊は、赤く染まった雪の上にゆっくりと仰向けになり、四肢をだらりと開いてしまった。これが、冬ざれの山をさまよった末にようやく安息の地を見出したばかりの銀毛の最期であった。

文=今野 保

https://news.yahoo.co.jp/articles/4db1b0ee1516ce8516f50523d5a84bfc82d41ba1


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バングラデシュ系アメリカ人、ドナルド・トランプ大統領にチンモイ・クリシュナ・ダス氏の釈放を確保し、少数派を保護するよう要請

2024-12-31 | 先住民族関連

 

Nipw Fun 12月 30, 2024 から 翼大代 - 

バングラデシュ系アメリカ人、仏教徒、キリスト教徒らは、ドナルド・トランプ次期米大統領に対し、逮捕されたヒンズー教僧チンモイ・クリシュナ・ダス氏の即時釈放を確保するよう求めた。彼らはまた、国内で宗教的少数派や民族的少数派に対して進行中の残虐行為へのトランプ大統領の介入も要請した。
同団体はトランプ大統領に送った覚書で、バングラデシュの国連平和維持活動への関与と国内の民族的・宗教的迫害の終結を結びつけることを提案した。
覚書はまた、少数派と先住民族を正式に認めるための包括的な少数派保護法の創設も求めた。
主な提案には、安全地帯の設置、少数派のための独立した選挙区、ヘイトクライムやヘイトスピーチと闘うための法律の導入などが含まれており、メディアリリースで述べられているように、これらはすべて宗教的慣習と文化遺産を保護することを目的としている。
元イスコン指導者のダス氏は11月25日に投獄された。その後、チャトグラム裁判所によって保釈申請が却下され、刑務所に送られた。ダス氏は国旗を侮辱した疑いで扇動罪で起訴されている。この訴訟は2025年1月2日に法廷で審理される予定である。

https://www.njpwfun.com/ニュース/61022/バングラデシュ系アメリカ人、ドナルド・トラン/


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終戦直後の樺太で旧ソ連人とともに暮らし…

2024-12-31 | アイヌ民族関連

八重山毎日新聞 2024年12月30日 不連続線

 終戦直後の樺太で旧ソ連人とともに暮らし、北海道へ引き揚げた後、アイヌの伝統的な住居、チセを借りて暮らしたという人の聞き書きを読んだ。この人はどんな感覚で人生を送ってきたのか、と思わずにいられなかった。締めの部分では、聞き取りをした学生の思いにもらい泣きしてしまった▼京都・大阪の大学生が民俗学の課題で祖父母などからの聞き取りをまとめ、その選りすぐり12編が「書いてみた生活史」(実生社)として出版された。「樺太」のリポートは収録作の1編である▼編著者の菊地暁氏は大学教員として課題を出したその人。リポートはどれも「既存の記録に残されることのなかった『もうひとつの歴史』」だという▼高知県宿毛で育った女性は、近くに海軍基地があり、米軍の攻撃があるたびに防空壕(ごう)に入った。自然豊かな山村だったが、白米入りの弁当を持っていくと、先生に没収された▼「よく理解できないまま始まって、よく理解できないまま終わったって感じ」。当時10歳に満たなかった奥能登の女の子が、おばあちゃんとして孫に語った戦争への思いだ。米軍統治期の沖縄で生まれた男性は、父親がハワイへの出稼ぎ経験者。小学校在学中には友人が南米に移民していった▼来年は戦後80年。耳を傾けることを大切にする一年だ。(松田良孝)

https://www.y-mainichi.co.jp/news/41184


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消えた巨大都市カホキア 今も解明が進む古代アメリカの謎

2024-12-31 | 先住民族関連

 

Eaquire 2024/12/30

By Ashley Stimpson

国の歴史的建造物、そして、ユネスコの世界遺産にも指定されているカホキア(※カホキア墳丘群州立史跡として指定)。5万人もの住民がなぜ突然この広大な居住地を放棄したのか? 考古学者たちは今なおその謎の解明を試みている。

最大人口5万人超。世界有数の巨大都市だった

イリノイ州南部、モンクス・マウンドにある144段の階段を上り切ると、晴れた日には活気あるセントルイスの街が一望できる。

700年前、そこは「カホキア」と呼ばれる広大な古代都市の中心だった。先コロンブス期の居住地として最大級であった古代都市カホキアには、公共広場、礼拝所、複雑な道路網、さらには天文台まで存在していたと考えられている。

ミシシッピ文化の文化的、宗教的、経済的中心地であったカホキアには、最盛期には2万人もの人々が暮らしていたという。これは当時のヨーロッパの都市に匹敵する規模だ。周辺の農場や村落を含む「グレーター・カホキア」の人口は、西暦1100年頃にピークを迎え、約5万人に達したとされる。住民たちの生活は、宗教的な祝祭や数日間続く祭り、賑やかなスポーツイベントで彩られていた。

古代アメリカ史における最大級の謎

しかし、わずか250年後にカホキアは放棄され、120もの土塁の上には背の高い草が伸び放題となった。研究者たちはその理由を解明しようと試みている。自然資源を使い果たし、乱獲や森林伐採を行ったとする説もある。また、頻繁な干ばつや洪水が都市を滅ぼしたとする説や、政治的な不安定さ、外部からの侵入者、疫病の到来を理由とする説もある。

近年の研究でいくつかの説は否定されたが、カホキア衰退の真相はわかっていない。むしろ、失われた都市の謎は時と共に深まるばかりだ。

先コロンブス期に繁栄の歴史

カホキアは、ミズーリ川、ミシシッピ川、イリノイ川が合流するアメリカン・ボトムと呼ばれる肥沃な地域に築かれていた。これは偶然ではなく戦略的なものだ。

当初、カホキアは何の変哲もない普通規模の集落に過ぎなかった。しかし西暦1000年頃、トウモロコシが先住民族の主食となり、遊牧社会から定住的な集落へと変容していった。この時期、豊かな土壌と水に恵まれたカホキアは「ビッグバン」と呼ばれる急成長を遂げ、ナチェズ族、ペンサコーラ族、チョクトー族など、ミシシッピ文化から人々を引き寄せた。実際、考古学者たちが遺跡から発見された歯を分析したところ、移民が人口の約3分の1を占めていたという。

人口の急増と共に、カホキアは単なる大規模な農耕都市にとどまらず、政治、商業、宗教の中心地へと発展していった。最終的に約23平方キロメートルにまで拡大し、その境界内には120もの土塁が築かれた。

「カホキア」という名は、数百年後の17世紀にフランス人が到着し、イリノイ連合に属するカホキア族と出会ったことに由来する。しかし、研究者たちは、この部族はカホキアの最盛期には住んでいなかったものと考えている。

Getty Images

1972年頃、イリノイ州のカホキア・マウンズ州立公園にあるモンクス・マウンドで、考古学者たちがネイティブアメリカンのゴミ捨て場を発掘している様子。

カホキア独自の文化が花開く

カホキアの人々は文字による記録を残さなかったし、ヨーロッパ人が到着する遥か以前に住民たちは離散していた。そのため、カホキアの生活がどのようなものだったかは、主に考古学的調査によってもたらされた。

内部に要塞があったことから、カホキアには社会的階層が存在していたものと考えられている。最大の土塁であるモンクス・マウンド(1800年代にフランス人のトラピスト会修道士が命名)には大きな建物があり、そこにはカホキアの政治的・精神的指導者たちが集っていた。その麓には、周囲3キロメートルほどの防壁に囲まれた街の中心があり、宗教的な祝祭や儀式が行なわれていた。

これらの祝祭や儀式がかなり賑やかだったことを示す証拠もある。カホキアの人々は定期的に「ブラック・ドリンク」と呼ばれる飲み物を飲んでいたようだ。これはヒイラギの葉から作られた飲料で、カフェイン含有量は濃いコーヒーの6倍ほどもある。

さらに考古学者たちは、一度の大規模な宴会で消費されたとみられる2000頭もの鹿の死骸が詰まった廃棄場も発掘している。

カホキアの住民たちの日常生活は忙しかった。男性は狩猟や農業、森林伐採を行ない、女性は家事や土器作り、織物などをしていた。ほとんどの家は防壁の外側にあり、一部屋だけの住まいが複雑かつ綿密に計画された中庭や通路で結ばれていた。実際、カホキアの人々が設計した東西の道路は、現在でもセントルイスへの道として使われている。

カホキアに点在する多くの土塁は埋葬地として使われ、なかには集団墓地もあった。考古学者たちは、儀式的な人身供犠の証拠を含む遺跡を偶然発見している。また、頭蓋骨が破壊された遺骸や、首を切られ、飛び道具による損傷のある遺骸は、政治的暴力の存在を示唆している。これは、この強大な都市の最期を示す手がかりの一つに過ぎない。

カリフォルニア州立大学ロングビーチ校の分子考古学者AJホワイトは、カホキアの人口は西暦1100年頃にピークを迎えたと推測している。彼は古代の排泄物を分析することでこの地域を研究してきた。ホワイトと同僚たちは、近隣のホースシュー湖の近くで採取した堆積物の分子を分析し、「11世紀が最も人口が多く、14世紀が最も少なかった」ことを発見した。「実際、西暦1400年頃にはっきりと人口は底を打っている」と彼は述べる。

突然の衰退と放棄。その原因は?

では、5万人もの人々が住んだ古代都市が、なぜ突然衰退したのか? それには、いくつかの有力な説がある。

例えば、政治的暴力を示す人骨を証拠に、カホキア内部の不和が衰退につながったと考える説がある。また、西暦1175年から1275年の間に防壁が4回も再建されていることから、近隣部族との衝突があった可能性を指摘する学者もいる。

カホキアが単に自然資源を使い果たしたとする説もある。防壁の建設だけでも2万本もの丸太が必要だったと推定されており、住民も建築や暖房、調理用に恒常的な木材供給を必要としていたはずだ。

広範な森林伐採は、カホキアの生活に悪影響を及ぼしただけでなく周辺の生態系も変化させた。木がなくなった土地は保水能力を失い、洪水などの水害が増加したと考えられる。しかし、この説は間違っている可能性がある。30年以上にわたって支持されてきた説ではあるが、最近の発掘調査では、カホキアの全盛期に侵食や地盤の不安定化があった証拠は見つかっていない。

人々がカホキアを放棄した理由として最も一般的なものは、洪水や干ばつといった自然災害だ。一部の学者は、カホキアが洪水の少ない時代に発展し、その衰退が大規模な洪水の再来と一致していることを示している。災害が農作物の不作を引き起こし、大都市を荒廃させた可能性が高いと彼らは主張する。

ホワイトの研究はこの説を裏付けている。

彼が分析した堆積物コアからは、洪水と干ばつの時期の証拠が見つかっており、人口の「大幅な減少」と一致している。「干ばつや洪水といった気候変動が、カホキアの人口減少に影響を与えた可能性は高い」

干ばつがどれだけの影響を与えたのか?

今年7月、カホキアに人々が住んでいた時代の植物の炭素同位体を分析した研究者たちは、干ばつがカホキアに壊滅的な影響を与えたとする説に異を唱える論文を発表した。

「我々は、カホキアの作物や他の食料源の多様性に関する数十年にわたる研究を行なったが、食料不足がカホキアを放棄する決定的な要因となったとすることに懐疑的である」と、土地管理局の考古学者ケイトリン・ランキンはメールで述べた。

ランキンは、たとえ干ばつがこの地域の農業に影響を与えたとしても、カホキアの農民たちは少なくとも8種類の作物を栽培しており、住民たちは「巨大な淡水漁場、世界有数の渡り鳥の飛行ルート、長年の地域コミュニティによって形成された多年生の湿地植物やナッツ、果物が豊富な『食の森』へアクセスできた」と説明しており、飢えに苦しむことは考えにくいという。

「だからといって、干ばつが食料を育てていた場所に影響を与えなかったというわけではない。それに、作物の不作が起きなくても、干ばつが地域を不安定化させた可能性はある」とランキンは補足している。

ホワイトもこの結論に同意している。度重なる洪水や干ばつは「システムに衝撃を与えた可能性が高い」と彼は言う。「現状が壊れるような混乱が起これば、大きな変化が起きてもおかしくない」

今日の気候変動の影響を受けている地域の人々のように、カホキアの住民たちも時間をかけて土地を離れていった可能性がある。謎が完全に解明されたわけではないが、カホキアが滅んだ理由は、小さな要因の積み重ねだったのかもしれない。

「カホキアは非常に複雑な場所で、その説明も複雑なものになりそうだ」とホワイトは話す。「我々は、農業、経済、文化、気候など、さまざまなデータを統合する方法を考える必要がある。社会はこれらに同時に対処しており、一つの変化がすべてを揺るがしかねない」

Source / Popular Mechanics
Translation / Eisuke Kurashima
※この翻訳は抄訳である。

https://www.esquire.com/jp/news/history-archaeology/a63145297/lost-city-cahokia/


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第二回Cinema at Sea 沖縄環太平洋国際映画祭クロージング作品はサモア人宣教師の感動作、マオリ出身マイク・ジョナサン監督を特集

2024-12-31 | 先住民族関連

 

映画.COM 2024年12月30日 12:00

2025年2月22日~3月2日に沖縄県・那覇市を中心に開催される第二回Cinema at Sea 沖縄環太平洋国際映画祭のクロージング作品が発表された。

本映画祭は「Cinema at Sea」をコンセプトに、優れた映画の発掘と発信を通じて、各国の文化や民族、個々人の相互理解を深めること、地元ビジネスを支援すること、そして地元の才能あるアーティストの作品を広く発信することを目指し、最終的には、沖縄が環太平洋地域における新たな国際文化交流の拠点となることを目指すもの。

クロージング作品は、クライストチャーチ地震で愛娘を失ったサモア人教師を描いた感動作「ティナー 私たちの歌声」(Tinā)に決定した。2011年、クライストチャーチ地震で娘を亡くしたサモア人教師のマレタは、白人が多く通う私立学校で働くことに。娘を失った悲しみを抱えながら、慣れない環境で奮闘するマレタは、恵まれた環境にあるはずの学生たちが、心からの指導やインスピレーション、愛を求めていることに気がつき、マレタは合唱団を結成し、サモアの文化を取り入れたユニークな指導で、学生たちを一つにし、美しいハーモニーを生み出していく。そして、マレタの生徒たちはニュージーランド最大級の合唱祭「ザ・ビッグ・シング」への参加を決めるも、思わぬ事態に、新しい挑戦を強いられる。

サモア出身の映画監督ミキ・マガシバによる長編劇映画デビュー作となる本作は、ハワイ国際映画祭のオープニング作品として話題を呼び、本映画祭での上映がアジアプレミアとなる。娘を亡くしたマレタが学生たちと音楽を通じて交流することで、教師として、そして母親(原題の「Tinā」はサモア語で“母”を意味する)としての情熱を再発見する姿をサモア人俳優アナペラ・ポラタイバオが好演。「モアナと伝説の海」の作曲家として知られるイゲレセ・エテが作曲した合唱曲が観る者の心を震わせる。

環太平洋地域の島々から注目の監督を取り上げ、当該地域の優秀な映像作家を紹介する「Director in Focus」部門では、マオリ出身の映画監督兼撮影監督であるマイク・ジョナサンにスポットライトを当てる。タウマルヌイで生まれ育ったマイクは、30年以上のキャリアの中で、長編映画、ドキュメンタリー、短編映画、テレビ番組、ウェブシリーズ、ミュージックビデオを含む50以上のプロジェクトに携わってきた。

2006年、マイクはマオリによる物語を伝えることに特化したマオリ主導の制作会社「Haka Boy Films」を設立。この会社は、各カウパパ(トピック/テーマ)が人々にどのような影響を与えるかを探求することを目的としたもので、この情熱は、マイクと彼のチームが手がけるすべてのプロジェクトに独自の視点を吹き込む原動力となっている。Haka Boy Filmsの指揮を執る傍ら、マイクはロトルアのSteambox Film Collectiveのメンバーでもあり、2018年にはロトルア先住民映画祭を立ち上げた。

「マオリの魂:戦いの呼び声」

(C)Locomotive Entertainment

本映画祭で、マイク・ジョナサンのキャリアを象徴する3作品が日本初上映となる。長編映画「マオリの魂:戦いの呼び声」(Ka Whawhai Tonu)をはじめ、マオリの劇団を追ったドキュメンタリー「舞台と部族:マオリのシェイクスピアの旅」(The Road to the Globe)、マオリの伝統を受け継ぐ一家の日常を描いたドキュメンタリー映画「マオリ式英雄教育」(Heroes for Education)というラインナップだ。

また、映画祭の一環として行われる「Okinawa Pan-Pacific Film Industry(沖縄環太平洋映画インダストリー)」では、業界関係者が一堂に会し、新たなパートナーシップを築き、共同プロジェクトを推進する機会を創出することを目的として、国際共同製作を促進するための様々なイベントを開催。環太平洋地域の映画制作者たちがプロジェクトを業界関係者にプレゼンテーションする場を提供する「Cinema at Sea ピッチングフォーラム」のプロジェクト募集を開始した。応募詳細は映画祭公式HP(https://www.cinema-at-sea.com/)で告知している。また、台湾・東海岸では昨年度のコンペティション受賞作品を中心とした巡回映画祭も行われている。

■第二回Cinema at Sea - 沖縄環太平洋国際映画祭 概要

【正式名称】 第二回Cinema at Sea - 沖縄環太平洋国際映画祭

      (2nd Cinema at Sea - Okinawa Pan-Pacific International Film Festival)

【主  催】 特定非営利活動法人Cinema at Sea

【開催期間】 2025年2月22日(土)~3月2日(日)

【開催会場】 那覇市ぶんかテンブス館テンブスホール、桜坂劇場、沖縄県立博物館・美術館等、那覇市内を中心とした会場

【実施内容】 コンペティション作品上映、特集上映、トークイベント、沖縄環太平洋映画インダストリー他

【公式サイト】https://www.cinema-at-sea.com/

▼コメント

「ティナー 私たちの歌声」ミキ・マガシバ監督

私たちの作品が、この素晴らしい映画祭のクロージング作品に選ばれたことを大変光栄に思い、心から感謝しています。

この映画祭は太平洋地域の物語を祝うものです。私たちの映画は、コミュニティと連帯をテーマの一つとしています。

私たちは、他の素晴らしい映画制作者たちと共に、豊かな文化的多様性を一つの太平洋コミュニティとして祝いたいと思っています。

マイク・ジョナサン

9歳の時、母が連れて行ってくれたジェフ・マーフィー監督の「UTU/復讐」(Utu)を観たことで、映画制作への情熱が芽生えました。この体験は私にとって衝撃的で、初めてマオリのキャラクターがスクリーンに登場するのを目にし、物語や私の家族(ワヌア)と深くつながる感覚を覚えました。特に、間もなく私のメンターとなり、大きなインスピレーションを与えてくれる存在となった故メリタ・ミタに出会えたことが印象的でした。

https://eiga.com/news/20241230/6/


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「食べ物をあげるから」と騙して我が子を“生き埋め”に…3村が飢餓で全滅した「秋山郷」の“凄まじい言い伝え”とは

2024-12-31 | アイヌ民族関連

 

ブックバン 12/31(火) 6:00

これまで、さまざまなテーマでノンフィクション作品を発表してきた作家・八木澤高明さん。新刊『忘れられた日本史の現場を歩く』(辰巳出版)では、スペイン風邪のパンデミックで多くの人が亡くなった村、実際に存在した姥捨山、本州にあったアイヌの集落など、八木澤さん自身の足で全国19ヵ所を歩き、日本の“裏面史”を記録している。

【写真】狐憑きや犬神憑きなどの「呪い」を解く「拝み屋」を訪ねたら…『忘れられた日本史の現場を歩く』をもっと見る

同書のなかでも、江戸時代の天明の飢饉(ききん)・天保の飢饉によって集落が3つも全滅したという長野県の「秋山郷」での、飢餓にまつわる言い伝えは凄まじいものがある。この地域を訪ねてわかった、当時の記憶とは――。

(以下、同書より一部引用・再編集しました)

天保の飢饉ですべての村人が飢え死にした「甘酒村」

『忘れられた日本史の現場を歩く』八木澤高明[著](辰巳出版)

息を切らせながら、ひとり尾根道を登っていた。その道は、江戸時代以前から秋山郷と下界とを結ぶ生活の道であった。今では、時おり山歩きを楽しむ人が足を運ぶだけだ。

聞こえてくるのは、私の足音と、ヒグラシのような物悲しい音を響かせているエゾハルゼミの鳴き声だけである。獣が出てこないか、不安になって、発作的に「ウオーッ」と声をあげる。熊やイノシシを避けるには、こちらの存在を知らせるしかない。雄叫びの効果があったのか、50メートルほど先でガサゴソと音がしたかと思ったら、暗灰色(あんかいしょく)をした1メートルほどのイノシシが背を向けて逃げていった。

私が向かっていたのは、かつてあった甘酒村(あまざけむら)という名の村である。名前の由来は、字のとおり、酒を作っていたことからついたそうで、何とも言えぬ生活の匂いが漂ってくる。今では廃村となってしまっているが、廃村となった理由は情緒ある名前とは対照的に極めて悲劇的である。江戸時代には飢饉が頻発したが、三大飢饉のひとつである天保の飢饉ですべての村人が飢え死にしたのだ。

「食べ物を半分あげるから穴の中に入りなさい」といって子どもを生き埋めに…

甘酒村の人々の霊を弔う墓石

尾根を20分ほど登り、平坦な場所に着いたと思ったら甘酒村の跡だった。ぽっかりと森が開け、水田が広がっている。水田を見下ろすように墓石が置かれていた。もともと墓石は周囲の森の中に放置されていたのだが、他の地区の人々が霊を弔うために1ヶ所に集めたという。この地で無念の死を遂げた人々は、初夏の爽やかな風に揺られる稲をどんな思いで見つめているのだろうか。

秋山郷で稲作が行われるようになったのは、明治時代に入ってからのことで、江戸時代には稗や粟といった雑穀や蕎麦が主食であり、森林を切り開く焼畑によって日々の糧を得ていた。私は村の女性からこんな言い伝えを聞いていた。

「ちょうど飢饉の年のことだったそうです。秋山郷には雑穀や栃の実を混ぜて作ったあっぽという郷土食があるんですけど、甘酒村の人が、もう食べ物がないから、あっぽを分けてもらってきなさいと子どもに言ったそうです。その間に穴を掘って、子どもがあっぽをもらってきたら、半分あげるから穴の中に入りなさいと言って、生き埋めにしたそうです」

家族が生き残るために子どもを殺めても、結局甘酒村は全滅してしまった。村のどこかに生き埋めにされた子どもも眠っている。この場所全体が墓地なのだ。

天明の飢饉で全滅した「大秋山村」と「矢櫃村」

8軒の民家があった大秋山村で亡くなった村人を弔う地蔵

秋山郷が世に知られるきっかけとなったのは、江戸時代に遡る。『北越雪譜』の著者として知られている鈴木牧之(すずき・ぼくし)が、1828(文政11)年にこの地を訪ね『秋山記行』を著したことにある。鈴木牧之は、その時甘酒村にも立ち寄った。甘酒村には2軒の民家があって、ひとりの女性と会話を交わしている。女性は牧之に「天明の飢饉では、大秋山村が全滅してしまったが、私の村は何とか大丈夫だった。食べ物にも困っていない」と言った。しかし、それから10年も経たぬうちに、甘酒村の人々はすべて亡くなってしまった。おそらく、牧之と話をした女性も飢饉で亡くなったことだろう。

甘酒村が全滅したのは天保の飢饉であるが、それより50年ほど前の天明の飢饉でも、大秋山村と矢櫃村(やびつむら)の2つの村が全滅している。

大秋山村は、秋山郷でも最初に人々が集落を形成した場所だったことから、大秋山と呼ばれていた。飢饉が発生した当時、8軒の家があったという。私はその場所へと向かってみた。

薄暗い林の中の道を、30分ほど歩いていくと、かつての大秋山村の集落跡に着く。その目印は1ヶ所に集められた墓である。ひとつの墓には一〇月三日という命日が刻まれていた。天明の飢饉の際に亡くなった村人のものだという。旧暦の10月といえば、新暦でいう11月下旬ぐらいのことだ。秋にほとんど食べ物を収穫できず、冬を前にこの人物は息絶えたのだろう。私は名も知らぬ故人の墓標に手を合わせた。

「ここで田んぼを掘ったのは、戦争が終わってからだ」

230年ほど前に建てられた小赤沢地区にある福原家。飢饉に関する資料が展示されている

ここ秋山郷では、飢饉によって3つの村が全滅した。それ以外の地区でも、少なからぬ死者が出たが、かろうじて全滅を免れている。例をあげれば、天明の飢饉では、小赤沢(こあかさわ)地区で、22軒のうち9軒が全滅し、秋山郷全体で173人が亡くなっている。天保の飢饉の際には和山(わやま)という地区で、5戸あった家が男女2人を除いて全滅している。この土地の人々は常に飢饉による飢え死にと隣り合わせの厳しい生活を余儀なくされていたのだった。

大秋山村跡の近くに屋敷という地区がある。そこで91歳になる老婆と出会った。昔の生活はどのようなものだったのか。

「昔は畑まで1時間半も歩かなきゃいけなかったから朝早くから家を出て、それから畑仕事をして、夕方家に帰ってきたら、石臼を挽いたりして、夜中まで働きどおしだったよ。田んぼはなかったからお米は食べられなかった。ここで田んぼを掘ったのは、戦争が終わってからだ。昔に比べたら、いい時代になったな」

江戸時代の飢饉で最後に村人が死に絶えた時代から、200年近くの年月が過ぎた。飢饉という言葉は、歴史の中に埋もれているようにも感じるが、老婆の話を聞きながら、日々食卓に食べ物が並んでいることが当たり前ではないという思いを噛みしめたのだった。

八木澤高明(やぎさわ・たかあき)

1972年、神奈川県横浜市生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランスとして執筆活動に入る。世間が目を向けない人間を対象に国内はもとより世界各地を取材し、『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で第19回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『黄金町マリア』(亜紀書房)『花電車芸人』(角川新書)『日本殺人巡礼』『青線 売春の記憶を刻む旅』(集英社文庫)『裏横浜 グレーな世界とその痕跡』(ちくま新書)『殺め家』(鉄人社)などがある。

協力:辰巳出版 辰巳出版

 Book Bang編集部

 新潮社

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アイヌ資料収集に焦点 「毛利コレクション」特集展で講座 石巻市博物館

2024-12-30 | アイヌ民族関連

河北新報 2024年12月29日 12:00

 石巻市出身の歴史研究家毛利総七郎(1888~1975年)が明治から昭和にかけて収集した「毛利コレクション」に関し、市博物館は21日、収集品のアイヌ民族資料に焦点を当てた講座を同市開成のマルホンまきあーとテラス(市複合文化施設)で開いた。学芸員の泉田邦彦さん(35)が、収集の意義やその関連人物について解説した。

毛利総七郎とアイヌ民族資料収集に関わった人物、その関係性について紹介した講座

 市博物館で開かれている毛利コレクション特集展に合わせて開催。市民ら約30人が聞き入った。

 泉田さんは、毛利コレクションを共同管理していた洋服店店主で収集家の遠藤源七、収集活動の支援をした東京在住のデザイナー杉山寿栄男を紹介。資料収集を巡る3人の手紙をひもとくなどして、収集の背景や経緯を説明した。

 3人は1939年11月、収集旅行のため北海道を訪問。骨董(こっとう)商からアイヌの腰刀やキセルなどを購入した。実際にアイヌと会ってその日常生活にも触れたといい、泉田さんは「コレクションのアイヌ資料は、どのように使われるものか-という視点で集められている」と説明した。

 アイヌ資料はその後、値段が高騰し、骨董商でも仕入れが難しくなったという。杉山は旅行後の手紙で「よく品物が残っていたものだ」と言及した。

 石巻市鹿又の70代主婦は「毛利コレクションは知っていたが、どのような内容なのか今回知ることができて良かった」と話した。

 特集展は来年3月9日まで。午前9時~午後5時、月曜と年末年始(28日~1月4日)は休館。一般300円、高校生200円、小中学生100円。

https://kahoku.news/articles/20241228khn000028.html


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当事者ではない福永壮志監督が、なぜマイノリティーを描くのか 「アイヌプリ」

2024-12-30 | アイヌ民族関連

ひとシネマ12/29(日) 22:20

「アイヌプリ」は、アイヌ文化を日常の一部として暮らす家族らに密着したドキュメンタリー映画だ。福永壮志監督は「生きた文化は映像には残せても、言葉にならない何かを含めたその神髄は、気持ちが向き合わないと伝えられない」との信念を持って作品を作りあげた。

【写真】インタビューに答える「アイヌプリ」の福永壮志監督 =下元優子撮影

生きた文化を楽しむ 現代のアイヌを撮ったドキュメンタリー

北海道白糠町の食肉処理工場で働くシゲさんこと天内重樹は、先祖から続くマレプ漁や踊りといったアイヌの文化や信仰を息子の基輝らに伝えながら、妻と家族4人で生きている。継承するという気負った考えではなく、楽しみながら続けている。アイヌプリとは「アイヌ式」の意味だ。

福永監督はアイヌを主人公とした劇映画「アイヌモシリ」(2020年)の撮影中にシゲさんに出会い、「マレプ漁」を見学。棒の先にカギの付いた「マレプ」という道具を使ったアイヌの伝統的な漁だ。「シゲさんが日常の中で行っている活動、人としての魅力を映像に収めたかった。一家の姿をそのまま残したい」と19年からドキュメンタリーの撮影を始めた。

「マレプ漁一つとっても、いい大人が必死にサケを追いかけて、楽しそう。気持ちのままにしている活動が、結果的に伝統や文化の継承につながっていることに鮮烈な印象を受けた」。シゲさんの魅力を「純粋でひたむき、信念もあり自然体。信仰も深く祈りも欠かさない。自分からは決して語らない」とよどみなく語る。

家族にスポットを当てたのも、自然の流れだった。序盤では、シゲさん一家の食事風景を淡々と見せる。「シゲさんを追っていたら、その風景に中に家族がいた」。親子の姿も「撮っているうちに物語の核になると考え焦点を当てた」。基輝は素直で自然体、人懐っこい。シゲさんとマレプ漁に行くなどアイヌ文化に関心はあるし父親を尊敬していても、引き継ぐという特別な感覚は示さない。両親も、アイヌとしての活動を押し付けることはない。「シゲさん自身が、文化や活動を復活させようとするのではなく、やりたいからやっている」

「アイヌ全体ではない」一家族の物語

撮影クルーはカメラマン、録音技師、運転手、福永監督の4人。日が暮れた後のマレプ漁の撮影などは暗闇の中で、ギリギリまでライトを使わずに撮っている。シゲさんだけでなくクルーも、楽しんでいるような雰囲気が漂う。福永監督が撮影の日々を語る。「どれだけ調べても自分からは絶対に出てこない言葉に出合うなど、フィクションとは違うドキュメンタリーの面白さを何度も感じた」

インタビューの途中、福永監督が強調したことがある。「映画はシゲさんやその周囲の人の話で、アイヌ全体のことでは決してない。こうした人もいるということ。『アイヌモシリ』から10年近くかかわっているが、アイヌについて知らないことはたくさんある」。その上で、こう話す。「アイヌは一つの成熟した文化で、何事にも感謝を忘れないとか、いろいろなものに神様が宿っているといった考えがベースにある。一方で、合理的な面もある」。2本の映画を通じてアイヌの友人や知人を得たからこその言葉だろう。

偏見生む可能性自覚しつつ

自身の立場をネーティブアメリカンと白人の関係になぞらえ「アイヌに対する和人」と位置付ける。「僕がかっこいいとか美しいとか思ったことを過剰に表現することで偏見を生んでしまったり、アイヌの人たちが違和感を持ったりする危険があった」と細心の注意を払った。そのため、編集にかなりの時間を要したという。

例えば、正装を着た踊りのシーンがある。「正装は儀式や神事で踊る時に着るものだが、映画では練習のシーンで着てもらった。かっこよく撮れたものの、撮影のために正装していいのか確認のつもりでシゲさんに見せたら『かっこつけてるシーンだからかっこよく映っていればいい』と言われた」。こうした経験を繰り返しながら慎重に作りあげた。

「非当事者が被写体を選ぶ難しさを感じた。コミュニケーションをとることでしか見えてこないものもあった」。といって、はれ物に触るような姿勢では映画として表現できない。「信頼してもらい、確認する大切さも学んだ」。踊りのシ-ンは残ったが、正装を身に着けたポートレートのショットはすべて外したという。

見えにくい事象に焦点を当てたい

福永監督はアメリカを拠点に16年間暮らした。その中で最も学んだのは、視点と題材の選び方だという。「なぜ、今、これなのか、明確な答えを持って作る。今までの作品には自分なりの理由があった」と話す。アイヌが題材の映画を2本作ったことについては「北海道の出身なのにアイヌをどれほど知らなかったかに気づき、きちんと知ろうと考えたから」と背景を述べた。アイヌを題材にした映画が近年増えていることについても聞いた。「僕の立場で言えることに意味があるかは分からない」とした上で、「認知度が高まるのはいいことだが、どれほどの繊細さで製作しているかは時に疑問だ」と語る。

長編デビュー作「リベリアの白い血」(15年)以来、マイノリティーを取り上げる作品が多い。「アメリカでアジア人として差別や偏見を経験したことは大きいし、現実への憤りや不条理を感じていることもある。今後も声が届きにくい人、見えにくい事象を映画という形で描いていきたい」と話した。

映画記者 鈴木隆

https://news.yahoo.co.jp/articles/014d4e454d0d079a873fa2a1a0d592b8888f5940


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感謝祭: 米国建国神話の起源

2024-12-30 | 先住民族関連

entrevue.fr 11月28 2024

今週の木曜日、28 年 2024 月 400 日、アメリカ人は米国の歴史に根ざした象徴的な祝日である感謝祭を祝います。毎年 XNUMX 月の第 XNUMX 木曜日、この感謝の日には、家族や友人が伝統的なごちそうを囲んで集まります。では、XNUMX年以上続くこのお祝いの起源は何なのでしょうか?

建国の物語: ピルグリム・ファーザーズの神話

1620 年 102 月、メイフラワー号は 30 人の乗客と XNUMX 人の乗組員を乗せてイギリスのプリマスを出港しました。その中には、「新世界」の自由と繁栄を求める反体制宗教者や冒険家もいた。 XNUMXか月以上の旅の後、彼らはXNUMX月に現在のマサチューセッツ州近くのプリマス・ロックと名付けた場所に到着した。

最初の冬はひどいもので、壊血病、飢餓、極寒により入植者の半数近くが死亡した。地元のアメリカ先住民部族であるワンパノアグ族の援助のおかげで、彼らの運命が好転したのは 1621 年の春になってからでした。後者は彼らに狩猟、釣り、トウモロコシ栽培、地元の植物の使用の技術を教えます。

1621 年の秋、入植者たちの豊作により XNUMX 日間にわたる祝宴が開催されました。彼らは感謝のしるしとして、ネイティブアメリカンの隣人をそこに招待します。野生の七面鳥と地元の産物を特徴とするこの分かち合いの瞬間は、アメリカの感謝祭の起源と考えられています。

地元の伝統から国民の祝日まで

感謝の習慣はアメリカ植民地で徐々に広まっていきました。南北戦争のさなかの 1863 年、エイブラハム リンカーン大統領は、分断された国家を統一することを目的として、感謝祭を国家的な感謝の日として宣言しました。しかし、フランクリン・デラノ・ルーズベルト政権下の 1941 年になって、感謝祭が XNUMX 月の第 XNUMX 木曜日に設定され、連邦祝日として宣言されました。

今日、感謝祭は家族の祝日であると同時に、アメリカ人のアイデンティティを祝う日でもあります。七面鳥のぬいぐるみ、マッシュポテト、パンプキンパイ、クランベリーを組み合わせた伝統的な食事は、ピルグリムファーザーの収穫を反映しています。この日は、アメリカン フットボールの試合や、毎年何百万人もの観客が集まるニューヨークの有名なメイシーズ パレードなど、現代の伝統によっても特徴づけられます。

ただし、この休日には論争がないわけではありません。多くのネイティブ アメリカンにとって、感謝祭は植民地化、戦争、そして人々に与えられた苦しみの始まりを象徴しています。この日を祖先を追悼する儀式で祝い、国民の物語の中で自分たちの歴史が抹消されることを非難する人もいる。

感謝祭とブラック フライデー: 切っても切り離せない組み合わせ

同時に、感謝祭でホリデーシーズンが始まります。翌日、ブラック フライデーは家族の高揚感を商業的な熱狂に変えます。世界的な現象となったこの大規模なセールの日は、本来の単純な祝祭とは驚くべきコントラストを体現しています。

建国神話と現代の伝統の間で、感謝祭は依然としてアメリカの奥深い日です。それは、米国の歴史を貫く緊張と逆説を思い出しながら、立ち直る力と同じくらい感謝の気持ちを称えます。過去と現在が良くも悪くも絡み合う祝賀会。

https://entrevue.fr/wp-content/plugins/gtranslate/url_addon/gtranslate.php?glang=ja&gurl=thanksgiving-les-origines-dun-mythe-fondateur-des-etats-unis/


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南米発の「Q―POP」、先住民のケチュア語で歌う 「境界から」㉞ペルー、世代超えてルーツ発見

2024-12-30 | 先住民族関連

2024年12月29日 11時00分共同通信

 ペルーの古都クスコの劇場で行われたコンサートで踊るレーニン(右)。ダンサーのジュリッサはケチュア語を通じて母と新たなつながりを見いだした=2024年5月(撮影・ウィリアム・ブストス、共同)

 「自由の歌を歌いながらみんなが集まる。恐れるものなどない。消し去ろうとしたって無理さ」―。ほっそりとした黒髪の青年がマイクを手に熱唱しながら、2人のダンサーとステップを踏む。ポーズを決めると、コンサートに集まった若者たちが歓声を上げる。
 南米ペルーの古都クスコの劇場。歌手のレーニン・タマヨ(24)は、アンデス地方の手織り布をあしらった衣装をまとう。K―POP風のダンスミュージックに乗せ、スペイン語にアンデス先住民の「ケチュア語」を交えて歌う。

 歌詞に込めるのは自然や愛、自由の大切さといったメッセージ。「これはQ―POP(ケチュア・ポップ)。世界のみんなをつなぐ音楽だ」

 ▽残る格差

 ケチュア語は南米のアンデス山脈を中心とした先住民の言語の総称。クスコを首都としたインカ帝国の公用語だったが、今も国境を越えて数百万人が話すとされる。

 16世紀にインカを滅ぼしたスペインによる植民地支配で、先住民は迫害を受けた。スペイン語が支配者層の言語となり、ケチュア語は社会の周縁部に追いやられた。

 今もペルーでは首都リマなど「コスタ」と呼ばれる海岸地域と、「シエラ」と呼ばれる山岳地域の経済格差が大きい。国内政治を巡る混乱にもそうした対立が色濃く反映されている。

 「僕たちの親の世代にはケチュア語で育ちながら、都会に出て現代的な生活になじみ、スペイン語だけを話すようになった人たちが多い」とレーニン。「貧困や地方といった差別的なイメージと結び付いているため、ケチュア語を話すのをやめてしまった人がいる」

 そんなレーニンはケチュア語とアンデス音楽に囲まれて育った。母のヨランダ・ピナレスは著名な歌手。クスコに生まれたヨランダは10代半ばでレーニンを産み、女手一つで育てながら毎夜ステージに立った。

 母に歌いかけられながら育ったレーニンは、呼吸するようにケチュア語を身につけた。

 ▽音楽が救い

 リマ近郊に引っ越して小学校に通っていた頃、レーニンはいじめに遭った。おとなしい性格できゃしゃな体つきのせいか、方言交じりの話し方のせいかは分からない。いじめは次第に言葉から暴力にエスカレートした。居場所がなくなった。

 泣きながら過ごしていた時に、3人組の女の子が音楽に合わせて踊っているのを見た。はやりのK―POPだった。思い切って声をかけると仲間に入れてくれた。歌とダンスに救われた。新たな居場所ができた。

 大学に進んで心理学を勉強していた時、学内の歌唱コンテストで優勝した。自信を付けて、ケチュア語で歌い踊る動画を交流サイト(SNS)に投稿した。多数再生されて人気者になった。

 卒業後に活動を本格化し、2023年に初のアルバム「AMARU」をリリースした。コンサートやテレビ番組への出演に加え、支援団体と共に子どものいじめ防止活動にも取り組む。

 普段はシャイだがステージでは堂々としたしぐさ。ケチュア語について話す口調も熱を帯びる。「単なる言葉ではない。自分たちの民族や伝統、文化を深く知るための入り口だ」

 「Q―POPは世代をつなぐ〝橋〟でもある。若い人だけでなく、親の世代にも自分のルーツを再発見してほしい」とレーニンは語る。

 ▽母に驚き
 クスコのコンサートに参加したダンサーで振付師のジュリッサ・チョク(28)も、そんな経験をした一人だ。

 子どもの頃から好きだったダンスを続けながら法律事務所に勤めていたが、新型コロナで事務所が閉鎖された。ダンス教室の生徒の紹介でレーニンの振り付けをすることになった。ある日、家でレーニンの曲を聴いていると、母親が「ケチュア語じゃない?」と聞いてきた。

 「すごく驚いた。それまで母がケチュア語を話すのを聞いたことがなかった」。両親は場所は異なるものの、ともに山岳地域の出身。母はレーニンの歌詞をスペイン語に翻訳しながら、同じケチュア語でもさまざまな方言があることを楽しそうに話してくれた。

 「母は都会に出てきてケチュア語をからかわれ、恥ずかしくなって話すのをやめてしまったらしい」とジュリッサ。「でも故郷に対する思いは消えることがなかった。レーニンの歌をきっかけに母は自分のルーツを思い出したの。今では私にケチュア語を教えてくれる」と笑顔を見せる。

 レーニンの次の舞台はアジアだ。自分の居場所を与えてくれたK―POPを生んだ韓国や日本などでの公演を目指す。

 「アジアと南米には西欧とは大きく異なる文化がある」とレーニン。「自分たちの伝統を劣ったものとして捨て去ったり、忘れたりしていないか。今こそ失われた誇りを取り戻そう」

【取材メモ/抵抗する魂】

 ペルー・クスコ
 レーニンの代表曲の一つが「KUTIMUNI(クティムニ)」だ。ケチュア語で「私は戻ってきた」の意味。スペインの植民者に殺されたインカ帝国最後の皇帝トゥパック・アマルをたたえる。「植民地支配に抵抗し続けた彼の魂が死んでいないことを、音楽を通じて伝えたかった」とレーニン。現代社会はグローバル化の波によって世界のどこに行っても画一的になりつつある。「一つ一つの文化がそうした波にあらがい、変化しながらも伝統とのつながりを忘れないことが大切だ」と語る。

(敬称略、文と写真は共同通信編集委員・吉村敬介、写真は共同通信契約カメラマン・ウィリアム・ブストス=年齢や肩書は2024年8月28日に新聞用に出稿した当時のものです)

https://www.47news.jp/11469950.html


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動画:カナダの海洋保護計画、世界のモデルを目指す

2024-12-30 | 先住民族関連

AFPBBNews 024.12.29十勝毎日新聞

勝毎元旦号 「見る・聞く・つながる」 十勝の“万博”読んで【帯広】2024年12月29日 15:08 発信地:ポートハーディ/カナダ [ カナダ 北米 ]

【12月29日 AFP】上空から見ると、カナダの最新の海洋保護区(MPA)は、太平洋の青い海に緑の森が浮かぶ一見シンプルなものだ。

しかし、バンクーバー島沖のグレートベア海と呼ばれる海域の水面下には、非常に豊かな生物多様性が広がっており、「北のガラパゴス」とも称されている。このエリアは、他の場所で海洋生物を保護するためのモデルとしても役立つかもしれない。

連邦政府は7月、ギリシャとほぼ同じ面積のエリアを海洋保護区に指定するという、前例のない措置を講じた。これまでの保護区はずっと小規模だった。

数年にわたる協議の結果取られたこの措置は、海洋生物を多岐にわたる有害な活動から保護し、再生と繁栄を促す包括的保護モデルの先行事例となることを目的としている。

重要なのは、協議に新しい協力の形があったことだ。

政府に加えて、漁業業界の代表者や地域の資源に依存する先住民コミュニティーも協力し、さまざまな利害関係を調整する保護スキームを作り上げた。

2022年にカナダ・モントリオールで開催された国連生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)では、2030年までに海の30%を保護する合意がなされたが、保護区の規模についての明確な定義はなかった。カナダのモデルはこの不確かさを解消することを目指している。

映像は9月撮影。(c)AFP/Marion THIBAUT

https://www.afpbb.com/articles/-/3556241


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