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世界文化遺産登録から半年 縄文遺跡、発信着々 デジタル活用、ガイド育成

2022-01-31 | アイヌ民族関連
北海道新聞01/31 05:00
道内6遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」が昨年7月27日に世界文化遺産に登録されてから半年が過ぎた。新型コロナウイルス流行により関連施設が一時閉鎖となる影響もあったが、登録効果で来訪者が例年の倍以上に増えた地域もある。新たな展示施設をつくる動きもあり、関係者はコロナ収束後を見据え、遺跡の価値を国内外に発信する取り組みを続ける。
 今月27日、函館市南茅部地区の市縄文文化交流センターには、市立大船小学校の全児童16人の姿があった。子どもたちは石皿や土器、道内唯一の国宝「中空土偶」に興味津々。坪谷正樹教頭は「世界遺産のある地元に愛着や誇りを持つきっかけにつながれば」と話した。
 縄文遺跡群は4道県の17遺跡で構成され、道内には函館、千歳、伊達の3市と胆振管内洞爺湖町に計6遺跡がある。世界文化遺産登録前後から、各地には修学旅行生や家族連れなどが続々と訪れるようになった。
 垣ノ島遺跡と大船遺跡がある函館市によると、両遺跡と市縄文文化交流センターの来訪者は例年3万人ほどだが、昨年4~12月は9カ月間で約7万7千人と倍以上に増加。伊達市の北黄金貝塚には、昨年4~11月で2020年度の倍近い約1万4千人が訪れた。洞爺湖町の入江・高砂貝塚、千歳市のキウス周堤墓群も同様の傾向という。
 遺跡の魅力を発信する活動は、コロナの流行に翻弄(ほんろう)もされた。道内は昨年以降も、まん延防止等重点措置や緊急事態宣言が出され、キウス周堤墓群はそのたびに案内所を閉鎖し、ガイド活動を中止。函館市が海外客向けに20年につくった通訳ガイドの人材バンクはコロナ禍で活動を開始できず、28人の登録者は研修を受けながら活躍の機会を待っている。伊達市も今月予定していた縄文関連のシンポジウムの開催を中止した。
 各地域は手をこまぬいているだけではない。函館市は今夏、垣ノ島遺跡でVR(仮想現実)やAR(拡張現実)といったデジタル技術を使った解説を始める。3千万円をかけ、遺跡でスマートフォンをかざすと、縄文人の暮らしをコンピューターグラフィックスで再現することを想定している。伊達市は遺跡周辺に駐車場を増設する工事費を新年度予算案に計上する方針。千歳市は出土品や模型、説明パネルを展示する案内施設の新設を検討している。
 道もガイド向け教材を本年度中に作り、地元市町に配布予定。道縄文世界遺産推進室の阿部千春特別研究員は「コロナ禍を準備期間と捉え、専門的なガイドを育成したい」と語る。
 札幌国際大の越田賢一郎教授(考古学)は「一過性のブームとしないためにも、アイヌ民族、開拓など他の歴史や北海道の自然と合わせた情報発信が大事だ」と指摘した。(磯田直希、今井彩乃、伊藤友佳子)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/639609

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星野リゾート「界」 白老・ウポポイ隣に開業  アイヌ文化と自然に浸る宿

2022-01-31 | アイヌ民族関連
北海道新聞01/31 05:00
<ラウンジ>ポロト湖や樽前山を眺めることができるラウンジ。アイヌ民族の生活の中心にあったいろりの火を囲みながら、くつろぐことができる。アイヌ民族の魔よけとされる野草イケマやカレンデュラなどの道内産ハーブを使ってオリジナルのお守りを作る体験プログラム「イケマと花香の魔よけづくり」を行う。所要時間は約30分で、毎日5回実施。宿泊者は当日に申し込み、無料体験できる
 【白老】星野リゾート(長野県軽井沢町)が全国に展開する温泉旅館ブランド「界」の19施設目となる「星野リゾート 界 ポロト」がアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」隣接地に開業した。アイヌ文化や白老の自然に触れることができる旅館で、遠藤美里総支配人(27)は「白老ならではの魅力を伝えていきたい」と話す。
 14日に開業し、道内で「界」は初進出。鉄筋コンクリート4階建て、延べ4951平方メートル、全42室。「ポロト湖の懐にひたる、とんがり湯小屋の宿」をコンセプトとする。アイヌ民族の伝統的な家屋「チセ」をモチーフにデザインした全客室からは、ポロト湖を見渡すことができる。
 温泉は茶褐色のモール温泉。温泉施設の湯小屋にはアイヌ民族の建築様式「三脚構造(ケトゥンニ)」を取り入れた。宿泊者向けのプログラムも充実。白老の歴史やお勧めの入浴法を説明する「温泉いろは」のほか、毎朝7時から15分間の「タンチョウヅルのはばたき体操」などを用意している。
 宿泊料は1泊2食付き2人1室利用で1人2万8千円から。予約、詳細は界(電)0570・073・011または公式ホームページへ。(文・小林彩乃、写真・打田達也)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/639545

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知床ナチュラリスト協会創業者の藤崎達也氏が語るガイドツアーとまちづくり

2022-01-31 | アイヌ民族関連
トラベルジャーナル2022.01.31 00:00
民泊観光協会はウィズコロナ・ポストコロナ時代を見据えた民泊のあり方を考えるオンラインセミナー「持続可能なまちづくり―民泊にできること」を開催している。11月16日には「ガイドツアーとまちづくり」をテーマに、知床ナチュラリスト協会創業者の藤崎達也氏が講演した。
 私は2013年に稚内北星学園大学で教鞭を執るようになる前は、17年間にわたって知床を拠点とするガイドとして観光の現場に立ってきました。1998年には知床ナチュラリスト協会を立ち上げ、15年間代表者を務めました。この間、2003年には岩手県田野畑村で体験プログラムを提供する番屋エコツーリズムの立ち上げにも参加し、大学に入ってからは学生たちと共にまち歩きツアーもつくりました。一貫しているのは人口減少下における地方での持続可能な観光サービスの提供です。
 実は私自身、まちづくりそのものへの関心はさほどありません。これまでの仕事を通じて結果としてまちづくりには人一倍関わってきたと自負はしていますが、まちづくりという言葉には常に違和感を覚えます。一体どういう意味でのまちづくりなのかが曖昧な点が違和感につながっています。
 まちづくりの意味するところは主に4つあると思います。1つ目が中心市街地活性化事業で、いわゆるシャッター通りの再生です。2つ目が観光振興のための観光まちづくりで、ここ10年ほど非常に多くみられます。3つ目は自立した個によって自立した地域を目指す活動で、4つ目がその他です。圧倒的に多いのが1つ目と2つ目で、行政による公共事業としての意味合いが強い取り組みです。3つ目はまれなケース。しかし、まちづくりを進めるには、それにかかわる個々が自立していなければ持続的な取り組みになり得ません。
 まちづくりとガイドとの関係も自立が重要になります。ガイドはまちづくりにおいて地域の魅力を知る存在として重要ですが、ガイドする者は自立していなければなりません。そうでなければ、まちづくりも持続可能な取り組みにならないからです。体験プログラムをつくるにしても、プログラムをつくってからガイドを探すケースが多いですが順序が逆です。まずは個々のガイドが地域において自立して存在していなければなりません。
 民泊の方々はすでに自立しているので、貴重なガイド人材だと考えられます。私は民泊事業者の方々と知り合い良い意味で衝撃を受けました。自分のリスクで事業を始めており、必要とあらば自分たちでガイドを始めている方もたくさんいます。それを知って大きな希望を感じました。
逆まちづくりという発想
 私は知床で流氷ウォークを始めたのですが、当時、地元では流氷を歩くなど考えられないことでした。子供の頃から「絶対に流氷に乗ってはならない」と教育を受け、たたき込まれてきたからです。しかし旅行者からすれば乗ってみたいと思うわけです。ならばドライスーツを着て安全性を確保してやってみようと始めたのが流氷ウォークの体験プログラムでした。海上保安庁や消防など関係機関からも思いとどまるよう指導を受けました。
 しかし、求められなくても参加者リストを毎日駐在所にファクス送信し、流氷ダイビングの業者と連携して訓練も行うなど安全確保に万全を期しました。最初のうちは地元の人が「流氷に人が流されている」と警察に通報して、パトカーが出動するハプニングもありましたが、結果的には大人気となり、現在は4社が催行。地域経済活性化にも役立つ成功事例と認識されるようになりました。
 この経験を通じて「逆まちづくり」の重要性を学びました。つまり、やってはいけないことをやるまちづくりです。行政主導の正統的なまちづくりでは恐らく「できません」の一言で終わったでしょう。しかし流氷ウォークはやってはいけないことをやり、結果的に人気プログラムになり地域に貢献できた。だから、逆まちづくりなのです。
 知床のグリーンシーズンの山歩きも新しい発想で可能性を広げました。知床の観光に最適なシーズンはヒグマが最も人里に近づく時期と重なります。だからヒグマが多く出没する季節には景勝地の遊歩道が立ち入り禁止になることが度々ありました。ひとたびヒグマの目撃情報があれば、行政が遊歩道を2カ月間立ち入り禁止にしてしまうこともありました。しかし最適なシーズンの知床の魅力を多くの人々に見てもらいたいし、旅行者だって素晴らしい景観もヒグマも見てみたいはずです。そこで環境省と一緒にヒグマがいても遊歩道を歩ける登録引率者制度を作りました。
 当時、ヒグマの専門家といえば知床財団所属の職員か環境省のレンジャーでしたが、民間ガイドも仕事を通じてヒグマに関する多くの情報を蓄積していました。当時約10事業者がツアーを行い、50人ものガイドが日々仕事を通じて積み重ねた膨大なケーススタディーを持っていました。そこで行政、知床財団と民間ガイドが一緒になって安全管理に関するテーブルを設け、ヒグマと観光の両立を図るための話し合いを続けました。その結果、それまではヒグマが出れば即立ち入り禁止だった常識を覆し、登録引率者制度によってヒグマがいても観光できる枠組みをつくることができました。これも常識では「やってはいけない」とされてきたことを可能にした逆まちづくりの事例です。
 先住民であるアイヌの方々がアイヌ遺跡などを案内する先住民族エコツアーもつくりました。以前はアイヌ民族の方がガイドを務めるツアーはありそうでないのが現実でした。当時はアイヌ民族を先住民族と認めることに反発する声が一部にあるような時代でしたし、アイヌ民族の方も観光には冷淡でした。観光を見世物と捉え反発する人も多くいたからです。また、知床にはアイヌ民族が強制移住によって土地を追われた歴史があり、アイヌ民族として生活している人が極めて少ない場所でした。そのような知床でアイヌに関するツアーをすべきではないという声もありました。さらに他の土地のアイヌが知床のアイヌ文化を語るなどあり得ないという意見も出ました。
 しかし地元のウタリ協会(現アイヌ協会)や研究者らと共に「知床先住民族エコツーリズム研究会」を立ち上げて、ツアーをやりながら知見を自分たちで積み重ねていく方法を取りました。こうした取り組みを通じて知床におけるアイヌ民族の存在に関する認知度が上がったこともあって、知床の世界遺産化を図る際にはアイヌ民族の関与を管理計画に盛り込むことができました。また先住民エコツアーに関わったアイヌのガイドの方々が、現在、国立施設であるウポポイで数多く働き、アイヌ文化の継承や紹介にあたっています。この先住民族エコツアーも逆まちづくりの事例の1つでした。
魅力的な体験プログラムが続々
 知床ナチュラリスト協会からは多くのガイド事業者が独立していきました。知床に関しては知床のガイド屋pikki、知床サイクリングサポート、知床アイヌエコツアー、知床らうすリンクルなど。稚内ではまち歩きガイドや稚内着物でまち歩き実行委員会などです。日本人は「稚内で着物?」と思うでしょうが、訪日外国人は日本ならどこでも着物を着られると考えています。どこで着ようかと考えているうちに北の果てまで来てしまう旅行者も多い。そこで、稚内で着物を着てまち歩きするツアーをつくったら人気が出たというケースです。さらに十勝の、いただきますカンパニーという会社でのガイド育成等々、さまざまな取り組みに関与していますが、現在は道外でも公共事業のお手伝いをしています。
 これらは基本的には全部、ガイド屋を立ち上げ、ガイドを供給する仕組みを用意している点で、恐らく行政だけで行うまちづくりとは異なると思います。さまざまな地域でお手伝いをさせていただいた取り組みの中から、「これから来るぞ」と思えるツアーを紹介します。
 まず豊頃町のジュエリーアイス。これは十勝川を流れ下った氷が一旦海に出て、波にもまれて丸く削られ海岸に打ち上げられる。その氷をジュエリーアイスとして手に取って楽しむというツアーです。サムライプロデュースというガイド事業者が行っていますが、ジュエリーアイスを見るだけでなく、美しい雪景色の中に即席のカフェを設けてコーヒーを楽しみ、皆でカップを洗いその水を空へ放り投げると瞬間的に凍って氷になる様を楽しむ仕掛けも用意しています。
 糠平温泉のバブルアイスも注目です。東大雪ガイドセンターがツアーを行っています。氷が水中の下へ下へと凍っていく際に閉じ込められた泡を立体的に観察できる内容で、スノーシューでトレッキングして目的地に到着するのですが、途中、使われなくなった鉄道遺構の見学などを楽しみながら目的地を目指します。
 別海町の氷平線ウォークも人気が高まっています。野付半島ネイチャーセンターのツアーです。
 私はこれらの事業にかかわる際には、行政事業でもガイドプログラムをきちんとビジネス化することを意識しました。安全管理も必須です。たとえばジュエリーアイスのツアーは場所が海辺なので必ずライフベストを装着します。こうした安全管理の徹底もプログラムづくりに欠かせません。
 このほか、北海道以外でも岩手県の田野畑村で番屋エコツーリズムを立ち上げました。そこでは体験村たのはたネットワークというガイド事業者が生まれました。彼らが「机浜番屋群」という番屋が集まっている浜を舞台に体験プログラムを実施しています。もともと、机浜番屋群の保存会があり、この活動に参加していた方々の思いをくんでガイドプログラムに仕上げました。保存会が体験村たのはたネットワークの前身となったわけです。そのおかげでストーリーもつくりやすくプログラムの内容も骨太なものになりました。
 ところが11年3月の東日本大震災で番屋群は津波で流されてしまいました。しかし7月にはすでに視察を受け入れ津波体験を説明していました。これは地域の方々が自主的に始めたものです。村に観光ガイドがいたことで、このような対応ができました。観光は何かがなくては始まらないと考えがちですが、田野畑村では文字通りなにもなくなってしまった場所を案内しました。何もないからこそ旅行者が来ました。番屋も観光の力で復旧されました。田野畑村は復興プログラムのメインに観光をいち早く取り入れ、復興への道を歩みました。田野畑村での取り組みを通じ、観光の力の大きさをあらためて感じることができました。
ふじさき・たつや●北海道知床や岩手県田野畑村などで数々のエコツアーをプロデュースする。特に流氷ウォークやサッパ船アドベンチャーズは地域の象徴的メニューに。アドベンチャーバケーションネットワーク監事、札幌国際大学観光学部准教授。著書に「観光ガイド事業入門 立ち上げ、経営から『まちづくり』まで」(学芸出版社)。
https://www.tjnet.co.jp/2022/01/31/%E7%9F%A5%E5%BA%8A%E3%83%8A%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E5%8D%94%E4%BC%9A%E5%89%B5%E6%A5%AD%E8%80%85%E3%81%AE%E8%97%A4%E5%B4%8E%E9%81%94%E4%B9%9F%E6%B0%8F%E3%81%8C%E8%AA%9E/

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カウンターカルチャーとしての「民藝」。柳宗悦の「抵抗」と美に対する想いとは?

2022-01-31 | アイヌ民族関連
tenki.jp2022/01/30 20:30
「民藝」と聞くと、何をイメージするでしょうか。「用の美」「無名の職人」「郷土色豊かな工芸品」。
実際には、100年の時を経て今なお私たちを触発し続けるスタイルであり、生活を彩るデザインであり、品々なのです。民藝という言葉を生み出し、新しい美の概念を考案した柳宗悦。その背景には、「押し付けられた美」に対する「怒り」がありました。
『白樺』「ロダン」「李朝の壺」。民藝の誕生
「民藝(民衆的工芸)」を牽引した柳宗悦(やなぎ むねよし、1889〜1961年)は、1910年に志賀直哉らと文芸雑誌『白樺』を立ち上げ、最年少同人として編集や執筆を担っていました。『白樺』では、ロダンやゴッホ、セザンヌといった、当時最先端の西洋美術などを日本に紹介しています。1910年11月のロダン特集号を発行する際には、柳らがロダン本人に手紙を書き、雑誌を添えて送りました。さらに、そののちに浮世絵30枚を送ります。その結果、若者の熱意に喜んだロダンから、浮世絵の返礼として3体のブロンズ像が『白樺』に届いたのです。
1914年、ロダンのブロンズ像を見るために、彫刻家を志す浅川伯教(のりたか)が千葉県・我孫子の柳邸を訪れました。現在の韓国・ソウルに住んでいた浅川は、小さな朝鮮の壺(李朝染付草花文瓢型瓶)を土産として持参します。柳は簡素な磁器に湛えられた美しさに引き込まれ、この出会いをきっかけに特に焼きものなどの工藝品に傾倒していきます。小さな壺の美に民族の固有性と独立性を認めた柳は、李朝の陶磁器の蒐集をはじめとして、沖縄やアイヌ、イギリスのウィンザーチェアや実用的な陶器・スリップウェアなどにも民衆の美を発見していくことになるのです。
「民藝」という言葉が生まれたのは今から約100年前、1925年の真冬から翌年の正月にかけてのこと。柳宗悦が、陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎と共に、旅先の和歌山で考えたといわれています。濱田は、1920年に柳の友人だった陶芸家バーナード・リーチとともにイギリスに渡り、帰国後に沖縄などでの滞在を経て、益子で本格的に陶芸をはじめました。河井は、京都市陶磁器試験場勤務時代の濱田の先輩にあたり、1924年に帰国した濱田によってイギリスのスリップウェアを知ります。さらに、濱田を通じて柳を知り、その考えに深く共感した陶器作りを行っていくようになりました。
美のルールを変えよう!民藝は「抵抗」する
19世紀後半、ウィーン万博に大日本帝国として参加することを契機に「美術」という訳語が生まれます。その時代の美術という言葉は、外貨獲得が目的の輸出品として「見て美しいか否か」という判断基準を意味していました。その流れは、柳が『白樺』で活動していた当時も続いており、日本の美術界は海外で「美の基準」を学んだ指導者が多くを占めていました。ロダンやセザンヌといった西洋のアカデミズムから距離のある芸術家たちを積極的に紹介してきた彼にとって、そのような権威主義は美の本質から程遠いものだったのではないでしょうか。
大正から昭和にかけての近代化に伴い、社会が一元化して地域固有の美が失われつつある時代。「民藝」には、帝国に対する「民衆」、美術に対する「工藝」という意味が込められていました。柳が意図する「民衆」とは、「庶民・大衆」を指す言葉ではありません。地域の風土に従い合理的に生活・仕事をする人々、「友人」であり「民族」といえます。
柳たちが始めた「民藝運動」は、権威が決めた美の均一化に抗い、「美術」が作ってきた「美」のルールを変え、新たなルールを作り、「美」の評価基準を決める力を「官」から「民」へ取り戻そうとするもの。民藝は「美術が作ったルールを変える存在」なのです。ここに、カウンターカルチャー(抵抗文化)としての民藝の姿が浮かび上がってきます。
現在に受け継がれる、3つのメディア展開
『月刊民藝』創刊号(1939年4月)に描かれた「民藝樹」と呼ばれる図には、民藝運動が掲げた三本柱「美術館」「出版」「流通」が記されています。「美術館」の役割は日本民藝館が担い、全国の民藝品の蒐集と展示を行っています。「出版」は、日本民藝協会が雑誌『工藝』や『月刊民藝』などの機関誌や書籍を発行していました。「流通」を担ったのは鳥取を拠点に吉田璋也が開いた「たくみ工藝店」。現在も民藝の心を受け継ぐ新作民藝の品々を取扱っています。
暮らしを豊かにするデザインや伝統的な手仕事は、ますます魅力を増して、私たちの生活に根ざしています。民藝が目指した「新しい美の基準」は、100年の時を経て受け継がれていることに気付かされますね。
柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」では、総点数450点を超える作品・資料を通して民藝100年の歴史を振り返ります。開催は2022年2月13日(日)まで。ぜひ、柳宗悦が見出した「美」の軌跡を体験してみてはいかがでしょうか。
参考文献
高木崇雄『わかりやすい民藝』D&DEPARTMENT PROJECT
参考サイト
柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」
東京国立近代美術館『柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」』展 2022年2月13日(日)まで開催中
https://news.goo.ne.jp/article/tenkijp/trend/tenkijp-30904.html

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世界1位バーティが母国のグランドスラム大会を制した1978年以来のオーストラリア人女子プレーヤーに「私にとって夢の実現」 [全豪オープンテニス]

2022-01-31 | 先住民族関連
テニスマガジンONLINE1/30(日) 18:00配信
今年最初のグランドスラム大会「オーストラリアン・オープン」(オーストラリア・ビクトリア州メルボルン/本戦1月27~30日/ハードコート)の女子シングルス決勝で第1シードのアシュリー・バーティ(オーストラリア)が第27シードのダニエル・コリンズ(アメリカ)を6-3 7-6(2)で倒して同大会での初優勝を遂げるとともに、母国のグランドスラム大会を制した1978年以来のオーストラリア人女子プレーヤーとなった。 1978年に大会がまだクーヨンで開催されていたときに栄冠に輝いたクリス・オニール(オーストラリア)も、観客席からこの歴史的出来事を見守っていた。自身もアボリジニーと呼ばれるオーストラリアの先住民族の血を引くことからバーティはアボリジニー初の女子トップアスリートだった母国のレジェンドであるイボンヌ・グーラゴング(オーストラリア)に憧れて育ったが、そのグーラゴングは表彰式でバーティに優勝杯を渡す役を務めた。
 そして観客席ではオーストラリア名物『ベジマイト』(イースト菌と塩で作られたビタミン豊富な珍味なペーストで、パンなどにつけて食べる)のロゴにバーティの名前を入れたTシャツ姿のファンたちが、大喜びで声援を送っていた。正にオーストラリア一色の日だった。
「これは私にとって夢の実現よ。私はオージー(オーストラリア人)であることを誇りに思うわ」とバーティは語った。
 バーティはクリケット選手であることを辞めてテニスに戻ってきて以来ずっと苦楽をともにしてきたコーチングチームにお礼を言い、「私の第二のキャリアの開始時点から、私たちはすべてを皆で一緒にやってきた。誰一人変わっていない。信じられないような日々だった」と話した。
 2011年ウインブルドンでジュニアの部を制したバーティは2014年USオープンのあとツアー生活に嫌気が差し、しばらくテニスから離れることを宣言した。それから約2年間ツアーから離れた彼女はクリケット選手として活動したが、2016年にふたたびプロテニスの世界に戻ってきた。
「あなたたちを死ぬほど愛しているわ。あなたたちは本当に最高のプロよ。私のためにつぎ込んでくれた愛と時間を考えると、いくらお礼をしても足りないほどよ」
 この日のバーティは多彩なショットを織り交てコリンズのスピーディーなリズムを崩してスムーズに第1セットを取ったが、第2セットになると様相が変わった。第1セットを先取して地元優勝に大きく近づいたことで急に緊張感やプレッシャーを感じ始めたのかバーティにそこまでなかったようなミスまでが出始め、同時にコリンズがミスを減らしてプレーレベルを上げていったのだ。
 最初のブレークを許したバーティはそのままじりじりと引き離されてコリンズがポイントをコントロールして5-1までリードまでリードを広げたが、そこからまた流れが変わった。
 目覚めたように落ち着きと本来のショットを取り戻したバーティは効果的なサービスを叩き込みながら挽回して5-5に追いつき、そのあと互いにキープし合ってタイブレークに突入した。コリンズのミスも増えていく中で逆クロスのフォアハンドウィナー、ドロップショット&スマッシュ、パッシングショットと多彩なレパートリーで相手を圧倒したバーティは勝利の瞬間に両手の拳を握りしめ、天に向かって雄叫びを上げた。
 コリンズは表彰式で涙ぐみながら自分のチームや家族、恋人にお礼を言ったあと、「彼女が1位までランキングを登っていき、彼女が夢を実現するのを目にするのは素晴らしいことでした。私は心からプレーヤーとしてのあなた、そしてあなたのテニスの多彩さに感嘆しています。その一部を私も身に付けられたらと願うわ」とバーティに賛辞を送った。
https://news.yahoo.co.jp/articles/550bba67dc2f6041e2f4dc298a20f8e3622d899f

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サケ皮縫い合わせ靴作り アイヌ民族の「チェプケリ」 白老で体験会

2022-01-30 | アイヌ民族関連
北海道新聞 01/29 19:27
 【白老】サケの皮を使ったアイヌ民族の靴「チェプケリ」の制作体験会が29日、しらおいイオル事務所チキサニ(末広町2)で開かれ、参加した約10人が真剣な表情でサケの皮を縫い合わせ、靴作りを楽しんだ。
 一般社団法人白老モシリの主催。チェプケリはアイヌ民族が山で狩りをする時などに使った靴で、1足を作るのにサケ4匹分ほどの皮が必要になるという。
 白老モシリ会員の次田雅基さんらが講師を務めた。参加者は昨年11月、サケを解体して皮に付いた身をはがす作業を体験した。この日は、乾燥させた皮を自身の足の大きさに合わせて切り、靴底と靴の甲の部分を縫い合わせる工程に挑戦した。
 参加者の一人で、町内でアイヌ刺しゅう工房を営む大久保由里子さん(48)は「前からチェプケリ作りをやってみたいと思っていた。普段はサケの皮を切ったり縫ったりすることはないので難しいけれど、とても貴重な体験です」と話しながら、針を進めていた。
 靴は今後、足首部分の皮を縫い合わせるなど、残り4回の体験会で完成させる。(小野柚香)
◆チェプケリのプとリは小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/639341

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日ロ地域間の関係強化へ 札幌で交流年開会式

2022-01-30 | アイヌ民族関連
北海道新聞01/29 22:18
 日ロ両政府は29日、経済や文化、スポーツなど幅広い分野で地域間交流を進める「日ロ地域・姉妹都市交流年」の開会式を札幌市白石区の札幌コンベンションセンターで開いた。コロナ禍の影響で当初予定から約1年半遅れての開催となり、両国閣僚はオンラインでの出席となった。両政府は交流年の期間を2022年末まで1年延長することで正式に合意した。
 林芳正外相はビデオメッセージで「人と人との交流こそが信頼関係を築く基盤だ。地域交流年が日ロ関係のさらなる発展につながることを祈念する」とあいさつ。ロシアのレシェトニコフ経済発展相は「ロシアの80の州や地方が日本との経済交流を支持している。多くの事業を実現したい」とのメッセージを寄せた。
 開会式には鈴木直道知事、鈴木貴子外務副大臣、ロシアのガルージン駐日ロシア大使らが出席。交流事業の実践例として、札幌ウポポ保存会のよるアイヌ古式舞踊などが披露された。
 日ロ地域交流年は2019年6月、当時の安倍晋三首相とプーチン大統領が20~21年の開催で合意。日本外務省によると、これまでにオンラインを活用した映画祭など340件以上の交流行事が行われ、延べ130万人以上が参加した。(小宮実秋)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/639380

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アイヌ文化学習に取り組む小学校教諭 佐々木博司(ささき・ひろし)さん

2022-01-30 | アイヌ民族関連
北海道新聞 01/29 09:00
 江別市立対雁小の教諭で、30年にわたりアイヌ文化学習の実践に取り組む。昨年12月の学習発表会では、樺太(サハリン)から対雁(現江別市)に強制移住させられた樺太アイヌの世界を描いた演劇「ふるさと―カラフト―」を指導した。「アイヌ文化を学ぶことで違いを認め合う心が育ってほしい」と願う。
 郵便局に10年以上勤めた後、夢だった教員の道に。最初に赴任した千歳市立末広小では、校内にアイヌ民族の伝統的家屋「チセ」を設置し、6年間でアイヌ文化を学ぶカリキュラムを作るなどして注目を集めた。3月末の退職を前に、集大成として挑んだ学習発表会は、専門家を通じ史実や差別的な表現の確認を徹底した。一貫するのは本物に触れる活動から子どものこだわりを伸ばすことだ。
 教員2年目の1993年。学芸会の演目が世界の踊りに決まり、同僚と「せっかくなら地元のアイヌ舞踊も入れよう」となった。担当の学級にはアイヌ文化の伝承に尽力した野本久栄さん(故人)の娘がいた。舞踊の相談をしようと野本さんを訪ねると妻の敏江さんが「中途半端に文化を取り上げたら子どもがいじめられる」と猛反対。アイヌを理由に不当な扱いを受けた過去を知り「一生かけて取り組みます」と誓った。
 学校外でも北海道博物館が所蔵するアイヌ民具(小嶋新三・慧子コレクション)の収集に携わった経験があり、現在はアイヌ語の普及に向けたアイヌ民族文化財団の委員も務める。「やっぱりアイヌ文化はおもしろい」と退職後も文化発信への意欲を見せる。62歳。(土門寛治)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/639232

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アイヌ施策基本方針を改定 新法の趣旨も反映 伝統文化を伝承、振興 白老町

2022-01-30 | アイヌ民族関連
苫小牧民報2022/1/29配信
 白老町は、アイヌ施策基本方針を改定した。白老アイヌ文化の振興と伝承―など五つの重点施策を掲げ、事業を展開する。アイヌ民族を先住民族に位置付け、尊厳の回復をうたった新法の趣旨も反映した内容で、町議会への報告を経て今年から運用する。  …
この続き:816文字
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https://www.tomamin.co.jp/article/news/area2/68613/

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日露地域が友好の年に…姉妹都市交流年で交流事業を進める

2022-01-30 | アイヌ民族関連
STVニュース北海道1/29(土) 18:08配信
日露両政府は姉妹都市交流年と題し、オンラインで開会式を実施しました。
(鈴木知事)「日露地域間交流のさらなる飛躍の年にするために、北海道とロシアの友好地域との交流を積極的に積み重ねる」
29日開催された「日露地域・姉妹都市交流年」の開会式。
交流年は去年までの予定でしたが、新型コロナの影響でことし末まで延長するとし、日露の地域間で経済や文化、スポーツなどの交流事業を幅広く展開する狙いがあります。
北海道の文化のひとつであるアイヌの古式舞踊などを披露し、イベントを盛り上げました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b653c37d7ad06c416ee045e58d33f621a2f9c0e3

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ウーマン村本「違い=面白さ。みんなも自分の違いをもっと表現すればいい」

2022-01-30 | アイヌ民族関連
LEON.JP1/29(土) 12:46配信
活動の場をNYに移すことを決めたウーマンラッシュアワーの村本大輔さん。渡米を目前に、日本のお笑い、そしてご自身のコメディへの想いを語っていただきました。
社会問題についてしゃべり倒す独自の芸風をつらぬく、ウーマンラッシュアワーの村本大輔さん。
その芸風からテレビ出演は激減したものの、より自由な発言ができるライブへと舞台を移して活動を続け、コアなファンの心を掴んできました。しかし、この3月で活躍の舞台をNYに移すことを決意。
渡米を目前にした村本さんに、お笑いとは何か、そして村本さん自身が伝えたいことは何か、を伺いました。その後編です。
悲劇を笑いに変えられる人ってカッコいいと思いませんか
── 村本さんは近年、コメディアンを自称していますが、アメリカのコメディと日本のお笑いの違いってなんでしょうか。
村本大輔(以下、村本) アメリカにはカッコいいコメディアンがいっぱいいます。僕の好きなデイヴ・シャぺルというコメディアンは「線は、超えてみないとそこに線があるかどうかはわからない。だからどんどん線を越えていけ」と言います。日本のバラエティ番組は身内の話ばっかりで、外社会の話はない。学校の教室の後ろの方で休み時間にやる話の延長線です。誰かに批判される一線を越えるのが怖くて、ますます内側を向く。
別に無理に政府を批判しなくたっていいんですよ。コメディを使って、もっと広い意味での「私はこう思う」を伝えていっていいと思う。俺の原発のネタぐらいでたじろいてる奴らはね、所詮幼稚な生き方をしている奴ばかりなんですよ(笑)。
── テレビが安心安全、イージーな内側に向かう一方で、村本さんは、痛みを感じている人と関わり続けている。それは大変なことだと思います。正直、しんどくはないんですか。
村本 痛みがある人だから関わっているんじゃなくて、たまたま知り合った人が面白かったってこと。在日朝鮮人だから、被災者だから、障害者だからじゃない。彼らは誰も被害者面しなかった。彼らは悲劇的な話も笑い話にしていましたよ。それって、なんかカッコいいと思っちゃうんですよね。
東日本の震災の後に気仙沼に行って、津波で自分の旦那さんを亡くした女性にインタビューしたんですが、その人は同情されるのを凄く嫌がっていて、「私あれから好きな人できてないんです。震災後処女です(笑)」とかって言うんです。そういう時に、面白くてカッコいいな~って思う。
── 痛みを持った人に寄り添う、じゃなくて、面白くてカッコいいと思ったからこそ、人間関係が生まれたということですね。
村本 そう。中でも一番カッコいい男は俺の親父でね。昨年死んじゃったんですけどね。タバコを1日60本吸って、喉の癌になって、手術してそこから筆記でしか話せなくなって、1カ月後には腸にも癌が転移して、人工肛門になったんです。たった1カ月で、喉と肛門がなくなったんです。田舎に住んでるからオスメイトのトイレなんかまったくないし、声も出ないし、絶対に大変なんですよ。おかんも離婚して出て行ってるからひとり暮らしだし。
凄く心配で「大丈夫?」って連絡したら、「俺は、上がつんく♂で下が渡 哲也だ」って返信が来て。めっちゃ笑っちゃったんですよ、今のタイミングでこれ言える? って。悲観的状況の時に、クスッとさせるヤツってとても強くて、凄くカッコいいなと思う。アメリカのスタンドアップコメディアンも、悲劇に溢れてる中で自分の意見を言って、人を笑わせている。全部笑いに変えられるってカッコよくないですか。
── そうですね、凄く強くてカッコいいと思います。村本さんは、子供の頃にテレビでお笑いを見て、その中に行きたいと思われたと聞きました。それは何に心が動かされたんですか。当時はそれがカッコよかった?
村本 当時は15~6歳頃かな、なんかね、自分の環境がすごく暗かったんですよ。高校辞めてガソリンスタンドでバイトして、いつもガソリンまみれのツナギで電車を往復してた。田舎じゃあまり高校中退してるヤツはいないから、恥ずかしくて、みんなの通学時間とずらして電車に乗って。
家の中にひとりでいると、ベルトコンベアのネジが1本外れて下に落ちた感じがしました。みんな何かになろうとしているのに、自分だけこのまま何もなく、どうなってしまうんだろうって。
そういう生活の中で夜中にね、ダウンタウンの番組とか見て、ワハハって笑って、現実を忘れられる瞬間があったんです。笑いという光に飢えていたんですね。俺自身、日本の馬鹿馬鹿しい笑いに救われたから、決してお笑いを否定はしません。ただ、ただね、僕は大人にはもっと上質なコメディがあることを知ってもらいたい。今の日本では軽い笑い一辺倒になっちゃってる。
── 思春期の自分を救ってくれたのはお笑いだったけど、今の村本さんにとってはそれがコメディなのですね。
村本 はい、コメディですね。そして俺の笑いに救われたという人が来てくれると、今は自分が誰かにとっての光になれたんだろうなって、思ったりもします。
“違い”をみんなが自由に表現できる社会になればいい
── 今、本当に、新しく何かが始まっているんですね。以前テレビで拝見していた時よりも、表情も柔らかく見えます。
村本 そうですか? でも、嫌な人間じゃなきゃ、お笑いなんて続けられないですよ。嫌な目線を持ってないと(笑)。
── そういうものなんですか? 村本さんはその独特な視点があるからこそ、活動を続けられているのでしょうか。
村本 アイヌの人や在日朝鮮人、沖縄の人と友達になって、感じたことがあります。彼らの共通点は、“同じにされた”ってことです。過去に同化政策というものがあって、名前を変えられ、文化を奪われ、「これで同じだ」と言われた。違いを殺されていったんです。それを歴史として知ったうえで育ったら、自分自身も同じじゃないといけないと思ってしまうことはあるんじゃないでしょうか。
これは僕らも同じです。例えば、適齢期と言われる年齢で結婚しなければ焦ってしまうとか、学歴にコンプレックスがあるのもそう。皆と同じことが安心だと刷り込まれてきた。だからこそね、違いは恐ろしさじゃない、面白さなんだってってことを、俺はコメディで伝えたいと思う。
── 日本で社会生活を送っていると「違いが殺されていく」という感情は、自分も少なからず感じています。“違っていい”をコメディで表現するのが村本さんのやり方なんですね。
村本 みんながやればいいんじゃないですか。周りに溶け込まなくていいから、自分の違いをどんどん表現すればいいと思う。歌でやりたきゃ歌えばいいし、映画だっていい。お笑いが好きならお笑いでやりゃいいし。楽しもうぜって俺は思うんですけどね。
── みんなが自由に表現できる社会は、想像すると楽しそうです。
大人だって、知らないことは「教えて」って言ってもいい
── では最後に、村本さんにとってカッコいい大人とはどんな人ですか。
村本 一番恥ずかしい人間が一番カッコいいと思います。今の時代、なんかすべてがファッションっぽくなりすぎてる感じがして。もっと怒ってもいいし泣いてもいいし、自分を曝け出していいんじゃないですか。
僕は政治のことを知らなかったけど、『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)に出ましたよ。そこで知らないことを「知らない」って言ってたら、「小学校からやり直せ」って言われました。年下の、落合陽一くんから(笑)。「憲法9条がわからないから教えてください」って言ったんですけどね。でもまたそこに行きますよ、聞きたいことと知りたいことがあるなら。知ってる顔してなんとなくやり過ごしたくない。
知らないことを子供に聞かれて、「それは知らないから、一緒に考えよう」って言える大人が一番カッコいいと思う。俺は知りたい。勉強は学生のうちで終わるものじゃない。人というのはずっと知り続ける、考え続ける生き物なんじゃないですかね。
「教えて」って言葉は大人が使わないといけない言葉なんじゃないかな。知ってる側に回るのはまだ早いんじゃない? って思います。
● 村本大輔(むらもと・だいすけ)
1980年生まれ。福井県おおい町出身。2008年に中川パラダイスとお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」を結成。2013年に漫才コンクール第43回NHK上方漫才コンテスト、THE MANZAIともに優勝。AbemaTV「ABEMA Prime」を通じてニュースに触れ、興味をもちはじめたことをきっかけに、原発や沖縄基地問題、朝鮮学校など政治・社会問題を取り上げた漫才を作り、フジテレビ系「THE MANZAI 2017」で披露。劇場を主な活動の場にしており、積極的に全国で独演会を開催している。SNSでも積極的に発信。今春からは活動の舞台をNYに移すことを発表している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f89a67e29ff1e3bf02d3eff88d53f6c917525da4

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トンコリ奏者OKIの初ベスト、UKのレーベルからリリース

2022-01-29 | アイヌ民族関連
音楽ナタリー1/28(金) 20:00配信

トンコリ奏者OKI(OKI DUB AINU BAND)の初のベスト盤「Tonkori in the moonlight(1996 - 2006)月明かりのトンコリ」が、1月28日にUKのレーベル・MAIS UM DISCOSからCDとアナログでリリースされる。
【動画】「Iso Kaari Irehte」from New Album【TONKORI IN THE MOONLIGHT 1996–2006 月明かりのトンコリ / OKI 】#tonkori#okidub(他4件)
本作には、1996年のデビュー作「KAMUY KOR NUPURPE」から2006年発表の「KLA&OKI」までの8作品の中より、OKIが即興で作った「Tonkori in the moonlight」や、アイヌ歌手・安東ウメ子をフィーチャリングに迎えサックス奏者の梅津和時が参加した「Iso Kaari Irehte」(イソ・カリ・イレクテ)など全11曲が収録される。選曲はMAIS UMのレーベルオーナーが行った。
OKI名義のアルバムとしては初のEU圏でのリリースとなり、日本国内では輸入盤としてOKI主催のレーベル・チカルスタジオのWebストアや、タワーレコード、diskunionなどで販売される。
YouTubeでは「Iso Kaari Irehte」のミュージックビデオを公開中。
■ OKI「Tonkori in the moonlight(1996 - 2006)月明かりのトンコリ」収録曲
01. Drum Song
02. Kai Kai As To (Rippling Lake)
03. Iso Kaari Irehte (Bear Trap Rhythm) / OKI feat. Umeko Ando
04. Yaykatekara Dub (Love Dub)
05. Tonkori In the Moonlight
06. Afghan Herbal Garden from 2004「DUB AINU」
07. Iuta Upopo (Pestle Song) / OKI feat. Umeko Ando
08. Cup Kamuy Ho (Wake Up Sun) / OKI feat. Umeko Ando
09. Battaki (Grasshopper Dance) / OKI feat. Umeko Ando
10. Oroho Raha Mokor Mokor (Sleep sleep) / Kila & OKI
11. Wei Ne
https://natalie.mu/music/news/463500

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『民藝の100年』展に見る、デザインとしての民藝運動|土田貴宏の東京デザインジャーナル

2022-01-29 | アイヌ民族関連
Casa BRUTUS.com1/28(金) 11:55配信
東京国立近代美術館の『民藝の100年』が話題になっている。圧倒的なボリュームで民藝の美しい「もの」を紹介すると同時に、この運動にまつわる豊かなストーリーを伝える貴重な展覧会だ。
柳宗悦没後60年記念展『民藝の100年』が〈東京国立近代美術館〉で開催されている(~2022年2月13日)。従来、民藝をテーマにした催しは、創始者である柳宗悦の眼力や思想にフォーカスするものが大半だった。それに対して今回の展覧会では、このムーブメントにまつわる多様な試みや社会背景を俯瞰的にとらえたのが特徴だ。展示総数450点以上という圧倒的なボリュームに加えて、当時から現在に続くさまざまなストーリーを伝えている。
民藝という言葉が初めて生まれたのは1925年。後に日本民藝館の初代館長になる柳宗悦と、同志である陶芸家の濱田庄司や河井寬次郎が木喰仏(江戸時代後期の木喰上人による木彫りの仏像)を求めて旅する途中、彼らの会話の中でこの言葉が現れたという。
民藝とは「民衆的工藝」、つまり無名の職人たちが手作りする、大衆向けの日用品を主に指す言葉だ。彼らはそこに、趣向を凝らした伝統工芸や限られた人々に向けた美術品にはない、健やかな美しさを見出したのだった。
展覧会は、そんな彼らが出会う以前、柳が同人として参加した文芸雑誌『白樺』にまつわるエピソードから始まる。
1910年代、『白樺』が彫刻家オーギュスト・ロダンを特集した縁で、彼から贈られたロダンの彫刻が柳の家にあった。それを見るため家を訪ねた朝鮮在住の浅川伯教は、土産として小さな壺を持参する。柳が「陶磁器の美に開眼する契機となった」というその壺《染付秋草文面取壺》(瓢形瓶部分)や、きっかけになったロダンによる彫像も、最初のセクションに展示されている。当時の柳は、後に民藝運動に加わるバーナード・リーチの影響もあり、詩人のウィリアム・ブレイクはじめヨーロッパの芸術思想に造詣を深めていた。
民藝運動は幅広い手仕事を対象にしていくが、そこから柳たちがものを選ぶ上で重視したのは本質的な美しさだった。そのため柳は、先入観なく「もの」に対峙し、それを直観することの重要さを説く。ただし一方で彼は「メディアを駆使して物の見方を示す、優れた『編集者』でもあった」とこの展覧会は看破する。そして、たとえば酢や酒などを入れる業務用の陶磁器に描かれる文字に着目し、「民藝フォント」と呼ぶべき文字の探求を行っていたという。
こうした視点は会報誌の『工藝』『民藝』、また『月刊民藝』などを通じて広められた。会報誌の造本やグラフィックもまた、柳らの美意識を反映して高度にデザインされたものだった。
民藝運動の創設期にあたる1920年代から1930年代にかけては、他にも昔ながらのもの作りや民衆の生活習慣に注目する動きがいくつもあったという。『民藝の100年』では、そうした動きの代表的なものも紹介している。
例えば芸術家の山本鼎は、ロシアを旅した経験をもとに1910年代末に農民美術運動を興し、農閑期の農民の副業にしようと早くから活動して実績を上げた。しかし柳は、海外のクラフトを規範とする地方色の希薄な農民美術には否定的だった。1930年代に入って民藝運動が本格化すると、その地で生まれた手仕事によってもの作りの活性化を目指す民藝への賛同者が優勢になっていく。
ちなみに『カーサ ブルータス』2022年1月号でも紹介された北海道八雲町発祥の木彫り熊も一種の農民美術であり、山本が八雲町で講演したこともあった。北海道の民藝として紹介されるのが専らアイヌの手仕事であることには、そんな背景があったのかもしれない。
民藝として提示された「ものの見方」について、おそらく最も有名なのは「用の美」だろう。この言葉は、展覧会の中であえてテーマとしては立てられていないが、全体を通してさまざまに体感できる。
特に象徴的なのは、囲炉裏の上に鍋などを吊るすための自在鉤や、簡潔な絵柄を施された行灯皿(行灯の下に置く油の受け皿)。また江戸時代の金属製の燭台も、独特の曲線が美しい。こうしたものに関して柳らは、「用」の痕跡を美的要素として提示していたという。さらにこうした道具が、1930年代の時点で世界的に民族美術として認められ、広まりつつあったことにも触れられている。
この展覧会では、民藝運動が推進された背景のひとつに「旅」を挙げる。大正から昭和初期にかけて鉄道が整備されたことで、民藝運動の創設メンバーは積極的に日本各地に足を運び、その地の民藝を発掘・蒐集していったという。
その成果を象徴するのが、1941年に制作された《日本民藝地図(現在之日本民藝)》。北海道を除く日本全土が描かれ、どの場所にどんな民藝が存在しているかを25種類のアイコンを使いながら明らかにした。描いたのは染色家として有名な芹沢銈介だ。
また柳や濱田は、1920年代から朝鮮半島、イギリス、スウェーデンを訪れるなど海外も旅して知見を深め、ものを集めた。展覧会中、彼らの活動は「ローカル/ナショナル/インターナショナル」と表現される。こうした姿勢は第二次世界大戦の最中も本質的には変わらなかった。やがて民藝の価値観はユニバーサル(普遍)へと至って日本に根づいていく。
『民藝の100年』で最も興味深いのは、1939年に『月刊民藝』に掲載されている「民藝運動の三本の柱」に注目した点だろう。その3つの柱とは、「美術館」(日本民藝館)、「出版」(会報誌『民藝』などの刊行物)、「流通」(たくみ工藝店というショップ)を指す。
従来の民藝に対する見方は、卓越した審美眼をもつ宗教哲学者で思想家の柳宗悦と、濱田庄司をはじめとする陶芸家や芸術家を中心に据え、その美意識と思想が各地へと伝播して実践に転じていくイメージが強かった。しかし「三本の柱」からは、民藝運動がその波及のあり方まで意図されたプロジェクトだったことがわかる。その姿を展覧会では「編集」と捉えているが、仕組みのデザインとして評することもできるだろう。
新しい価値観や美意識を打ち立てるだけでなく、出版や流通も積極的に行った例としては、民藝のひとつのルーツといえるイギリスのアーツ&クラフツ運動がよく知られるところだ。また作風は民藝と対照的だが、1919年に開校したドイツのバウハウスも、機関紙の発行や商業活動を行っていた。
民藝運動は、そんな世界的なデザインのムーブメントに比べて遜色ないほど、もの作りにかかわる人々の間で今なお創造の指針になっている。その影響力が約100年にわたり持続してきたのは驚くべきことだ。今回の展覧会により、民藝運動は「もの」に関してだけでなく、「こと」のデザインとしても省みられる機会が増えていくに違いない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8aa72e4561bd8d1d85a8938585f0a67e29eb7fd7

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ジャカルタからジャングルへ…インドネシア「首都移転狂騒曲」に潜む現実的な問題点

2022-01-29 | 先住民族関連
現代ビジネス1/28(金) 6:02配信
 インドネシアの国会は1月18日、首都を現在のジャカルタから北に約1200キロ離れたカリマンタン島の森林地帯に移す「首都移転プロジェクト」を承認する法案を可決、成立させた。
 国内の主要なマスコミは新首都建設を歓迎して「国民の夢の実現への第一歩」と肯定的に伝えているものの、一部メディアや法案に反対した野党、財界などから「巨額の新首都建設費用の手当の不透明性」「カリマンタン島の原生林、熱帯雨林を大規模に開発することに伴う“環境破壊問題”」「開発予定地に居住する住民対策の欠如」などを指摘され、もろ手を挙げて喜べる状況にはないと冷静な見方をしている。
 インドネシアの「首都移転狂騒曲」に潜む問題点を探る。
東南アジアでは2方式の首都移転
 首都の移転は、人口の集中やインフラ問題など様々な要素を理由として実施される。東南アジアでの首都移転は過去、「ミャンマー方式」「マレーシア方式」の2通りのパターンで実現されている。
 ミャンマーはかつての首都ヤンゴン(旧名ラングーン)から、2006年に当時の軍政が中部に新たに建設した都市ネピドーに移転させた。
 移転理由は軍政幹部が頼る占い師の「お告げ」によるとの説や、軍政に厳しい姿勢を表明していた米国の海軍艦艇によるアンダマン海マルタバン湾からのミサイル攻撃を危惧し、その射程外に移すという説が有力視されていたが、真相は不明だ。
 政府機能のほぼ全てをネピドーに移転し、政府職員も移転を余儀なくされたが、各国の大使館などは、ネピドーの不便さを嫌いヤンゴンを動いていないという現実がある。
 マレーシアは2001年に首都クアラルンプールから南約25キロのプタリンジャヤに大統領官邸、首相府、政府機関の大半を移転させた。国会議事堂はクアラルンプールにあり、各国大使館も移転していない。首都は依然としてクアラルンプールである。
 政府機能を“丸ごと移転”するミャンマー方式と、“一部移転”のマレーシア方式、2つの方法がある中で、インドネシアの首都移転構想は、その実現性はともかくとして、首都ジャカルタにある経済・金融関係を除くほぼ全ての政府機能を移転させる計画となっている。
先走る移転狂騒曲
 首都移転は国会での法案が成立したばかりとは言え、2019年にジョコ・ウィドド大統領が東カリマンタン州への首都移転方針を明らかにして以降、建設工事も着工する以前から様々なことが進んでいる。
 政府は当初、移転する中央省庁に勤務する約8000人の政府職員、公務員が新首都に移動することに伴う家族を含めた移動費(航空運賃、レンタカーなどの交通費、日当)などを全額負担することを明らかにしており、移転に対する優遇を公表している。
 新首都には公務員、軍兵士、警察官、その他の住民など、最終的な人口となる32万人のために住宅10万戸の建設も予定しており、移転を嫌う公務員への対策として優遇策が示されたといえる。
 建設予定地である東カリマンタン州北プナジャム・パスル県にはすでに「ようこそ新首都へ」と書かれたゲートだけがジャングルの中にポツンと立っているが、「ヌサンタラ(群島)」と命名された特別自治区となる新首都予定地には、著名彫刻家がデザインした大統領府、国会、各省庁、商業施設などの「イラスト」「青写真」が次々と公開され、ムードの盛り上げに一役買っている。
 その一方で、首都建設予定地周辺では地価が高騰し、不動産投機が過熱しているとの報道もある。東カリマンタン州の地方事務所などによると、新首都建設予定地周辺の地価が2019年の「建設発表」以前に比べて5~10倍に跳ね上がっているという。
 北プナジャム・パスル県では、かつて1ヘクタールあたり1~2億ルピアだった土地が、現在では10億ルピアになっているというのだ。一部報道はこうした現状を「砂糖に群がる蟻」と表現している。
熱帯雨林の大規模破壊の懸念も
 新首都「ヌサンタラ」は、これまで明らかになっている計画によると首都圏面積が25万6142ヘクタールに及び、中核となる政府関連地区は5万6180ヘクタールとなるとしている。
 政府は公有地が多く土地収用などの必要性が少ないとしているが、建設予定地の大半は熱帯雨林のジャングルで、そこには先祖代々住む少数民族の存在もある。
 インドネシアは2021年11月に英グラスゴーで開催された国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)で、2030年までに森林破壊をゼロとする共同声明にジョコ・ウィドド大統領が署名した。
 しかしその直後、インドネシアのシティ・ヌルバヤ・バカル環境林業相が「この目標は不適切で不公平であり、できない約束だ」と反論した。
 開発に森林破壊は避けて通れないというインドネシアの立場を内外に示した結果の反論だが、その念頭には大規模に森林を破壊せざるを得ない「新首都建設」があったとの見方が有力だ。この反論を、森林破壊をゼロにするという国際目標にインドネシアは与しない免罪符にしようとしているのだ。
 建設予定地の熱帯雨林にはダヤック族やパセ・バリク族などの少数民族が居住しており、先祖伝来の土地を守っている。
 報道によると、彼ら「先住民族」の人々は、土地の所有権を示す書類や登記などとは無縁の生活を続けてきており、政府による強制的な土地収用に抵抗する術がなく、居住地を追われる事態に直面しているといい、こうした問題への政府の真摯な取り組みが求められている。
国費で賄えない建設費用
 国会で可決成立した「新首都法」では、12条第1、2項で、新首都ヌサンタラを特別地方政府として従来の州や県とは異なる特別の地位、権限を付与するとしている。
 その特別権限として首都移転に伴う「準備・建設・移転」の経費に関して「サポートエリア建設などを支援する個人の投資、許認可、ビジネスに便宜、財務上などのインセンティブを与える」との権限を有するとしている。
 要するに、首都建設に関わる費用を負担する個人などに特別配慮をするというもので、費用負担に「付帯特権」を公然と与えることを示したものとして注目されている。
 こうした特権を公にしなければならない背景には、深刻な財政上の負担がある。
 開発に伴う財源に関しては、試算で466兆ルピア(約3兆7000億円)が少なくとも必要とされているが、財務省は国家予算だけだは賄えず官民、内外の投資に頼らざるを得ないとして不安を抱えているのが現状という。
 政府は首都建設に伴う財政負担に関しては、466兆ルピアのうち19%を政府が拠出し、残りを官民連携事業、民間投資で賄うとしている。
 新首都には主に政治機能に関わる省庁、機関の移転を予定しているが、金融関連機関やビジネス拠点など経済の中心は現状のままジャカルタに残すとしている。日系企業約1600社をはじめ各国企業が新首都への移転には消極的であり、各国大使館も現状ではジャカルタの残る可能性が高いという。
 こうした状況でどこまで内外の民間投資が集まるのか疑問視する声も出ており、投資への「特権付与」に期待せざるをえない側面があるといえる。
 一部メディアはこうした財政の裏付けがあいまいな状態で、首都移転が政府主導の「夢の実現」という楽観的ムードで進むことに警鐘を鳴らしている。
 首都移転に関する世論調査では、全国平均で約36%が「賛成」なのに対して、約40%が「反対」を表明している。さらにジャカルタ市民に限ると、約96%が「反対」との結果が報告されている。
大統領が「遷都」に踏み切った理由
 そもそもジョコ・ウィドド大統領が首都移転に踏み切った理由は、1)人口過密、2)それに伴う慢性的な交通渋滞、3)地下水汲み上げによる地盤沈下、4)地震、海面上昇、洪水などの自然災害、としている。
 ジャカルタは約1000万の人口を擁し、周辺の首都圏には3100万人が集中、しかも年々増加している。ジャカルタでは膨れ上がる人口に対する雇用機会が不十分で、その結果として失業者があふれる事態にもなっている。
 ジャカルタ中心部の主要道路や近郊の工業団地を結ぶ高速道路はどこも慢性的な渋滞が酷く、それによる経済損失は年間で約10兆ルピア(約8400億円)に上るとの試算もあるほどだ。
 上下水道の整備が遅れており、多くの住民が地下水を汲み上げて生活用水として利用するため、地盤沈下が深刻となっている。加えて地球温暖化に伴う海面上昇もあり、ジャカルタ北部では慢性的な洪水、海水流入という事態が続いており、現状では2055年までに水没する世界で初めての都市になるとさえいわれている。
 日本と同じく火山国であるインドネシア。ジャカルタ周辺に活発な活火山はないものの、ジャワ島には常に噴煙を上げている活火山が多く存在し、地震に襲われることもある。
 1月14日にはジャカルタ西方のバンテン州でマグニチュード6.6の地震が発生、家屋倒壊などの被害が確認され、ジャカルタも大きく揺れた。
 こうしたもろもろの理由を背景からジョコ・ウィドド大統領は「遷都」に踏み切ったという。
次期大統領の重要な「踏み絵」に
 新首都建設構想を発表し、積極的にこの国家的大プロジェクトを推進している政権2期目のジョコ・ウィドド大統領だが、その任期は2024年までであり、規定により3期目には立候補できない。
 このため2024年の大統領選で選ばれる新大統領がこの遷都構想を継承するのか、一部移転に変更するのか、はたまた中断するのかが今後の焦点となる。
 現在ジャカルタでは中心部で都市高速鉄道(MRT)の延伸工事が進んでいる。このほかにも軽量高架鉄道(LRT)や近郊の工業団地を結ぶ高速道路の改良、そして日本を袖にして中国が受注して建設が進むジャカルタ~バンドンの高速鉄道、国内線が主体のハリム空港の改修工事など大規模インフラ整備が進行中である。
 こうした現状から首都移転には「ジャカルタの都市機能拡充との整合性がない」「地盤沈下や海面上昇、洪水、渋滞などジャカルタが直面する諸問題の解決から逃げようとしている」などの批判が起きていることも事実だ。
 次期大統領選挙に名前が取りざたされている人物の中には、ジャカルタ首都圏でもある西ジャワ州のリドワン・カミル知事や、首都ジャカルタ特別州のアニス・バスウェダン州知事も含まれている。
 これまで「地元」として開発や整備に尽力してきた首都や首都圏から新首都建設にシフトすることができるのか、有権者がそれを許すのか、などを含め次期大統領にとって首都移転問題は一つの「踏み絵」になるのは間違いない。
大塚 智彦(PanAsiaNews記者)
https://news.yahoo.co.jp/articles/64b0fd63bb62e4fa381b92e223ee623534cc21d1?page=1

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白老東高3年生、地域学の成果発表 制作した動画披露 アイヌ文化や商店街をPR

2022-01-29 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 2022/1/28配信
 白老東高校(高野隆広校長)の3年生22人が地域のアイヌ文化や商店街について学び、発信する授業「地域学」の成果を25日、同校で発表した。地元経済・商業の関係団体代表らを招いた会場で、生徒は制作したアイヌ文化や大町商店街のPR動画を披露し、白…
この続き:578文字
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https://www.tomamin.co.jp/article/news/area2/68504/

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