ビジネスインサイダー9/28(水) 8:10配信

NPO法人WELgee(ウェルジー)代表、渡部カンコロンゴ清花(31)を「ソーシャルグッドネイティブ」へと導いた原点は、中学時代にさかのぼる。公務員だった父親が退職し、不登校の子どもなどを支援するNPOを立ち上げたのだ。
静岡県にあった事務所兼自宅には、子どもたちだけでなく自主保育をする母親や、就労支援施設で働く障がい者、福祉を学ぶ学生らが始終出入りし「ダイニングテーブル代わりに置いた卓球台や、室内の駄菓子コーナーに集まっていました」。渡部自身、親から暴力を受けていた親友を3カ月ほど自室に匿い、自転車の2人乗りで登校していた時期もある。
設立当初は家計も楽ではなく、近所から分けてもらった野菜や米を食べていたほど。このため渡部は、進路を決める際も、学校案内は常に学費から読むようになった。
特待生として学費免除で入学した私立高校にも、ヤンキーや貧困家庭の子など、さまざまな生徒がいた。朝食抜きで登校する子がいると「校長室にカップ麺があるんですよね~」とつぶやく校長や、図書室で手相を見ながら相談に乗ってくれる現代文の教師らが、さりげなく生徒を支えていた。
渡部は10代を通じて「社会の用意したカテゴリーに当てはまらない人たち」と、彼らを受け入れる大人たちに囲まれて育った。「人間はここまでが普通、と線引きできるような存在ではなく、自分も含めてみんな同じグラデーションの中にいることが分かった。それは人生に大きな影響を与えたと思います」と振り返る。
国家が守らない国民がいることに衝撃
大学は、県内在住者は入学金が格安だった静岡文化芸術大に進学。同大教授で国際協力論を教える下澤巌に出会った。大学3年の時、下澤が長く支援に関わるバングラデシュ南東部のチッタゴン丘陵地帯を訪ねたことが、人生の大きな転換点となった。
チッタゴン丘陵地帯にはもともと仏教徒などの先住民族が暮らしていたが、1970年代に国の多数派であるベンガル人が入植し、紛争の末、和平協定が結ばれた。しかし先住民族への迫害は続き、政府の検閲によって情報も外に出づらい「隠れた紛争地域」だった。
2週間の滞在最終日、先住民族とベンガル人の衝突が起きた。前日まで穏やかに暮らしているように見えた村人が斧を持ち、銃を持つ政府軍が出動して道路も封鎖された。先住民族は日本人と顔が似ているため、渡部は「外に出ると危ない」と言われて帰るに帰れなくなった。困った挙げ句、非戦闘員である僧侶に先導してもらい、何とか首都ダッカへたどり着いた。
去り際、僧侶は言った。
「This is our Life.」
渡部はそれを聞いて「それでいいのか」と怒りに近い感情に駆られたという。
「小学生がサイレンの音で家の中に逃げ込み、近くの村で10代の女の子が性暴力を受けたという話が伝わり、人々は家を焼かれている。国の軍隊は、国民であるはずの先住数民族を守るどころか、彼らに銃を向ける。それを『人生』と諦めていいのか」
それは大学で勉強してきた「JICA(国際協力機構)や国連が、援助国と連携して行う国際協力」では、全く読み解けない世界だった。
「国際協力を学んでいるなんて、過去の自分はよく言えたものだ。これを理解しないまま日本で勉強を続けて、国際機関に就職するなんてできないぞ、と思いました」
国連機関で2年インターン。ぶつかった壁
渡部は休学し、NGO駐在員やUNDP(国連開発計画)のインターンを務めながら計2年、チッタゴン丘陵地帯に滞在する。現地から日本の新聞へ、先住民族の現状を訴える文章を連載し、後述するオンラインでの募金集めなども実施した。
下澤は渡部の発信力を「僕らの数百倍強かった」と評する。
「彼女は単に多くの情報を伝えただけでなく、現地の人とのやり取りから生まれた感動や驚き、生活感を素直に表現することに長けていた。国際法や政治情勢といった難解さのない、実感のこもった語りが多くの人をひきつけたのです」
渡部がUNDPでインターンを始めて間もなく、オフィスから30分ほど離れた先住民族の村が焼き討ちに遭った。しかし中立を守るUNDPでは、話題にもされなかった。
渡部はFacebookの呼びかけで資金を集め、被害者に毛布などを配った。しかしそれを知った上司から「内政干渉になる。感情的に動くな」と厳しく言い渡されたという。
上司は先住民族の出身だった。国連職員になれるのは、先住民族でも一握りのエリートだけだ。にもかかわらず、当事者であるはずの彼が問題解決に取り組めないことに、渡部は深く失望する。
国連機関は、活動を展開する国の政府に退去を命じられると、活動継続が難しくなってしまう。上司には政府と折り合いをつけつつ現地に留まることで、将来的な人権救済の余地を残すという大局的な判断もあっただろう。しかし当時24歳の渡部には、眼前の矛盾に対する疑問の方が強かった。
渡部はインターンが終わるとJICAのプロジェクトに参加し、チッタゴン丘陵地帯に留まろうとした。しかし日本に帰国中にダッカで大規模テロが起き、渡航自体が難しくなってしまう。
難民を送り出す側から、受け入れる側へ
進路が宙に浮いた渡部は、東大大学院へ進学すると同時に、NPO法人ETIC.の学生起業家育成プログラム「MAKERS UNIVERSITY」に参加した。そこで選んだテーマが「難民」だ。
繁華街で外国人とおぼしき人に声を掛け、難民申請者たちから話を聞く。すると「ガザやアフガニスタンから来た人に、この国では難民になることすら大変だと聞いて、衝撃を受けました」。
渡部にとって、チッタゴン丘陵地帯の先住民族と日本に来た難民申請者たちは、地続きの関係にある。チッタゴン丘陵地帯は難民を生み出す側であり、現地で渡部が知り合った友人や知人にも、希望を求めてアメリカやカナダ、オーストラリアに渡った若者たちがいた。
日本で出会った申請者の、言葉も分からない国で必死に生活再建に挑む姿が、そんな友人たちに重なった。渡部は「認定申請者たちと話していると、昔から知っている仲間と話しているような、不思議な感覚に陥りました」と話す。
「難民認定されない人たちは、祖国と日本という国家の狭間にこぼれ落ちた存在。チッタゴン丘陵地帯の人たちも日本の難民申請者も、国家の庇護を受けられない点では同じです」
しかし渡部の語る難民支援は、日本の友人にはなかなか理解されなかった。「MAKERS UNIVERSITY」のプレゼンテーションでも、他の発表者に拍手喝采を送っていた同期生が、渡部の話には静まり返った。
それどころか「難民を無制限に受け入れたら、治安が悪くなるのでは」「日本にも困っている人はたくさんいるのに、なぜあえて外国人を支援するのか」といった意見すら出た。渡部は「既存の枠にとらわれず、社会課題の解決を目指すイノベーターですら、こういう反応なんだ」と当時はがっかりした。
しかし渡部はめげなかった。その後も同期生に難民問題を語り、入管の面会に誘ったりWELgeeの事務所に連れて行ったりした。すると、事務所に出入りしていたコンゴ民主共和国(DRC)出身の元医師にアルバイトを頼む同期生や「寝る場所がないなら、うちに泊まれば」と、短期の宿泊場所として自宅を貸してくれる仲間が現れた。
「未知の存在に恐れを抱くのは、人間の防衛本能でもあり否定しても仕方がない。でも身近に接して一緒に食事をすれば、概念的な『難民』が『アフガニスタンから来た○○さん』になる。私たちは企業や個人に、そういう接点をたくさん作っていきたいんです」
下澤は、彼女の突破力と発信力を高く評価する一方、こんな話もした。
「直感的な正義に向かって迷いなく行動する力は素晴らしいですが、内部調整やチームビルディング、目標に向かう際の時間配分などは苦手。目の前の人を助けたいあまり突っ走り、所属する組織で『異端児』扱いされることもしばしばでした」
下澤の指摘は正しかった。2020年、渡部はある日突然、WELgeeから逃げ出したのだ。
(敬称略・明日に続く)
(▼第1回はこちら)
(文・有馬知子、写真・伊藤圭)
https://news.yahoo.co.jp/articles/69099bea6a2a9e5bd31d9b5c594a481f5796fb45