「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オーディオ談義~「絵画、文学、そして音楽とオーディオ」~

2008年06月12日 | オーディオ談義

丸谷才一氏による書評と(本の)推薦文ばかりを集めた「蝶々は誰からの手紙」(2008.3.21、マガジンハウス刊)を読んでいたら、271頁に「生(なま)で読まう」(原文どおり)という表題の短文があった。

「同じモーツァルトでも、CDで聴くのと生の演奏ではまるで違ふ。セザンヌの絵を複製で見たって見たことにならない。同様に、文学はやはり原文で読まなければ、読んだとはいえない。~以下略~。」

文脈から推(お)すと丸谷氏の言いたいポイントは「文学はやはり原文で・・・」の部分にあり、フツーに読めば何てことのない文章だが、「同じモーツァルトでも、CDで聴くのと生の演奏ではまるで違ふ」この箇所を中心に何だか”ちょっかい”を出してみたくなった。

端的に言えば、

 「モーツァルトをCDで聴くのと生の演奏の違い」

 「セザンヌの絵のホンモノと複製の違い」

 「文学の原文と翻訳の違い」

この1、2、3を同列に論じていいものだろうかということである。

分かりやすいように次に掲げてみたが、これは以前のブログにも掲載したことがあるもの。

 ≪音楽≫ 作曲家→楽譜→演奏→(再生装置)→鑑賞者

 ≪絵画≫ 画家→絵→(複製)→鑑賞者

3 ≪文学≫ 作家→本(自国語)→(翻訳)→鑑賞者

ご覧のとおり、原作者の真意が鑑賞者へと伝わるまでに、いろんなものが介在していて2→3→1の順番でストレートさが薄くなっているが、特に音楽には「演奏」という行為が入っているのが絵画や文学と大きく違うところ。

つまり、音楽は
間接芸術であり、作曲家に劣らぬ程演奏家が重視される分野。

加えて、文学では文字を翻訳(外国文学の場合)するが、音楽では音符(♪)を演奏家が翻訳する、両者ともに記号を解読するという点では変わりはないが、どちらがより原作者の気持ちに正確に近付けるかといえば、やはり日常で身近に使用する文字を翻訳する方が有利だろう。

つまり何がいいたいかといえば音楽、絵画、文学では表現と鑑賞のありようがそれぞれに違っていて「ホンモノとそうでないもの」を同様のものとして並べるのは「少々無理がありはしませんか」ということ。

いささか揚げ足取りになってしまったが、「丸谷才一」ともあろう人が「ものごと」の表現は厳密に吟味したものでなければいけない。

(とはいえ、ご大層なことを言う資格は自分にはないし、物識(し)り顔をして小理屈を振り回すイヤミな奴とお叱りを受けそうだが、自分が本当に言いたいのはむしろ次の部分です。)

さて、もうひとつ気になるのが「CDに比べて生の演奏はそんなにいいんだろうか」ということ。

周知のとおり音楽鑑賞には「生の演奏を聴く」のと「CD(レコード)を再生装置を通じて聴く」の二通りに大別されるが、自分の場合ほとんど後者で楽しんでいる。

「なぜ生の演奏会に行かないのか」と問われればそれは
「魅力的な演奏者と曲目がないから」というのが一番の理由。

もちろん、時間的かつ経済的な距離に恵まれない地方に住んでいる悲しさで演奏会なんかに気軽に行けないことも否定できないがそれはほんの小さな理由。

たとえば、「コリン・デービス」が指揮するオペラ「魔笛」が上演されれば日本中どんなところにでも駆けつける気持ちは十分持っている。

一方、地元の別府で開催される「アルゲリッチ音楽祭」にはこれまで一度も足を運んだことがない。クルマで10分足らずだし音楽ホールの音もそこそこだが、連弾ぐらいでしか弾けない(過去の存在に過ぎない)ピアニストさんや成長途上の指揮者や演奏家の演奏、言い換えれば音楽性に乏しい演奏を聴きに行ってもしようがないと思うから。(音楽祭の関係者の方にはゴメンナサイ。)

つまり、生演奏の音がいいのは分かっているが、演奏会でミステイク混じりの演奏や興味のない曲目(自分にとって)を聴かされるのであれば自宅の再生装置で一級の演奏による好きな曲目を聴いていた方がマシとこうなる。

つい最近のNHK教育テレビ「人生の歩き方」で超大好きな
グレン・グールドピアニスト、カナダ:故人)が、一発勝負の演奏会を完全に放棄して後半生をスタジオ録音だけに捧げたと放映していたが「さすが、グールドだなあ」と大いに感心。

ということで、結局「生演奏はCDよりもいい」なんて一般論として割り切ってしまうのも無理があるというものだろう。

それにしても、一体、丸谷さんはどういう再生装置でCDをお聴きになってこういう発言をされているんだろう?

個人の趣味からプロの音楽評論家までCDを聴いての音楽云々の批評まがいのコメントが巷(ちまた)に氾濫しているが、自分の再生装置は「どこのメーカーのどの機種で」という注釈をあまり見かけたことがない。

再生装置によって音楽の表情は一変するんだから、これをつまびらかにしておくのは音楽愛好家としての最低限の良心ではないかと思う。

オーディオ装置のグレードと持ち主の音楽鑑賞能力が比例するというのは言いすぎだが、本当に音楽を愛する人であれば、オーディオに無関心、あるいは曖昧なままにしておくというのがどうしても理解できない。
 
この気持ち、
家庭で本格的に音楽を楽しもうと日夜、多大の手間と少なからぬお金を費やして汗水流しているオーディオ愛好家であれば多分理解していただけると思うがいかがだろう。

とは言いつつも、はたから見ると「オーディオ愛好家ってのはエキセントリックな(常軌を逸したor異様な)人種」というのがおおかたの見方になるんですけどね~。
 


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