1か月に1度のペースで薬をもらいに訪れる近くのクリニック(整形外科)。
昼下がりの待合室で備え付けの週刊誌「サンデー毎日」(2018.4.8)を読んでいたところ、先日(2018.3.13)亡くなられた作家「内田康夫」(享年83歳)さんの記事が目に入った。
内田さんと言えばルポライターが探偵役となって活躍するミステリ「浅見光彦」シリーズ(軽く100冊を超える)で有名だが、文庫本の発行部数が累計9700万部というから凄い。
実はこのシリーズは自慢するわけではないが図書管から借りてきてほとんど読み尽くしている。いわば肩の凝らないライトミステリーという印象だが、文章が巧みなせいか読者をぐいぐい引っ張る力がある。次から次にベストセラーになって読み継がれていくのも「むべなるかな」。
ただし、2015年に脳梗塞を患らわれたせいか、それ以降、僭越ながら明らかに筆力の衰えを感じていたのだが突然の訃報にやはり淋しい思いを禁じ得ない。
週刊誌の記事には内田さんがリハビリ中に詠まれた短歌が掲載されていた。クリニックの受付嬢にお願いしてメモ用紙をいただき記載したのがこれ。
「いつの日か 終れる生命(いのち)の いとしくて 耳かたむける ケッヘル467」
いわば「辞世の句」ともいえそうだが「ケッヘル467」といえば、言わずと知れたモーツァルトのピノ協奏曲21番のことですね。第二楽章の美しい旋律はとても有名で洋画のテーマ音楽(「短くも美しく燃え」)などにも使われている。
また有名ピアニストのレパートリーにも数多く含まれている名曲。
ちなみに「ケッヘル」とはご存知の方も多いと思うがモーツァルトの研究家「ケッヘル博士」が膨大な曲目を独自に編纂した作品番号のことである。モーツァルトと不可分に結びついた作品番号によってケッヘル博士は永遠に名を遺したことになる。
内田さんがクラシックファンとは初耳だった。しかもモーツァルトですか・・・。そういえば自然で流麗な文章のリズム感がモーツァルトの「天馬空を駆ける」ような音楽ととても似通っている。
モーツァルトの音楽を聴きながら「余命いくばくもなし」の感慨に浸れる人にはたいへんな親近感を覚えてしまう。
それ程遠くない将来に必ずやってくる「お迎え」に対して、どのように気持ちを寄り添わせていくか、自分にとっても大きなテーマだが、そういうときにモーツァルトの音楽が格好の媒体になるのは言うまでもない。
実は「通夜のときにモーツァルトの音楽を耳元で鳴らしてくれ。ラジカセでもいいからな」と家人に頼んでいる。
まずはオペラ「魔笛」であり、続いてピアノ・ソナタ群、ヴァイオリン・ソナタ群が続く。さらにモーツァルトが10代後半に作曲した「ケッヘル136」「ケッヘル165」も絶対忘れてはいけない。
ただし実際にはどうなることやら、確かめる術(すべ)がないのがつらい(笑)。
最後にモーツァルト(享年35歳)の「死生観」を紹介しておこう。これは、オペラ「ドン・ジョバンニ」を構想する前に父親に送った手紙の一節とのこと。(小林秀雄著「モーツァルト」から)
「(仔細に見れば)死は人生の真の最終目標ですが、数年このかた、ぼくはこの真実の最上の友にすっかり馴れてしまったので、もはや死の面影はいささかもおそろしくないばかりか、大いに心を静め、慰めてくれます!
そうして、われわれの真の至福への鍵として死を考える機会(父親の病気のこと)をあたえてくださったことを、神に感謝しています……。
ぼくは(まだこんなに若いのに)、おそらく明日はこの世にはいまいと考えずに床についたことはありません。しかしながら、ぼくを知っている者はひとりとして、ぼくがつき合いの上で陰気だとか悲しげだとか言える者はいないはずです。ぼくはこの幸福を毎日神に感謝し、だれしもがこのしあわせに恵まれるよう心から祈っています。」
沢山の人を楽しませてくれた内田康夫さん、モーツァルト同好の士としてどうか安らかにお眠りください。
合掌