モーツァルトの演奏に定評がある指揮者カール・ベーム(1894~1981)。
まるで大学教授みたいな風貌だが、彼の指揮したオペラ「魔笛」〔1955年〕は今でも愛聴盤だし、ほかにも「レクイエム」、「フィガロの結婚」などの名演がある。
その彼に次のような逸話が遺されている。
あるときブルックナーの交響曲を暗譜で指揮していた彼は思い違いをして、ここでチェロが入ってこなければならないのにと思った〔錯覚した)のだが、その瞬間(チェロのほうを向いていた分けではなかったのに)ひとりのチェロ奏者が間違って入ってきた。
あとから、ベームが「さっき君だけ間違えて入ったね」と尋ねると、当のチェリストはこう答えたという。
「マエストロが”入れ”と思っていらっしゃるような感じがしたものですから」と。
まさに「以心伝心」、指揮者と楽員がいかに目に見えない糸で結ばれているか、やはり余人には計りかねるところがあるものだ。
以上の話は次の本に掲載されていたもの。
「音楽家の言葉」(三宅幸夫著、五柳書院刊)
文脈から推察すると人間の感覚が研ぎ澄まされ、指揮者と演奏者が深い信頼関係で結ばれると、「以心伝心」でこういうテレパシーまがいの神業のようなことも可能になるという実例として挙げられていた。
ベームの「思い違い」から出発した話なので当然ベーム側から洩らされた話だろう。
しかし、この「以心伝心」というのはちょっと”出来すぎ”のように思えてどうにも仕方がない。
部外者にはどうでもいいことだろうが(笑)、少しこだわって「ホント」説、「偶然」説の両面から勝手に考察してみた。
1 「以心伝心」ホント説
ベームの棒の振り方はほとんど目につかぬほど小さかったので慣れない楽員たちを大いにまごつかせたという。
ウィーンフィルのチェロ奏者ドレツァールは言う。
「彼はオーケストラの玄人向きの指揮者だ。あまり経験のない若い楽員向きではない。彼の指揮に慣れているものは、ほんのわずかな棒の振り方と身振りだけで、さっとついて行くことができた。いつもごく小さい身振りに終始し、もし大きくなったとしたら、絶望の表現だった。」
テレパシーまがいの以心伝心の背景にはベームの極めて微妙な指揮棒の動きがあった。楽員たちは常に彼の指揮棒を注視しているのでどんな細かなクセも分かっていた。
したがってベームの思いが指揮棒に微妙に表出された途端、チェロ奏者が同時にその動きに無意識のうちに反応してしまったという説。
2 「以心伝心」偶然説
ベームは随分厳しい指揮者だったらしい。演奏中、鵜の目鷹の目で楽員たちのミスを見張っているので、若い楽員たちはそれにびびってしまう。
一度でもミスした犯人は決して忘れずいつも「ミスしたら承知せんからな」と言わんばかりに相手をにらみつけるので、よけい相手は不安になる。するとそれによってまた新たなミスを犯す危険が生ずる。
むずかしい箇所にさしかかると、ベームの顔が不安感で引き歪む。ほんらいならこういう箇所でこそ楽員たちに安心感を与えるべきなのだが、新入りの楽員たちは彼の顔つきにおびえて、ミスを犯す危険が絶えなかった。
それでますます指揮者は腹を立て、激しくわめき、罵りちらす結果になる。ベームは権威を保つことにこだわり、相手にやさしくすればすぐ付け上がると考えるタイプなのでそんな用心が演奏の最中に隠せなくなる。
ウィーンフィルの首席チェロ奏者ヘルツァーが新入りのときの始めての練習で例によってべームからいびられ(ベームは新入りをいびる癖があった)、何と同じ箇所を11回も演奏させられたという。
12回目になるとこの箇所を一緒に弾かねばならないヴィオラ奏者がまず抗議した。ヘルツァーの隣のチェロ奏者もこの嫌がらせに文句をつけた。するとベームはかんかんになってピットから出て行ったという。(「指揮台の神々」より)
こういう風だから指揮者と演奏者の間に「以心伝心」が成り立つはずもなく、演奏者側の単なる言い訳に過ぎない説。
結局、最終的な真実のありようは不明だが、こういう「以心伝心」まがいの深い信頼関係が楽員との間に結べる指揮者として思い浮かぶのは、古今東西を通じてあの「フルトヴェングラー」ぐらいではあるまいか。