オーデイオ訪問をしたり、されたりして仲間や知人と一緒に音楽を聴く機会が多いといつも思うのが「曲目の好み」というのは各人によって様々だということ。
人それぞれに遺伝子や育った環境が違うので当たり前だが、中には自分のようにクラシック、ジャズ、ポピュラー、歌謡曲などのジャンルに二股どころか四股をかける人間もいるのでなお一層複雑になる。
したがって、音楽専門誌などで推薦盤とか優秀盤とかいって推奨されているものもハズレがしょっちゅうなのであまり”あて”にできない。むしろ、業界とのしがらみとか商売気のない個人のネット情報の方がホンネが語られていて符号する割合が比較的高い。
さらに、自分の場合プロの音楽評論家の評論についても同様で、たいへん不遜な言い方になるが定評がある「吉田秀和」(故人)さんのも、自分の方に非があると思うがこれまでストンと胸に落ちたことがなく内容にも引き込まれたことがない。自分が求める評論とは明らかに違う。
とはいえ、そもそも音符で綴られた音楽を言葉で表現するのは、はなから無理に決まっているのだが・・。
ところがである。職業として二足のわらじを履いている方々の音楽評論は不思議にも実にピタリとくることが多いのが不思議。
たとえば「音楽好きの作家」などはその最たる例。
文壇での音楽愛好家をざっと挙げてみるとすぐに思いつくだけでも次のとおり。
五味康祐 → 「西方の音」「天の声」「いい音いい音楽」「五味オーディオ教室」など
小林秀雄 → 「モーツァルト」
石田依良 → 「アイ・ラブ・モーツァルト」
大岡昇平 → 「音楽論集」
宮城谷昌光 → 「クラシック私だけの名曲1001曲」
村上春樹 → 「意味がなければスウィングはない」
五味さんの「西方の音」については当時の新聞記事に「なぜプロの評論家にこんな優れた音楽評論が書けないのか」と書いてあるのを見かけた記憶があるし、「音楽を愛する」情熱が十分に伝わってくるほどの筆力があるので多くの支持を受けたのも当然のこと。
小林秀雄さんの「モーツァルト」についても、これを読んでない人は潜り(もぐり)のモーツァルト・ファンと言ってもいいくらいの名著の誉れが高い。
石田依良さんなんかは、モーツァルトのオペラ「魔笛」が大好きだそうで好みの演奏はクリスティ指揮のもの。それにグールド演奏のピアノ・ソナタとくれば自分とまったくピッタリなんでホントにうれしくなる。
さて、自分にとって作家による音楽評論になぜこうも惹きこまれるのかと改めて考えてみた。
もちろん、これはあくまでも個人的な意見だと前置きしつつ、
1 語彙が豊富で表現力が的確
2 さすがに作家だけあって展開力にストーリー並みの面白さがある
3 音楽体験の出発点と感じ方、語り口に独自の思考法や人生観が投影されている。人生全般に対する視野の広さが伺えるところがいい
4 音楽を生業(なりわい)とする人たちからは感じられない「好きでたまらない」という熱気と純粋な気持ちがストレートに伝わってくる。それに熱烈なファンの延長線みたいなところが親しみやすくて連帯感を感じさせる。
と、いったところかな。
このうち、特に表現力の問題は大きいと思う。
文筆による表現のプロともいうべき作家の筆致はやはり音楽評論家のそれを大きく凌駕しているように思う。両者ともに鑑賞する力は大差ないのだろうが、やはり著者独自の哲学や人生観を問わず語りに浮かび上がらせる表現力において読者への説得力がまるで違う。
で、これまでおよそ50年以上に亘って「音楽とオーディオ」の業界をつぶさに見てきたが、やはり五味康祐さんの存在は大きかった。
すでに死後40年ほどにもなるが、もっと長生きされていたら先導役としての役割を十分に果たされて巷に音楽ファンが増えたろうにという思いが尽きない。
こういう経済効率優先の殺伐とした世の中にこそ、対極として音楽を通じて心の豊かさと潤いが必要だという気がするがどうなんだろう。
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