粋人「ウマさん」(南スコットランド在住)から、久しぶりにお便りが届きましたのでご紹介します。
タイトルは「くちなしの花」
前々回の訪日だから、もう数年前のことになるかな。
東京で所用を終えたあと、時間があったので、昔住んでいた懐かしい南青山を訪れた。4丁目11番地の吉田さん宅の二階の四畳半に4年住んだけど、その家は跡形もなく、綺麗なファッションビルに変貌していた。
住んでいた当時から気になっていたことがあったので、外苑西通りから一つ西に入った通りに向かった。
この通りにはほとんど家がなく、人通りも少なく静かで、通りの西側には、やや傾斜した石垣が続いていた。
1970年春、この街に住み始めた頃、この通りを歩いて六本木へ行こうとしたことがあった。
しかし、途中で道に迷い、前を歩いている方に尋ねた。振り返ったその顔を見てびっくりや。なんと、伊丹十三さんなんです。彼は笑顔で丁寧に説明してくれた上「私もあっち方面へ行きますから、途中までご一緒しましょう」だって! 緊張したなあ。
「ヨーロッパ退屈日記、読ませて頂きました。とても面白かったです」
「ああ、あれ、読んでくれたんですか。嬉しいですねえ。ありがとう」
「美味しいスパゲティの作り方と食べ方、LとRの発音のコツ、それと、ジャガーではなくジャギュアですよ…は初めて知りました」
「あの本は、私の初めての本だったんですけど、最初ボツにされたんで、出版された時は嬉しかったですね」
その時の伊丹さんの装いは、迷彩服に編み上げブーツ…なんでそんな格好をしておられたのかな? 懐かしい想い出です。
さて、久しぶりの東京で、なぜ、石垣が連なるその通りを歩いたのか?
実は、その通りに、ポツンと、バーらしき店のドアがあり、ここはなんだろう?と興味を持ったのを覚えてたんです。いや、バーかどうかはわからないけど、とにかく、重厚な木のドアがあったんです。にじり口ほど低くはないけど、丸く弧を描くドアの上端は、僕の背丈ほどだった。当時、静かなその通りには、店などなかったように記憶している。
で、何年か振りで、その石垣が連なる通りを歩いたんだけど、あった! ありました。あの分厚そうな木のドアが、昔のままにあったんです。
いやあ、懐かしいなあ。縦に何列か鋲を打った厚そうなドアの上の方に、丸い船舶用の窓が、鉄格子と共にしつらえてある。
窓はうっすらとスモークがかけられていて、向こう側はよく見えないけど、ほのかに明かりが見えた。時間は午後7時過ぎ…バーを示す看板やサインがないどころか、なんの店かよくわからない。いや、店かどうかもわからない。
いったいこのドアの向こう側はなんだろう?興味をそそられるそのドアの前で僕は躊躇した。どうしよう?ドアを開けてみようか?
ドアは内側に開いた…
左右にカウンターが広がっている。やっぱりバーや。
カウンターの右のほうにバーテンダーとおぼしき初老の方がいた。カウンターの、向かって左側はL字型に折れていて、そこに一人の男性客がいた。オーセンティックなバーでは常連客の席はほぼ決まっている。だから僕は勝手に席に着くという無作法はしない。
「初めてお邪魔します」
僕の顔を見て、一瞬、怪訝な顔つきになったバーテンダーは「どうぞこちらへ」と、カウンターのほぼ中央の席を示した。怪訝な顔つき…やはり一見の客は入ってこないバーなんですね。
店内は船のキャビンを模したウッディな造りで、やはり船舶用のランプが、天井から、程よい明るさでカウンターを灯している。バックバーの棚を眺める…なるほどシングルモルトの逸品が並んでいる。
が、ボトルの数を誇る雰囲気がないのは好感が持てる。いいバーだなあ…その落ち着いた雰囲気に非日常性を感じた僕は嬉しくなった。音楽はない。大の音楽好きの僕だけど、時に、音楽がない静寂もいいもんです。
「何になさいますか?」「まず、ビールを少しください」
バーでビールを注文する時、僕は「まず」を付ける。つまり、他のものも注文しますよというサインですね。
で、すかさず「ラガブリンの16年をよろしく」…バーテンダーは、一瞬、僕の顔を凝視した。そして「どのように入れましょうか?」「スニフターグラスに注いでください」「チェイサーはどうしましょう?」「いえ、結構です…」
僕の反応に、バーテンダーがやや微笑んだように見えた。
バックバーの棚にスニフターグラスを見た時は嬉しかった。スニフターグラスというのはウィスキーの香りを楽しむためのグラスで、ワイングラスをかなり小さくして上部を内側に絞り込んだ形をしている。もちろんストレートで飲む。
ウィスキーをストレートで飲む場合、水をチェイサーとして飲むのが普通だけど、僕はあまり好きじゃない。舌や喉を程よく刺激するウィスキーの芳香を水で台無しにしたくないんだよね。
ラガブリン16年は、ウィスキー評論家として世界的な評価を得ていた、故・マイケル・ジャクソン氏が、ウィスキー年鑑で最高点を与えた、スコットランドのウィスキーの聖地、アイラ島のウィスキーです。アイラには二度訪れたことがある。
バーテンダーの僕を見る目つきが明らかに変化した…(この客、知ってるな…)
この一連のやりとりを自慢話として受け取ってもらうのは本意じゃない。いつもの僕の作法なんです。
さて、L字型カウンターの端にいる客のそのすぐ向こう側に、かなり大きな寸胴型の花瓶があり、いくつもの大きな白い花が、ほのかな灯りの店内に、可憐ではあるけど、何かしら自己主張をしているように咲き誇っている。
ラガブリンを僕の前に置いてくれたバーテンダーに「きれいな花ですね。なんて言う花ですか?」
「ああ、これですか…」バーテンダーが花の名前を言おうとした、まさにその時、その白い花のそばにいた客が「これ、くちなしの花ですよ」と告げた。
僕はバーにいるほかの客に声をかけることはまずない。同様に、まともな客ならほかの客に声をかけない。この人は、僕とバーテンダーのやりとりを聞いていて、ひょっとして僕に興味?或いは好感を抱いたのではないか?
そして、そのあと、彼とは、非常に興味深い話を交わす展開となる…
が、彼が直木賞作家で、後年、僕が、彼が週刊誌などに書くエッセイを楽しみにすることになるとは、その時は夢にも思わなかった。さらに、僕がとても好感を持っていたモデル兼女優が、彼の奥さんだったことなども、まったく知るよしもない…(以下、続く…)
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