メディアの軽さを懸念
2014年6月24日
都議会のセクハラヤジの騒動をみていると、報道メディアの軽さを痛感しないわけにいきません。騒ぎがツイッターなどで社会的に拡散し、大きな波になってくると、後追いで、「お説ごもっとも」、としかいいようのない論調を掲げます。伝統的メディアに重みはなく、軽いのですね。
誤解のないように申し上げておくと、質問に立った女性都議に投げつけたヤジは、女性の人権に対して非礼であり、許しておくことはできません。「早く結婚したほうがいいのではないか」、「子供を産めないのか」などのヤジの中でも、後段の部分も事実だとすれば、こちらのほうが問題でしょうね。女性ひとりひとりに、それぞれ触れられたくない事情があるでしょう。晩婚も女性側の問題というより、男性を含めた社会全体で考えるべき問題でしょう。
それを前提にわたしの感想を述べさせてもらいます。まず、海外メディアがこの女性都議とのインビューを載せるなど、詳しく扱ったようですね。ウオール・ストリート・ジャーナル紙は「小学生だって誤っていると分る時代錯誤の中傷」と報道しました(日経、6月23日)。軽い記事ですね。こう書けば、本国のデスクも反応するだろうという典型ですね。小学生にはこうしたことは、わかりませんよ。英ガーディアン紙は「女性議員が性差別的な暴言を受ける」(同)との報道です。
日本は慰安婦問題でイメージを落としており、まるでこの際、女性問題で日本叩きをすれば、ニュース価値がでてくるだろう、との思いがあったのでしょうかね。国会ならともかく、都議会、それも正式の発言ではなく、ヤジがこんな形で海外紙に取り上げられるとはね。ご本人の都議も驚いているのではないしょうか。せっかく、特派員を東京においているなら、海外紙として報道すべき記事はあると思いますよ。女性問題で日本叩きをするのが、手っ取り早いのですかね。海外紙もレベルが落ちてきました。
次が日本のメディアの問題です。繰り返しますと、以下に述べる視点も、ヤジを飛ばした都議をかばうつもりではまったくありません。この都議の不見識、ヤジの内容はもちろん、こういうタイミングで、このような物の言い方をしたら、どのように伝えられるかを考えてもみないでヤジを飛ばすという行動を含め、謝罪に値するということは変わりません。
24日の朝刊で、読売、日経、朝日、毎日各紙が一斉に社説で問題を取り上げました。朝日、毎日は21日にすでに社説を書いています。それでも、出足は遅いのですね。問題のヤジがあったのは18日です。はじめは各紙も、「ボヤ」程度でおさまるのかどうかを、見極めていたのだと思います。本人自身がツイッターで流し、それに十万単位のフォロワーを持つ著名人も加わると、あっという間に大きな波となって、社会全体に広がり、都議会に苦情が殺到したそうです。こうなると、様子を見ていた全国紙は「これは重大問題だ」と、腰を上げたのでしょうね。
社説を読むと、これ以上の正論はないと、多くの部分で文句のつけようがありません。「あなたが産めばと、個人の問題にすりかえた」(朝日21日)、「公に発言する重さを多くの議員にかみしめてもらいたい」(同)、「意識改革の遅れを示唆する」(毎日21日)はその通りでしょう。自民党が与党の都議会は気軽にたたきやすいのか、「塩村氏が絶句すると、議場に冷笑が広がった」とまで書いたのはどうでしょうか。わたしが見たテレビニュースでは、「冷笑」という辛らつなものではなかったし、ご本人自身が一瞬、ニヤッと「苦笑」していましたよ。
「ヤジが飛んだ時、議場ではたしなめたりする様子はなかった」(毎日同)もどうでしょうか。そんな様子は国会でもみられません。社会部出身の論説委員が書いたのでしょう。こういう記事はもっともらしいだけで、軽いのです。「日本は女性に対する人権感覚が欠如しているのではないか、との疑惑の目が国際社会から向けられた」(毎日24日)もいけません。「疑惑の目」という表現は、こういうときには使うものではありません。
読売は24日になって「ヤジの張本人、同調した議員の不見識にはあきれる」と書きました。日経はやはり24日、「女性をさげすむ発言は許せない。わたしたち心ののうち同じにような意識が潜んでいないか」です。もっともです。何日もたって、もっともらしく、あきれたり、許せないと書くのではなく、それなら問題のヤジがあった直後に取り上げるべきだったでしょう。ツイッターなどで大騒ぎになり、無視できなくなってから動くようでは、報道メディアは軽いのですね。
伝統的メディアは今回、ネット社会の前に負けたのです。それなら論調で特色を出せばいいのに、各紙ともほとんど同じ、金太郎飴です。紙面に載った有識者の談話も「結婚、出産をしない選択をした女性、不妊に悩むひとたちへの差別的発言だ」(読売21日)とか、「人間性を疑われるヤジでもってのほか。議会のイメージダウンにつながる」(同)など、ありきたりです。
「こんなことは、働く女性にとって日常茶飯事。これくらいで騒ぐようでは、やっていられない」と、女性自身がいっていると、どこかで読んだような気がします。女性がたくましく社会で生きていくうえで、いろいろな声があってもよさそうなのに、伝統メディアほど、画一的なトーンに終始し、軽さをここでも感じました。
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