新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ

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安全保障をめぐる新聞論調

2014年05月17日 | 政治

 戸惑うばかりの読者

                     2014年5月19日

 

 日本の安全保障政策を転換するため、これまでの憲法解釈を変更し、集団的自衛権を限定的に行使できるようにすべきだとする報告書を、安全保障法制懇談会が安倍首相に提出しました。新聞メディアの反応は完全に真っ二つに割れ、どちらが正しいのか読者は戸惑うばかりです。わたしが気になった論点をいくつか取り上げてみました。

 

 家の近くのコンビニの新聞売り場で、東京新聞の1面の見出しを見て、「いくらなんでもそれはないだろう」と思いました。「戦地に国民」への道ーとあるではありませんか。安保懇の報告書を読んでも、そのような箇所はどこにも見当たりません。憲法解釈の変更に猛反対の朝日新聞でさえ「集団的自衛権行使へ転換ー首相、憲法解釈の変更に意欲」と、まともな見出しです。政府は、自衛隊を日本の安全保障に密接に関係のあるケースに限って、集団的自衛権の行使を認めるようにしようとしているのです。それを「戦地に国民」とはね。おそらく東京新聞の編集局でも、そう信じている記者はそういないでしょう。見出しで読者を釣ろうとする新聞の商業主義もそこまでいってはいけません。

 

 これほどひどくないにせよ、安倍政権が戦争でも始めるのかとの印象を与えようとしている新聞はいくつもあります。朝日新聞の社会面は「近づく 戦争できる国」がトップ見出しです。3面は「見えない外交戦略」、「中国への対抗鮮明」、「軍拡競争招く懸念」という過激な見出しも並んでいます。読売新聞の3面は「首相 国民の命を守る」、「パネルで事例を熱弁」と、素直です。安倍首相への肩入れにいつも熱心すぎるのは気になりますがね。日経新聞は「自衛隊の役割拡大」、「主眼は日米同盟の強化」、「尖閣念頭に武装漁民対策」などの見出しで、ポイントが分ります。

 

 どうも解釈変更の反対派は、日本が間違ったことをはじめようとしているという視点を軸に、議論を展開していますね。順序が逆でしょう。安保懇報告書に「日本を取り巻く安全保障環境は大きく変化した。北朝鮮におけるミサイル、核開発の動きは止まらず、地球規模のパワーシフトが顕著になり、東シナ海、南シナ海の情勢も変化している」とあります。北朝鮮のほか、中国を念頭に置いた指摘です。安全保障環境を悪化させたのは、間違いなくかれらのほうが先でしょう。それが反対派の紙面(朝日)では「中韓、募る不信」とし、中国が日本に対し「戦後平和主義路線の大きな転換」との批判をしていると、報道しています。軍拡路線を突っ走っているのは中国でしょう。

 

 安保懇の報告書は実に細部にわたり、過去にもさかのぼり、集団的自衛権および個別的自衛権との関係、それに関する憲法解釈の問題点や解釈の変遷、9条との関係、憲法上認められる自衛権などについて詳細な調査、分析、説明をしています。その結果、どの範囲までなら集団的自衛権を行使できるかの結論を出しています。批判論もあるにせよ、中国がこのような詳細な報告書を民主的プロセスに則って公表し、議論を経て、対外戦略を決めているというケースはまずないでしょう。一方的かつ強引に自国の国益、権益を主張し、実力行使にでているではありませんか。中国には日本に注文をつける資格はありません。中国の言い分を紹介するのなら、せめてそのことを合わせて書くべきです。

 

 韓国については「日本はまた軍事大国への道を歩む」とか「自衛隊が領内に踏み込んでくるのでは」といった議論が絶えない、と伝えています。竹島に前大統領が上陸し、政治的パーフォーマンスをやってみせたのは韓国でしたよね。朝日の「日本は過去の歴史に起因する周辺国の疑心を払拭を」は正しい指摘にせよ、自虐的とはこのことでしょう。朝日の社説は「近隣国との関係改善を置き去りにしたまま解釈改憲を強行することで、東アジアの緊張はかえって高まる」と、指摘します。確かに安倍首相の靖国参拝は周辺国を刺激した愚行でした。だからといって、日本がすべてアジアの緊張の源であるというような論法にはついていけません。

 

 今回の問題で、憲法改正でなく、憲法の解釈で、集団的自衛権の行使を可能にしようとしていることに強い批判がおきています。憲法解釈の変更だからけしからんというのは、変ですよね。憲法に限らず、いかなる法律でも、法文をいかに解釈して、現実に当てはめていくかが課題になります。法律を作成した当時と時代が変わり、法律時に想定していない事態がおきたとき、その法律をどう解釈するかという問題によく直面します。そもそも自衛隊の存在すら憲法には書かれていません。戦争放棄(憲法9条)にしても、これは「侵略戦争の放棄」であり、自衛のための武力は保有も行使も禁止していないと、解釈しているのです。

 

 東大の石川健治教授(憲法学)は新聞のインタビューで「憲法の政府解釈の変更という便法に走っている」と主張しています。そもそも憲法学者は、憲法の解釈を仕事とする人たちなのに、政府が解釈を変えようとすると抵抗するのですね。反対派は「そこまでやりたいのなら憲法を改正してからにせよ」といいます。これも変ですね。集団的自衛権の行使に反対なら、そのための憲法改正にも反対しなければなりません。集団的自衛権の行使を認めたからといって、ただちに武力行使をするわけでもありません。軍事力を備えているおくことの意味は、相手国に軍事力を行使させないという抑止力としての効果にもあります。どうして「軍事力の乱用を危惧する」というような反論がおきるのでしょうか。相手国に「軍事力を乱用」させないためにも、同盟国との強力関係を強化し、抑止力としておくことが大切なのです。

 

 日経の1面に載った編集委員の解説がよくまとまっていました。「自分が攻撃されない限り武力を行使しない。友好国が助けを求めてきても応戦しない。日本はこんな原則に徹してきた」、「自分だけ安全ならよいのか、と他国から批判され、孤立するようなことがあってはいけない」、「米国主導の平和が揺らいでいる。どの国も一国平和主義では自衛できなくなった」。同感です。朝日の1面の解説は政治部長の「最後の歯止めをはずすのか」でした。「中国の軍拡に対抗するため、米国との連携を強めるという考え方も一定の説得力はある。だたし、それは戦争をしない国という基本理念を見直すことを意味する」というのです。自衛のための武力行使を、わざわざ「戦争」という刺激的な言葉に置き換えるのはフェアではありません。

 

 最後に、読売を含めての注文です。自公政権の内部では、公明党が集団的自衛権の行使に後ろ向きです。とくに創価学会に根強い反対論があり、安倍政権は相当に気を使っています。そこまでは新聞メディアは触れています。ではなぜ反対なのか。掘り下げた記事はこれまであったでしょうか。キリスト教も仏教も、宗教思想からすると、現在では「反戦平和」で共通しています。創価学会も恐らくそうなのでしょう。どこの国も「反戦平和」ならば、それが正しいでしょう。現実の国際社会はそうではありません。そのことをどう考えるのか。無抵抗主義を貫くということなのでしょうか。宗教団体が支える政治団体の問題をぜひ解明してもらいたいのです。

 

 

 

 



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