今日は朝から何だか寒い日となり、夕方からは初雪が降り出しました。かなり寒くて面食らいましたが、北陸の被災地のことを思えばそんなことも言ってはいられません。
ところで、今日は久々に『今日はなんの日』的なものをやってみようと思います。今日1月13日は、プロコフィエフの《交響曲第5番》が初演された日です。
セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(1891〜1953)作曲の《交響曲第5番 変ロ長調 作品100》は、1918年に発表した《古典交響曲》と並んでプロコフィエフの交響曲作品の中でも最も人気のある作品のひとつです。
プロコフィエフは元来政治には無関心でしたが、1941年にヒトラー率いるドイツ第三帝国が独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に攻め入る現実を見て、かつてない祖国愛に目覚めたといいます。そして作曲家として何らかの形で祖国に貢献する道や方法を考え始め、こうした状況下で生まれたのがこの交響曲第5番でした。
作曲は1944年に、モスクワ郊外のイヴァノヴォにある作曲家たちの山荘で一気呵成に行われました。そしてわずか1ヶ月あまりでピアノ・スコアが書かれ、さらに続く1ヶ月でオーケストラのスコアが完成されたといいますから、かなりの早さで作曲されたことが分かります。
第1楽章は変ロ長調、4分の3拍子のソナタ形式。第1主題は4分の3拍子を基本としながらも実際は変拍子に近いもので、同時に旋律も様々な楽器に受け継がれていきます。第2主題は4分の4拍子で、構成面・音響面ともに第1主題と対比されています。
第2楽章はアレグロ・マルカート、ニ短調、4分の4拍子の三部形式。プロコフィエフお得意の弦楽器のスケルツォで、オスティナート(執拗音型)的な弦楽器のスタッカートに載って軽快な主題とリズムが展開されていきます。
トリオはニ長調となり、その主部は4分の3拍子でさらに軽快です。回帰したスケルツォでは始めに比べて調の変化が激しいもので、最後はその勢いを保ったまま力強く終わります。
第3楽章はアダージョ、ヘ長調、4分の3拍子の三部形式で、前楽章とは対照的に抒情的で落ち着いた歌謡的な主題を持つ楽章です。主部は広い音域をもった美しい旋律で、長いフレーズの中で様々な楽器に紡がれていき、中間部は葬送行進曲風の楽節を内包しています。
第4楽章はアレグロ・ジョコーソ、変ロ長調、2分の2拍子のロンド形式。序奏の後に第1楽章の主題が4声のチェロで回想され、その後に生き生きとした主部に入ります。
第1副主題はフルートによって奏され、第二副主題部ではブラームスの《交響曲第1番》終楽章のフーガにも似た展開が行われていきます。終結部のコーダではこの楽章の3つの主題が展開されますが、終わり直前に突然各楽器をソロに絞って音量を絞って室内楽的に演奏され、その後は一気に盛り上げて変ロ音のトゥッティで終わります。
プロコフィエフのオーケストラ作品の多くは、弦楽器や打楽器の使用法に定評があります。この曲でも小太鼓やウッドブロック、オーケストラ内に配置されたピアノが効果的に使われていて、重厚になりがちな交響曲に適度な軽やかさのアクセントを添えています。
初演は1945年の1月13日に、モスクワのモスクワ音楽院大ホールで行われました。この演奏はプロコフィエフ自身の指揮とモスクワ国立交響楽団の演奏で行われ、その様子はソヴィエト全域にわたってラジオで中継されました。
この日のプログラムは、《古典交響曲》、《交響的物語『ピーターと狼』》と《交響曲第5番》というオール・プロコフィエフ・プログラムで構成されていました。この初演は大成功を収め、早くも同年11月にはセルゲイ・クーセヴィツキーの指揮とボストン交響楽団の演奏によるアメリカ初演も行なわれました。
1951年に、プロコフィエフはこの交響曲について以下のように述べています。
「戦争が始まって、誰も彼もが祖国のために全力を尽くして戦っているとき、自分も何か偉大な仕事に取り組まなければならないと感じた。」
「私の第5交響曲は自由で幸せな人間、その強大な力、その純粋で高貴な魂への讃美歌の意味を持っている。」
プロコフィエフは、現在ロシアによって一方的に併合されてしまっているウクライナ共和国ドネツク州の生まれです。そうしたウクライナの現状を思う時、上のプロコフィエフの言葉には一層の重みが感じられてなりません。
そんなわけで、今日はプロコフィエフの《交響曲第5番 変ロ長調》をお聴きいただきたいと思います。ウズベキスタン出身の若手指揮者アジズ・ショハキモフの指揮によるフランクフルト放送交響楽団の演奏で、プロコフィエフ作曲による交響曲の最高傑作の呼び声高い作品をお楽しみください。