毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
流しそうめん
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もう30年近くも前のことなので記憶も定かではないが、「野草を食べる会」という名にふさわしい活動を私がしたのはこれ一度きりなので、思い出すことを少し記してみる。
京福叡山線に出町柳から乗って、終点鞍馬で降りた私たち総勢15人ほどの「野草を食べる会」会員は、手に手に流しそうめんをするための道具を持っていた。そうめん、醤油、箸、お椀はもちろんのこと、そうめんを茹でるための大鍋を抱えた者もいた。傍目から見れば異様な集団であったことだろうが、大学生と言うのは集団でいれば他人のことなど何も気にしない、困った奴らであるのは今も昔も変わらない。ワイワイがやがや騒ぎながら、他の参拝客の迷惑も顧みず、山門の階段に全員で並んで、ハイポーズ。今なら酔っ払っていなけりゃできない愚行が、当時は平気でできたのは、懐かしいやら恥ずかしいやら複雑な気分だ。それからは鞍馬山の山道を貴船まで登ったり降りたりしていくのだが、これがかなりきつい。ゆっくり時間をかけて行けばさほどでもないかもしれないが、若い奴らは気がせいて半分競走のようにしながら行くものだから、いくら若いと言っても終いにはしんどくてたまらなくなる。枕草子に、
近くて遠きもの 宮のべの祭。 思はぬはらから、親族の仲。鞍馬のつづらをりといふ道。 師走のつごもり、正月のついたちのほど。
(百七十段)
と書かれているように、かなりの道のりだ。確かに、大晦日と元日ではただの一日だけの違いに過ぎないのに、全くかけ離れた日に思えてしまう。情愛のない親戚兄弟も近くて遠い存在だ。直線距離にすればそれ程でないにしても、山道の幾重にも迂曲した道は、歩くにはかなりの体力が要る。しかしそれがいい運動になって、貴船につく頃にはかなりお腹がすいていた。
そうめん流しと風流な名前を冠していても、実体はさっと茹でたそうめんを流れの細い傍流に流し込んで、競争のようにして箸でつかまえて食べるだけのことだ。若い女の子が何人かいれば当然のようにキャーキャー騒ぎ立てるから、風流などとは全くかけ離れたもになってしまう。箸でつかまえきれずに下流に流れていくそうめんやら、慌ててこぼしたおツユなどで川はもうぐちゃぐちゃ、心ある人に見られたらきっと怒鳴られたことだろう。それとも馬鹿な大学生がやる狂乱にまともに相手しても損だと思われたのかもしれないが、なんとか叱られずに済んだのは、今思えば冷や汗物だ。一応終了してから、後片付けはしたと思うから、周囲の美観をそれ程は損なわずに帰って来たと思うが、それにしても大学生でなくてはとてもできない乱行だった。
この行事の後で、女性会員は潮が引くようにいなくなってしまったから、「野草を食べる会」は単なる麻雀サークルになってしまった。それも当然のことかもしれないが、こんな馬鹿を今は自分の娘が毎日やっているかと思うと心配になってくる。でも、それも後しばらくの間しかできないことだから、大いに楽しめばいいと思っている。
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