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赤い靴

 アンデルセン童話に、一度はいたら死ぬまで踊り続けなければならない赤い靴の話がある。教会に赤いエナメルの靴を履いていったことを咎めた赤ひげの老兵によって呪いをかけられ、赤い靴をはいたまま、朝も夜も雨の日も踊り続け、最後には靴ごと両足を切断しなければ止まれなかった、という悲劇的な話だ。この話を思い出すたびに、私はいつも一組の友人夫妻(元)のことを考えてしまう。
 彼らは、夫が私の中・高の同級生、奥さんは妻の中・高・大の同級生であるため、私たちの結婚式にも招待したし、彼らの結婚式にも私たち二人出席させてもらった。仮にここでは夫をN、奥さんをAちゃんと呼ぶことにする。Nはもともと一風変わった奴で、長じるに従ってそのエキセントリックぶりは増していったが、私の見るところどこか冷徹なところがあって、相手によってはひどく見下げた言動を平気でするため、私の好きなタイプの人間ではなかった。高校卒業後、一浪して医学部に入学し、今は内科医をやっている。Aちゃんは地元では名家の部類に入る生粋のお嬢さまで、おっとりした性格で、容姿も人目を引くなかなかの美人である。その彼らが付き合っていると22才位の頃に突然噂が流れ始めた。疑うことを知らないAちゃんがNに上手に騙されているのだと嫌味を言う仲間も多かった。それほど、Nは話し相手を自分のペースに巻き込んで言うがままに信じ込ませることのできる、いわば相手を洗脳してしまう力を持った男だった。私のように斜めからしか物を見ないへそ曲がりには、「何バカなことを言っているんだ」と思えることでも、他の者が案外簡単に信じ込んでしまうのに驚いたことが何度かあった。「そんなのでたらめだ」といつもNを批判していたものだから、いつしか私はNの天敵のような扱いを周りから受けるようになってしまった。
 「Aちゃんは、絵に描いたようなお嬢さまだから、Nのようにアクの強い男が言うことは頭から信じ込んでしまうんだろう」というのがもっぱらの評判だった。「N君がかけた呪文のために、AちゃんはクルクルとN君の手の上で踊り続けるんでしょうね」当時妻がよく二人のことをそう言っていたのが、赤い靴の話を念頭においていたのかどうかは知らないが、なかなか的を得た言葉だと当時は感心していた。 そのままずっと付き合って28歳ぐらいの年に彼らは結婚した。Nは内科医としてのキャリアを順調に積み上げ、一男一女をもうけて家庭的にも幸せそうな様子だった。妻子を名古屋に残し、県内の地方都市で勤務医となるために単身赴任を続けていたようだが、突然彼らが離婚したという報せが舞い込んできた。NがAちゃんに飽きて浮気でもしたんじゃないか、とNの身勝手さをよく知る仲間内では、当然の成り行きだと言わんばかりの空気だった。私と妻は、やっと呪いが解けたのかなと冗談めかして話したことを覚えているが、しばらくして妻がAちゃん筋から仕入れた情報は、そう単純な物ではなかった。Nが浮気をしていたというのは事実らしかった。単身赴任先の病院で、深い関係になった女性ができてしまい、その女性と結婚するためにはAちゃんと離婚しなければならない。彼は赴任先から自宅へ戻るたびに、Aちゃんの妻としての至らなさを色々指摘しては離婚話を持ち出したりした。女性の声で嫌がらせの電話などもたびたびかかったそうだ。そうやってじわじわとAちゃんを精神的に追い込んでいったらしい。そこでAちゃんが離婚に踏み切ればよかったものを、悩みを自分の中だけでは処理できなくなって、偶然に出会った昔の知り合いの男性に悩みを相談するようになった。あとはよくあるパターンで、いつしか不倫関係になってしまった。
 ここからがNのすごいところだ。Aちゃんの行為を待ってましたとばかりに見つけ出し、さも自分は被害者だとばかりに騒ぎ立て、とうとう思い通りに離婚手続きを完了してしまった。二人の子どもはAちゃんが育てることになったが、被害者たる自分はAちゃんに慰謝料を請求しない代わりに、養育費は一切払わないという条件を押し付けた。と同時に、Aちゃんの相手男性に対しては訴訟を起こし、慰謝料の名目でかなりの金額をふんだくったようだ。それを元手に、今は地方都市でかなり立派な病院を経営しているようだから、そのしたたかさには恐れいる。挙句の果てには、その懇ろになった女性と、Aちゃんとの離婚成立後あまり間をおかずに再婚してしまったから、あざといなどという形容詞をはるかに超えた、全く何もかも周到に計算して行動する悪魔のような男である。そんな彼が医者として患者から敬意を表されているのかと思うと虫唾が走る。
 Aちゃんの赤い靴はいつ脱げたのであろうか。離婚後実家に戻ってきてから、妻も色々と話を聞く機会があったが、当然のことながらNのかけた呪いは解けていた。ただ、Nによって半ば仕向けられたことだとはいえ、赤い靴をはいたまま両足を切ってしまった傷跡は相当大きかったようだ。経済的な心配はない実家での生活ではあるが、女手一つで子ども達を育てるのはかなりの苦労していると聞く。
 あのままNの手のひらで踊り続けていられたら・・、などと今のAちゃんは考えもしないだろうから、私もいらぬことは考えないでおこう。
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